第82楽章「小さき者への贖罪の為のソナタ」
雨脚は少しずつ弱まっていったようだ。
野宿するわけにもいかず、かといってその姿はまだ目立つ。ヘレナは小さな民宿の一部屋を借りていた。
金だけはプラズマ団の資金源から直接仕入れられる。だが、それも逃亡が明らかになればストップされるであろう。
もし、この逃避行が終わるとすれば、あまりに唐突かもしれない。
プラズマ団が追ってこないというだけが唯一の心の救いであった。
「……それで、七賢人はN様を王にするための人質として、私達がヴィオに捕まった、と?」
『ええ、その線で固まった様子です』
こちらに情報を与えてくるのはどうしてだかプラズマ団一兵卒でありながら、高次権限へと介入が可能な団員――ニーアであった。
呆れたを通り越して笑いさえも漏れてくる。ヴィオの底意地の悪さは折り紙つきだ。
「ヴィオのいいように操られている、って事かしら」
『ですが、実のところではヴィオ候にもその行方は不明。首の皮一枚の席に居座っているヴィオを引き摺り下ろすのは、あまりに簡単です』
こうも言ってのけるニーアの自信はどこから来ているのか。七賢人の中でも愚か者とは言え、プラズマ団のお歴々には変わりないのに。
「ヴィオは、他には何か?」
手を打っているのか、という意味であったが、ニーアは先んじて答えてくる。
『ダークエコーズが駄目になった時点で、ヴィオは詰んでいるんですよ。それを本人も認めたくないだけ。残ったヴァルキュリアシリーズはたった一体。自分の首を自分で絞めたことに今さら気がついている』
余裕さえ漂わせるニーアの声音に誰かを思い出しそうになったが、どこかでそれを思い出す事を本能的に拒んでいる自分がいた。
――誰なのだ?
問いかけても、ニーアの無機質な声が返ってくるのみである。
『今は身を隠し、ソウリュウシティに潜り込まれるのがよろしいかと』
「人格者と名高いドラゴン使い、シャガ、ね。根回しはしておいたの?」
『何を仰います。根回しが可能なジムリーダーなど、数えるほどしかいませんよ。イッシュのジムリーダーは皆、正義感だけは強い。力はないくせに、ね』
よくよく考えてみれば、自分達程度が根回し出来る相手に身柄を引き渡すわけもない。それが安易ならば、ヴィオがその身柄を確保するのも簡単なはずだ。
「とりあえず信じる……というスタンスが正解?」
『それが第一歩ですよ。バーベナ様は?』
「バーベナは……今は眠っているわ」
慣れない旅路で疲弊したのであろう。ベッドに横たわるバーベナにヘレナは声もかけられなかった。
この旅でバーベナは過去の傷を思い出すかもしれない、という危惧はあった。だがそれ以上に、自分達がプラズマ団にいれば、それこそ悪い未来を招いてしまいそうで行動しないままではいられなかったのだ。
『女神二柱には辛い役目でしょう。ご心労、察します』
「私は別に……。問題なのはバーベナの精神力でしょうね。ちょっと前にプラズマ団に戻ってきたばかりなのにまた外の世界に出るなんて」
自分は耐えられてもバーベナが持たなくなればそこまで。この旅の終焉は案外早くに訪れるであろう。
『バーベナ様に関しましては、こちらからもどうにか出来ないか探ってみます。問題なのは、ヘレナ様、あなたの事も』
「私?」
あまりに予想していなかったため、声が裏返った。
『ええ。あなたは強くあろうとしていますが、やはりそれはN様という精神的支柱あっての事。N様から遠く離れれば離れるほどに、あなた達の精神は持たないはずです』
そんな事はない、と容易く否定出来ない自分が悔しかった。Nは自分達を救ってくれた恩人だ。
彼の存在がいつでも頭の中にあったからこそ、今日まで生きてこられた。絶望を退けて生き抜いてきた。
「私が、N様に依存しているとでも……」
『そこまでは。ただ、あなた方二人の女神はN様あっての事。同時に、その逆も然りなのです。あなた達の不在はN様に影響を及ぼす。今は、七賢人レベルで留めているこの情報もいずれN様に届きます。そうなった場合が最も危険視すべき』
