第81楽章「静謐なる私小説」
人としての在り方を問うのに、集中治療室のケーブルに繋がれた幼馴染を見るのはあまりにも辛かった。
医師によれば、どこにも異常はないのだという。ただ一つ、人間の根本的な部分を除いては。
「アデクさん……まさかイッシュの王たる方が同行しているとは思いませんでしたが、彼の容態を説明しても?」
どこかうろたえ気味な医師にアデクは首肯していた。バンジロウも同じである。
「構わん。ワシが保護者の印を押しかたらな」
「でしたら、ご説明を。彼、チェレン君の身体に外傷はなし。全くの健康体なのですが、一つだけ。その身体に在るはずのものがありません」
ベルは今にも涙が零れ落ちそうであったが、ここに来るまでどれほど咽び泣いた事か。涙というものはある一定を流すと枯れてしまうのだ、と彼女は初めて理解した。
「一つ、とは」
「二十一グラム。ご存知でしょうか」
医師の発した声に呆然とするベルであったが、アデクは心得たように口にしていた。
「魂の重さ、と言われておるものだな。人が死ぬと、二十一グラムだけ軽くなる、とも」
医師は頷き、集中治療室のチェレンを見やる。
「その二十一グラムが、彼の中から欠けています。人間の医術の範囲ならば、これを用いる事はないのですが、今回はポケモンの、しかも同調が関係しているとなれば疑わざるを得ません」
アデクが腕を組み、医師は眉根を寄せる。ベルには何がそれほどの問題なのか分からない。
ただ、幼馴染が何の反応も示さない状態になっている事だけが、彼女に分かる異常であった。
「あの、チェレン君は治るんですか……」
問いかけた声に医師は難しそうに呻るばかりであった。
「治る、治らない、では断じられない、というのが正直なところですね。この症状を見た事はあります。しかし実在の証明は難しい。これは魂の領域になるのです」
どういう、と言葉を継ごうとしたベルに、アデクが口走っていた。
「魂を、ポケモン側に奪われてしまった。それをどうにかする術は、今の医学にはない」
ベルが目を見開く。そんなはずがあるまい。今の医学で、出来ない事など何一つないはずだろう。
問いかけた眼差しに、医師は面を伏せた。
「……その通りなのです。同調現象を実証する手段は今のところ存在せず、同調によって生じた一切の責任を、誰にも負う事は出来ない。これが現段階の医学の限界点です」
「そんな……嘘ですよね?」
そのような残酷な真実、嘘だと言って欲しい。だが、アデクも医師も冷静であった。
「手段は、ここイッシュでもないのか」
「確立されておりません。同調現象自体、動かしようのない話なのです。それを、医学でどうにかする事は出来ません」
アデクが言葉を仕舞う。いつもならば怒鳴り返すか、あるいは自信に満ち溢れた物言いをするアデクが押し黙っているのが、この現実の深刻さを物語っている。
「アデクさん……? 何で、黙っているんですか。だって、こんなの……。あたし、理解出来ません。分かりたくありません……」
「嬢ちゃん、だがな、同調現象は今の科学でも解明出来ないブラックボックスに等しい。……四十年前もそうであった。あの時は、稀代の天才、マサキの力があってこそのサルベージであったが、今、天才はいない。チェレンの坊主を助け出せるような人間は、一人もおらんのだ」
嘘だ、と叫び出したかった。しかし、取り乱したところでチェレンが戻ってくるわけでもない。
ベルはこれが悪い夢だと思うしかなかった。悪い夢なのだ。だから、こんな時、自分は何も出来ない。
「同調した、ゲッコウガを精査しましたが、やはり魂の証明となると」
「オカルトの分野じゃな。医学や科学で証明出来る事ではない」
残念ながら、と医師は頭を振る。ベルは医師にすがりついていた。泣きじゃくって、懇願する。
「お願いします! チェレン君を、助けて……!」
