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七章 影の黙示録
第84楽章「花と龍」

 ソウリュウシティへの旅路は悪路ではなかったが、ヘレナは慣れない長旅に疲弊していた。

 以前はNのために、命を尽くすつもりでいた。だが、今心にあるのは、ただただ自分達の正しさだけだ。

 女神として在り続ける事が本当に正しいのか。それを問い質すのにはソウリュウシティに行くしかない。

 擦り切れたマップを見やり、ヘレナはホテルの受付で残金を数えていた。紙幣は持てるだけ持ってきたがそれでも節約して二週間分ほど。

 二人の生活を潤滑に回すのには足りないほどだ。バーベナには苦労を強いる事になる。待合室で座っているバーベナへと数人の男性が話しかけていた。

 自分達の姿はただでさえも目立つ。偽装するにしたところで名前と登録IDくらいが関の山であった。

「ちょっと。連れなんですけれど」

 ナンパか、とヘレナが口を差し挟むと男達はフッと余裕の笑みを浮かべた。

「これはこれは。お綺麗なお嬢さん方が二人旅? それでは困る事もあるでしょう? ぜひ、耳に通していただきたい投資の話があるのですが」

「結構です」

 一蹴してヘレナはバーベナの手を引く。バーベナは何が起こったのか理解し切っていないようであった。

「……あの人達、話があるって」

「いいのよ、バーベナ。ああいうのは相手するだけ付け上がる」

「でも、プラズマ団の催すパーティではああいう方々はよくお見かけしたわ」

 きっと名のある投資家か、あるいは金持ちなのは被服を見れば分かる。だが、今は一つでも足跡を残してはいけないのだ。

「バーベナ、タクシーを呼んでおいたからすぐにソウリュウシティに行きましょう」

 強引に掴んだ手を、バーベナは振り払った。

「私、ヘレナの道具? どうしてそんなに強引なの?」

「私の言う通りにして。今は、そうするのが一番なの」

「どうして? 私達、どうしてこんな事を? N様なら、こんな前の見えない旅なんてしないわ」

 Nの名を出されれば自分は引き下がるしか出来ない。彼ならば、きっとバーベナの思うように旅をする事が出来るだろう。

 しかし、自分はNではない。それどころか、今も現状に振り回されているのである。こんな様子では、バーベナに一端の事さえも言えない。

「……バーベナ、言う事を聞いて」

「ヘレナ、私、貴女だけは変わらないと思っていた。ずっと、私達は繋がっているのだと思っていたけれど、どうして? どうして、見るものが違うの?」

 それは、と言葉を詰まらせる。二人で一人の女神であったはずなのに、どうしてこのように道が分かたれてしまったのか。

 愛も平和も、ほとんど同義であったはずなのに。

 ヘレナは言い返す言葉が見つからず、ただただ今は言う事を聞いてもらうしかない。

「……ゴメン。何にも言えないけれど、でも、今だけは、私の言う通りにして」

 バーベナもそれで理解したようだ。今は、二人がいがみ合っている場合などではないと。

 タクシーがロータリーに停車し、ヘレナはすぐに行き先を告げた。

「ソウリュウシティへ」

 バーベナも承服したのか、タクシーに乗り込む。運転手が二人を観察する視線を覗かせた。

「ソウリュウシティ? そんなの、歩けばすぐの距離じゃないですか。わざわざタクシーで?」

「今は、一刻でも早く辿り着きたいんです」

 普通のトレーナーならば歩く距離だ。だが、自分達は一緒にいればいるほどにすれ違う。

 きっと歩いている間に、その隔絶は決定的なものになるだろう。ならば、何も考えないで済むほうがいい。

 タクシー運転手は承服したのか、質問はしてこなかった。

「……はい、ソウリュウシティね。しかしソウリュウシティに人が集まっているようですな。ここ数日、みんなソウリュウシティ行きですよ」

「……それはどういう」

「分かりませんがね。どうにもお祭り騒ぎみたいですよ。ソウリュウシティって言えば、最後のジムの街です。何かあったのでしょうかね」

 ヘレナはもしやシャガに何かあったのでは、と勘繰る。しかしそのような緊急事態ならばニーアが手を回さないはずもない。

「シャガ、という人物について、教えてもらえますか」

 ニーアからの間接情報だけだ。今のままでは彼に会ったとしても何をすればいいのか分からない可能性もある。

 運転手は、強者ですよ、と切り出した。

「強者……」

「かなりご高齢のはずなんですが、ポケモンと生身でスパーリングしている、っていう噂があるくらいの実力者です。一説には、アデクさんとは旧知の仲だとも」

 イッシュの王、アデク。彼と繋がりのある人物だとすればニーアが保護対象だと判断したのも分かる。

 しかし、いずれプラズマ団はアデクを下さなければならないのだ。

 遠からず敵となる者の名前にヘレナは硬直する。

「アデク……イッシュの王、ですよね」

「常識ですよ。でも、アデクさんはどうにも一ところに留まるのが苦手のようで、イッシュポケモンリーグの玉座は空席のほうが多いんだとか。これも噂ですがね」

 アデクは自分達の築き上げている地下城壁のあるポケモンリーグには不在。その情報は初めて聞いた。

「チャンピオンは、そう簡単に玉座を留守にしていいのではないんじゃ……」

「他の地方は少なくともそうですが、ここは特別なんでしょうね。イッシュにおいて、アデクさんに挑戦出来たトレーナーは片手で数えるほどしかない。それも、四十年の長い月日の間で、ですよ。ここ十年なんて四天王に挑んだ人間さえもいない」