もし、Nに伝われば。彼は戴冠式どころではないと言い出すだろう。以前は七賢人に力を示す事でその遅延を説明してのけたが、今は七賢人だけが敵ではないのだ。
プラズマ団において、Nの発言力が弱まっていると言ってもいい。勝手気ままな王など戴かず、ゲーチスによる支配を実行すべき、というタカ派の存在すら見られる。
「でも、N様なくしてプラズマ団の繁栄はない」
『よくお分かりで。N様の存在しないプラズマ団など、それこそ前後がなっていない。ポケモンの解放を謳い、その思想の矢面に立つべきお方を否定すれば、プラズマ団は内部分裂します。どれだけ七賢人やゲーチス一派が行動しようと同じ事』
どうしてだか、ニーアの声音にはゲーチスの存在を否定するものがあった。プラズマ団の中でタブーがあるとすれば、Nへの侮辱とゲーチスへの中傷がある。
どちらも王に対する反逆罪に問われ、死刑に処される場合すら考えられるのだ。
ニーアとて分からぬ相手ではないはずだ。しかし、彼は退く様子がない。ゲーチスなど、それこそ恐れる対象ではないとでも言うように。
「今は、ゲーチス様の一派がどう動くかよりも、ヴィオ、ね」
『そうですね。彼の嘘八百がどこまで通用するのか、というのは試金石になり得る。同時に、彼が無為な嘘を重ねれば重ねるほど、プラズマ団は脆く崩れ落ちる砂の城となるでしょう。死期を早めているだけだと、まだ気づいていない』
ヴィオとゲーチス、両方に対しての侮辱と憤懣。プラズマ団の中でこれほど強硬な姿勢に出る人間もいない。
ますますニーアは何者なのか気がかりになってくる。
「今、打って出る事は出来ないのね」
『今は待つ時です。そのためにもシャガへの合流は絶対。ソウリュウシティまで、どれくらいですか?』
「今日中には辿り着けるわね。でも、シャガという方がどれだけ理解があるかどうかは……」
濁した先を、ニーアは言ってのける。
『シャガならば大丈夫でしょう』
どこに確証があるというのか。問い詰めたかったが、ここで言い争いをしている場合でもない。
「とりあえずソウリュウシティまで。私達は赴くわ」
『ヘレナ様。あなたもご休憩なさってください。心身ともに疲れ果てているはずです』
張り詰めっ放しで休まる時間などない。そろそろ身体も限界が近かった。
「三時間だけ、眠るわ。その後、民宿を出る」
『ご用心を。敵は、プラズマ団だけとは限りません』
その言葉を脳裏に留めて、通話を切った。ヘレナはニーアの言葉を繰り返す。
「敵は、プラズマ団だけじゃない……か」
このイッシュそのものが自分達の居場所を拒むと言うのならば、喜んで敵となろう。その時こそ、価値を問い質す。
イッシュが英雄に相応しい土地なのか。あるいは不浄の地なのかを。
イッシュ英雄伝説の再現は決して、遠い未来などではないのだ。
その志を胸に抱き、ヘレナはベッドに沈んだ。横たわると眠気がすぐさま意識を閉ざそうとする。
「ソウリュウシティのシャガ。彼に頼れば、でももし……」
もし、断られれば。その想定が意識の表層に上る前に、眠りの中に没した。
車椅子にチェレンを乗せ、ベルは嘆息をついた。
どうしてこうなってしまったのだろう。いや、何よりも後悔せずに進むつもりであったのに、今の後悔の只中にある胸の内を、ベルは回顧する。
ノアを突き放す事はなかったのではないか。誰もノアを必要としていないような言い草になってしまった。
自分は昔からそうだ。
肝心な時に愚図でノロマ。誰かの気持ちが分からない。だから誰かを傷つける。その果てにあるのが際限のない自己嫌悪だとしても、自分はどうしようもなく無力であった。
如何にしてここに立てばいい? チェレンは行ってしまった。自分などでは決して及びようもない次元へと。ならば、自分はここで立ち止まっている場合ではないのではないか。
チェレンのためにしてやれる事はないのか。