「今の医学と科学では、どうしようもない溝なんです。ポケモン側に意識が引っ張られた事例は、片手で数えるほどしかありません。しかも、それらの大多数が未解決なのです」
そんな、とベルは項垂れた。どれほど努力しても、チェレンはもう助けられないというのか。
絶望が胸の中を占めていく。零れ落ちていくのは涙だけではない。感情の最後の一片まで、絶望の黒に支配されていくのが分かった。
「医学ではどうにもならん、という事でいいのですかな」
最終確認のようなアデクの声音にベルは首を横に振っていた。
「嫌……、アデクさん、だって、チェレン君は強くなりたかっただけなんです。だっていうのに、こんな末路……」
ただ強さを求めただけなのに、このような仕打ちはあんまりであった。しかし、アデクが次いだ言葉は、予想とはまるで違うものであった。
「では医学でどうにもならんのなら、連れて行ってもなんら問題はありませんな?」
その詰問に医師とベルが同時に顔を上げた。何を言っているのだ、と目線で問いかけた医師に、アデクは言ってのける。
「同調から救い出す手段、ワシは知っております」
まさか、と二人して絶句する。アデクが何を知っているのか、医師は二の句を継げないようであった。
「ど、どうやって……」
「それは、確定事項ではない。医学を専攻なさる先生方からすれば、オカルトのそれ。ですから許しだけ窺いたいのです。彼を連れて行ってもよろしいか?」
アデクの言葉に最初こそ面食らっていた医師であるが、そこはプライドがあったのだろう。襟元を整え、集中治療室のチェレンを見やる。
「……患者は危篤です。この状態で外に出すのは、危険としか……」
「ですがこのままでは植物状態のまま。ワシはこの先に待つポケモンの巡礼地、タワーオブヘブンにおける治療を進言します」
「タワーオブヘブン……、ポケモンの魂が眠る塔ですか。しかし、現在医学の全く通用しない事例に、オカルトなどでは……」
「重々、承知しております。ですから、ワシはこの地の王として言うのではなく、彼の同行者として言わせてもらっているのです。タワーオブヘブンによる治療の許可を」
医師は苦々しい顔をしてアデクの言葉を受け止める。
「……魂、と先に言いましたが、それすらも怪しいのです。脳神経外科の分野かもしれませんし、神経内科の分野かもしれない。分からない、というのが現状です。そのような患者を、無闇に外に連れ出すのは……」
「ですが、このままでは尽くせる手はない、と言ったのもそちらです」
医師がぐっと言葉を詰まらせる。患者として扱った以上、チェレンを治す義務があるのだが、その方法論さえも分からない。煮え切らないのはどちらも同じはずだ。
「……私が彼の治療を放棄する、という形になってしまう」
「体裁が問題なのでしたら、ワシに全責任をおっ被せてもらっても結構。病院から無断で連れ出した、と言われても」
そこまで泥を被る覚悟があるアデクの眼を、医師は見返した後、一つため息をついた。
「……どうなっても知らない、というのは医者としてあってはならない言葉ですが、この場合、そうとしか言えません」
「では、許可を」
「許可は出せません。アデクさん、あなたが無断で彼を連れ出した、という形式にしていただきたい。そうでなければ当病院では判断を下せないのです」
脳死の患者の最後の生死を問うのが家族であるように、この場合、全ての責任の所在はアデクにあった。
だが、アデクは一片の迷いも浮かべず、言い切る。
「構いません。チェレンの坊主を、ワシに預けてください」
医師は後頭部を掻いて愚痴をこぼす。
「本来なら、家族に面会を、と言いたいのですが、彼の身元引受人はあなたになっております。ポケモントレーナーの有事の際に連絡すべき連絡先にも、あなた、と。この場合、最終判断はアデクさん、あなたに全てあると言ってもいいでしょう」
