第86楽章「幻想庭園」
震えが止まらなかった。
こんなものに、自分は勝ったというのか。プラズマ団の助力がどれほどのものなのかを肌で感じる事になるとはまさか思うまい。
「育てのみならず、物分りも足りないな、アデク翁の孫よ。虫タイプで飛行タイプであるバルジーナに立ち向かうか」
ギーマの操るバルジーナの群れはそれだけで戦術級だ。軽々しく手出ししてはいけないのは見るに明らか。だが、バンジロウは譲らなかった。
「メラルバ! 耐えろ、耐えてくれ! そうじゃなきゃ、こんなヤツらに!」
「こんな奴呼ばわりされるとは、屈辱だよ。それなりにね。だが、精神論ではどうにも儘ならぬことは分かるだろう。曲がりなりにもそちらもトレーナーであるからには」
そう、トレーナーであるからには、相手との力量差を最も理解せねばならない。バンジロウほどの使い手ならば、一度打ち合っただけでも相手がどれほどの強さなのかは分かるはず。
それでも認めたくないほどの力の差が浮き彫りになっているのが分かった。
ノアはケルディオの入ったボールを投げられないまま握り締める。自分では足りない、というのは誰が見てもハッキリしている。
「……じゃが、いささかやり過ぎよのぉ、ギーマ坊。まだ青い果実もいいところ。あまりいじめんでおいてくれ」
その一言でギーマの敵意が凪いだ。バルジーナ達から標的を見据える眼光が失せる。
「王に言われれば、それは従わざるを得ない。俺は臣だからね」
身を翻したギーマはバルジーナ一匹を手招き、その鉤爪が握っているものを手にする。
小さな宝石のようであった。
「同調、さらにその先を行く領域に関しては未知数な部分も大きい。それこそ、実力者でなければ開拓出来ない部分だ。アデク翁はそれを分かっているからこそ、オカルトでも、ましてや現在医療でもなく、俺達に頼みを託した。その意味、違えるほど愚かではない」
振り返ったギーマが手にしていた石は掌に収まるサイズでありながら、存在感は隠せていなかった。内包するエネルギーが靄となって空間に漂う。
「それは……」
「一昔前には進化の石、あるいは解析不能な石ころ。そして近代研究ではこう呼ばれている。キーストーン、と」
その名称に強張ったのは自分一人であった。キーストーンの名称はこの時間軸のイッシュでは一般的ではないからだろう。
その有する意味も、分かった者はいないようだ。
「まさか、キーストーンだって?」
この場でようやく切り出した声は自分でも情けないほどであった。居たのか、というようなギーマの瞳にノアは射竦められる。
「博識な人間もいたものだ。現代において、キーストーン、及びメガストーン研究はイッシュには確認されていない。ほとんどがカロス、それにもっと言えば諸外国に依存している研究成果なのだが……どうしてだか知っているらしいな」
見透かされたような言い草にノアは絶句する。ヴイツーが問いかける眼差しを向けてきた。
「おい、ノア。メガストーンだとか知らないが、あの石は何なんだ?」
「進化に、必要な石です。でもそれは、従来の進化じゃない。ポケモンの潜在能力をトレーナーと共に引き出す諸刃の剣。進化の先の進化――メガシンカの鍵だ」
「メガシンカ……聞いた事もないぞ」
バンジロウでさえも瞠目している。アデクに教えられなかったという事は知る権利すらなかったという事実。
「ポケモンの九割が進化する。これはシンオウのナナカマド博士によって実証された理論だ。だが、さらにその先があるとすれば? ポケモンにはまだ見ぬ未知の領域、俺達が引き出せてもいないその原初の能力が存在する」
「それが、メガシンカ……」
だが実感も出来ないのだろう。それも無理からぬ事。この時間軸では誰もメガシンカを見た事がないはずだ。自分でさえも決定的な敗北の後、他地方で知った可能性。
プラズマ団の人間も関知していなかった研究の最果て。
