FERMATA








小説トップ
六章 英雄の座
第80楽章「百合の日々は追憶の中に潜み薫る」

 誰かの泣き声を聞いた気がして、トウコは振り返った。

 しかし、直後には、目の前の相手との戦いに没頭する。それほどまでに洗練された戦いの具現としての彼女に一人の男が歌舞く。

 青を基調とした服飾に、白塗りに赤と黒の化粧が眩しい。男は下駄を踏み鳴らし、トウコの操るチラーミィを見据えた。

「よく、育てられている。対中距離、長距離、近距離、全てにおいて勝っていると言っていいだろう」

「その言葉通りじゃない気がするのは、気のせいかしらね」

 トウコの発した声に男は腕を組んで憮然とする。

「当然である。こちらに勝とうという意志がある限り勝負とはどこまでも分からぬもの」

「ジムリーダーハチク。あなたの戦法、割れていないわけじゃない。もう、その戦い方は古いとさえもされている」

 侮蔑とも取れる言い草に男――ハチクは苦笑する。

「諫言耳に痛い。しかしながら、わたしには勝てんよ。ここまで来たチャレンジャー。名をトウコ、と言ったな」

「有名になったのかしら」

「それなりに。ジムリーダーのネットワークに上がる程度には、知れているトレーナーと言ってもいいだろう」

「言うわね、オジサン」

 どこまでも余裕を漂わせるトウコにハチクは年長者の面持ちで対処した。

「わたしの戦い、古い、と評したね。それは何故?」

「ここで負けるようじゃ、もう時代遅れだって言っているのよ」

 トウコの強気な言葉にもハチクは全く気圧された様子はない。それどころか、快活に笑ってみせる。

「評判通りのようだ、君は。王になる、玉座など当たり前、とうそぶく少女だと、聞いてはいたがこれほどまでとは。苛烈、いや、その執念、見習いたいものだ」

「それにしては、あなたのポケモン、ちょっとばかし言葉とは裏腹ね」

「当たり前だ。ツンベアーはそう容易くノックアウトはされない」

 チラーミィと組み合っているのは大型のポケモンであった。顎の下に氷柱が生じており、掌から構築した冷気を用いて間断のない物理技を仕掛けてくる。

 明らかにパワータイプのポケモンにチラーミィは手を焼いている風であった。それも当然だろう。

 チラーミィの攻撃への予備動作をツンベアーは遮断する。

 チラーミィが「はかいこうせん」への準備に入れば、凍結の中距離攻撃でそのエネルギーを霧散させ、近接攻撃に移ろうとすれば圧倒的な破壊力でその追従を許さない。

 チラーミィは先ほどから逃げの一手に回っていた。

 辛うじて水の推進剤を用いて致命傷は避けているものの、紙一重の戦い方である。ツンベアーの凍結攻撃を受け切るだけの防御力がチラーミィにはないのだ。

 降り立ったチラーミィが電磁を誘導させ、放射モードに入ろうとするのをツンベアーは掌に浮かべた凍結網で遮る。

「そこだ。氷柱落とし」

 すぐさま構築された巨大な氷柱が剣山のように屹立し、チラーミィへと投擲される。

 チラーミィが攻撃から回避へと移ろうとしなければその身体に突き刺さっていただろう。

 それほどまでに、ツンベアーの用いる氷結攻撃は正確無比であった。

「見た目とは違うわね。もっと粗雑な攻撃を予測していたけれど、他の氷タイプよりもずっと、凍結の網が精密」

「見た目だけが、全てだと思うなかれ。ツンベアーは巨体だが侮るなよ。その肉体に刻み込まれた傷の分だけ、このポケモンは強いのだからな」

 ツンベアーの肉体にはところどころ、引きつったような傷痕があった。歴戦の猛者を思わせるその威容こそ、ツンベアーの武器なのだ。

 一番に目を引くのは左目に刻み込まれた巨大な切り傷である。そこから逆算し、多くのトレーナーは左側が死角なのだと思い込む。

 だがその実、左側は右側よりもずっと気配関知に富んでいるのだ。それを理解せぬまま特攻したトレーナーを何人も知っている。

 しかしトウコは、見た目に騙される事はなかった。初撃で左を狙ってくるかと思いきや、最初の狙いは遠距離攻撃であった。

 ハチクは少しばかり落胆さえしていた。話に聞く「王者の風格を漂わせしトレーナー」。「次世代の王者」との異名を取る少女に会ってみたかったのだが思っていたよりも凡庸なようである。