「嬢ちゃん。ワシのやり方が最善とも限らない。嬢ちゃんは、どうしたい?」
ここで自分に投げられて、ベルは困惑する。どうしたい、と言われても自分には何の決定権もないはずだ。
しかし、アデクは真剣な面持ちで自分に問い質す。
「坊主と一緒にいたいのは嬢ちゃんの望みじゃろう」
幼馴染として。あるいは家族とも言える一員として。彼をどうしたいのか。ベルは集中治療室のチューブに繋がれているチェレンを一瞥し、その在り方に否と口にしていた。
「あたしも……、チェレン君をこのままにはしておけません」
「決まったな。全責任はワシが取る。この後、人でなしと言われようが謗られようが全てはワシの責任じゃ。ここでサインしてもいい」
「……そこまでは。ですが、治る見込みはあるのですか? これは担当医師として、最後の問いかけになりますが」
タワーオブヘブンと言う場所における治療。それが最良なのか。問いかけられたアデクは力強く首肯する。
「恐らくは、な。ワシが経験した中で、同調から抜け出すのには魂の分野における介入が必要。それに適した場所がイッシュではタワーオブヘブンだと言う話」
医師は折れた様子で力なく頷く。
「……正直、尽くせる手は全部尽くしました。これ以上は、どちらにせよ静観するしかなかったのですが、希望があるのならば、それにすがりましょう」
希望。それは明日への原動力となる言葉か。あるいは今だけの幻想の言葉か。
問い質す前にアデクは立ち上がっていた。
「明朝には出発する。坊主も、いつまでも辛気臭い病室に縛られているのは嫌じゃろうて」
集中治療室のチェレンを見やったアデクの瞳には確かに光が宿っていた。
それが希望の光なのかどうかは、ベルは問いかけられなかった。
チェレンの状態を聞き、ヴイツーとノアは黙りこくるしかなかった。
自分達の不在のせい、とまでは言わないが、同調を引き起こしたとなればそれは彼のトレーナー人生を変えるものであるのは明らかであった。
ヴイツーは待合室でノアの隣に座ったまま、言葉を待っている。ノア自身、何を言えばいいのか分からなかった。
自分のせいでチェレンの治療が遅れたのか、とでも言えばヴイツーは殴り飛ばすであろうか。それとも、そのような事はない、とでも。
だが、ノアの思考を満たすのはチェレンの事よりも、自分に突きつけられた敗北であった。
テラキオンにまるで敵わなかった。それだけならばまだよかったのだが、自分にケルディオを伴う資格はない、とまさしく断言されたのだ。
ケルディオは何度でも立ち上がった。しかし自分は、ケルディオにそこまで無理を強いる事も出来ず、かといって自分が盾になるほどの覚悟もない。
結局、ケルディオを通して強くなったつもりでいただけの勘違い。
勘違いを繰り返す前に気づくべきであったのだ。これではプラズマ団にいた頃とまるで変わらない。違うのは己の意思で勘違いをしてしまった事。自分が強いのだと、思い過ごした事である。
ある意味ではプラズマ団の頃よりも性質が悪い。誰かのせいには出来ないのだ。この戦いは自分自身との戦いであった。
「チェレンの坊主、よくないみたいだな」
口火を切ったヴイツーにノアは咄嗟に言葉を返せなかった。彼は静かな面持ちのまま、言葉を次ぐ。
「だが、ほとんどのトレーナーはそういうもんだ。旅先で何があっても、それは自分で責任を負うべきなんだからな。傷つきなくなけりゃ、ずっと田舎に篭っていればいい。それを打ち破ったのがてめぇなら、てめぇのケツはてめぇで拭くべきだ」
それは翻って自分の事を言っているのだろうか。ノアはどう返せばいいのか分からず、ただただプラズマ団にいた頃を回顧するのみであった。
あの頃は何も考えなくってよかった。ゲーチスの理想のままに、たとえ張りぼてであってもプラズマ団の精神的支柱になる。
王になるのだと決意出来た。だがそれは、何も考えていないのだと何が違う?
