FERMATA








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七章 影の黙示録
第(ー1)楽章「南無地獄大菩薩」

 光は絶えた。

 手を伸ばしたその向こう側、信じたものの行く末を眺める前に足元が流転する。

 重力を失い、ただただ転がり落ちていく身体が暗礁の世界で小さくなっていく。

 木霊する悲鳴。残響する叫び。

 呼気さえも自由ではない。焦燥に駆られたようにノアは闇の中でもがく。

 その時、天上が一際強く輝いた。光と共に呼吸が出来なくなっていく。

 捩れた時空の空へとノアは指先を引っかけようとした。その指が感触を失い、直後、落下する感覚が身体を支配する。

 あ、と声を発したのも束の間、ノアの身体は地面へと転がり落ちていた。

 全身に激痛が走る。神経を引っぺがした片腕からは焼け爛れたような痛みが宿っていた。

 呼吸をする度、軋む身体を押さえてノアは身体を引きずる。ケルディオが自分へと擦り寄ってきていた。

 その角からは先ほどの技の力は失せ、いつもの姿に落ち着いている。

 まるで先ほどまでの激闘が全て夢であったかのようであった。

 痛みを押し殺したまま、ノアは立ち上がる。

 斜陽の空、間もなく夜の帳に落ちる世界が広がっていた。

 タワーオブへヴンの頂上で、ノアはたった一人であった。ケルディオをボールに戻し、周囲を見渡す。

 破壊の爪痕はあるものの、どこにもニーアやウツロイドはいない。

 それどころかヴイツーやバンジロウ、ベルもいなかった。

「……誰も、いないのか」

 戦いの終局、割り込んできたダークトリニティの姿もない。ここは本当に先ほどの戦闘と地続きなのか分からなかった。

 だが自分はケルディオを持っている。それだけは歴然とした事実。加えて全身に走る痛みだけは嘘ではないのだと訴えている。

 だが、何かが本質的に足りていない。

 その足りないピースを埋める前にノアは塔を降り始めていた。間もなく夜になる。塔の上でたった一人夜を明かすのは得策ではないと思ったからだ。

 昨夜は四天王がいたので心配はなかったが、自分一人では何一つ出来まい。旅支度も全部どこかへと行ってしまった。

 こうなってしまえば街まで降りて一式を買い揃えるしかない。仲間が全員いなくなってしまったのは不安であったが、これも夢かもしれないとノアは思っていた。

 あれだけの戦いの後だ。現実味を帯びた夢に落とし込まれても何ら不自然ではない。

 よろよろとよろめきながら、ノアは塔を後にした。バス停は存在せず、大平原をただ歩む。

 ふと、その足元に焼け焦げた草木を見つけた。拾い上げると風が吹き、塵に帰っていく。

 その時、ノアは大平原が広がっていると思い込んでいた地平を眺め、唖然とした。

 何もないのである。

 草木の一本もなく、黒々とした焦土が広がっていた。

「どういう事だ……ボクは……」

 確かに塔から下りてきたはずだ。バス停はなかった。仲間はいなくなっていた。それでも、まさか眼前の景色が全て黒く染まっているなど誰が信じられようか。

 踏み締めた大地は痩せ細り枯れている。どこまで行っても同じ地平であった。

 生き物の気配さえもしない。ノアは覚えずケルディオを繰り出していた。

「何か……これはポケモンの能力の可能性がある」

 幻影を見せているのか。ウツロイドの能力の続きか。それとも新たなる刺客だろうか。

 警戒を注ぐノアへと激しい足音が耳朶を打つ。

 振り返ったノアはこちらへと攻撃を仕掛けるポケモンを目にしていた。炎を纏った獅子のポケモンが肉迫する。

 あまりの速度に咄嗟の「アクアジェット」を張らせるのがやっとであった。

 水の皮膜を前に獅子のポケモンが瞬時に下がる。

 操っていたのであろう、少年のトレーナーが忌々しげに声にした。

「ウインディの神速を察知するとは……並大抵のトレーナーではないと見える」

 ゴーグルを使用する少年はこちらを認めるなり、フッと笑みを浮かべた。ノアはケルディオを前に出し、出来るだけ接近させないように務める。

 ウインディはそうでなくとも能力値の高いポケモン。先ほどのように「しんそく」で一気に距離を詰め、炎タイプの強力な技でこちらの手をなくしてくるのが定石。

 警戒を怠らないノアの姿勢に相手は鼻を鳴らす。

「……ウインディがどれだけ強力か、分かっている様子だな。まぁ、いい。聞くべきは一つだ。こんな場末で何をしていた? お前は、黒の勢力の一味か?」

 ――黒の勢力?