「もっと、強いのだと思い込んでいた、期待していたのだが……これではあまりにその落差が激しい。君は期待値以下だ、トウコ。これでは王者など夢のまた夢。名だたるジムリーダーが本気にならなければ敵いさえもしなかったと伝え聞いたが、やはり話には尾ひれがつくものだな。この程度で、王者など片腹痛い」

「この程度? アタシが、この程度だと思っているの?」

 挑発も安い。こんな未熟者にジムリーダー達はやられてきたのか。ハチクはふんと鼻を鳴らす。

「そうやって今までジムリーダーをはめてきたのかね? わたしはそうはいかない。冷静に物事を対処すれば、勝てない相手など存在しない。どうやら実力者との手合わせを忘れたトレーナー達は随分と日和見であったと見える」

 チラーミィが姿勢を沈める。次の攻撃は「じゅうまんボルト」かあるいは「はかいこうせん」か。どちらにせよ、このバトルフィールドに立ち入った以上、自分に勝てる道理はないのだ。

 氷結のバトルフィールドにツンベアーは深く氷の触媒を張っている。これは比喩でも何でもなく、実際に根を下ろしているのだ。

 ツンベアーの足先から構築された氷柱が凍結領域を拡大し、銀盤の上での常勝を約束した。

 凍結範囲の拡大は関知範囲の拡大も意味する。即ち、相手の攻撃が来る前にほとんど手に取るように分かるのだ。

 ツンベアーは元々素早さの鈍いポケモン。それを補うための措置が自らの身体をそのまま氷柱に落とし込んだ「つららばり」。

 この攻撃を見切れない間は、絶対にツンベアーは突破出来ない。それだけの自信に満ち溢れていたハチクへと、チラーミィが攻撃を仕掛けようとする。

 僅かながら空気中に毒素が漂うのをツンベアーが関知した。通常ならば気づいた時には猛毒状態に陥っている濃度であったが、これさえもツンベアーからしてみれば児戯に等しい。

 ハチクは手を払って見得を切る。

 その動作を見習ったようにツンベアーが大きく四股を踏んで手を払った。その一動作だけで毒の霧が消え失せる。

 トウコが確かに舌打ちしたのを聞いた。

「毒々が制されるのは初めてだったかね? うん?」

「……そうね。あまりこちらの手だけを見せても面白味はなさそう」

 チラーミィの足先から電磁が迸った。自らの筋肉に電撃を通し、その膂力以上のスピードを約束する力技だ。通常ならば見切れる速度ではない。しかし、ツンベアーの眼にはそれが手に取るように関知出来る。

 右脇から上昇し様に「アクアテール」を撃ってこようとしたチラーミィの頭部をツンベアーが掴み取った。

「――見切った」

 ツンベアーの手の中で凍結網が渦を成し、氷の刃がチラーミィの表皮へと突き刺さっていく。

 チラーミィが電撃を放出し、ツンベアーの拘束から逃れた時には、既に体力はレッドゾーンであった。

 肩で息をするチラーミィをハチクは見定める。

「最早、勝てまい。出直すのならば深追いはするつもりもなし。撤退は自由だ。好きにしろ」

「撤退? 冗談言わないで」

 トウコの声音からはそのような事、頭の片隅にも置いていない、という風格があった。

 逃げる、というのも選択肢の内、とは思っていない様子。トウコはどこまでも徹底抗戦の構えである。

 そのあまりに無鉄砲な眼差しを見やり、ハチクはぽつりと語り出した。

「……かつて、己の天井を見誤り、その結果、ポケモンに二度と消えない大怪我をさせた愚か者がいる。その話をしてやろう」

 トウコがこちらを睨み据える。構わず、ハチクは言葉を継いだ。

「クマシュンというポケモンは弱々しく、凍結の構築能力にも乏しい。己の氷の術式で自分の首を絞める事などざらにある、よくいる種ポケモンであった。しかし、そのポケモンであらゆる窮地を乗り切り、自分以上にそのポケモンを使いこなせる人間などいないと自惚れたトレーナーがいた。彼はクマシュンたった一体で苦手とする炎タイプでさえも制し、最早相手は玉座のみ、と考えていた。カントー、ポケモンリーグ。挑戦するのは当たり前のようであった。だが……」