 それほどまでにイッシュという土地が枯れているのだ。英雄伝説の再現を行うNくらいでなければ、アデクと戦うなど叶わないだろう。

「……お詳しいんですね」

「お客さんと話していると自然と身についてくるんですよ。特に噂って奴は。アデクさんはお孫さんと武者修行に出ているとか聞いています」

「お孫さん……」

 それも情報にはなかった。アデクに孫がいたのか。

「お客さん、意外と世間知らずですね」

 世間知らず。当たり前だ。ちょっと前までは籠の鳥の状態であったのだから。それより以前は世界から隔絶された森で過ごした。この世界の情報を断片的にしか知らない。

 だからか、運転手の話すイッシュの現状に、ヘレナは興味を抱いた。

「チャンピオンアデクの、その強さとかは、誰も知り得ないんですよね。挑戦者がいないっていうのなら」

「そのはずですが、四十年前の結果がその強さを示していますよ。わたし、これでもリーグマニアでしてね。四十年前のカントーポケモンリーグから、現在に至るまで、どれほどのトレーナー達が鎬を削ってきたのか、結構自信がありますよ」

「では、イッシュにそれほどのトレーナーがいない、という事なのでしょうか」

 運転手は熟考する真似をしながら、難しい質問ですねと返す。

「イッシュは、他民族国家です。だから、カントーで実績を上げたトレーナーが来る事もあるし、別にトレーナー自体の強さは軒並みでしょう。問題なのは、トレーナー人口の増加とその強さが反比例している事ですかねぇ」

「……強くないんですか?」

「残念ながら、イッシュのトレーナーは時代錯誤と言われていますよ。エリートトレーナークラスの人間であっても他地方に比べれば随分とランクが緩い。数多の人々を受け入れる姿勢があるのは、同時にレベルの低さを招きます。その結果、イッシュはエリートトレーナーが最も多い土地でありながら、他地方ほど強くはない、という現状に落ち着いているのです」

「エリートトレーナーであっても、強いとは限らない、という事でしょうか」

「有り体に言えば。ですが、ジムリーダーは違いますね」

 ジムリーダー。街ごとに設営されたポケモンジムにおいて頂点に立つ事を許された存在。ヘレナはジムリーダーに関する知識が乏しい。そのため、どれほどの強さなのか想像もつかない。

「どうして、ジムリーダーは別格だと?」

「イッシュのジムリーダーは兼業が多い。シャガさんも市長との兼業です」

 初めて聞いた事実にヘレナは目を丸くする。まさかシャガが市長など思いもしなかった。

「それは……兼ね合いなんて出来るんですか?」

「出来ているから、イッシュのジムリーダーは違うんですよ。ジムリーダーだけは、他の地方よりも勝っている。格が違う、と言えばいいんですかね。ジムリーダーの強さに関して言えば、彼らの持っている実力ははかり知れない」

「随分と精通しているんですね」

「これでも昔、トレーナーだったんです。まぁ、五つ目のジムで挫折しましたが。イッシュはトレーナーの受け皿が薄い。だから、とっとと就職するか、あるいは地を這い蹲ってでもトレーナーを貫くかって言う二択を若いうちに迫られるんです。自分は前者でした。五つ目のジムで、限界って言いますか、天井にぶち当たったんですよ。これ以上いけないっていうのは、案外自分が一番よく分かっているものなんです。挫折から転落していく人間を何人も見てきました。だからか、こういう安全な職業しか選べなかったんですけれどね」

 照れ隠しのように運転手は微笑む。ヘレナはそれもまた歪みだ、と感じていた。イッシュという地域が抱える歪み。それを是正するには王が必要なのだ。

 圧倒的な実力と共に君臨する王が。玉座につくのは全てを支配し、全ての民草を救済する存在でなくてはならない。

「……イッシュ地方に生まれて、後悔なさっているんですか」

 失礼な質問かもしれなかった。だが、民がどう考えているのか、女神は知る必要がある。

 しかし予想に反して、運転手の声に深刻さはなかった。

「後悔なんて。人は、生まれた場所だけは選べません。それに、タクシー運転手も割と楽しいんですよ。色んな人の話が聞けてね。トレーナーとして大成出来なかったのは確かに悔しいですよ。でも、人って一つの物事のみに生きるわけじゃないでしょう?」

 耳に痛かった。

 自分達はプラズマ団の象徴という一つの目的にのみ生きている。これが狭い生き方だと言われているようで、ヘレナは目を伏せる。

「どうしたって……生きる事を選べない人も、いるんでしょうね」

「それはそうでしょうが、イッシュはまだ寛容だと思いますよ。数多の人々が集まり、己の夢を賭けるのはどの場所だって同じでしょう」

 タクシーが静かに停車する。ソウリュウシティに辿り着いたのだろう。

 ヘレナは支払い様に、運転手に尋ねていた。

「もし……もしもの話ですが、この環境が変わるとすれば? 絶対的な誰かが現れて、その人間がイッシュを全て、変革するすれば、貴方はどうなさいますか?」

 その時、民はどう動くのか。ヘレナの質問に運転手は軽く返す。

「その時にならないと分かりませんが、でもまぁ、きっと我々なんて変わりはしませんよ。そういうもんです。独裁者が現れようが、あるいは王が変わろうが、人々ってのは毎日の営みを欠かしません。きっと、明日も変わらず会社に行く。そういうもんじゃないんですか?」