「分かんないよ……教えて、チェレン君。トウコお姉ちゃん」
思わず出てしまった弱音にまた自己嫌悪するだけだ。涙だけは流すまいと天井を仰いだ途端、声が背中に弾けた。
「あのよ、ベル」
ハッと振り返ると、バンジロウがばつが悪そうに佇んでいた。聞かれていたのか。その羞恥に顔を伏せるベルへと、バンジロウは言いやる。
「オレ、分からないんだ。ヴイツーの、あんちゃんの言う事は正しいんだって思う。でも、ノアの兄ちゃんがだからと言ってここで責任を感じるのは……オレ、うまく言えない。モヤモヤしてんのに、何も。馬鹿だからなのかな、オレ。言いたい事が言えない時はまず行動しろってじィちゃんから何度も言われているけれどよ。どう動けばいいんだか分からないんだ。だって、こんな事、なかったからさ……」
バンジロウの手が震えている。彼ほどの実力者でも己の道に戸惑う事があるのか、とベルは目を見開いた。
「バンジロウ君でも、怖い事ってあるの?」
「こわい、ってのは、オレ、分かんないんだよ。今までどんなツエー相手だって、こわいなんて一度も思った事がなかった。どれだけ相手との力の差が開いていても、こわい事なんて一回も。でも、これがそうなのか? これが、こわいっていう感情なのか? だったら、オレは今、とてつもなくこわい。何もかもが消えてしまいそうなんだ。あんちゃんも、チェレンも、ノアの兄ちゃんも、じィちゃんだって……。ベルも同じだよ」
「あたし、も……」
「オレの前からいなくならないでくれ。頼むから、オレを……ああ、こんな時、何ていうんだか分からねぇよ」
もがき苦しむ姿に、ベルは覚えず抱き留めていた。バンジロウの体温がすぐ傍に感じられる。
ベルの行動にバンジロウは面食らっていた。
「ベル……?」
「怖い時は、泣いていいんだよ。声に出して、泣ければいいんだと思う。でも、バンジロウ君は強いから。きっと、今まで泣き方も知らなかったんだと思う。だから、今戸惑っているの。泣き方を初めて知るために」
「泣く……? でもベル、泣くのはヨエー奴なんだ。だから、オレは泣いちゃいけないんだって」
その言葉にベルは頭を振った。
「泣いちゃいけない人なんて、この世に一人もいないんだよ。どんなに強い人でも、どんなに偉い人でもそう。泣いちゃいけないなんて言い出したら、絶対に駄目。泣きたい時は泣いてもいい。涙する事は決して、弱さじゃないから」
バンジロウは困惑しているようであった。彼の中の強さとは恐らく、裏打ちされた最強を見てきた事の強さであろう。アデク、という王を目にしてきた事で、彼は退路を見失っている。
チェレンとはまた違うが、彼もまた幼いがゆえに、弱さの発露を知らないのだ。どこで弱くなるべきなのか、分かっていない。
「オレ、ツエー奴ってのは一回も泣かない奴だと思っていた。だって、じィちゃんの泣いたところなんて見た事ないからさ……。じィちゃんと一緒に旅をしてきて、涙した事なんて一度も。だからツエー奴は泣いちゃ駄目なんだって思い込んでいた」
それは間違いだ、とは言えない。それもまた王道の在り方であろう。だが、バンジロウはここに来てようやく、人並みになれたのだ。ならばその背中をそっと押してやろう。
「泣いても、いいんだよ」
その言葉でバンジロウの瞳から涙が溢れた。大粒の涙が堰を切ったように流れていく。本当に、今の今まで泣いた事など一度もないかのように大泣きするものだから、ベルはただ抱き締める事しか出来なかった。
「オレ、こわいってこういう事なんだってようやく分かった。こわいんだ。みんなが離れていっちゃいそうで。だって今まで旅をしてきたんだ。なのに、こんなところで……」
「大丈夫。誰も、離れたりしないから」
鼻をすすり上げ、バンジロウはベルに問いかける。
「……本当?」
今まで強いところしか見せなかった少年の頬を、ベルは優しく拭った。
「本当だよ。あたしも、チェレン君も、どこにもいかないから」
バンジロウは涙する中、精一杯微笑もうとする。