 言葉を濁したハチクにトウコは顔を翳らせる。

「その勘違いは、勘違いのまま玉座に登ろうとしたのね」

 沈黙こそが答えであった。

「言っておく。玉座は甘くはない。そのトレーナーは、一戦目。同じく氷使いのカンナとの戦闘においてそれを思い知らされた。凍結術式の熟練度がまるで違う。彼の行っている凍結は、真の意味での凍結ではなかった。カンナ、あの強者のトレーナーからしてみれば、それは呼吸のようなもの。呼吸で敵が倒せるわけがない。当然の事のように敗北し、そのトレーナーは、強さを求め山篭りした。わざと炎タイプの群棲する場所へと分け入り、そのポケモンに二度と癒えぬ傷痕を残させて、後悔と懺悔の旅の果てに、辿り着いたのは若者を諌めるジムリーダーという職務。己と同じ過ちを、見過ごせないのだ」

「アタシが、まるでそういう人種みたいな言い草ね」

「どう違う? チラーミィで出来る範囲など、たかが知れている。君はあの時のトレーナーと同じだ。自分に課した手かせ足かせで動けなくなっているのに、それを強いのだと勘違いしている。勘違いを繰り返す前に言っておくぞ。強さとは非情なるもの。時に手段をも選ばぬ強さ、非情さこそがポケモンも自分も傷つかなくって済む。傷ついてからでは、もう遅いのだからな」

 これで分かってくれたか、とハチクは期待したが、返ってきたのは侮蔑に近い眼差しであった。

「それで? あんたは諦めたんだ? アタシは違う。アタシは王になる。そのためだけに、手段なんて選んじゃいないわ。だって勝つのだもの。それ以外にない」

 思っていたよりも愚か者らしい。ハチクは最早、説得の意味はない、と面を伏せる。

「……残念だ。まだ戻れたものを」

「戻る? わけの分からない事を言わないで。アタシは戻るつもりなんて一切ない。進む事しか考えちゃいないのよ」

「そう、か」

 そこから先のハチクは羅刹の形相であった。

 説得は無意味。ならば、とくと刻み込んでやろう。

 ――真の実力者の戦い方というものを。

 ツンベアーが両腕に凍結領域を拡大させる。可視化されるほどの密度となった凍結術式が直後、ツンベアーの両腕を覆う長大な鎧となった。氷で出来た鎧を着込み、ツンベアーが歩み出る。

 逆立った体毛を意識させる鎧から絶えず冷気が放出されていく。凍てつくバトルフィールドを重々しく、ツンベアーが踏み込む。

 チラーミィが片腕を引いた。「はかいこうせん」の構えである。しかし、今度はその邪魔をしなかった。ハチクはすっと指を掲げる。

「受け止めろ」

「チラーミィ、破壊光線!」

 生命力を振り搾った一撃が花開く。紫色の光条が銀盤を横切り、ツンベアーへと突き刺さった。

 しかし、その光線は氷の鎧の表層を滑っていくだけで、内側には決してダメージを与える事は出来ない。

「所詮チラーミィなど、こんなもの。天井を見誤ったトレーナーよ。沈め」

 ツンベアーが身体を仰け反らせる。それだけで「はかいこうせん」が弾き返された。

 反射してきた「はかいこうせん」にトウコが目を見開いたのが見えた直後には、粉塵が舞い上がっていた。

 チラーミィは沈んだか、あるいはトレーナーにも及んだか。

「いずれにせよ、勝てる、などとは思い過ごしよ。いつでも勝てるのならば勝負する価値もなし。君はその程度であった」

 踵を返そうとしたハチクはふと、足元が濡れている事に気づいた。ツンベアーの氷の鎧が僅かに融解し、水を滴らせているのである。

「……最後の足掻きか。なるほど、計算上では、反射する際に熱量も返したつもりであったが、返し切れないものもあった、というわけか。だが、氷の鎧は健在。この結果論だけは突き崩せない」