「でも、そのメガシンカってのはどう関係するって言うんだ? チェレンには関係ねぇだろ」
ヴイツーの抗弁にギーマは頭を振る。
「同調域に達したのならば、メガシンカに近い現象が再現されたのだと推測される。メガシンカは誤って使えばポケモンとトレーナー、双方を破滅させる。それほどの純粋なる力の結晶なんだ。この場合、触媒なしでの強制メガシンカ……いや、その成れの果て、というべきか」
ギーマはチェレンへと歩み寄り、宝玉を当てようとする。それを拒んだのはベルであった。
「あたし……チェレン君にそんな事させられません」
ベルの瞳を覗き込んだギーマは興味深そうに息をつく。
「全く、臆する事もないのか。なかなかの器の素質と見える」
臆していない? そのようなはずがない。ベルの声は震えているし、目からは今にも涙の粒が溢れそうだ。
「あたしは、チェレン君をこれ以上、苦しめたくないんです」
「ならば、リトルレディ。ここは俺達に任せたほうがいい。ポケモンに関しては俺達が確実に一日の長がある。それに、王者に仕える四人だ。信用出来ないか?」
「……さっきまでの話を聞いていたら、信用出来ません」
その言葉にギーマはぷっと吹き出した。木霊する哄笑にカトレアが嘆息をつく。
「ギーマ。……その辺りにすれば」
「だな。俺も久しぶりに素人トレーナーで遊び過ぎた。謝罪しよう、リトルレディ。大丈夫だ。このキーストーンに害悪はない」
それでも、ベルはチェレンの車椅子から離れようとしない。
「だって戦争なんて。……一番あっちゃ駄目な事でしょう? 争い合うなんてそんなの……駄目だよ」
涙声混じりの主張にギーマは肩を竦める。カトレアとシキミは呆れたように言葉を返した。
「ギーマが悪い、のよ」
「ですね。今のはギーマ殿が悪いです。大体、女子を前にしてそんな態度ってないでしょう」
女性陣からの糾弾を受け、ギーマは改まった態度を取った。
「申し訳ない、リトルレディ。戯れが過ぎた。今一度、約束しよう。俺達は戦争がしたいわけじゃない。戦争を起こさせないために今、動く必要があるんだ。そして、彼にもそれを手伝ってもらわなければならないだろう」
ギーマが指差したのはチェレンである。車椅子の上で抜け殻のようになっているチェレンが指名された事に全員が驚嘆する。
「チェレンを、どうする気だ! てめぇ!」
怒声を張り上げたヴイツーにギーマは冷笑を浮かべる。
「熱くなるなよ、兄貴分。悪いようにはしないさ」
「信用ならねぇな……。てめぇ、何のつもりでこんな事をしやがる!」
「何のつもり? 君らが我々を訪ねておいて何のつもりとは。それこそ片腹痛いというもの。このチェレンとか言うトレーナーを元に戻す。それだけだろう?」
今さらの確認事項にも承服出来る人間がいるはずもなかった。
「……どうだかな。てめぇ、そのメガシンカとかいうワケわかんねぇ代物に、チェレンを実験動物みたいに使うつもりなんだろう!」
「そう思うのならばそう思っておくといい。ただ、俺達を疑っていればいつまでも事は進まないぞ、とだけは言っておく」
ここで四天王相当に戦いを挑んでも無理は明らか。ノアは進言していた。
「みんな……四天王を信じよう」
「ノア! でもてめぇの言い分じゃ、その四天王ってのも……!」
「今は、だ。チェレンを助ける術に一番近いのは歯がゆいけれど、彼らだよ」
その説得の言葉にヴイツーは渋々承服を浮かべる。
「……てめぇらを信じたワケじゃねぇ」
「それでも、これは大きな一歩だよ。さて、あとはリトルレディ。君の承諾だけだ」
ベルは車椅子を引き寄せ、首を横に振る。
「……どうなるっていうんですか。それを、説明してもらえないと」
「具体的に言えば、ポケモンとトレーナーの、そのリンクを一時的に絶つ。今、ポケモン側に意識を引っ張られ続けている、という状態から脱するのにはそれしかない」
「大丈夫、なんですか……」
「保障は出来かねるが、今よりはかマシなはずだ」