 Nという絶対者が現れたとしても、人は変わらない。

 その事実は今までプラズマ団のために身を粉にして捧げてきたヘレナには重く響いた。

 ――自分達が足掻いても、何も変わらない。

 人々は毎日のように通勤し、変わらぬ日々を享受し、平和を願う。

 それだけなのだ。Nとプラズマ団がポケモン解放を謳ったところで、それは対岸の火事。

 自分達の生活圏を脅かす思想でもない。ましてや、その存在だけで世界が一変するなどあり得ない。

「……参考になりました」

 チップも渡し、ヘレナはソウリュウシティの外観を眺めた。

 どこか古風な街並みで、背丈の低い建築物が居並んでいる。その中で一番に目を引く巨大建造物こそがソウリュウシティジムだろう。

「ジムリーダー、シャガ。彼に会えば、どうにかなるのかしら」

 バーベナは沈黙したまま、ヘレナの背に続く。その時、着信音が響き渡った。

 ニーアからの着信にヘレナは通話を取る。

「……まるではかったようなタイミングね」

『そろそろ到着される頃だと思いまして。ソウリュウシティ、ジムに直接行かれても、恐らくはシャガ氏には会えないでしょう。こちらからアポを取っておきました』

 気が利く、というよりも不気味なほどだ。どうしてこちらの動きを先回り出来るのか。

「貴方の動き、ちょっとばかし不自然なほどだわ。どうして、私達を操るように動かせるの」

『経験則ですよ。それ以外にはない』

 経験則、と言われてしまえば、ヘレナには返す言葉もない。

「シャガという人物に、会えるの?」

『ジムの前でパフォーマンスをしているはずです。市長でもあるシャガ氏を篭絡するのは難しい。身元の保護を、とだけ言って聞かせています』

「それは、私達の正体も分かっての事?」

 プラズマ団の重鎮を保護する、という事がどういう意味なのか分かっているのだろうか。ニーアはしかし、そのような瑣末な事、と返す。

『シャガ氏は偉大ですよ。彼は身寄りのない少女を一人、既に保護している。温厚な人物ですが、八番目のジムリーダーの名に恥じぬ実力の持ち主。行き場のない少女を放っておけるほど冷徹ではない』

 自分達を行く当てのない人間だと紹介したのか。間違ってはいないが、ヘレナは軽い侮蔑を覚えた。

「ニーア。貴方の事、完全に信用したわけじゃないわ」

『ですが、シャガ氏に取り付けたのはこちらのコネクションあっての事。そこは評価していただきたいですね』

 シャガに面会出来るのは彼の働きあっての事。それは理解出来るものの、組織の中にあってどうして自分達の味方をするのか。それが解せない。

「ニーア。貴方は私達をシャガに預けた後、どうするつもり? 組織の中での昇進は狙えないわ。女神の行方はようとして知れないんでしょう?」

『それも込みで、動きやすいと考えているのですよ。今のプラズマ団は一手で空中分解が可能となる。その一手があなた方であり、こちらの手はず通りになっている』

「そう目論み通りに行くかしら? だって七賢人も、もっと言えばゲーチス様も馬鹿じゃないわ。貴方の正体に辿り着くほうが早いかもしれない」

『それは読めませんね。ですが、この正体に辿り着いた時こそ』

 そこから先をあえて口にしなかった。ニーアの正体、まるでそれ自体が大きな切り札のように。

「……シャガに会ってくるわ。必要な事は何?」

『あなた方がプラズマ団より亡命した事。それと、思想のない事を強調すればよろしいかと』

「思想のない事……ポケモン解放の事?」

『シャガ氏はあまりポケモン解放に関して胡乱な立場を取っておられるお方。思想のある女神を手元には置きたくないでしょう』

 つまり無知を演じろ、という事か。ヘレナは嘆息をつく。

「どこまでも馬鹿になれって言いたいの?」

『馬鹿では駄目です。想定された行動を取っていただかなければ。バーベナ様はそれほど器用ではないでしょう?』

 言いたい事は分かる。自分がリードしなければ、バーベナは籠の鳥。彼女が地力で動くなどあり得ない。それこそプラズマ団の思想を持ち出してシャガに不快な思いをさせる可能性すらある。