「――果たして、そうかしら」

 漏れ聞こえてきた声にハチクは顔を上げる。

 砂塵を引き裂き、現れたのは光を纏ったポケモンであった。チラーミィの姿ではあるが、そのポケモンの明らかに異なる点は内側から強烈な光を発している点である。

 チラーミィに感じる事はないはずのものを、ハチクは瞬時に読み取った。

「馬鹿な……これは、神性、だと? どうしてチラーミィ風情が持っている? どうして、そんなものを一トレーナーが所持している?」

「あら、分かるのね。これ分かる人なんて、アタシ以外にいないと思っていたけれど」

 チラーミィに宿っているのは神性、つまり伝説や神話級のポケモンが所有するべき代物であった。その身体に流れている血流が金色を帯び、ハチクは眩しさに目を細めた。

「何故だ……何故チラーミィがそのようなものを……!」

「この子は確かにただのチラーミィ。だけれど、一度全てを経験している。野性個体であってもそういうものが存在するのは多くの研究が証明している。そういう個体の事をどう言うのか? レベル四十のカイリューや、レベル十程度のボーマンダの事を。どう呼ぶのか」

 そこに至ってハチクは本来覚えないはずの「はかいこうせん」を覚えている事実を飲み込んだ。

「まさか……既にチラチーノである頃の経験を引き継いでいる、というのか。チラチーノになった上で、チラーミィに退化した、とでも……」

 だが実在する。高レベルのはずの進化個体が低レベル帯で存在し、その上覚えないはずの技を覚えている事は。

 かつて、研究史上では、それらのポケモンは特別個体と呼ばれてきた。低レベルであっても、そのポケモンはそういう環境で育ったためだとか、あるいは特殊な磁場の影響だとも言われているが定かな事は何一つ言われていない。だというのに、そういう存在がいる事は公然の事実として人々の間で囁かれてきたのだ。

 その事実が、目の前で輝きを放つ。

 体表の白が少しずつ、桃色に近い色彩に彩られていき、遂には蒸気を発し始めた。

「熱暴走……いや、これは本来の姿、その能力に戻ろうとしているのか……」

「チラーミィ、あなたのその力、相手に示すのは予定より少し早かったけれど、どうって事ないわ。だって、勝つのだもの。勝つためならば、少しの障壁くらい……」

 チラーミィが姿勢を沈ませる。その体表から棚引く蒸気が拳に纏いついた。

「いかん! ツンベアー! 一度後退し、鎧の再構築を――」

「遅い。チラーミィ、十万ボルト」

 チラーミィが自らの腕に灯した電磁の篝火がツンベアーの腹腔へと叩き込まれる。本来、特殊技であるはずの電気技が今、物理攻撃としてツンベアーの絶対障壁の鎧を叩き据えた。

 無論、鎧の外側の攻撃ならばほとんど無効化してしまえるはずなのだが……。

「鎧を、貫通した……?」

 信じ難いのはたった一撃で、防御の鎧を貫通せしめた事実である。電磁を引いた腕をそのままに、ツンベアーの打ち下ろした氷柱の一撃をいなす。

 柔よく剛を制す、とはよく言ったものだが、相手の攻撃とて重量級。チラーミィの大きさと導き出されるパワーでは氷の鎧を砕く事など、一生かけても出来るはずがない。出来るはずがないのに、眼前の景色はそれを上塗りしている。

 水の推進剤を用いてチラーミィが跳躍する。叩き下ろされる一撃にツンベアーが備えて両腕を掲げた。

「防御を!」

「アクア、テール!」

 通常の「アクアテール」ではないのは、その水が熱湯である点であった。しかも、この氷点下のジム内において沸点を記録する事などあり得ない。

 あり得るとすれば、純粋炎タイプの攻撃でしかないのだがチラーミィは見間違えようもなくノーマル単一。だというのに、炎に近い能力値を記録している。

「どういう事だ? どうして、チラーミィがそこまで強くなれる? 何がそうさせているのだ? ただのポケモン、ただのノーマル単一! そんなものが、何故わたしと、その努力の結晶であるツンベアーを超えられるというのだ!」