ベルが車椅子より静かに離れていく。それでも握り締めた拳にはまだ納得の色は窺えなかった。
ギーマは全員を見渡し、今一度確認する。
「キーストーンの力をもって、一度、ポケモンとの過度な同調から脱する。同調したポケモンを出して欲しい」
ベルはバックに仕舞っていたモンスターボールを差し出した。透かしてギーマが確認する。
「これは……思っていたより難儀だな。メガシンカに近い状態にまで引き上げられている。だが、そこから先ならば俺達の領域だ」
口笛が吹かれ、バルジーナが降り立った。戦闘姿勢のバルジーナにバンジロウが色めき立つ。
「おい、戦う気なんて……!」
「分かっている。だが一度出さなければならなくってね。出た瞬間、斬られでもすれば困るのはこっちだ」
ギーマがモンスターボールを投擲する。割れて中から出現した光は赤く滲み、瞬間的な速度を伴わせてギーマへと襲いかかった。バルジーナが受け止めるも、その勢いを殺される事はない。
「一体では足りないな。バルジーナ!」
蒸れのバルジーナが次々と急降下し、光を振り払う前のポケモンへと追撃を見舞う。一閃ごとに光が振り解かれ、そのポケモンの姿が露になった。青い体色を持った疾駆のポケモンは背筋に担いだ手裏剣を武器にバルジーナと一進一退の攻防を繰り広げる。手裏剣を携えたポケモンの眼は赤く濁っていた。まるでこの世全てを憎み切っているかのような双眸にノアはうろたえる。
「こんな……こんな状態になっていただなんて」
あまりに予想とかけ離れていた。同調状態に近いというのならば、これがチェレンの心の奥底。彼の内包する闇そのものだというのか。
バルジーナが群れで纏いつき、チェレンの手持ちの動きを封じようとする。それに対して、そのポケモンが行った事は少ない。
ただの一閃。
しかしながらその一撃のみでバルジーナ数体が戦闘不能に追い込まれた。手裏剣に血潮が滾り、赤く染まった手裏剣に殺意が帯びる。
「……ここまでとは。惜しいほどだ。ここで一度でも潰さなければならない事が」
それでもギーマから漂う余裕は何なのだろう。彼の手持ちは着実に潰されつつある。しかしギーマに諦めやまして気圧された様子など全くないのだ。
疾駆のポケモンが跳ね上がりギーマへと手裏剣を叩き落そうとする。刃がその首を落とさんと迫った。
刹那、何かが変位していた。
ギーマへとかけられそうになった刃が中空で止まる。彼は鋭い眼光を湛えたまま、チェレンのポケモンを睨み据えた。
「どうやら、それなりにやる様子。ならば、俺も出さなければならない。手持ちという奴を」
弾き上がった刃の応酬にヴイツーが息を呑む。そこに佇んでいたのは水棲型のポケモンであった。
チェレンと同じか、と思考を浮かべようとして、その姿に否と断じる。
四肢などない。純粋な魚型のポケモンである。ヒレを有し、三角錐のシルエットを持つそのポケモンにはそれほどの器用さは浮き立っていないようにさえ思えた。
牙や表皮が鋭いがそれだけだ。チェレンのポケモンに肉迫出来るほどの戦闘タイプには思えない。
だというのに、チェレンのポケモンはこの時、明確な意思を持って後退していた。まるでその射程域に入れば命がないとでも言うように。
「あれは……」
「サメハダー。分からせてやろう。強者とそうでないものの違いを」
サメハダーと呼ばれたポケモンは落ち窪んだ眼窩を煌かせる。刹那、その姿が掻き消えていた。どこへ、と首を巡らせるまでもない。
猪突していたサメハダーはチェレンのポケモンを押し出していた。
たったの一撃でチェレンのポケモンが場外まで突き飛ばされる。水流を操っているのだ、という事しか辛うじて分からない。
サメハダーへと手裏剣が立て続けに打ち込まれる。水の手裏剣はしかしこの時、まともに発動しなかった。
否、発動したがその濡れた表皮に吸収された。水タイプに水の技は効果が今一つ。それが歴然としていたとしても、ここまで力の差が明らかになるとは思いもしない。