 そうなってしまえば、自分達の行方などプラズマ団はすぐにでも嗅ぎつけるだろう。

 プラズマ団に戻れば元のお飾りに逆戻り。否、それよりも性質の悪い境遇に囚われるかもしれない。

「……今は、貴方を信じましょう」

『シャガ氏には既に連絡済です。面通しをなされば事はスムーズに運ぶでしょう』

 通話を切り、ヘレナはバーベナの手を引いた。

「ジムに行きましょう。シャガという人に会わなければ」

「……ねぇ、ヘレナ。ずっと気になっているのだけれど誰と連絡しているの?」

「今は、知る必要はないわ」

 いずれはバーベナにも話さなければならない。だが、今だけは自分の胸の中で留めておこう。

 ジムの前で人だかりが出来ている。

 何事か、と分け入ったヘレナが目にしたのは二体のドラゴンポケモンのぶつかり合いであった。

 片方には長大な斧牙を有しているドラゴンが攻撃姿勢に入っている。もう片側にいるのは水色の身体を持つポケモンだ。雲のような翼を有し、そのドラゴンが甲高く吼える。

「チルタリス、龍の息吹!」

 叫んだのはまだあどけなさを残した少女であった。長髪を独特の方法で結っており、体躯ほどもある。

 少女のチルタリスが放った龍の光条を斧牙のポケモンは受け止めた。

「まだまだだな。龍の息吹の真髄には至っていない。オノノクス、打ち返せ。ダブルチョップ」

 オノノクスと呼ばれたポケモンが両腕を振るい上げ「りゅうのいぶき」を片腕で弾く。

 もう片腕でチルタリスへと接近し、手刀を叩き込もうとした。チルタリスが上空に舞い上がり、身体から青い光弾を射出する。

「流星群!」

 約束された威力にもオノノクスを操るトレーナーは臆しもしない。その双眸に闘志を携えた老躯のトレーナーは白髭を撫でた。

「上空を取っての流星群。確かに、対地性能しかないオノノクスには有効。だが、まだまだ甘いぞ、アイリス。オノノクスの射程、見誤ったな」

「余裕はそこまでだよっ! おじーちゃん!」

 アイリスと呼ばれた少女がチルタリスに攻撃を命じる。男は静かにチルタリスを指差した。

「オノノクス、見せてやれ。その能力を。流星群を伝ってチルタリスの射程に辿り着く」

「出来るかしら! だってチルタリスは強いもの!」

 チルタリスから弾き出された六つの光弾がそれぞれ幾何学の軌道を描いてオノノクスへと撃ち込まれようとする。

 オノノクスは何ら特別な攻撃に移るわけでもない。両腕に力を込め、先ほどと同じ「ダブルチョップ」でまず一発目の「りゅうせいぐん」を叩いた。

 その途端、破裂したエネルギーの余波でオノノクスが浮き上がる。

 本来ならばダメージになるその隙をオノノクスが特異な斧牙で中空の光弾を叩きのめした。

 攻撃を食らいながら、一発ごとにオノノクスが宙に舞い上がっていくのである。

 まさしく捨て身。オノノクスが三発目を食らった頃には既にチルタリスを射線に入れていた。

 チルタリスが口腔内に青白い炎を充填する。

「龍の、波導!」

「ここまで接近を許した時点で、最早判定は決した。オノノクス、ドラゴンクローだ」

 オノノクスが斧牙を振るい上げ、チルタリスの胴体へと攻撃を浴びせた。チルタリスへと瞬時に重力を持った一撃が打ち込まれ、その身が粉塵と共に地面へと埋没する。

 一瞬にして攻守が逆転する形となった。上空を取ったオノノクスへと、しかしながらまだ生きている光弾が包囲する。

「あと三つ、か。オノノクス、接地せずしても落とせるな?」

 男の声に応じるようにオノノクスは強く吼え、背後から迫った光弾を手刀で打ちのめした。

 さらにもう二つ、上下から挟み込むようにしてオノノクスを襲ったそれを、身体を回転させてオノノクスが弾き飛ばす。

 ギャラリーから歓声が上がった。

「さすがはシャガ市長だ! 圧倒的だな!」

「あれが、シャガ……」

 ヘレナは気圧されていた。ドラゴンの使い手とは聞いていたが、同じドラゴンであるチルタリスを相手にまるで天と地の差だ。

 きりもみながらオノノクスが着地する。その姿勢でさえも計算されたように美しい。

「負けちゃったかぁ……」

 残念そうにぼやいたアイリスがチルタリスをボールに戻す。街の人々は彼女にも温かかった。

「いや、アイリスちゃんも強くなったよ。こりゃ、シャガ市長を倒す日も来るかもな」

「えへへー、そうかな」

 アイリスの茶目っ気にシャガが歩み寄って諌める。

「ドラゴンを扱うのに、一時の気の緩みも許されない。慢心は毒だぞ」

「わかっているよ、おじーちゃんは毎回、説教みたい」

 これがソウリュウシティに人が集まっている原因だろうか。二人のドラゴン使いのパフォーマンスを見るために、人だかりが?