「何だかベル、おかーさん、ってのみたいだ」
その語調の違和感にベルは尋ねていた。
「みたいって、バンジロウ君、お母さんくらいいるでしょう?」
「ううん。いないよ」
その言葉にベルは硬直した。バンジロウは不可思議な事のように首を傾げる。
「おかーさんってのはいないんだって。じィちゃんが言ってた」
「えっ、でもじゃあバンジロウ君は……」
「分かんない。オレ、気がついたらウルガモスと一緒にじィちゃんと一緒にいたし。おとーさん、ってのも知らない。いるのかなぁ? オレに、おかーさん、とおとーさん」
あまりに浮いた発言をするものだからベルは冗談だと最初思っていたが、バンジロウの瞳には純粋な問いかけしかなかった。
――彼は本当に知らないのだ。
両親の愛情を受けずに育った子供なのだ。自分とチェレンのように。
こみ上げてきたのはどういう感情だったのだろう。それを明言化する前に、ベルはバンジロウの身体を強く抱き留めていた。バンジロウが何だよ、と笑う。
「もういいって。あんまり抱き締めると痛いから」
「よくないよっ! 絶対、よくない……。だってバンジロウ君は……」
そこから先をどうしても言い出せなかった。彼もまた、愛を知らない子供。自分とチェレン、それにトウコと同じ。この世界から爪弾きにされた子供達。
――生きるのには戦うしかない。
選んだのはトウコだった。
――負けないのには勝つしかない。
選んだのはチェレンであった。
――なら、あたしは?
不意にベルは自分が立っている場所に何もない事に気づく。無欲と言えば聞こえがいいが、二人と違って自分には目指す場所がない。
王になろうとも思っていない。かといって、立ち止まるのも死ぬほど怖い。
どっちつかずの身を持て余し、ベルはただただバンジロウの体温だけを寄る辺にするしかなかった。
「ベル、痛いって」
笑おうとするバンジロウに比して、ベルは咽び泣いていた。どうして神様は自分達に等しく、試練を与えようとするのだろう。
恵まれない者には試練など要らないではないか。だというのに、神は冷徹だ。
恵まれるものに二物を与え、何もない者から搾取しようとする。
抗おうとすれば、それは足掻きとなって終わるか、あるいは霧散するか。戦い続けると決めた人間だけしか、神の与えた宿命から抜け出せない。
トウコは決めた。チェレンも決意した。自分だけだ。
後は、自分だけなのだ。
ベルはこの瞬間、ようやく自分の戦う理由を見出した。
「バンジロウ君。あたし決めたよ」
きつく目を瞑り、もう戻らないと言い聞かせる。
「何を? ベルが何を決めたって言うんだよ」
「一人でも抱き締めたい。この世界にいる、あたしと同じような、何でもない事で躓いちゃう人を、一人でも。そう願うのは、駄目なのかな? いけない事なのかな……?」
バンジロウはしかし、快活に笑うのみだ。ベルの決断など、彼からしてみれば吹きつける風と同じようなもの。爽やかな風の吹く彼の胸には等しい。
「いいんじゃないか? だって、ほら? オレも抱き締められてイヤじゃなかったし。きっとベルが抱き締めたほうがいい人っているんじゃないかな」
彼は恐らくこの決意の半分すら分かっていないだろう。だが、ベルにはそれでよかった。この一言で理解されてしまうよりかは、彼のような人間に伝えられた事を。
「あたしは、優しい世界を作りたい。この世界には、酷い事や苦しい事がたくさんある。でも、一人でも多くの人を抱き締めて、大丈夫だよ、って言ってあげたい。そんな、夢、大それてるのかな……?」
バンジロウは頬を掻いて首を横に振る。
「そんな事はないだろ。だって、オレとチェレンは王になるつもりなんだぜ? それに比べれば、随分と小さい夢なんじゃないか?」
まだ彼の中でチェレンはライバルのままなのだ。再起不能などではない。彼が立ち上がれるのだと、バンジロウが証明してくれた。ならば、自分は報いるまでだ。
「うん、そうだね。ちっさい夢……でも叶えていきたい。決まったよ、チェレン君。あたしの夢」