王になる、玉座に登り詰める。それしか考えていないのは誰かのせいではない。自分で選び取ったのだ。あの森でずっと生きる事も出来た。しかし、父親だと言う人が居てくれるほうが幸福なのだと、自分で選んだのだ。
その父親がたとえ、自分を憎んでいても。決して相容れぬ溝があったとしても、そちらのほうが幸せなのだと――。
今は、何が幸福なのか分からない。ダークトリニティを敵に回し、己の半身とも言えるケルディオが倒された今となっては、この時間軸で生きていく力を失ってしまったに等しい。
「おれは、チェレンの坊主がどれだけワガママ言ったって、それ、貫いて欲しいと思っているぜ」
思わぬヴイツーの告白にノアはうろたえた。チェレンの考えた事ならば、それは自分達が言葉を差し挟んでいいわけがない、という論法だろうか。
「それは、チェレンが選んだから……」
「それもあるが、こんなところで終わるなんてタマじゃ、ねぇだろ。絶対にあいつはでかくなって帰ってくる。それが分かるから、おれはそっちに希望を見出すって事さ」
チェレンの行く末を知っている自分はずるいのだろうか。彼は英雄にはなれない。強さも、それなりのところまではいくが、彼の強さはトウヤの合わせ鏡のようなものであった。
トウヤが強くなればなるほど、彼は劣等感を露にする。その結果が、最後の最後における彼の挫折であった。
このまま生きていて死んだほうがいいと思える絶望を味わうのならば、ここで終わるのも手だと考えている賢しい自分。
それがトレーナーとして生きていく幸福なのではないのだろうか。彼は、この時間軸ではトウコに強いコンプレックスを抱いている。彼女の影で終わるくらいならば、と無茶をしたのだろう。
ゲッコウガへの進化と、その進化先が黒く変色した、という報告だけである程度推し量れた。
彼は同調の域に達したのだ。ゲッコウガと共に強さの高みを目指したのだが、その高みは遥か遠く、ヒトの関知出来ぬ領域である。
そこに至って廃人になった人間を、ノアは何人も知っている。プラズマ団を去り、旅路を続けていった果てで、強さを求めるあまり、その行く先を見失ってしまった人々の末路を。
だからか、自然と口をついて出ていたのは、チェレンがこれ以上傷つかずに済む方法であった。
「……チェレンに、無理をさせる事はない」
ヴイツーが聞き届ける。殴られてもいいと思っていた。チェレンにこれ以上現実を見させても仕方がないではないか。
直視出来ない現実がこの世には幾つも存在する。それは非情でありながらも真実だ。この世の絶対の理の一つなのだ。直視するくらいなら、目を背けられるのなら、ここで立ち止まってもいいと。
しかし、ヴイツーから拳は来なかった。怒声も飛んでこない。顔を窺うと、彼は静かに奥歯を噛み締めていた。
まるで自分自身、悔しいとでも言うように。
「……ああ。確かにその通りだろうさ。傷つくくらいなら、最初から何もしなくっていいってな。足を止めるのも一つの自由だ。止める権限なんて誰も持っちゃいねぇ。でもよ、てめぇがそんな事言うなんて思わなかったぜ、ノア。てめぇ、N様だったんだろ? そりゃ、一度絶望したんだろうさ。人類に、ポケモンに、何よりも自分自身に。でもよ、だからと言って、他人様まで同じだと思ってんじゃねぇ。おれは、変われると思った。だからてめぇらについていったんだ。そりゃ、今でも病院のベッドに括りつけられて、傷が癒えるのを待っているほうが楽だっただろうさ。だが、それ以上に、おれはここで足を止めている場合じゃねぇって思えたんだ。てめぇらについていければ、おれは変われるってな。……だが、思い過ごしだったみたいだ。アデクの爺さんやバンジロウには、まだ可能性を見ている。でもてめぇには、もう一切期待しねぇ。ノア、見込み違いはお互い様みたいだな」
それが決定的な断絶に思われた。隣にいるのに、ここまで溝を感じ取る事があろうか。
彼と自分は違う。
自分は停滞を選んだが、彼は進むつもりだ。たとえ修羅に塗れた道筋であっても、彼は自分の生まれなど度外視して前を行くだろう。
自分はどうだ?