 呆然としていたヘレナをシャガが発見する。

「君か。話にあった金髪の少女」

 近づいてきたシャガは想像よりもずっとたくましい。筋骨粒々とまでは行かなくとも、その年齢を感じさせない佇まいであった。

 ヘレナが継ぐ言葉に迷っていると、アイリスが駆け寄ってくる。

「おじーちゃん! この人達が、例の?」

「ああ、話には聞いている。来なさい。後はジムで聞こう」

 ニーアがどう話したのかは分からないがどうやら悪い心象は持たれていない様子。バーベナに視線を配り、ヘレナは首肯した。

「行こう」

 ジムの中には巨大な龍の彫像があり、挑戦者はその台座に乗ってジムリーダーを目指す構造になっている。

 ジムトレーナーは、と視線を巡らせたが、誰もいなかった。

「ジムトレーナーは、今期は一人も採用していない。この子を育てるのに、わたし以外の適任者がいなかったのもある」

 こちらの沈黙をすぐさま悟ったシャガの慧眼もさることながら、彼に付き従っている少女を育てるためだけ、という部分も引っかかった。

「その少女は……」

「あたしはねー、アイリスって言うの!」

 アイリスは明朗快活に笑ってみせる。太陽のような眩しさを感じさせる少女であった。

「わたしの弟子だよ。ドラゴンの心を知る娘だ」

 シャガの声音にヘレナは慎重に切り出す。

「娘さんですか?」

「血は繋がっていない。しかし、アイリスには素質がある」

 断じた声にはてらいさえも窺わせない。岩のように激しい気質を持ちつつも、一面では氷より冷たいのはまさしく龍を操る者に相応しい。

 案内されたのは木造の一室だ。木目調の椅子を差し出され、ヘレナは当惑する。

「座りなさい。話せば長くなるはずだ」

 バーベナと共にヘレナは座り、シャガの淹れるコーヒーの芳香を嗅いだ。

 アイリスは自分の椅子があるのか、引っ張り出した椅子に座り込むなり、シャガに口を出す。

「あー! だめだよ、おじーちゃん。そっちの棚のはお客さん用じゃなくって自分達用でしょ? 苦いのが好きなんだから。女の子は甘いコーヒーじゃないと」

「む、そうか」

 実力者であるのは間違いないシャガが、アイリスのような小娘に振り回されているのはどこか微笑ましい。

 アイリスがヘレナを見やり、次いでバーベナに視線を投じた。

「……何か?」

「ううん。綺麗な人だな、って思って」

 面と向かって綺麗だと言われた事などなかった。それが社交辞令でも、バーベナが赤面する。

「私、別に綺麗なんかじゃ……」

「卑下するもんでもないよ。あたし、わかるもん。あなた達二人とも、見た目もそうだけれど心が綺麗。澄み渡った水、いいえ、森ね。あなた達の心象風景は」

 見透かされヘレナが息を呑んだ。この少女は何者なのだ。振って湧いたような感覚にシャガがマグカップを差し出す。

 おずおずと受け取ったヘレナは、「驚いただろう」というシャガの声に面を上げた。

「アイリスは人の心の風景が分かる。そういう娘だ。相手の原初、その心の始まった場所が理解出来ると言うのは余人からしてみれば脅威でもある。トレーナーの原風景を即座に見抜く審美眼は戦闘において優位に運ぶ事の出来る一因だからな」

 コーヒーをすするシャガにヘレナは言葉を失っていた。アイリスもコーヒーにミルクをなみなみと注ぎ、冷ましてから口に含む。それでも熱かったのか舌を出した。

「シャガさん……私達の事、どう窺っているのかは分かりませんが、貴方に会えば、少しは好転するのだと聞いていました。その、何をすれば……」

「何をすれば、ではなく、何を求めれば、だろうな。君達は大変な立場にいる。それは聞き及んでいるのだが、肝心の部分がぼやかされていてね。このソウリュウジムで君達の身柄を預かってもいいのだが、少しくらいは話を聞かせてはもらえるだろうか。わたしも、納得が欲しくてね」

 ヘレナはどこから切り出すべきか迷っていたが、やはり最初からだろうと話そうとした。

 その時である。

「シャガさん! 奴が来ました! この街に!」

 飛び込んできた男にシャガがぎろりと目線を振り向ける。それだけで男が硬直したのが伝わった。

「話の途中で申し訳ない。そうか、来たか。ついにこの街に」

 シャガがどこか諦観と共にマグカップを置く。男はヘレナとバーベナに困惑しつつも、シャガに耳打ちした。

「既にソウリュウシティの外で守りを司っている生え抜きのトレーナー達が全滅……。彼女の噂を聞きつけた強者のトレーナー達です。その彼らが、全く手も足も出なかった」

 ソウリュウシティに人が集まっていると聞いたが、それは彼らのパフォーマンスを見るためではなかったのか。ヘレナが勘繰っているとシャガは静かに言い置いた。

「アイリス、来なさい。お二方は……」

 ヘレナは立ち上がり、シャガに進言する。

「私も、同行してもよろしいでしょうか?」

 シャガは暫しの沈黙の後に首肯する。

「いいだろう。そちらの方は……」

 当惑気味のバーベナへとヘレナは言いやる。

「彼女は私そのものです。同行しても」

「構わない。どうせ、ジムにやってくるだろう。……やれやれ。もう少しゆっくりと対応出来るかと思ったのだが」

 シャガの背にアイリスが続き、自分達はその後に引き続いた。

 男が指差した先にはトレーナー達が集っている。

 人だかりの中心地で爆発の光が瞬いた。

「すげぇ……何人抜きだ? あの女の子、タダ者じゃねぇ……」

「これを見るためにソウリュウに来た甲斐があったな。噂に上がっていた白銀の悪魔……」

 人々の話し振りを耳にするに、どうやらソウリュウシティに人が集まっている原因が中心地にいるらしい。

 シャガは人波を掻き分け、中心で戦闘を繰り広げている少女と男を目にしていた。

「キングドラ! ハイドロポンプ!」

 水色のポケモンが激しく水を射出する。それに対応するのは白い体毛の小型ポケモンだ。

 確かチラーミィと呼ばれている、愛玩用のポケモンである。「ハイドロポンプ」の砲撃をチラーミィは軽いステップを踏んで避けつつ、キングドラへと片腕を引いた。紫色に染まった拳が瞬間的に煌く。