「分からないようだから、言っておく。アタシが王だからよ」

 その一言と共に紫の光を棚引かせた拳がツンベアーの頭蓋を打ちのめした。あまりの威力にツンベアーがよろめく。

「氷の鎧を貫通……、ツンベアーの物理防御の高ささえも意味がない、というのか。どうして……何をし――」

 その時、ハチクの眼に映ったのはたった一人のトレーナーではなかった。

 トウコを中心軸として何人ものトレーナーが二重像を結んでいたのである。ある時は、赤い帽子の少年トレーナー。ある時は、マフラーをつけた少女トレーナー。ある時は、その姿は新緑の髪を持つ青年になった。

 それらが全て統合され、トウコという一人になっているのだ。

「因果の集約……この時間軸における、因果律の崩壊、全ての王の行く末……」

 漏れた声は誰のものであったのか、ハチク自身にも分からない。ただ、この場でトウコに勝てない事だけはハッキリとしていた。

 どうして、この程度のトレーナーにジムリーダー達が大敗してきたのか。その理由が今の一瞬で全て分かったのだ。

 歯の根が合わなくなる。ガチガチと震え出すハチクは最早、勝利の自信が足元から消え失せているのを感じ取った。

 このトレーナーは特別なのだ。自分達のような凡百とは違う。王になるべくしてなるトレーナー。

「……だが、ただ敗北するなど性に合わないのでね! ツンベアー! 氷の鎧を再強化!」

 ツンベアーが両腕の氷柱を振り回しチラーミィを射程から逃す。

「もう終わり? それとも、無為な努力に身を浸す?」

「ああ、もう小手先の攻撃はなし、だ。ツンベアー、やるぞ。氷の最強技、その極みを」

 ツンベアーの纏った氷の鎧が咆哮と共にパージされる。氷の鎧がバトルフィールドを包囲し、チラーミィとトウコから退路を奪った。

「氷の極み……どうやったところで、アタシには勝てない」

「それは理解出来たよ。どうして、今までのジムリーダー達が負けてきたのかも、全て、ね。だが、理解は出来ても、それを飲み込めるかどうかでは違う。それこそ、勝負師として。勝ち星はそう簡単に譲れないのでね」

 鎧を中心軸として大気が逆巻き、空気中に微細ながら集中する皮膜を形成していく。

 氷の鎧が作り出したのはジムを覆う天蓋だ。

 凍て付いた空と大地。全てがツンベアーの味方をする。

 ツンベアーが空に吼え、大地から力を吸い上げた。

 体内から煮え滾るように青の光が脈動する。口腔まで昇ってきた光をツンベアーはぱっと放出した。

 光の球である。

 青い光球が次の瞬間、パチンとシャボン玉のように弾けた。

 直後、空間そのものが凍てつく大気に押し潰されていく。青い光球へと注ぎ込まれていくのは見渡す限りの大平原。

 時空を歪めるほどの凍てつく呼気がバトルフィールドを塗り替える。世界が暗転し、チラーミィを吸い込もうとした。

 トウコが即座に命令を下す。

「チラーミィ! アクアテールで直下の地面を抉ってその場に縫い止める!」

 チラーミィが水の尻尾を振るおうとするが、その時には既に尻尾は凍てついていた。瞠目するトウコに、ハチクは言いやる。

「何も考えなかったのか? 凍り付く大気の中、水なんて使えばどうなるのか、と。如何に沸点を超える温度の水であろうとも、それは水である事に変わりはないのだ。事象すら曲げぬ限り、水は氷点下を超えると凍る。そのような常識すらまかり通らないと?」