 何を言っているのかまるで分からなかった。分からないが、ここでは戦闘能力を見せつけて納得してもらうしかないのだけは確かなようだ。

「……どういう意味なのか、問い質すのには」

 少年は指を鳴らし、ウインディを駆け抜けさせる。

「分かっているじゃないか。戦いで示せ!」

 瞬時に肉迫したウインディにこちらは水の皮膜で対応する。蹄を鳴らし、ケルディオが躍り出て角を突き出した。

 角に宿った「せいなるつるぎ」の一閃に相手はすぐさま回避を命じさせる。

「なかなかの攻撃と見た。ならばこちらも! ウインディ、燃え尽きる!」

 ウインディの身体から放たれたのは白い炎であった。一瞬のうちに身体を染め上げた白はウインディのシルエットを取り、その炎の領域を拡大させる。

 あまりの高熱のためか、景色が歪んだ。ノアは真っ当な攻撃手段では無効化出来ないと悟る。

「ケルディオ! アクアジェットで皮膜を張りつつ相手から距離を取る! ハイドロポンプ!」

 紡ぎ出された水の砲弾が幾つもの軌道を描いてウインディの肉体へと叩き込まれた。しかしその時にはウインディは掻き消えている。

 炎の残像を棚引かせ、ウインディがケルディオの上を取った。牙が研ぎ澄まされ、一撃必殺の勢いを伴わせる。

 しかしこちらも負けているわけではない。ノアは即座に対応の声を張り上げた。

「ケルディオ! 直上の相手に聖なる剣!」

 先に放ったのはブラフ。相手が至近の距離まで近づいた時にこそ意味を成す。黒白の輝きに相手の少年トレーナーの声が弾けた。

「待て、ウインディ! 攻撃を中断! 退け!」

 その声音だけでウインディが攻撃射程から逃れ、瞬く間に少年の傍に駆け寄る。

 相手を捉え損ねた「せいなるつるぎ」の一閃が空を裂く中、少年トレーナーが顎に手を添えて考え込んでいた。

「……お前、聖なる剣を使えるポケモンを持っているのか」

 その言葉にノアは毒気を抜かれたように呆然とする。それがどうかしたのだろうか、と沈黙していると相手は通信機を繋ぐ。

「こちら第一班。黒の勢力と目される相手と交戦したのですが……相手のポケモン、どうやら聖なる剣を持っているようです。このまま戦闘継続をするよりも、まずは話を聞くべきかと」

 通信機は暫し沈黙を挟んでいたが、やがて声が漏れ聞こえた。

『こちらの了承を得た。そのトレーナーとポケモンを連行せよ』

「……とのお達しだ。来てもらおうか」

 余裕を浮かべる相手にノアは警戒を注ぐ。

「承認する義理はない」

「どうかな。お前、こんなところでうろちょろしてるとよ、黒の勢力の連中に襲われるぞ? 相手はおっかないからな。白の勢力に比べて随分と野蛮だ。奪えるものは奪い尽くす、というのが黒の勢力のやり口だ」

「……さっきから白の勢力やら黒の勢力やら……どういう意味なんだ? ここは、イッシュのはずだな?」

「ああ、イッシュ地方だとも。ただし、全てが失われた後の、だがな」

 少年はウインディに騎乗し、身を翻す。

「来るっていうなら乗せていってやるよ。それとも、黒の勢力の仲間なのか、お前」

 ノアは疼痛を覚えた。分からない事だらけだが、現状の把握こそが最も優先すべきだろう。

 歩み寄り、ウインディの後部に導かれる。

「……聖なる剣を見せて、対応が変わったな。どうしてなんだ?」

「そりゃ、お前。聖剣を使える人間とポケモンは心が清らかだって言われている。聖剣士の伝承に沿うのならばそのケルディオってポケモンも特別なんだろう。本部の許諾なしに特別なポケモンを戦闘不能にすれば処罰が待っているからな」

「処罰……? それに本部って、キミはどこかの組織の人間なのか?」

「話せば長くなる。それよりもお前こそ、何でタワーオブへヴンなんかにいた? あそこは中立地帯に近いから、出来るだけ近づかないほうがいいぞ」

「中立地帯……? イッシュが焦土に変わったのと、関係があるのか」

「それも知らないのか。もしかして外国人か? でも外国人にしちゃ、変な場所にいるからな。放ってもおけない。白の勢力に拾われてよかったな。こっちは慈愛の精神に満ちている」