「破壊光線!」

 チラーミィの発射した一条の光にキングドラが震えるも、一撃では沈まなかった。キングドラから新たに光が寄り集まる。

 筒先のような口腔からオレンジ色の光が放出された。

「こっちも負けちゃいない! 破壊光線だ!」

 通常、連射出来るはずもない高威力の技をキングドラは発射する。チラーミィは反動で動けないはずであったが、その拳が大きく天へと掲げられた。

 直後に巻き起こったのはチラーミィが己の腹腔に浴びせた一撃であった。

 その一撃を受けた途端、チラーミィを襲っていた硬直が解け、「はかいこうせん」の光軸を紙一重で避ける。

 まさか、と群集が息を呑んだ。

「反動無視だって……? 破壊光線を撃った後にどうやって……」

 チラーミィがキングドラの懐に入り、その腕から電磁を纏い付かせた。

「十万ボルト!」

 発生した電撃がキングドラを焼き尽くす。内側から硝煙を棚引かせ、キングドラが倒れ伏した。

「これで十三人目、だっけ? アタシ、ソウリュウシティにとっとと行きたいんだけれど」

 チラーミィのトレーナーの少女は不服そうに頬をむくれさせる。自分達と年かさも変わらない、ただの少女に思われたが、纏っている空気が違う。

 まるで歴戦の兵を目にしているかのようだ。圧迫感に、バーベナが呼吸困難に陥った。

「何、あれ……まるでN様のように」

 ヘレナも感じた事だ。Nと同じか、あるいはそれ以上の風格がある。

 ――これは王の輝きだ。

 ゾロアークを駆ったNが発したのと同じ、圧倒的な王の素質が見る者を魅了する。

「つ、次は俺だ! ソウリュウシティみたいな片田舎に来た甲斐があったぜ……これほどまでに強い奴とやれるなんてよ!」

 少女は全く度し難いとでも言うように頭を振った。

「相手にならない。早くジムリーダーを呼んで」

「無視してんじゃ、ねぇっ! 行けよ、メガヤンマ!」

 ボールから繰り出されるなり高速の翅を振動させ、メガヤンマが少女へと重機のような顎で食いかかる。

 少女はしかし動じるでもなく、軽く手を払っただけだ。

「チラーミィ。十万ボルト」

 チラーミィの発した電磁がメガヤンマを体内から焼け焦がす。だが、それでもメガヤンマは健在であった。高速振動する翅が地面を抉り、チラーミィの足元を揺るがす。

「どれほどまでに高性能なポケモンであっても、足元が疎かでは!」

 しかし、少女にとって、その攻撃はまるで意味がないかのように、すっと指差された。

「そうね。確かにどれほどまでに高性能なポケモンでも、使い手が至らなければ」

 その言葉繰りが嘘ではない事は、直後の事実が証明していた。チラーミィの発した電磁の残滓が地面を伝い、トレーナーの視界を眩惑したのである。

 指示を失ったメガヤンマとトレーナーの一時的な命令系統の阻害。

 その程度で塗り替えられる実力ではないはずだ。メガヤンマはそうでなくとも扱いの難しいポケモン。それを手足のように駆使するトレーナーならば恐らくはエリートトレーナー相当であるのは頷ける。

 しかし、少女の繰り出すチラーミィはその上を行ってみせた。

 尻尾から推進剤のように水流を迸らせ、メガヤンマの直上を取る。メガヤンマは常に標的を自分より下の位置に据える事によって優位を保てるタイプのポケモン。

 獲物が上にいる場合を想定していない事が多い。このメガヤンマも例に漏れず、頭上に迫った一撃に対応するのにはあまりに遅い。

 払われた尻尾がまるで鈍器のような重さを伴わせてメガヤンマの頭蓋を叩きのめした。

 脳震とうレベルの一撃。よろめくメガヤンマへとチラーミィがとどめの電撃を放つ。

 腹腔にぶつけられた雷電にメガヤンマの内部骨格が震え、そのまま地に倒れ伏した。トレーナーは絶句している。

 まさかメガヤンマがやられるなど思いもしなかったのだろう。他のトレーナーも同様のようであった。狩りに来た側が逆に狩られるなど思いも寄らないという面持ちの者達の間を少女は通り抜けていく。

 絶対的な王者の如く。

 シャガは眼前にした少女にふむ、と首肯していた。

「強いな」

「あんたがジムリーダー、シャガね」

 傲岸不遜な少女の態度にシャガは年長者の余裕を漂わせて応じていた。

「如何にも。しかし、ここまでとは。噂はかねがね聞いている。カノコタウンから旅立った一匹狼のトレーナー。群れを好まず、全てをたった一人でこなす、無双の少女がジムをことごとく破っている、と。想定よりも速かったな。君が、トウコ、か」

 トウコと呼ばれた少女はポニーテールを揺らし、だから? と問い返す。

「アタシが何者だからと言って、ジムは挑戦を拒めない。さぁ、やるのよ。アタシのチラーミィと! あんたのドラゴンタイプで!」

 闘志をむき出しにしたトウコに二人の女神は気圧されていた。これほどまでの野性。これほどまでの戦闘本能。火炙りにされているかのように全身の肌がちくちくと痛む。それがたった一人の、トウコというトレーナーの放つ殺気だと、ヘレナは息を呑んだ。

 ――このようなトレーナー、見た事がない。

 自分以外はまるで全て些事、全てが王道の前の塵芥とでも言うような態度である。

 トウコの宣戦布告にしかし、シャガは一言では応じなかった。

「その実力、噂以上とお見受けする。しかし、ソウリュウシティは古き文化と新しき息吹の交差する場所。それなりに手続き、というものが必要になってくる。まずは彼らの治療を。それからだ、話は」