 凍りついた尻尾が機能する事はない。チラーミィの身体が煽られ、青い光球に吸い込まれそうになった。

 トウコが舌打ちし、次の命令を下す。

「十万ボルトで空気の位相を変える! そうすれば、この現象を打開出来る!」

 電磁を纏い付かせた一撃が地面を陥没させた。幸運であったのは抉り取った地面をチラーミィが掴む程度の握力が残っていた事。

 青い光球が吸引力をなくし、そのまま霧散する。

 ハチクは長く息をつき、余韻に浸っていた。

「一撃目はこれにて終了。だが二発目を止められるか? 現状、アクアテールは不発、破壊光線を撃とうにも、これでは足場が危うい。十万ボルトで距離を取るにしては、こちらの吸引力が勝っている。毒々でじわじわと弱らせるのには、あまりにツンベアーは堅牢」

 トウコが白く輝く息を吐く。この環境下ではトレーナーですら生存が危うい。

 無論、それは操っているハチクが最も危険なのだ。どれほど氷の技を極めても、この技だけには人間という種そのものが耐え切れない。

「これは、絶対零度……」

「博識だな。その通り、絶対零度、という技だ。しかし、わたしとツンベアーが極めたのは、少し違う技でね。本来、極低温を生み出し、相手の息の根を止めるだけの技であったものを昇華させた。極低温のフィールドでのみ使用可能な絶対零度を超える青い光球。あれはツンベアーの命そのものだ。命を削り、射程内の全てを吸収する極低温の呪い。最大規模の絶対零度に、人間は耐え切れない」

「あんたも、それは同じに思えるけれど?」

 フッと口元を緩める。どうやら彼女には全てがお見通しのようだ。

「その通りだ。この技の前に、命は紙くず以下の価値しかない。この技を放った時点で、わたしの命はごく僅か。ツンベアーの命も、だ。しかし、この技は相手の命を吸収する事で完成する大技。つまり、わたしが生き残るか、君が生き残るか」

「選択は二つに一つってわけ」

「さぁ、最後のショウといこうではないか! ツンベアー、絶対零度!」

 ツンベアーが再び青い光球を身体の内奥から生み出そうとする。その前にチラーミィの身体が弾けた。

 ツンベアーへと肉迫し、攻撃の手前で勝負を決めようというのだろう。

 その結論は読めていた。だからこそ、ツンベアーに隙はない。

 両掌から氷柱が構築される。「ぜったいれいど」の準備中であっても氷柱の構築速度は余りある。射程に入ったチラーミィを両手の氷柱が叩き潰した――かに見えた。

 しかし、チラーミィのその躯体が潰された様子はない。

 ハッとしたハチクの眼に映ったのは下段に体勢を沈めたチラーミィであった。灼熱に染まった身体が「ぜったいれいど」に染め上げられた大気を熱し、体内からそれに対抗する術を生み出そうとしている。

