第87楽章「赤と黒」
どこまでも続く赤と黒の世界。
捩じ切れたように澱んだ空気の中を行くのは魂の残滓であった。この場所を臨んでいるわけではない。
だが、この場所に留まらなければ、自分には何も見えないという確信だけはある。
濁った領域に至ってようやく、トウコに見えていて自分には見えていないものに気づいたのだ。
それを明確な言葉で形容する手段は持たないものの、この場にいれば、その差は明らかに分かる代物であった。
凡百かそうでないか以前に、トウコが見ているのは別の景色であった。
彼女が触れているのは王者の領域。自分が見ていたのはその周辺を埋めるだけの民草の目線。
それでは力の差が出るのも否めない。分かっているつもりであった。ここに居る限りは、その如実な差に悩まされずに済む。そのような瑣末事で己をすり減らす事はない。
王と民では違う。
その何もかもが。分かり切っている、そのような事。それでも、問わずにはいられなかったのは、自分の弱さを直視する勇気がなかったから。
自分が王になる。このイッシュを変える、という意志を持ち続ける事だけが、トウコを超える何かを生み出せる一因だと。
手繰り寄せようとして、手が空を掻く。掴み取ろうとして、指先は力なく闇を握る。
この場所では全てが等価だ。身体に縛られていた時に気づけなかった事が手に取るように分かる。
そして、何よりもあの人物――ノアと名乗ったいけ好かないあの青年が何者であったのか。この累乗の先では真実として見えていた。
そうか。彼もまた王の領域であった。
嫉妬を覚えたのは何も間違いではない。王者に上り詰めるのは一人だけ。
その王道を阻むものであったのだ。幾度となく苛立ちを募らせたのは当然の事。
それにしても、と彼は身を漂わせる。
赤と黒の世界ではどれほどまでに残酷な事でさえも自分には察知出来る。ベルの内包する可能性。トウコが最終的に何を望んであの日、自分達を置いて出て行ってしまったのか。
真理が分かる。
その権限がどこまでも自由だ。次の真理に触れようとした瞬間、中天に唐突な光の渦が巻き起こった。
泡沫の光の向こう側が現世である事を、彼は即座に理解する。
その光に導かれれば、自分は元に戻れる事を。
しかし戻ってしまえば、ここで知り得たあらゆる真理は色をなくすであろう。ほとんどが覚えられないのは分かり切っている。
ここに留まる、と彼は決断しようとした。
どうせ現実の世界では自分の及ばぬトレーナーばかり。彼らと肩を並べて戦えると思い込むのは傲慢だ。
この場所ならば自分は観測者として、どこまでも対等に、かつ公平に世界を見ていられる。そこに余分な感情を挟まずに。
だから光は邪魔なだけだ。
遠ざかろうとした刹那、誰かの声が聞こえた。
最初、その声が誰のものなのか分からなかった。しかし、明確にこの存在を震わせる声の主は告げる。
――舞い戻るんだ。だって君は、英雄になれる。
あの日の言葉、雨の向こう側に消えた理想。
誰なのか、と思惟を飛ばそうとしてそれが阻まれた。
この領域で自分に次ぐ権限を持っているか、自分よりも高次の存在となっている。歴然とした事実に震撼した彼は、光を振り仰いだ。
戻れというのか。しがらみしかない現実に。思い通りにならない何もかもに。
それならばこの場所で観測者を気取っていたほうがマシなのではないか。現実を前に絶望せずに済む。
しかし、運命は自分を英雄になれるのだと言ってくれている。この存在が英雄に比肩するものであると。
彼は光を目にし、静かに上昇した。
恐らくはこの場所で見聞きした事、感じた事は全て捨て去っているだろう。
それでも、どうしてだかまだ諦める気になれなかったのは、この身に宿った燻る炎のせいか。
胸の中にある炎はまだ終わる時ではないと告げている。
現実に夢を見ているのだ。
夢見る権利を剥奪されたわけではない。ならば、夢を見る限り自分はポケモントレーナー。
カノコタウンの――チェレンという存在。
伸ばした指先を誰かが掴んだ。そっと、引き上げられるように、彼は真理の世界から浮上していた。
身体が酷く重かった。
目をしばたたいたチェレンは枯れた喉からようやく声を発する。何日も使っていかったような感覚だ。
「ここ、は……」
覚えのない景色に歩みだそうとして、自分が車椅子に乗せられている事に気づく。
どうしてこんなものに、と目線で問いかけたチェレンは車椅子を押すベルが涙ぐんでいる事に気づいた。
どうして泣いているのだろう、と感慨を浮かべたのも束の間、彼女は自分に抱きかかっていた。
「な、何を……! ベル……!」
「よかった! よかったよぅ、チェレン君!」
ベルの行動に面食らいつつも、チェレンは自分へと歩み寄ってくる数人に気づく。
ヴイツーやバンジロウ、それにノアが驚愕の面持ちで自分へと探る声を寄越す。
「おい、本当に……チェレンだって言うのか?」
問いかけの意味が分からず聞き返す。
「僕が、チェレンじゃなくって誰がそうだって……」
「ほんとうによかったよ! 戻ってきてくれたんだね!」
大仰なベルの声音にチェレンは戻ってきた、という意味を反芻しかけて、脳裏を過ぎった景色に疼痛を浮かべる。
何か、決定的な事を忘れているような気がした。
「僕は……」
掌に視線を落とす自分へと見た事のない男が声を投げる。
「戻った、か……。あっちの居心地はどうだった? 少年」
どこか他人を食いものにするような眼差しにチェレンは反抗を返す。
「……何だって言うんだ、みんな。それにここは? ヒウンシティじゃない」
自分はあの後どうなったのだ。ジムバッジは取れたのか、と問いかけようとしたがそのような疑問を差し挟む前に佇む四人の威容に固唾を呑む。
アデクを中心にした四人の男女、全員が――イッシュでも指折りの実力者。それが肌を刺すプレッシャーでありありと伝わった。
そのような人々が自分の目覚めに立ち会っている。意味を解さないほど愚か者でもなかった。
「……そう、か。僕は、何かあったんだな?」
ベルに問いかけるも彼女は、よかったと繰り返すばかり。チェレンはノアへと目線をやっていた。
何か、ノアに対する決定的な事項を忘れている。それは確かだったが何を忘れているのかまるで思い出せない。
「よかった、チェレン」
だからか彼のてらいのない賛辞も受け入れる気にはなれなかった。
「……メンドーだな。僕が何をしたって言うんだ? みんながみんな、大げさに」
「大げさではないのう。チェレン坊。お主は今しがたまで彼岸におった」
アデクの普段の好々爺めいた声音とは違う、本物の実力者の語調にチェレンは覚えず身が強張った。
この場でのアデクは今までのような存在ではない。
まさしく王の威容を伴わせている。
「……僕はどうにかなったんですか」
「手持ちを。瀕死状態まで追い込んだが、素質はある」
青髪の男がボールを差し出す。引っ手繰ったチェレンは中にいるゲッコウガが瀕死状態にある事を確認した。
瀕死の手持ちに、自分への不自然な態度。どうやら聞かなければならない事が無数にあるらしい。
チェレンは嘆息をついてベルを振り解く
「……分かったよ。何か、僕が悪かった事があるんだろう。せめて事情を話して欲しい。メンドーだけれど」