 ウインディが風を切り、大地を蹴りつけて駆け抜けていく。次々と移り変わる景色はどこも同じで、山々は削り取られ、草木は失われていた。焦土がどこまでも広がっている。

「……ボクの知っているイッシュじゃない」

「みんなが知っているイッシュなんて何年も前に失われただろ。もしかして時差ボケって奴? もうちょっと冷静になったほうがいいと思うぞ?」

 冷静になろうと務めるものの、ノアには何もかも納得出来なかった。焼け果てた故郷の地平。燻るのは生き物の焼ける臭いだ。独特の臭気が空気に満ちている。

「ここは白の勢力の前線基地だからな。まだマシなほうだ」

 ウインディが立ち止まったのはそこいらに焼け焦げた建築物の残る廃墟であった。巨大建造物から龍の彫像が顔を出している。

 位置情報としてはタワーオブへヴンから東に向かったはずなので、ここはソウリュウシティに近いはずだ。

 ウインディをボールに戻し、少年は手を払う。

「窺ったって、白の勢力以外の人間はいないぜ? もうここも捨てるつもりだからな」

「捨てる、って……」

「争いが激化したからよ。もう捨てざるを得ないんだってさ。黒の連中、あまりにも横暴が過ぎるってもんだ。ここまで支配域を広げてきてやがる。イッシュのライモンから南は完全に黒の支配領域になっちまった。北は辛うじて、ってところだな。それでも、こうやって散発的に襲撃が来る」

 分からないまま、情報だけが錯綜する。ノアは一つでも理解しようと務めたが、やはりというべきかどれも滑り落ちていくばかりであった。

「黒の勢力って言うのは……まさかプラズマ団?」

 その言葉に少年は立ち止まり胡乱そうな眼を注いだ。

「……時代錯誤な事言うんだなー。プラズマ団なんて五年以上前に解散しただろ。おかしな事言うなって」

 ――五年以上前。ノアは少年へと事実を問い質す。

「でもここはイッシュだって……」

「イッシュって言っても、それ歴史の教科書のレベルだろ。何だってプラズマ団なんて昔の名前……。しまった、おい、今何時だ?」

 ノアは沈みゆく夕陽を眺めながら試算する。

「多分、夕方五時以降だと……」

「ヤバイな。夜は黒の勢力の格好の獲物になっちまう。かといって、フォレストまで逃げ切るのにはウインディの足じゃあと半日はかかるな。しゃーねぇ。ここで迎え撃つしかないみたいだ」

 問い質す前に廃墟から浮かび上がってきた影にノアは絶句した。それはニーアの使用していたウツロイドそのものであったからだ。

「あれは……ウツロイド?」

「ウツロイドは知ってるのか。余計にワケ分かんないが、ちょっと隠れろ」

 少年が慣れた様子で足早に建物の陰に身を隠す。ノアもそれに倣い、ウツロイドの様子を注視した。

 ウツロイドは三体ほどでしかないが、一体でも脅威なのは一番よく知っている。ウツロイドの関知領域に入る前にこちらが迎撃するしかない。

 少年は声を潜めて言い放った。

「……言っておくが、聖剣を使えるからってウルトラビーストの射程に入るなんて事はやめろよな。連中、倒しても倒してもホールから湧いて来るんだから。息を殺して、もし見つかったらウインディで一体ほど撃破して逃げ切る。それしかウルトラビーストに対応する方法なんてないんだ」

 少年はまるでウツロイド程度ならば何度も遭遇してきたかのような口振りであった。ノアは相手の様子を窺いつつ、ケルディオが万全ではない事に頷く。

 今はウツロイド相手に消耗している場合ではない。

 ウツロイドが中空へと踊り上がり、空間に穴を開けた。紫色の磁場を放つ穴へとウツロイドは入っていく。

 三体ともが入ったのを確認して、少年はようやく息をついた。

「斥候に回すのにケチらないのは相手の特権だな。こちとら細く長くだってのに。現状、黒の勢力が優位だからどうしようもないんだが……」

 後頭部を掻く少年にノアは尋ねていた。

「ウルトラビーストと、戦った事があるのか」

「うん? そりゃまぁ、何度か。っていうか白の勢力に属していれば戦わない奴はいないだろ」

 先ほどから繰り返される白の勢力、黒の勢力、という言葉も不明瞭だ。問い質そうとするノアに通信機の音が遮った。

「っと、悪い。こちら一班。旧ソウリュウシティ近郊にて敵のUBの斥候を確認。タイプは01だ。相手も探っているってところでしょうね。北の勢力図が塗り替わるのにはさすがに慎重って事です。フォレストに向かいたいところなんですが、同行者がいて……。ああ、さっき報告した未確認の。ええ、そうです。ちょっとばかし気になるんで自分に調査させてください。そう時間は取らせないつもりです」

 少年は笑いを交えながら報告を終え、こちらに一瞥を投げた。

「さて、質問の途中だったか。ウルトラビーストの使用はお互いに許可している。問題があると考えているのか?」

「……いや、問題というよりも。キミ達はあれが何なのか、分かっていて?」

「ウルトラビースト。こことは摂理の違う、ウルトラホールの向こう側に存在する別種のポケモン。なに、姿形はおどろおどろしいが、所詮はポケモンだ。そこまで極度にビビッても仕方ないって」

