FERMATA








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七章 影の黙示録
第88楽章「逝ける王女の肖像画」

 月が静かに見下ろすソウリュウシティの街並みは静まり返っており、昼間の喧騒など忘れ去っているかのようであった。

 あれだけの盛り上がりがあった王を目指すトレーナーの戦闘。昂揚感に酔った人間は何も自分だけではないようでそこいらにトレーナーらしき人間が座り込んでいる。

 しかし、皆が皆、どこか絶望に目を伏せているのはそのあまりの実力差に戦う気さえも削がれたからであろう。

 ヘレナはニーアに繋ぎ、現状を報告していた。

「ソウリュウシティで身柄を引き取ってもらう予定だったけれど、思わぬ邪魔が」

『存じています。トウコ・キリシマ。ここ数週間でイッシュのジムを次々と制覇している、生ける伝説』

 既にプラズマ団の関知網に入っているのか。だとすれば余計な事を言うまでもない。

「……彼女は何者? あの強さ、苛烈さはまるで……」

 そう、まるでNのようだ。Nならばあれほどの強さを内包していても何ら不思議ではないが、一般トレーナーの持つ強さではない。

 その強さを探るべく、ヘレナは単身、宿を兼ねているポケモンセンターへと潜入していた。

 二十四時間営業のポケモンセンターへと偽装した身分証を差し出す。

「失礼。この部屋にチェックインしたはずの者だけれど」

 プラズマ団の偽造IDを用いてトウコの宿泊する部屋に重複してチェックインしたように思わせる。それくらいは児戯に等しい。

 ポケモンセンター職員はデータの齟齬に戸惑っているようであった。

「おかしいですね……。既に宿泊者が」

「私は二週間前から予約していたんだけれど」

 女神の言葉は絶対だ。プラズマ団の根回しで本当に予約していたように錯覚させる事が出来る。

 機材を手当たり次第に調べれば調べるほどに事実との遊離が浮き彫りになる。ヘレナはまるで仕方ない、とでも思っているかのようにため息をついた。

「部屋の前まで案内してもらえますか? そうすれば納得するので」

 そう提案すれば、センターの職員は承服せざる得ない。連れられて部屋の前まで同行する最中、職員のぼやきを聞く。

「何だか、宿泊なされる前にもトラブルがあったみたいで……。どうしても今日、宿泊させてくれって言うお客様が急増して。我々は、あくまでも予約のお客様を優先していますから」