今まで倒れてしまいそうだった身体を支えられるだけの夢が花開いた。顔を振り向けたチェレンはまだ何も言わない。
でも彼ならばきっとこう言うだろう。
「今さらそれか。全く、メンドーだな、ベルは。って顔してる」
微笑みかけ、ベルは病院に差し込んできた朝陽を浴びた。
「爺さん。おれ……」
「何も言うでない」
先んじて放たれた言葉にバスの停留場で男二人、肩を並べていたヴイツーはフッと笑みを浮かべるしかない。
「何でもお見通しか」
「これでも王じゃからのう。お主の言い出しそうな事の一つや二つは分かるわい」
「……おれ、ひでぇ事言っちまったかもな。だってあいつ……たった一人だったんだぜ? たった一人で全てを背負い込んで、プラズマ団って言うものを敵に回そうとしていたんだ。おれはそいつに、輝きを見たんだよ。ヴァルキュリアシリーズってのは、あんまり命、長めに設定されちゃいないんだ」
ここに来て初めて告白したのであったが、王者の風格はそのような些事は知っていたとでも言うようであった。
「そう、か」
「元々、N様に何か起こった時の予備だからな。それに、予備の扱いはゲーチス様やダークトリニティの専売特許。結局、おれらは、ヴィオ様に造られただけのクローン。命が長いわけねぇよな」
その命も、主を見限ったとなればいつ途切れてもおかしくはない。この脈動がいつ途絶えても、何も不思議ではないのだ。
「ヴイツー、お主は誰かの代わりになりたくって生きておるのか?」
その問いかけに一瞬、答えられなかった。分からない、と言おうとしたが、この質問には真摯に答えなければ、と本能が察知する。
「……いや、もうおれ一人の命なんだ。それくらい、分かってるさ。でも、だからこそ、誰も頼れないあいつに、あんな事言ってやるのはずるいんだよな、と思ったんだ。おれは代わりとして据えられても何らおかしくない人間。そっち側なんだ。でも、あいつはあっち側だ。代わりなんていない側なのに、おれ達は何もかも、奪っちまったんじゃないのか? あいつに、言い返すだけの口も許さねぇで……」
「ヴイツーよ。ワシはな、四十年前、パートナーポケモンを失った。有名かもしれんが、最後の最後で、じゃった。才覚のあるトレーナーの前に、努力など塵芥なのだと思い知らされたよ。ワシは、それこそ血の滲む努力と研鑽の果てに、ウルガモスで挑んだんじゃ。だが、あの二人は別次元じゃった。ワシのような凡夫、いくらでもいる。お主の言うような代わりのある人間がこっち側なのじゃとしたら、ワシも間違いなく同じじゃろう」
「アデク……あんたに代わりなんていねぇよ」
「それは結果論じゃよ。王になったから、代わりがいなくなった。ここまで昇ってきたから代わりなど務められるものはおらんようになっただけ。途中の道にはどれだけでもおったよ。ワシ程度の存在など」
アデクが謙遜でも、ましてや自分を貶めているのでもない。事実を語っているのだと確信したのは、その横顔がどこか今の自分に似通っていたからかもしれない。王者として登るべき人間がいる。その隣で、見ているだけしか出来ないというのは歯がゆいだけではない。そうではない、と否定するだけの論拠も、ましてや己の中に彼の行いをどうこう言うだけの資格もないのだ。
起こってしまった出来事。既に終わってしまった事柄である。いちいち口を挟んだところで、所詮は他人の事。
今の自分のような人間にどうこう言える立場はない。だが、だからこそ、アデクは話してくれたのだと確信が持てた。かつての自分を見ているのか、あるいはあの日、決定的に違うのだと分かった誰かの事を思っているのか。
それは判然としないが、アデクが見ているのは頂上者の景色。
自分のような地を這う羽虫のような人間とは違う。
その頂上者の景色を共に見るべき人間を、お互いに知っていながら、お互いに口に出そうともしなかった。
「時間だ」