 どうにも落ち着き払っている少年の言動が分からない。イッシュ地方でウルトラビーストの目撃例は珍しくなくなっているのだろうか。

 少年は周囲を見渡しつつ、一つの廃墟へと入っていった。

 ノアもそれに続くと彼はホルスターからモンスターボールを取り出す。

「ちょっと待ってろよ。今、寝床を用意するからよ」

 モンスターボールが投げつけられ、廃墟の中に現れたのは砂の城であった。否、とノアは判ずる。

 ただの砂の城ではない。これはポケモンである。

 しかし見た事のないポケモンの登場にノアは少なからずうろたえた。

「ビビるなって。シロデスナに守られてりゃ、一昼夜くらい確実に凌げる。たとえ雨が降ったってな」

 少年は何のてらいもなく、シロデスナと呼ばれたポケモンの口腔へと入っていく。ノアは躊躇っていたが、少年の呼ぶ声に足を踏み入れた。

 シロデスナの体内は思ったより広く、テントよりも随分と快適であった。

 ただし、あまりに生活感は乏しい。やはりポケモンの体内であるからか、雨が降る前のアスファルトのような臭いが常に鼻をつく。

「シロデスナの身体ん中なら秘密の話も出来る、ってな。で? お前、何者だ?」

 単刀直入な少年の問いかけにノアは言葉を彷徨わせた。

「ボクは……ノア、だ」

 その名乗りに少年が腰を浮かしかける。何か妙な事を言っただろうか。少なくともNと言うよりかはマシな答えをしたつもりであったのだが。

 信じられない、とでも言うように少年はこちらを凝視し、やがて口元を塞いで目を戦慄かせた。

「嘘だろ、おい……。じゃあ、お前が、灰色の預言者だって言うのか」

 ――灰色の預言者?

 ノアが疑問符を挟んでいると、少年は頷きつつ、なるほど、と己の中で納得したらしい。

「それでここがどこかだとか、プラズマ団が、って言っていたのか。……しかし、マジに存在したなんてな。あながち嘘じゃないって事か」

「……一人で納得されても困る。ボクの質問に、答えてくれ」

「ああ、悪い。こっちもいっぱいいっぱいでよ。で、ノア。何だって?」

「プラズマ団は、どうなったんだ? ボクはボクそのものである……ニーアと戦っていた。その最中だったはずだ。空間に穴が開いて、引きずり込まれたのは」

 記憶を手繰りつつ、ノアはこの違和感の正体を突き止めようとしていた。ウツロイドを両断した最後の技の名前。それが紡げそうで紡げない。

 まごつくノアに少年は膝を打つ。

「よっし! 灰色の預言者となれば、無下にも出来ないよな。何よりも、お前が本当にノアだって言うんなら、ここで易々とどこかに逃がす事も、出来なくなったわけだ」

 少年の声音にはどこか逼迫したものが宿っている。ノアは一つでもハッキリさせるべきだと判断した。

「ここは、本当にイッシュなんだな?」

「まどろっこしいぜ、その質問。何回問いかけても答えはイエスだし、それに……。多分、お前の知っている頃のイッシュじゃない、としか言いようがない」

「……ソウリュウシティが荒れ果てている、という情報はなかった。それにウルトラビーストの目撃例も。プラズマ団が使っているにしてはあまりにも粗雑だ。ウツロイドの戦力を過小評価している」