結局、この時間軸でも生まれに支配され、他人の力を頼っている。
自分でこの世界をどうにかするのだと、息巻いていた頃がまるで遥か昔のようであった。
この時間軸も収まるべきところに収まるのだろう。自分という抑止力は畢竟、必要なかった。
その結論に項垂れるノアへと言葉が投げかけられる。
アデクとベルであった。ヴイツーが歩み出てまずは状況を聞き出す。
「坊主は?」
「チェレン君の身元はこのままあたし達が預かって、タワーオブヘブンに行く事にしました」
タワーオブヘブン。イッシュの死した魂が集まる場所。
そこで何をするつもりなのか。窺っているノアへとアデクは一瞥を投げた。
「ノアタロー。お主、自分のせいだと思っておるのではないだろうな?」
見透かされた気分でノアが沈黙する。アデクは嘆息をついた。
「誰もせいでもない、とは言わん。それは所詮、綺麗事じゃからな。だが、綺麗事で何が悪い。それを現実にしていく力こそ、今を生きる人間の力だと、思ったんじゃがな」
まるでノアからその資格は永遠に失われたかのような言い草であった。しかし、その通りなのだ。
現実を変えていく力を、もう握り締めていられる時間は過ぎてしまった。ケルディオの敗北は色濃い墨となって心の中を敗北の苦渋で満たしていく。
「爺さん。おれはその意見に賛同する。タワーオブヘブンがどういう場所なのか、爺さんが何を考えているのかは一任するぜ。ただ、あいつの事はよ」
こちらを窺ったヴイツーの声音である程度理解したのだろう。アデクは深く頷いた。
「どこで足を止めるのかは他人の自由。誰かがとやかく言える事ではない」
数多のトレーナーを見てきただけに、その判断は冷徹であった。ヴイツーが、しかし、と抗弁を発する。
「ここまで来たんだぜ?」
彼は、まだ自分に希望を見てくれていたのだろう。だがアデクの決定は覆らない。
「いや、トレーナーとして再起不能になる瞬間とは、案外すぐ傍にあるものじゃよ。その道に足を踏み入れるかどうかの違い。ノアタロー。無理をするな。ここで立ち止まるのならば誰も止めはしない」
アデクならば引っ張ってでも自分を再起させてくれるのだと思っていた。だがそれもただの期待というもの。実際には、アデクはどこまでも非情なる強者として判断したまでの事だ。
バンジロウが車椅子を押しつつこちらに追いつく。
座っているチェレンからは一切の生命反応が見られなかった。光を失った瞳が虚空を彷徨う。
「医者に許可は取り付けた。明朝、出立する」
アデクはそれが最後だとでも言うように身を翻した。余計な言葉をかけて期待させても仕方がないと判じたのだろう。ヴイツーが未練のあるようにこちらを窺っていたが、やがてアデクの背に続いた。
そんな中、一人だけ歩み寄ってくる影があった。
顔を上げるとベルが不安げな面持ちで佇んでいる。彼女もチェレンを連れて行く事には反対なのだろうか。ノアは幾ばくかの逡巡の後に問う。
「チェレンの事、心配?」
「うん……でも、今はあなたのほうが」
呆然としたノアにベルは言いやる。
「今にも壊れてしまいそうに見える」
そこまでやさぐれて見えていたか。自嘲と共にノアは言葉を繰った。
「駄目なんだ。一個の事が頭の中で引っかかると堂々巡りみたいになってしまう。昔からそうなんだ。だから迷わないように、誰かの判断に責任を任せてきた。何も考えず、ただそれだけをする道具になれば、楽だろうって。……いや、違うな。楽になりたかった。何も考えないフリをしたかっただけなんだ」
決断を先延ばしにして、結果だけがいつも先走って――。