水を吸収したサメハダーの速度が増す。大きく迂回しつつチェレンのポケモンは好機を狙っているようであったが、その眼前へと水の砲撃が見舞われた。
「ハイドロポンプ」の連射。しかもほとんど時間差のない、まさしく迎撃装置。チェレンのポケモンは跳ね上がって攻撃を回避しようとするも、相手の「ハイドロポンプ」には追尾性能がついていたらしい。軽業師めいた挙動にも全く動じる事もなく、攻撃は命中した。
砂塵が舞い上がり、チェレンのポケモンを一瞬覆い隠す。
ここまでとは、とノアは絶句していた。四天王、その力は確かにイッシュでも指折りであろう。だが、同調状態にあるポケモンとトレーナーではその隔絶くらいは埋められると思っていた自分が甘い事が痛感させられる。
――強い。いや、それ以上。
強者という言葉だけでは片づけられないほどの威容とその力量。
ギーマは軽く目線を払うだけだ。ほとんど命令さえもしていない。それでもサメハダーは彼の動向を敏感に察知し、主人の赴くままに行動する。
これがトレーナー。これが、四天王。
「サメハダー。来るぞ」
何が、という主語を欠いた言葉でもサメハダーは応じていた。砂塵の中から発せられた手裏剣の連射にサメハダーは水の皮膜を放って応戦する。
完全に虚をついたつもりであったのだろう。
チェレンのポケモンは効かなかった事実に驚嘆しているようであった。
「レベルが違う。サメハダー。取りにかかる。辻斬り」
サメハダーが水を推進剤のように用いて速度を上げ、チェレンのポケモンへと接近する。手裏剣を担ぎ上げて掻っ切ろうとする相手にサメハダーは加速度の刃を沿わせた。
その速度、挙動それそのものが逆立った表皮と相まって刃と化す。
サメハダーは軽く身体をひねって攻撃をしているだけにも関わらず、相手からしてみればそれは回避不能の加速の剣。
チェレンのポケモンが手裏剣を防御に用いようとしたが、その脆い目論見は淡く崩れ去ってしまう。
「波乗りからの、相手のバックを取れ。今一度辻斬り。それで決まる」
サメハダーが水流を操って波を発生させる。「なみのり」攻撃程度ではたじろがないはずのチェレンのポケモンであったが、即座に背後へと降り立ったその存在にはさすがに気取れなかったようだ。
振り返り様に手裏剣で斬りつけようとしたチェレンのポケモンよりサメハダーの切り上げのほうが素早い。
紫色の残滓を纏い、「つじぎり」の一閃がチェレンのポケモンの背筋を掻っ切っていた。
仰け反ったチェレンのポケモンが宙を仰ぎ、そのまま倒れる。
勝負は一瞬であった。ギーマはチェレンのポケモンへと歩み寄り、指を当て瀕死状態である事を確かめる。
「これだけ叩き込めば定石だろう。さて、同調から脱する手段だが」
キーストーンを持ち上げたギーマはチェレンのポケモンの胸元へと押し当てる。光が拡散し、チェレンのポケモンが大きく痙攣した。
「だ、大丈夫なんだろうな」
バンジロウの問いかけも無理はない。瀕死の相手から意識を奪うなどそれこそ常軌を逸しているように映ったからだ。
ギーマは照り輝き始めたキーストーンの状態を凝視している。
「あちら側から戻ってくるのには、それこそ本人が望んでいるかにもよる。もし、現世に思い留まる必要がなければ、彼の魂はいつまで経っても戻ってこないだろう」
そんな、とベルが声を押し殺す。その告白はこの場にいる誰にとっても意外であった。
「チェレンが……望んでいないかもしれないって言うのか」
反抗の声を滲ませたヴイツーにギーマは冷徹に応じる。
「可能性の話だ。同調なんてものに頼ってしまった以上、力を手放すのは勿体無いと思うような人間ならば、な」
キーストーンが一際強く光を帯びる。ベルは祈るように瞼を閉じていた。ノアも拳を握り締める。
「お願いだ、チェレン。……戻ってきてくれ。ここにはキミの居場所が」
あるのだから。
念じたノアは可能性に賭けた。