「アクアテール」を放出していた尻尾が照り輝き、その位相を変えた。

「水の尻尾じゃ、ない……」

「アタシも、これを使うのは奥の手だと思っていた。でも、使わなきゃ。こんなところで立ち止まっている場合じゃないもの。アタシは! 王になるんだから!」

 灼熱の息吹を噴出させた尻尾が剣のように掲げられる。その身体から発せられているのは、最早水などと呼べるものではない。

 氷の鎧が次々と内側からの熱に負けて溶解していく。チラーミィたった一体が生み出している熱にジム内の氷が融け出した。

 汗がじわりと滲む。勝負にこだわっている場合ではない。

 今すぐにツンベアーを戻せ、と本能が告げたが、ハチクは貫き通した。

「このまま凍りつかせてやる!」

 ツンベアーが体内から青い光球を放出する。シャボンのように弾け、全てを吸引し、この場を灰塵に帰すはずであった。

 だが、その前に炎の刃が屹立する。ジムを一文字に貫いた光に、ハチクは言葉をなくした。

「何という輝き……」

「チラーミィ! 渾身の、ゼンリョク攻撃!」

 チラーミィの発した炎の刃がツンベアーを飲み込んでいく。光の瀑布の中に青い光球が弾け飛んだのが視野に映った。

 それを最後にして視界が光で満たされる。

 観戦していたジムトレーナー達が一斉に避難した。ジムの屋根を引き裂き、炎が氷を全て水に還していく。

 高温に負けたすぐ傍の柱がひしゃげ、ハチクへと降り注ぎかけた。

 それを防いだのはツンベアーである。勝負の瀬戸際において、主を守る事に自らを捧げたツンベアーは背筋に強烈な一撃を受けていた。

 ぐらり、その身体が傾ぐ。

 ジムの中は煤に塗れており、災禍でも巻き起こったかのような状態であった。

 その中心軸で佇むのは、自身を王だとうそぶく少女。

 しかしその証明のように、彼女には一片の瓦礫すら降り注いでいなかった。

 王の持つ幸運、否、絶対運が彼女を守護している。そのようなものを見せ付けられてまで、否定する言葉を持たない。

 ハチクはフッと自嘲した。

「……参りました、と言えばいいのか。こんな時には」

 人生で数少ない黒星。それを持っていかれた事に執着があるかに思われたが案外、自分の中にはそのようなもの、全くと言っていいほどなかった。

 代わりのように爽やかな風が吹き抜ける。全力を出し切った末の敗北ならば、自分は快く受け止めよう。

 チラーミィからは熱暴走の痕は失せている。しかし、あれは体力を酷使するのだろう。既にトウコはチラーミィをボールに戻していた。

「遥か異国……最果ての地にて伝え聞くと言われているゼンリョク技か。Z技、と呼ばれていると」

 しかし、どうしてそれを使えるのだろう。この地ではその伝承を伝え聞いた人間すらいないはずである。

 あるいは、とハチクは考える。

 彼女は王だ。王ならば、全ての技を出し尽くせる資質がある、とでも。

「いずれにせよ、わたしの敗北だ。持っていくといい」

 指で弾いたのはジムバッジであった。トウコはそれを受け止め踵を返す。

「待て。強さの求道者よ」

 その一言にトウコが足を止める。

「なに? ジムバッジは返さないわよ」

「君は、このまま行く、というのだな?」

「それが何か?」

「忠告だけしておこう。我が人生の師範がいる。彼の者は王の素質を持ち、わたしに王道を説いた。あの方が負けるとは思えない」

「ふぅん、で? それは誰なの?」

 聞いても臆する事はない、か。ハチクは一息に言いやる。

「――王者、アデク。あの方に牙が届く事があれば、それこそイッシュの歴史が変わるであろう。それこそ、伝説が再現される」

「伝説?」

「知らないのか。イッシュ英雄伝説を。白と黒の龍が理想と真実を求めて争い、このイッシュを焦土に変えた。あれが起こり得ると言っているのだ」

「あんなもの、マユツバでしょう?」

 憮然と言ってのけるトウコにハチクは試す物言いを残した。

「どうかな?」

 トウコは振り返る事もなく、片手を振るう。

「どっちにせよ、勝つ事しか考えていないもの。英雄伝説? 欲しい人にあげれば? そんなの。アタシはどっちだっていい」

「奇怪な。王にはなる。だが、英雄の座はどうでもいいと?」

 それは前後が逆だ、と言おうとしたハチクに、トウコは声を差し挟む。

「だって英雄は、誰かのためでしょう? アタシはアタシのためだけに、王になる。似ているようで別なんじゃない? どうでもいいけれど」

 心底、どうでもいい。そう言うかのようにトウコはジムを立ち去っていった。

 戦いの痕以外、彼女がいたという痕跡すら残さないまま。

 ハチクは焼き尽くされたジムの天井を仰ぎ、フッと微笑んだ。