その度に噛み締めるのは後悔だというのに、それさえも分かった風を装い、誰にも理解なんて求めてはいなかった。
誰かに理解してもらう時間があるのならば、自分はただ従えばいい。状況に従え、他人に従え、誰かの言葉にすがれ、その言葉通りを実行しろ――。
プラズマ団にいた頃が楽だったとするのならば、何も考えないでよかった事だ。王になる、と言えば周りが王にしてくれる。戦えばいいと命じられればどれほどでも戦える。
だが、その対価は何もない虚栄の城であった。最後の最後に英雄である証明すら失った自分は、名もなきトレーナーとして再出発するのに時間がかかった。
悪の芽を摘んでいたのは誰かに自分がいた証明を作って欲しかったからかもしれない。
Nという名前の重石を背負う事さえも放棄し、名もなき正義の徒として生きられればどれほど楽であっただろうか。
結局、楽なほう楽なほうに流れている弱さ。
それが自分という人間なのだ。
「ボクは……ベルやみんなが思っているほど強くはなかったのかもしれない。周りに固められた評価を維持するのに精一杯で、ただそれだけで……。自分なんて何もない、臆病で卑怯者なだけだ。傷つけられるのが怖いから、誰かを傷つける事もしない。何も出来ない、ここにいるだけの――」
「それ以上はやめて」
強く遮った声にノアは顔を上げていた。今にも涙しそうな面持ちのベルは、しかしながら必死にそれを堪えていた。
その唇から、やめてと言葉がこぼれる。
「……自分を否定すれば、じゃあ何かがよくなるの? 自分がいなければ、じゃあ何かは救われるの? あたしは、旅に出るまで、愚図でノロマで、どうしようもない自分だと思っていた。でも、戦っているうちに、どこかでこの強さが必要になるかもしれないって希望を抱けたの。そりゃ、戦いは怖いよ。誰かを傷つけちゃう事も、白と黒を分けないとどうしようもない世界だって事も、全部怖い。……でも、だからって何もしないでいいってのは、そういう理由で使っちゃいけないんだと思う。自分が何もしなければ誰も傷つかないなんて詭弁だよ。人は、誰かを傷つける事でしか生きていけないんだから。白と黒を分ける事でしか、この世界に証明なんて築けないんだと思う。灰色のままでいいってのは、逃げだよ」
あまりに意外であった。ベルの中にこれほどの言葉があるなど。いや、それ以前に、彼女にこれほどまでに確固たる自分があるなど思いもしなかった。ベルは確かにただのか弱いトレーナーではない。それは自分がよく知っている。
しかし、これほどまでに強かったのか。自分の思いを曲げたくない、と誓えるだけの少女だったのか。
その背中を呼び止めようとして、ベルは歩み出ていた。
「……ゴメン。ノアの話、あたしは間違っていると思う。辛くっても、何が待っているのか分からなくっても、それでも進むのが人なんじゃないかな……? だって前に何があるのか分からないからって、歩みを止めていたら、それこそ何にもならないよ。世界も、変えられやしない」
ベルは進むのだ、という証明のように歩み出る。その足を止めるだけの言葉は自分の中にはない。
ただ、独りは嫌だ、というエゴが身体の中に染み付いているだけ。
独りぼっちは嫌だからベルに逃げ場を求めた。だがベルは自分が思っているよりもずっと強い。彼女一人で立っていられるほどに。
それを見誤った自分はただの道化。ちっぽけな敗北者。
全員の気配が失せた病院内で、ノアは叫び出したくなった。外に出ると激しい雨が打ち付けている。
灰色に煙る世界の中でノアは無茶苦茶に駆け抜けた。この世界なんてどうなったところで知った事ではない。
自分は未来に生きていた人間であったはずだ。だというのに、過去に目を向け、あまつさえそれを変えられるかもしれないと勘違いをした。