「そりゃ、そうだろうぜ。ウツロイドなんて珍しくもない」

 少年の言い草にもノアは違和感を覚えていた。どこか食い違っている証言に問いかける。

「キミは、何者だ? 白の勢力や黒の勢力と言うのはどういう意味なんだ?」

「俺の名前はキョウヘイ。組織に関してはあんま口外するなって言われているからよ。一晩明ければウインディでフォレストに向かう。その時にでも話す。それでいいだろ?」

 分からない事だらけであったが、ここではまず納得しろ、と言われているようであった。ノアはシロデスナの体内を撫でつつ、嘆息をつく。

「……あの後、ボクは。救えたのか? それとも……」

「分かんない事を考えるもんでもないって話だ。俺は寝るぜ」

 横になったキョウヘイにノアはどこか呆然とする。この場所がどこなのか、本当に同じイッシュなのか、それを調べる手段はあまりにも少ない。

 だが、何もしないでいいはずがない。

 キョウヘイが寝息を立て始めたのを確認して、ノアはシロデスナの体内から這い出た。

 静寂に沈んだソウリュウシティはどこか余所余所しく、生まれ育ったイッシュとは思えない。

 ケルディオを伴わせようかと思ったが先ほどのようなウツロイドに関知されれば面倒だ。ケルディオのような抜き身の刀は出せない。

 呼気を詰め、ノアは歩み出していた。

 ソウリュウシティジム。人格者と称えられたジムリーダー、シャガの牙城は天蓋が砕け落ち、中にあった岩石龍の機構が外にはみ出している。

 ノアは龍の頭に登り、ソウリュウシティを見渡した。

 四方八方、どこを見ても塵芥、灰塵のみ。

 まるでこの世界が終わってしまったかのような有り様だ。

「どうなってしまったんだ……イッシュは……あの後何が起こって……」

 その時、けたたましく鳴り響いたのはノアの持つ通信端末であった。ホロキャスターを震わせる音声は広域チャンネルである。

 ノアは端末を開いた。

 その投射画面に映し出されたのは、ポニーテールの少女であった。

 異様なのは彼女が座っている椅子だ。装飾華美な黄金細工。さらに言えば、纏っている服飾にも違和感があった。

 茶色と水色の、散りばめられた宝石のローブ。それをどこかで自分は見たはずであった。

 ――だが、どこだ?

 問いかけた脳内へと少女の声が差し込まれる。

『えー、アタシ、こういうのは得意じゃないって何回も言っているわよね? 白の勢力に黒の勢力。今宵も、一言だけ、王の言葉を告げるわ。――アタシの軍門に下りなさい。それこそがポケモン解放、即ちここで散った哀れな人間の意思よ』

 ローブを翻し、手を払う姿にノアは偶然の合致ではない事を確信する。

「そうだ……このローブはゲーチスの……父さんのものだ……!」

 だがどうして、少女がゲーチスの服飾を纏っているのか。その疑問が氷解する前に、新たなる疑問が聳え立った。

 カメラが引き、少女の傍らに立つ二人の女神を映し出す。

「まさか……! そんなはずは」

 静かに瞑目する女神二柱は忘れようもない。

 ヘレナとバーベナ。その二人が今、少女へとまるで王へと捧げるような静けさで佇んでいる。

『王権は、もうアタシの手にあるのよ。もう五年……そう! 五年も、よ! 五年もあんた達は、アタシにこうやって屈辱を味わわせる……。昔話は好きじゃないけれど言ってあげる。ここには! プラズマ団がかつて支配の象徴として屹立させた女神二人の身柄と! そして、何よりも王者の証がある! 見なさい! イッシュポケモンリーグを囲うアタシの城砦を!』

 それはまさしく、プラズマ団が自分のために造り上げた城砦であった。プラズマ団の城がそのまま、少女のもののように広がっている。それだけではない。水色の僧衣を纏った者達が次々に顔を出した。黒と水色の衣装の者達もいる。彼らは――見間違えようもなくプラズマ団であった。

 そんな彼らが拳を振り上げ声にする。

『王者、トウコ・キリシマに我らの命! 全て預けた! あの日よりの忠誠、忘れた事もない!』

 鳴り止まぬ号砲にトウコと呼ばれた少女が指揮棒を振るうように手を掲げる。それだけで統率された軍団のように彼らは静まり返った。

『いい? 王は無敵なの。そんな無敵な存在に、無謀にも歯向かう反逆者達。あんた達に何が出来るの? アタシを! 逃げも隠れもしないアタシを! 今の今まで殺す事さえも出来ないのに!』

 トウコの挑発にノアは危険だ、と感じていた。このような言葉、支配者が聞けば、と。だが、そこではたと考えを止める。

 王者、と先ほどから息巻いているトウコ。もし、本当に、彼女以外、王権を継ぐ者がいないのならば、彼女の言葉は法そのもの。民草にとって、トウコこそが絶対なのだ。

「でも、どうして……。ボクがいた時間軸じゃ、なくなったって……」

 そこまで口にしかけたところで肌を粟立たせるプレッシャーに、ノアは反射的に後ずさっていた。

 あまりにも研ぎ澄まされた戦闘神経が鈍っていたノアの感覚に差し込む。

 背筋へと、爪をかけようとした影がソウリュウシティジムの、対立する龍の頭へと降り立つ。

 その立ち姿にノアは眩暈を覚えた。

「……ボク、だって……?」

 姿形は自分と寸分変わらない。ただ、相手は光をどの方向からも吸収しているかのように真っ黒であった。

 同一存在か、と構えたノアはしかし、この距離にあっても対消滅が巻き起こらない事に戸惑う。

「いや、ボクじゃない……?」

 相手が自分を指差す。直後、足元の影が伸長した。瞬時に距離を詰めた影から何かが出現する。咄嗟にホルスターから引き抜いたケルディオが応戦していた。

 傷ついたケルディオの躯体が受け止めたのは影そのものとしか思えない存在である。

「ポケモン、なのか……何だ、これは」

 赤くぎらつく瞳を燃え盛らせ、その「何か」はケルディオへと打ち込んだ。影の連鎖する拳がケルディオへと叩き込まれる。普段ならばいなせそうな速度だが、ウツロイドとの戦闘による消耗か、ケルディオが打ち返される。