 そこいらで倒れているトレーナーを一瞥し、トウコは鼻を鳴らす。

「弱者にくれてやる時間なんて惜しいわ。アタシは強くなる! このイッシュの頂点に、ね! だって言うのに、敗北者の慰撫? そんなもの、捨て置けばいい」

「その態度ならば、合分かった。挑戦は受けん。これでいいか」

 トウコの言葉振りに一歩も譲らぬシャガの語調にはこの街を預かる市長としての重みもあった。暫しの睨み合いの後、トウコはようやくため息をつく。

「……分かったわよ。回収した後は好きにすれば? アタシは、じゃあそっちの流儀に倣うとして、どうすればいい?」

「一両日の時間を。それで構わん」

「何だ、アタシの強さを前にして一日は欲しいってワケ。結局、あんただって弱者ね」

 腰に手を当てて言い放ったトウコにヘレナは一触即発の空気を感じ取るが、シャガは落ち着いている。

「どう取られても。ただ、手順は手順だ」

 シャガは自身のジムトレーナー達に荒れくれ者達を任せる。彼自身は身を翻し、こちらへと声を放った。

「すまない、せっかくの来客であったのに、荒々しいものを見せてしまった。謝罪の証に、もう一度ジムに来て欲しい。君達の身柄は保証する」

 返答を躊躇わせるヘレナにバーベナが袖を掴んだ。

 彼女は瞳に涙を浮かべて首を横に振る。

「バーベナ? 嫌なの?」

「……違う、そうじゃない。あの人を見ていると、思い出しそうになってしまう」

 バーベナは必死にトウコから目を背けていた。そうか、とヘレナは察知する。トウコの放つ闘争本能はバーベナには強過ぎる。あまりに過度な毒なのである。

「……シャガ市長。私達は所詮、ここまで来てしまった身。どうか、一日の宿をいただけると助かります」

「そちらが了承してくださるのならば何日でも。アイリス。来なさい」

「でも、おじーちゃん。あの人、いまつぶさないと」

 アイリスは茫然自失の眼差しのまま、ボールを手に取る。その指先が緊急射出ボタンにかかりかけているのをシャガはその手で制した。

「今は駄目だ。戦いを禁じる」

「どうして? だって、あの人、アイリスには見える。紅蓮の炎。ドラゴンの形を取って、イッシュを焼き尽くす。そうなる前に、止めないと」

「やめろと言っているんだ。アイリス」

 静かながら怒声に変わる直前で詰められた声音にアイリスがその闘争心を仕舞った。

「……分かった。でも、いずれ戦わなくっちゃ」

「その事も、分かっているとも」

 分かっていても今はせめて、と懇願するような語調であった。アイリスの仕舞った矛先にトウコがせせら笑う。

「命拾いしたわね、その子も、あなたも。今戦わずに済んで、ホッとしているでしょう?」

 これほどまでに相手を苛烈に追い込む発言、さすがに許されまいとヘレナは感じていたがこの街の責任者は思ったよりも慎重であった。

「そうかもしれないな。わたしは、そこまで己も、他者も軽んじているわけではない」

 ジムトレーナーに連れられてポケモンセンターに向かう一同に、シャガは無言であった。

 だが、その胸中で静かな闘争の炎が燃えているのを、ヘレナはこの時確かに感じ取っていた。

 ジムリーダーとて戦士。焚き付けられて黙っているほど牙を抜かれているわけではないのだ。

 シャガとトウコの戦いは明朝になるであろう、と誰かが噂していた。その真偽を確かめぬまま、ヘレナは執務室へと取って返していた。

 バーベナがようやく開放されたとでも言うようにその場にへたり込む。トウコの瞳に中てられたバーベナは額に汗を浮かべていた。

「今、冷たいものを用意しよう」

 シャガの対応は速やかであった。濡らしたタオルとコップに薄めたサイコソーダを注ぎ、バーベナへと与える。

 オアシスに辿り着いたかのようにバーベナはただただ水を求めていた。

 ヘレナはシャガへと質問せずにはいられなかった。

「……あの、トウコなるトレーナーの方はご存知だったので?」

「ああ。旅先のトレーナーやジムリーダー連の情報は共有される。その中で出てきた、今最も強いと目されているトレーナーだ。最強の名をほしいままにしている。わたしが教えを授けたジムリーダーも数名敗れた。もうあのトレーナーを止められるのはわたししかいないとまで言われているほどだ」

 そこまで、とヘレナは瞠目する。時代の寵児とはいつ如何なる時でも存在するものなのだろうか。

 Nがそうであるように。あのトウコというトレーナーもこの時代に降って湧いたような奇跡なのかもしれない。

「でも、あの態度は……」

「強さが成せる業だろう。強き者は相手にこびへつらう必要も、ましてや相手への尊重も要らない。それを心の芯からよく分かっている。だからこそ、ああいう物言いが出来る。しかし、わたしから言わせれば、彼女はまだあまりに強いだけの火だ」