たとえ過去に戻ったところで自分の居場所はない。誰かの中に居場所を求めたところで結局、この時間軸に生きる人間ではないのだ。
誰かのために生きて、誰かのために死ねれば――。
そのような望みさえ薄らぎ、今あるのはただの負け犬であった。負けて、負けて、どこまでも負け切って、その果てに負ける事さえも疲れ果て、自分に何が残るのだろう。
自分は、何が出来るのだろう。
摩天楼に叫んでも答えはなかった。この雨空を割ってしまいたくなるような焦燥に駆られても、雨の宵闇は深く、自分などはちっぽけな存在であると思い知らされる。
当てもなく歩いた果てに、ノアは通信機のある番号をコールしていた。自分でもその番号にコールした理由が分からない。
きっと助けが欲しいという、あまりにも弱々しい感情であったのだろう。
数回のコール音の後、通話先で女性の声が繋がった。
『はい。もしもし……』
どこか気後れ気味の声音は間違いようのない。
「アリス……ボクだ。ノアだよ」
どうしてこんな時に彼女にかけてしまったのだろう。この時間軸で最初に自分を認めてくれた人間だからか。それとも、自分の弱さの行き着く果てを見てしまったからか。
『ノア……どこにいるの?』
「ヒウンシティ。旅の途中だった。……でももういいんだ。帰ろうと思う。アリス、ボクはこれからそっちに戻るよ」
旅の終着点は結局、名もなき一人の少女の下であった。Nである時には思いもしなかった結果だろう。アリスは通話越しに戸惑ったようであったが、何かあったのかを悟ったらしい。
『ノア、確かにいつでも帰ってきてとは言ったわ。でも、今のあなた、我を失っている』
「そんな事はないよ。いつも通りだ」
『じゃあ、何でさっきから泣いているの』
「雨の音さ」
嘘も通用しなくなったか。頬を伝っている涙を掻き消せないほど弱くなってしまったのだろう。堰を切ったように涙が伝う。もう、ここまでなのだ。ここまでしか、出来なかった。自分は、大それた人間ではなかった、というだけの話。ここで立ち止まるのに、情けないという感情も、ましてやここまでなのか、という悔しさも湧かない。皆が諦めたのだ。これ以上、何に成れるというのか。
王になった。人の上に立った。英雄になった。父親に裏切られた。この世界そのものに棄てられた……それ以上、自分に何を求めるというのだ。
『ノア、あなたはでもまだ……』
「いい。もういいんだ。ムゥちゃんと一緒に、ボクも癒しの家の稼業を手伝うよ。きっとそれが収まるべき場所に収まるって事なんだと思う」
そうすれば、自分も諦めがつく。ここで終われる。
しかしアリスの発したのは、全くの意想外の事であった。
『怖いの?』
怖い? 何を言っているのだ。恐怖などとうに乗り越えた。
「怖くないさ。だって、ボクに出来る事なんて」
『ノア、何を怖がっているの? あたしみたいな小娘でも分かる。何に、怯えているの?』
嘘をつき通すのも限界か。ノアは小さく口火を切った。
「……ボクがこの世界にやってきた、意味なんてなかったって事かな。使命なんだと思っていた。やり直しの機会を与えられたんだって。でも、思い過ごしだ。ボクがやり直したところで、たかが知れている」
アリスには自分の素性は伝えていない。プラズマ団の王であった事、Nであった事も全て。
だからか、彼女には何者でもない、本当の自分をさらけ出せる気がした。
『それが、ノアの隠していた事?』
力なく笑いが漏れる。こんな些細な事を隠し通そうとしていたのか。