 それも仕方のない事だろう。トウコに再戦を申し込むのにはセンターの中で待ち構えるのが一番に手っ取り早いはず。

 自分と取っている行動自体は同じだ。

 扉を前にしてセンター職員が中に繋がるインターフォンを鳴らす。

「トウコ・キリシマ様。予約の件でお問い合わせしたい事が」

 カメラがこちらを見据える。中からトウコが自分を窺っている事だろう。どう出るか、と固唾を呑んでいると思わぬ言葉が返ってきた。

『ああ、その人はアタシの同行者。入っていいよ』

 驚愕にヘレナは硬直する。ここで追い返される事さえも視野に入れてモンスターボールに手をかけていたというのに、相手は自ら敵を招き入れるというのか。

「……と、仰っていますが」

 あちらの言い分を信じれば自分のほうが不審者だろう。ヘレナは片手を上げてトウコに便乗する事にした。

「そうなのよ。あの子ったらやっぱりこういう手段で単独で出し抜こうとして……」

 どうやら旅の途中でのアクシデントだと職員は思ったらしい。開錠すると共にごゆっくりと声がかけられた。

 背後で扉が閉まり、退路が絶たれた事を示す。この狭い部屋において、ヘレナはその元凶と対峙していた。

 トウコは薄い部屋着を身に纏い、ベッドに腰掛けている。

「用事があるんでしょう? そっちに座ったら?」

 どうしてこうも落ち着いていられるのか。その魂胆が分からぬまま、ヘレナは指し示された椅子に座り込む。

 手を伸ばせば届く距離だというのに、トウコは改良型の詰め替え用傷薬を取り替えるので忙しいらしく、こちらに一瞥も投げない。

「……貴女は何?」

「分からない事を聞くね。アタシはトウコ。トウコ・キリシマ」

「そうではなく……。貴女は、王に成りたいそうね」

「成りたいじゃなくって成るのよ。そんな違いも分からないの、あんた」

 喧嘩腰、というわけでもない。分かり切っている事を聞くな、とでも言うような論調だ。

 ヘレナは深呼吸をして心を落ち着かせる。ここでざわめけば負けだ。

「そのために、このソウリュウシティに来たって言うの」

「それ以外に何が? 最後のジムバッジだ。明日には取れる」

 勝利以外のビジョンが見えていないのだろう。そこまでの確信にヘレナは質問していた。

「貴女、負けた事がないの?」

「ない。あったらお終いだ」

 簡潔な答えにヘレナは面食らってしまう。

「嘘よ。だって、そんなトレーナーなんて」

「いないって? でも、アタシはそう。一度だって負けは許されない。そういう星に生まれついてしまった」

 それを不幸だと思っている節もない。ただ純粋に、己の成すべき事を成すだけだと思っているかのように。

「でも、どこまで行ってもただのトレーナーには超えられない領域がある」

 ここでNの事をちらつかせて王道を諦めさせる。ヘレナはそのつもりであったが、トウコは傷薬を詰め替えつつ何でもない事のように言ってのける。

「確かに、王者の風格って奴には一度お目見えした事がある」

 覚えずヘレナは身を引いていた。まさか、Nに会ったとでも言うのか。

 傷薬独特のエタノール臭が漂う中、ヘレナは厳しく忠言する。

「……どうしても到達出来ないトレーナーの高みというものがあるわ」

「それに比すればアタシなんて路傍の石だって? 言いたい事は分かるけれどちょっぴり粗野だな。――ねぇ、お姫様」

 まさか、と息を呑んだヘレナにトウコはようやく目線をやる。どこか嘲笑を含めた面持ちであった。

「私の事を……」

「知らない。ただ、お姫様っぽいなって思っただけだよ」

 食わせ物だったわけか。ヘレナは膝の上に置いた拳をぎゅっと握り締める。

「……貴女は王にはなれないわ。その資質もない」

「そんなの、誰が決めるの? 誰だって決められやしない。だって勝てばいいんだから」

「そんな簡単じゃないのよ。イッシュの王になるって言うのは。英雄伝説をご存知?」

「白と黒の龍がイッシュを焼き尽くしたって言う? 御伽噺だ。誰が信じる?」

 まさしく一笑に付したトウコにヘレナは強く言い放った。

「そのドラゴンの加護を受けない王者を、イッシュでは王と認めない」

 ようやく、とでも言った風に、トウコが眉を跳ねさせる。眼前の自分が今になって現実味を帯びてきたらしい。

「ポケモンに認められなくっちゃ王になれないって? そいつは傑作だ。アタシ、そんなジョーク聞いたの初めて」

「ジョークじゃないわ。イッシュの王、つまり英雄になるっていうのならば、白と黒に分けなくてはならない。貴女のその存在でさえも」

「アタシでさえも、か。笑わせてくれる」

 トウコはここまで脅しても臆する様子はない。それどころか、笑みを浮かべてみせた。

「……そうでなければ王になんてなれない」

「忠告しに来たの? わざわざ偽装してまで? それは……ご足労としか言いようがない」

「馬鹿にしないで……。貴女とは思想が違うの。考えも、その大義も……!」

「大義が違えば、他人の宿に忍び込んでもいい道理はあるって言うのかな?」

 試すような物言いにヘレナは覚えず立ち上がっていた。ここに来るまであらゆるものを犠牲にして来た。

 組織での地位。さらに言えば、お飾りでよかった自分達の平穏。それらを火の中に放り込んででも真実が知りたかった。そのために慣れない旅路を踏んでいたのに、こんなところでトウコに馬鹿にされるいわれはない。