 強いだけの火、と形容されても、ヘレナにはそれが相手の価値を落としているものだという事に気づけない。

「強ければ、いいのでは……?」

 単純に湧いた疑問にシャガは強い白髭を掻いて微笑む。

「そうかも、しれないな。一面では。だが、強いだけの火というものはどういう帰結を辿るのか……いや、今はよそう。どうせ、結果はすぐに出る」

 戦う前の試算など意味がないとでも言っているかのように、シャガは話題を仕舞った。バーベナは項垂れたまま、疲弊を浮かべる。

「ヘレナ……私、ちょっと横になっても」

「シャガ氏長。部屋を借りられますか?」

「アイリス、案内を。どこでも好きに使ってくれたまえ」

 こっち、とアイリスが袖を引っ張る。バーベナはよろめきながら立ち上がった。

「……大丈夫?」

「あのトウコというトレーナー……知っている気がする」

 不意に出た半身の言葉にヘレナは驚愕した。

「会った事が……」

「多分、ないけれど似たような人を見た事があるの。どこまでも執拗なまでに、強さを求める炎……私達の安寧であった森を焼き尽くしたのと同じもの……」

 彼女の存在は自分達の心の安全に亀裂を走らせるというのか。それほどまでのトレーナー、余計に捨て置けない、とヘレナは感じていた。

「ここだよ」

 アイリスが扉を開けて先導し、ベッドへとバーベナを導く。横たわったバーベナの顔色には明らかに平時のものではない疲労が滲んでいた。

 ここ数日、連れ回したようなものだ。疲れが溜まっていたところにトウコというイレギュラーが現れて偏在化したのだろう。

 腰掛けたヘレナをアイリスが凝視していた。どうにも、この少女の瞳は苦手である。丸みを帯びたくりっとした大きな眼差しには全てを見通す力があるかのようであった。

「何か?」

 微笑みを浮かべて対応したヘレナにアイリスは頭を振る。

「おじーちゃんは負けないよ?」

 そこまで読まれていたのか、とヘレナは息を呑んだ。こちらの心の隙をアイリスは簡単に読み取る。

「……負けるなんて、思ってないわ」

「うそ。だって、森が焼かれると思っているでしょ?」

 心の中の新緑の森。平和の象徴とも言える静謐の檻。自分達の心に引いている一線を、あのトウコというトレーナーは越えてくる感覚があった。しかしそれは、アイリスも同じである。触れられたくない部分に無作為に触れる。

「……貴女には、森が見えるの?」

 アイリスはヘレナへと歩み寄り、額へと手を触れた。それだけで彼女には了承が取れたようである。

「……緑の髪の、男の子」

「そう。その人が、私達の王様。このイッシュを統べる本当のお方よ」

 アイリスの前で隠し立てや嘘は無力だろう。プラズマ団の思想を語っても理解出来るとは思えないが、このような無垢で幼い存在は偏見がない。だからこそ、ポケモン解放という志に同調してくれる可能性もあった。

 しかしアイリスは頬をむくれさせて言いやる。

「でも、その人、あなたは信じられていないみたい。だって言うのに、王様だって言うのはヘンだよ」

 ここまで見透かされればヘレナは自嘲するしかなかった。

「そう、なのかな……。私はN様を信じられていないから、こんな事に……」

 バーベナも傷つけてしまう。傷つけ合うくらいならば旅を終えたほうがいいのかもしれないと思い始めていた。

「でも、綺麗なものを持っているのね。あなたもその人も」

 アイリスが快活に微笑んで部屋の中をくるくると踊る。

 Nは絶対だ。王としても、人間としても絶対なのだ。純粋な彼を侵す存在などこの世にいてはならない。だが同時にその存在を知っていながら黙っている。許し難い罪悪のように思われた。

「そう、見えるって言うのならば、そうなのでしょう。でも、いつからなのか、私も、N様もお互いに、他人を見るようになってしまった。あの森では、他人じゃなかったのに」

 自分であり、半身。全であり一。一であり全。それがあの森での絶対のルールであった。他者は介在せず、その心には澱みの一つもない。真っ白な心があったはずなのに、自分はいつからこうも穢れてしまったのだろう。

 ――大人に、なってしまったというのか。

 それが正しいとも思えなかった。眼前にはNに近しい、純粋無垢な存在がいる。アイリスの眼にはまだ世界は輝いているに違いなかった。

「アイリスちゃん……、貴女には、あのトウコさんというトレーナーが、何に見えたの?」

「龍だよ。強い、炎のドラゴン」

 簡潔なその人物評にヘレナは困惑する。ともすれば、アイリスが言っているのはこのイッシュ建国神話に関わった一対の龍の事を示しているのだろうか。だが、一般には流布されていない御伽噺だ。あの神話に関わった人間は現在においてほとんど確認されていない。

 それはプラズマ団が下調べを終えて久しいはず。

「そのドラゴンは……どんな形をしているとか、分かる?」

 どうしてなのだろう。知っているはずがないのに、ヘレナはアイリスが真実の扉に肉迫しているような気がして仕方がない。アイリスは足を振りながら、能天気に口にする。

「炎のドラゴン以外に、特には。でも、強いよ。あの人」

 強い。アイリスに可能性を見ているシャガや、街の人々の身内の欲目を無視して、その言葉は圧倒的であった。

 強ければ正義。弱ければ地を這い蹲るのみ。

「……アイリスちゃんは、あの人と戦うのは、嫌なの?」

「嫌じゃないよ。だって多分、あの人……」

 そこから先をアイリスは濁す。どういう意味なのだろうか。シャガには勝てない、という意味なのか。あるいはそれ以上の。

 追及する言葉を持たぬまま、ヘレナは窓の外を窺う。

 中天に昇った陽の光が新たなる戦いなどまるで我関せずとでも言うように人々を照らしていた。



オンドゥル大使 ( 2017/11/16(木) 17:03 )