バスが停留場に辿り着く。停車時間は三十分ほどだ。切符と事情を話し、席に座ろうとしたヴイツーを、おういという声が呼んだ。
ベルがチェレンの車椅子を押しながらこちらに歩み寄ってくる。
依然としてチェレンの意識は戻らない。戻らないままかもしれない。しかし、一縷の望みにかける意義はある。
バンジロウも同行しており、ヴイツーは彼の泣き腫らした顔を見やった。バンジロウが泣いたところなど見た事もなかった。それは恐らく祖父であるアデクもだろう。
だが、子供は知らぬところで大人になるものなのだ。
バンジロウが何を得たのか、今は聞くまいとヴイツーは無言の了承をする。
「三人とも、乗りな。これで乗員は全員……」
「待ってください!」
そう言いかけたヴイツーの声を遮った人間の方向へと、ベルが視線を向ける。
ノアが息せき切ってバスに駆けてきた。肩を荒立たせたノアは今まで見た事のないような面持ちを浮かべていた。
ヴイツーはその表情を確かめてからバスを降りる。
「三分だけ、な」と言い置いてヴイツーはノアの前に歩み寄った。
口を挟もうとするベルを手で制する。
「何しに来た? もう、てめぇに出来る事なんて何一つねぇよ」
冷徹であろうとした。中途半端な覚悟で来られても迷惑だと。しかし、ノアは譲らぬ眼差しをヴイツーに注いだ。
今まで見た事のない眼光であった。
ノアは必死になった事は幾度もある。戦いの中、昂揚した精神がトレーナーの領分を超え、その力の真髄を窺わせた事はあった。
だが、眼前の青年の面持ちは、そのどれとも違う。
覚悟した、とは言わない。
もう迷わない、というわけでもない。
ただただ、ここではてこでも譲らないと決めた男の眼であった。その眼差しを、ヴイツーは以前にも感じた事がある。
鏡越しの己自身だ。
己の中に感じた炎と同じものを、ヴイツーはノアの眼に感じていた。
――これは覚悟ではない。
「てめぇ、覚悟したのか」
「……いえ、まだ、そんな大そうな事は言えない」
「だったら……」
「でも、勇気は。勇気だけは、まだ胸の中にあるんです。胸の中に、どうしてだから分不相応かもしれない勇気だけは、ここに」
ノアが胸元で拳を握り締める。その心臓の脈打つ限り、勇気だけは枯らせてはならないのだと語っている。
ヴイツーはそこで、フッと口元を緩めた。
「……何でだろうな。てめぇ、まだ半端者だ。だってのに、無鉄砲さだけはあるぜ。明日を顧みない無鉄砲さだけはよぉ」
それは自分にも感じたものだ。だからこそ、止める言葉を持たない。
「通るのか?」
「押し通る」
てらいもなく、真に言っている。この青年は今、覚悟は得ていない。戦闘になればまた手持ちを危険に晒してもおかしくはない。だが、勇気だけは他人に止められないのだ。
その血潮を流れる男の勇気だけは、他人がどうしたって摘む事は出来やしない。
それこそ、四十年前に才覚のあるトレーナーに挑んだアデクのようでもあった。
あるいは、この世界を変革した何者かのようでもあった。
可能性の話だ。誰にも、追求は出来ない。
だからこそ、賭けてやれる。レートに上げてやれる意義がある。
「いいぜ。来な。アデクの爺さん、いいよな?」
「ワシは一向に構わん」
アデクはいつだってそうだ。最初から結果など分かっているのかもしれない。分かっていても座して待つ。それこそが王者のあるべき姿か、とヴイツーは胸中に自嘲した。
「あのよ、ノア」
声をかけたノアが硬直する。ここで拒絶の言葉が来てもおかしくないと思ったのだろう。しかし、ヴイツーが発したのは拒絶とは正反対の言葉だった。
「その眼で帰ってきた事、さすがは、って思うぜ。未来を見てきたN様っての、やっぱり……」
そこから先を濁す。ノアも聞きとめられなかったらしい。そのほうがいい。
――未来を見てきたNの持つ本当の覚悟だと、ここで褒めてやるのはまだ早い。
これからなのだ。
これから、その真価を問われる。
バスは緩やかに停留場から発車した。それぞれの思惑と運命を乗せて。雨はもう上がっていた。