 握り締めた拳に浮かぶ悔恨に、何かを言おうとして、そのどれもが怒声に変わってしまいかねない事に躊躇わせる。

 トウコは自分の感情などいざ知らず、挑発的な言葉を放る。

「そんなにアタシの事が気に入らないのならさ、お姫様。ここでアタシを殺しちゃえば? 簡単だと思ったから、ここまで来たんでしょ?」

 そうだ。いざという時にはトウコの生死でさえも問わない。そう断じたからこそ、ここまで来た。

 だというのに、その段に至ると尋常ではない覚悟が必要であった。

 ここでトウコを害する事、それそのものが重大な罪のように感じられる。

 モンスターボールに指をかけかけて、その指先が彷徨う。

「私、は……」

「アタシは何も、ただ闇雲に戦っているわけじゃない。ただ、さ。強くなければ意味がない、って言う立場、あんたには分からないだろうね」

 ふと零した言葉にヘレナは沈黙する。強くなければ意味がない。自分とはまるで縁遠い言葉だ。

 あの森で永遠に過ごす事も出来た。プラズマ団でただ静かに時が満ちるのを待つ事も出来たはず。

 だというのに、どうして自分は外界に出た? 下賤な身を取り繕ってでも旅に出たのは、Nの目線を知るためだ。

 英雄には何が必要なのか。そして彼の王道を邪魔する輩を成敗するため。自分だけが泥を被れば事が終わるのだと思い込んでいたから。

 今、眼前にしている真の実力者には、そのどれもが張りぼてじみた詭弁になるように思われた。

 Nのため、プラズマ団のため、どうとでも言える己の本懐は結局のところ、たった一つの強欲に集約される。

 ――Nに、自分を見て欲しかった。

 そんな瑣末な女の事情をまさか直視するとは思いも寄らない。だが、トウコの眼差しは鏡のように自分の弱さ、脆さを浮き彫りにした。

 うろたえ気味にヘレナは後ずさる。トウコは身じろぎ一つしない。それこそ真の王者のように。その強欲でさえも王者だとうそぶく少女は見透かしたように声にする。

「あんた、自分を綺麗に見せたいだけでしょ? その結果がどうなろうとも、綺麗でいたいのは変わらない」

「何を……私は! 綺麗でいなくっちゃいけないの! この苦しみが、貴女に分かるわけ――」

「分からないわよ。アタシは綺麗であった事なんてないもの」

 それが愚鈍な自分に告げられた言葉である事に気づくまで数秒かかった。トウコはしかし、暗い響きを伴わせはしない。その言葉には明日への活路がある。明日に繋げるためならばこの少女はどのような犠牲さえも厭わないだろう。

 たとえ、手足をもがれ、純潔を捧げ、何もかもを失っても、この少女は食らいつく。それこそ、明日を死に物狂いで。

 与えられるままであった自分との違い。いや、そもそも違いなどないのかもしれない。

 力を利用されかけた幼少期。もし、Nとの出会いがなければ、自分もトウコのように力だけを信じる無頼の獣になっていたかもしれない。己のみを信じ、他者には全く預けない。

 それは一面では正しい。

 しかし、もう一面では哀れでもある。

 強さの裏に常に纏わりつく危うさと同じだ。強くある事は同時に、誰よりも脆い事。自分を直視されたくないというただのわがままに直結する。

 ヘレナは二の句を継げなかった。綺麗ではない、という一言だけでも自分とトウコは隔てられていた。

 それ以上分かり合う言葉なんて必要ないとでも言うように。

「用事は済んだ? じゃあ帰れば? 大丈夫、告げ口なんてしないから」

 トウコは素っ気なく扉を顎でしゃくる。ここでの用件は一つだけであった。

「貴女……王になるという事が、どれほどの事なのかを分かっていて、戦い抜こうとしているの?」

「そんなの、分かっていなくって戦っている奴がいるとすれば、それこそ可哀想だとアタシは思う。自分の目指す場所を理解せずして、ただ漫然と戦だけを繰り返すなんてケダモノと同じだよ」

 その答えに関してはヘレナも同意見であった。戦うだけしか知らないケダモノ。そうだと思い込んで彼女の大事な領域に踏み込んでしまった。それは同性としても、人間としても恥ずべき事であった。

「ごめんなさい、私……」

「同情されたくって旅をしているわけじゃない。アタシは王になるためにここにいるだけ。他人の憐憫なんて一番要らないわ。売られたって御免よ。アタシは、アタシのためだけに立っている。その立場を、あんた程度に可哀想がられたくない」

 侮辱であった、と知った時には既に遅い。ヘレナは面を伏せて踵を返しかけて、ふと言葉を浮かばせた。

「……ねぇ、でももし……、貴女が王になる事で民草が救われないのだとすれば、貴女はどうするの?」

 もし、Nが王になる事でイッシュの民が救われないのならば、という言葉をどうして今はトウコにぶつけられたのだろう。それも無礼と承知の言葉であったが、今の彼女ならば答えてくれるような気がしたのだ。

「知れた事を言うね。アタシが王になったら、みんな幸せになる? ――正直、どうでもいいわよ。一番に吐き気のする質問をしないで。アタシはみんなのハッピーのために戦っているわけじゃない」

 分かっていた。分かり切っていた。この質問の帰結など。

 それでも問わずにいられなかったのはこの質問をNにぶつけられない己の弱さの表れであった。

 Nに、現実を直視しろなどと言えない。言えるものか。

 それは王への侮蔑に繋がる。

 ここでのその質問も同じくらいに相手の事を傷つけるのだと知っていても、分かっていても、トウコは答えてくれた。

 きっと、それだけでよかったのだ。

「ありがとう」

「あんたのために答えたわけじゃない」

 それでも、Nの心が――王者の頂に立つという事の覚悟が、少しだけ分かったような気がした。



オンドゥル大使 ( 2017/11/26(日) 22:54 )