 後退したケルディオと自分、それに相手と謎の影のポケモンが対峙した。

 龍の頭に降り立ち、こちらを観察するかのように相手は微動だにしない。

「何なんだ、キミは……」

 質問を振りかければ、と感じたノアに相手は片手を天に掲げた。

 刹那、相手の手首から半身へと亀裂が走り、中からおびただしいまでの赤い眼が零れ出る。

 その異形にノアは絶句していた。

 相手は――人間ですらない。

 恐れが這い登ってくる。この感覚は初めてであった。今まで出会った事のないタイプの邪悪だ。

「……キミは、いや、お前をボクは、許しちゃいけない。どうしてだか分からないが、そんな気がする」

 それはかつてゲーチスへと抱いた反抗心すらも上回る。生物としての根幹が、相手を「認められない」。

 ノアの感情を受け止めたのか、ケルディオの角を中心にして光が逆巻く。体毛が水色の光を帯び、藍色に染まった角が刃の輝きを放った。

 相手が口角を吊り上げる。どうしてだか口元ばかりが他の箇所に比してあまりにも人間臭い。

 嘲笑の形に吊り上がったまま、相手が手を払う。影のポケモンが肉迫し、ケルディオと格闘戦を交わした。

 一秒にも満たない交錯。しかしながら、勝敗は決していた。

 ケルディオの逆巻いていた体毛が凪いでいき、角から覚悟の光が失せる。

 まさか、とノアは瞠目する。

「負けた、って言うのか……。今の、一瞬だけで?」

 あり得ない、と考える前に影のポケモンが足元へと至る。

 ――逃げられない。踵が影に沈み込み、手が何もない空を掻く。

 瞬間、相手を突き飛ばしたのはキョウヘイのウインディであった。「しんそく」からの「フレアドライブ」による炎熱攻撃が相手を拘束し、影のポケモンによる攻撃を引き剥がす。

「何やってんだ! そいつと戦うな! ナイトメアとは!」

 ――ナイトメア?

 疑問に感じる前にウインディがこちらの守りに入る。影のポケモンは致し方なく相手の影へと潜り込み、離脱を決めた。

「逃がすかよ! 世界の敵! ウインディ!」

 ウインディが目にも留まらぬ速度で駆け抜け、相手へと噛み砕こうと牙を剥き出しにする。しかし、直後に相手が振るい上げた拳に連動して地面から影の拳が這い出た。ウインディの顎を鋭いアッパーが射抜く。

「……ってめぇ!」

 叫んだキョウヘイの声に呼応してウインディの身体から白い炎が噴き出した。自分と相対した時にも使った奥の手であろう。

 相手は影のポケモンを瞬時に自分の側に戻し、軽業師のように戦闘領域を抜けていく。追いすがろうとしたウインディであったが、それをトレーナーの一声が止めた。

「……やめだ、ウインディ。夜はあいつの領域になっている。勝てる勝負じゃない」

 炎を内側に燻らせ、ウインディが唸る。ノアはただ唖然とするばかりであった。キョウヘイはゴーグルを掴んで足元を蹴り上げる。

「くそっ! しくったぜ……、そうか。灰色の預言者をまず狙うかよ。だよな、それが順当だ。こんなところでナイトメアに出くわしたとなりゃ、それこそ面子が立たない。リーダーに連絡するっきゃねぇか。……もう少し、こっちで留めておきたかったんだがな」