「ボクには覚悟がないんだ。だから、ポケモンにも中途半端な主人だと思われている。こんななりじゃ、どうしようもない。覚悟のない自分に行く当てなんて、どこにも」
『でも、あなたには覚悟がなくっても、勇気までないわけじゃないでしょう?』
――勇気。その言葉にノアは言葉を失う。
立ち向かう勇気をくれたのはアリスだ。この時間軸の自分を止め、プラズマ団の蛮行を止めるために立ち上がる勇気をくれたのは。
その彼女が問い質している。
自分に、勇気がないわけではないと。
「借り物の勇気じゃ……」
『でも、あなたは立ち向かった。その結果で折れてしまったのなら、あたしは構わないと思っている。誰も責められない。でも、今までその原動力だった勇気まで失ったら、あなたは何に成るの? 何に、あなたは顔向け出来るの?』
厳しい口調であったわけではない。諭すようでもない。ただ、問いかけている。己の価値を。自分に何が出来るのかを。
言い過ぎた、と感じたのか、アリスが電話口で口ごもる。
『……ゴメン、勝手言って。でも、ノア。これだけは言わせて。癒しの家は逃げ場じゃないわ』
自分はいつの間にか逃げ場を作り出そうとしていた。アリスという少女に。それは彼女に失礼だ。
どこにも、この世に逃げる場所なんてないのだ。戦うと決めた日から。あの森と決別すると決めたのならば。
ノアは雨に打たれる中、ケルディオのボールを翳す。相棒はその双眸に光を宿し、語りかけてくる。
――まだ、敵を討てていない。
お前の標的はどこだ? その標的に命中するまで、安息の日々は許されない。標的を探せ。探し出し、戦え。己の身が消え失せるその日まで。その身体の一片まで燃やし尽くせると信じた約束の日々まで。
ケルディオの闘志は死んでいない。眼差しは遥か未来を描いている。
自分には二度と出来ないと思っていた、未来を描くという事。当たり前の事でありながら、もうその資格は失われたのだと思い込んでいた。
だが、ケルディオとアリスはチャンスをくれた。ならば、それに報いるのが男ではないのか。
ぐっと拳を握り締め、ノアは思い切り自分の頬を殴りつけた。誰も殴らないのならば自分で殴るしかない。
己を鼓舞出来るのは最後の最後で己だけなのだ。
通話越しに音が反響したのか、アリスが不安げな声を投げる。
『ノア? どうしたの?』
「……何でもない。雨の音さ」
嘘をつくのが結局は下手だ。
ヒウンに垂れ込めた曇天は遥か南方へと流れ、黎明の日が身体をじんと温める。間接から明日への原動力が溢れてきた。
明日は来る。未来はやってくる。どれだけ絶望しても、その先にあるのは未来だ。
ならば、その明日をどれだけ意義のあるものに出来るのか。それにかかっているのではないか。
自分で未来を描けなくって、何が英雄か。何が、王か。
「ゴメン。ちょっと逃げてた」
今の現実に立ち向かわなくってどうする。生きているのならば、その血潮が燃えるのならば、明日を掴まんとして立ち上がるしかない。
アリスは何て事ないように通話口で微笑んだ。あの日、自分を癒しの家から見送ったように。
『ノア、ここは逃げ場じゃないけれど、帰ってくる場所にはなっている。だから、本当に何もかも終われば』
「ああ、何もかも終われば」
その先をあえてどちらも口にしなかった。
何もかも終わった時、その時には自分はこの時間軸から爪弾きにされているかもしれない。世界から、またしても追放されるかもしれない。だが、それでも立ち向かうのだ。
勇気だけが、自分に残った数少ない力。
まだ諦めていない、という心のみが、自分の萎えかけた足を立ち上がらせ、失いかけた希望を掴み取らせる。
ノアの双眸が、ヒウンの空を刻む光を見出す。
明日が始まる。