「負けてなお知る。己の未熟さを。修行をし直すとするか」

 彼の心に吹きつける風は次への息吹に思われた。














 ダークトリニティを完全に振り切ったところで、ヴイツーは通信を受け取った。

 彼が自分へと叱責の言葉を投げようとした直前であったので、怒声が通信機を震わせる。

「んだよ……、もしもし!」

『あの、ヴイツーさん……』

 怯えたような声はベルのものだ。ヴイツーは舌打ちをする。

「嬢ちゃんか……。何だ?」

『助けて……っ、チェレン君が……』

 その声音が平時のものでないのを二人とも感じ取った。ヴイツーが通信機に声を吹き込む。

「おい、どうした? あの坊ちゃんがどうしたってんだ?」

 続けて発せられたのは落ち着いた男の声であった。

『患者の同行者の方ですか?』

「患者だぁ……。おい、チェレンの坊主はどうしたってんだよ!」

『落ち着いて、お話を聞いていただくべく、ヒウン病院に来てください。既に同行者の一部のほうには連絡を回してあります。彼の身元引受人の方にも』

 ヒウン病院の場所を告げられた後、一方的に通話が切られヴイツーは苛立たしげに髪をかき上げた。

「何だっつうんだよ! ダークトリニティ連中も、チェレンも! どうしてこうも続け様に悪い事ばかり……」

 悔恨を漏らすヴイツーにノアは言葉を発していた。

「その、どうしたって……」

「分からねぇ。だが、ヒウン病院に来いってよ。嬢ちゃんの様子から、マシな状況ではなさそうだな」

 雨は先ほどまでより強く叩きつけている。灰色の景色の中、ヴイツーが歩み出した。

 しかし、ノアは歩み出せない。その第一歩さえも怖い。

「……どうしたってんだ。ノア」

「ボクは……ボクは、覚悟していると思っていた。でも、そうじゃなかった。能力を失って、何もかもを失って、もう失うものなんて何もないと思っていたのに……」

 胸を満たすのはこれまでの日々を失う事への恐怖。膝を折り、身体の震えを抑えようとする。

「怖いんだ。どうしても。仲間なんていないと思っていた。協力してくれる人なんていないって。でも、たくさんの人が応援してくれた。二回目のやり直しが、ともすれば出来るんじゃないかって。……でも思い過ごしだった。ボクは、こんなにも弱い」

 ケルディオは何度でも立ち上がった。しかし、トレーナーである自分は何度も立ち上がれる気がしない。

 ヴイツーが歩み寄ってくる。殴られてもいいと思っていた。心の弱い自分など、殴ってくれたほうが清々すると。

 しかし、ヴイツーは侮蔑の視線を投げたまま、静かに言うばかりであった。

「完璧な人間なんていないって言いたいけれどよ。てめぇは元々、N様なんだろ? N様ってのはそんな簡単に心が折れる人間じゃなかった」

「見せかけだよ。本当はとても弱いんだ」

「そうかもな。とても弱かったのかもしれない。だがその瞳には未来を描く力があった。だが、てめぇにはそれがない」

 吐き捨てたヴイツーは踵を返す。いっその事、殴ってくれればいいのに、ヴイツーは自分にそのような簡単な選択肢すら与えてくれなかった。

「……どうしてだよ。拳で目を覚ますくらい、わけないだろ」

「そうして欲しいのかよ。そうして、また誰かの選択肢で人生を決められたいのか? てめぇは」

 ハッとする。ゲーチスに言われるがまま、英雄と王を全うした自分。

 そこには一度として己などなかった。それを変えたくって悪人を裁いてきたのに、それらも全て、自分の虚栄心を満たしたいだけの、一人遊び。

 全ては自分のため。他人のためを謳っておきながら、自分は一度として、誰かのために命を投げ出した事などない。

「プラズマ団のため、お題目のあったN様とてめぇは、確かに違うな。今のてめぇはただの負け犬だ。負け犬根性で噛み付くほどの度胸もねぇ、及び腰のな。そんな奴に、おれがいちいち説教垂れるのも馬鹿馬鹿しい。来たけりゃてめぇの足で来い。歩みたければ自分の足で歩め。そんな事も出来ないてめぇには、生きていく価値もねぇだろうがよ」

 ヴイツーは雨脚の強まるヒウンの街を歩みで行く。その先にあるのがたとえ地獄でも、彼は歩む事をやめないだろう。

 だが、自分は。地獄を知っていながら、地獄へと今一度舞い戻る勇気もない自分自身は。

 ――どこへ行けばいい? どこで覚悟すれば、自分を変えられる?

「ボクは、どこに行けばいい。教えてくれ。ケルディオ」

 ボールの中の相棒は沈黙したまま、ただただ主の覚悟を問い質す瞳を携えるのみであった。








 第六章 了


オンドゥル大使 ( 2017/11/06(月) 20:03 )