 ノアはケルディオの助けを借り、一気に地面へと降り立つ。キョウヘイはばつが悪そうに舌打ちした。

「……今のは何だ? どうして、ボクと同じ姿をしている」

「同じじゃないだろ。あれは完全な影だ。どこからも光を通していない。そういう存在なんだよ」

「ナイトメアって……、どういう事なんだ。本当にここは、イッシュなのか?」

「……そこから説明かよ。ああ、嫌になる」

 歩み寄ろうとして、ノアは巨大な陰が差した事に気づいた。振り返った先にいた存在に、ノアは息を詰まらせる。

 自分が従えた事もあった。そして他人が従えるのも見た。それでもなお信じられない。

 どうして――白き英雄のポケモンがそこにいるのか。

 周囲の空間を炎熱で捻じ曲がらせつつ、レシラムが音もなく佇んでいた。絶句するノアに比して、キョウヘイが歯噛みする。

「このタイミングでご登場とは、やっぱり繋がってるんじゃないのか! 黒の勢力とナイトメアってのはよぉ!」

 キョウヘイの怒声を受け止めて現れた人物に、ノアは心臓が止まるかと思った。それほどに、あり得ないのだ。

「チェレン……」

「六年と七ヶ月。久しいな。ノア……いいや、Nと言うべきか」

 眼鏡のブリッジを上げたチェレンはレシラムに騎乗したまま、読めない眼差しを注ぐ。こちらはほとんど圧倒されている形だ。それでもキョウヘイは抗弁を発する。

「黒の勢力の親玉が、のこのこと現れやがって! どうやら消されたいらしいな!」

 ウインディが威嚇の咆哮を上げ、レシラムへと接近する。だが、炎タイプの頂点たるレシラムは、その猪突を軽くいなした。

 空間に僅かな干渉をしただけだ。それのみで、ウインディほどの躯体が吹き飛ぶ。

 まざまざと見せ付けられてノアは確信した。

「レシラムを……使いこなしている」

「それは褒められている、と思うべきなのかな。それとも、自分ほどではない、とも? ……いずれにしたって、メンドーなだけなんだけれどね」

「黒の勢力の親玉って……、チェレン! キミはどうしたんだ!」

「いちいち声を張り上げるな。メンドーな事に、君は全く変わっていないらしい。いや、変わっていないからこそ、そういう存在なわけか。未来のN」

 何故それを、とノアは息を呑んだ。チェレンには伝えていないはずだ。それにNという存在に関しても、彼は知らないはず。

 チェレンはレシラムの上からノアを睥睨する。

「随分とまぁ、もったいぶったものさ。あの時、あの日々……。未熟な僕達を見るのは楽しかったかい? 絶望した英雄」

「そんな事は……。ボクは、チェレン!」

 口にしようとした言葉は遮って佇んだウインディで掻き消される。無理やりの形でウインディがノアをその背中に乗せた。

「悪いがこれ以上、敵のボスと悠長に喋っている場合じゃ、ないって事だ! 灰色の預言者は我々、白の勢力が貰い受ける!」

 宣告したキョウヘイにチェレンはつまらなさそうに一瞥を投げたのみであった。

「勝手にするといい。どうせ、ナイトメアを釣る餌にでも使おうかと思っていたところだ。僕がここに来たのに、まさか計算が出来ないのか、君は」

 キョウヘイがハッとした瞬間、水の砲弾が不意打ち気味に放射される。ウインディが弱点タイプの技を満身に浴びてその勢いを殺させた。

 ウインディの背中で振り向いたノアは着物を身に纏う相手に目を戦慄かせる。

 青い髪を逆立たせた男は、初めて会った時と同じく不敵な笑みを浮かべていた。

「駄目だろう? チェレン。教えたはずだ。獲物を狩る時にはその獲物が狩られたと気づく時には、既に戻れない罠に落としこんでいるものだ、と」

「すまない、ギーマ。手間をかけさせた」

「いいさ。かわいい教え子の教鞭くらい、まだつけさせてくれよ。お前が英雄になったからと言って、いきなり他人行儀はよしてくれ」

「ウインディ! それなら、シロデスナ!」

 シロデスナがレシラムの背後をいつの間にか取り、砂の身体を拡張させてレシラムを縛り取ろうとする。しかし、チェレンは振り返りもしない。

「蒼い焔」

 発した声と発火は同時であった。シロデスナの身体の中心に浮かんだ青い焔がたちまちその身体を埋め尽くし、瞬時に炭化させたのである。

 勝負ですらない、一撃必殺。

 あまりの光景にノアは言葉をなくす。

「どうして、そこまで……」

「ギーマ、それにレンブも。ナイトメア応戦に来たつもりが、思わぬ収穫だ。灰色の預言者を得るのは我が方、黒の勢力である」

 闇の中からレンブが立ち現れ、有する強力な格闘ポケモン達が拳を握り締める。

 キョウヘイがウインディへと命令を下すが、最早ウインディにはその力はないようであった。

「同行願うぞ……、ノア。いや、未来世界のN」

 どうしてレンブまでそれを知っている? いや、そもそも、ここはどこなのだ。どうしてこのような世界になってしまった?

 転がり落ちていく思考を他所に状況ばかりが突きつけられる。

「手荒な真似はさせないでくれよ。あの時、別れたっきりなら俺達の実力、知らないわけじゃないはずだ」

 相手にはメガシンカもある。ここで抵抗するのも無意味。

 ノアはしかし、闇の中叫んだ。

「一体何が……、キミ達は、何のために!」

「正義のためだ。それ以外にない」

 断じたチェレンの声音はあまりに冷たい。戦慄く視界の中、不意に割って入った影がレンブのポケモンに飛びかかった。

 レンブの有するポケモンの一体である、ナゲキが前に出て牽制の拳を浴びせようとするが、黒々としたポケモンはその巨体には釣り合わない速度で疾走し、鞭のような尻尾でナゲキを打ちのめした。

 たった一撃、である。それで四天王のポケモンが沈んだ事に驚愕する前に、チェレンが舌打ちする。

「白の勢力か……!」

 忌々しげに放たれた声に、念動力が生じ、空間の一部を歪ませた。

 次元の裂け目から無数のトレーナーとポケモンが送り込まれてくる。一様に白い服飾を纏い、統率された兵士であるのが窺えた。

「雑兵など……! サメハダー、メガシンカ!」

 サメハダーを中心軸に紫色の外殻が形成され、空気が鳴動する。メガシンカが来る、と身構えたノアに声が投げかけられた。

「なんの! ウルガモス!」

 ハッと目を見開いた瞬間、視界に大写しになっていたのは六枚の翅を持つ炎の使者。鱗粉と共に一撃がそれ相応の威力を持つ炎が隕石のようにいくつも棚引いて放たれる。

 ギーマは舌打ち混じりにメガシンカを中断させる。

「……阻むか。白の分際で」

「オレは黒でもいいぜ。ツエーほうにつきたいだけだ!」

 放たれた快活な声とウルガモスに最初、アデクを想起した。しかし、太陽の鬣を持つその青年は明朗な言葉をこちらへと投げかける。

「お前もそうだろ、兄ちゃん!」

「……嘘、だろ……。バンジロウなのか」

 仙人のような井出達に、首からボールを数珠繋ぎにした衣装はそのまま、アデクであったが、声の張りとどこか幼さを残した相貌は間違いなく、バンジロウであった。

 彼は鼻の下を擦って笑う。

「さて! 黒の勢力が雁首揃えてやって来たのはいいものの、オレに勝てっか? 元四天王連中よぉ」

 挑発したバンジロウにギーマが顎をしゃくる。

「チェレン、判断はボスに任せる」

 この場で白き龍を従えるチェレンは、静かに頭を振った。

「……ソウリュウシティ。跡地になったとは言え、イッシュは美しい。炎同士で一夜にして焦土にするのは、いただけない話だ」

「それに関しては同意見だな、チェレン」

「……馴れ馴れしく。帰るぞ」

 その一声だけでギーマとレンブから敵意が凪いでいく。チェレンの操るレシラムが羽ばたき、暴風を発生させた。

 ノアはその風の中、チェレンへと呼びかける。

「どうして! どうしてなんだ、チェレン! ボクはキミを……!」

「違えただけの話だ。英雄モドキ。次は本気を出す」

 こちらを一顧だにせず、チェレンは飛び去っていく。キョウヘイはバンジロウへと駆け寄り、レッドゾーンにあるウインディとシロデスナを診せた。

 炭化したシロデスナであったが、バンジロウは諦めた様子はない。ボールへと戻し、強く頷く。

「シロデスナは少し休ませる。なに、あのチェレン相手によくやったな、キョウヘイ! お前もオレくらい、強くなったのかもな!」

「いえ! まだまだです、師匠!」

 ノアにはどういう事なのか、さっぱり分からなかった。バンジロウを師匠と仰ぐ少年。それに成長した彼ら。

 白の勢力と呼ばれた集団はソウリュウシティに点在し、検査機械を取り出していた。

「ナイトメアの痕跡は残っているはずだ! 次に戦った時に勝利する!」

 号令する統率者へとバンジロウが声を飛ばす。

「なぁ! まずは兄ちゃんに挨拶、いいか?」

「バンジロウ様! しかし、ベル様へのご報告が……」

 濁した声音にノアは食いついていた。

「ベルが……? ベルもいるのか?」

 逸りかけたノアをバンジロウが制する。ノアからしてみればつい数時間前に共に戦ったバンジロウとは一線を画していた。逞しい腕に、青年の薫りが匂い立つ。

「兄ちゃん……、やっぱり、こうなっちまったんだな」

「バンジロウ……なんだよな?」

 その問いかけに彼は明朗快活に大笑いする。

「信じられないか! 無理もないや! だってよ、あの時……、そう、あの時だ。もう七年くらい経つもんなぁ……」

 言葉尻に懐かしさを滲ませたバンジロウにノアは質問を浴びせようとして、どれも要領を得ていない事に気づく。

 あの後何が起こったのか。白の勢力、黒の勢力とは何なのか。この世界は、イッシュはどうなってしまったのか――。

 どれも尋ねた先から手の中で砂に還ってしまいそうなほど儚い。

「でもよかった……。伝承通りとは言え、死んだって話もちらほら聞いたからよ。兄ちゃんはとりあえず、一旦、フォレストに来るといい。ベルも一緒だ」 

 困惑したままノアはおずおずと訊いていた。

「キミ達は、何なんだ……」

 バンジロウが胸を逸らし、誇らしげに言いやる。

「決まってらぁ。世界の平和を守る、最後の砦だよ」

 頼もしく聞こえるその声が、ノアには何よりも不安の断崖へと落ちていく一言のようで、ただ虚しく残響するのみであった。





第七章 了


オンドゥル大使 ( 2017/12/17(日) 12:32 )