第79楽章「亡國覚醒カタルシス」
ジムに戻ったアーティにトレーナー達が奇異の目を向けてくる。
その眼差しを掻い潜り、ジムの屋上に至ったのはチェレン一人。
どうして? 今さら何を? そのような言葉を受けながらもアーティは悠々としていた。
「いいね。やはり戦いというものは、心躍る」
「能書きはいい。構えろ」
チェレンは既に戦闘態勢に入っている。先走ったような姿勢にアーティは笑みを浮かべる。
「急くなよ。さて、君に質問がある。ポケモンを愛しているか?」
そのような些事、と切り捨てる前に、アーティはこちらを見やる。怜悧な瞳が心の奥底まで見通すかのようであった。
チェレンはこの質問に答えぬのは不義理だ、と感じ取った。
「……愛している、と言われれば分からない。僕は、ポケモンが好きだから戦っているのか、それとも、僕自身が強くなるために、彼らを使っているだけなのか……」
答えは出せない。保留するしかなかった。しかし、アーティは責め立てるわけでもない。その姿勢に首肯する。
「等身大のトレーナーの意見だ。それは彼女、トウコも同じだと思う」
「……あの人も?」
意外でしかない言葉にアーティは言葉を継いだ。
「強者ってのはね、見ている世界が違うんだ。ジムリーダーになるまで、どれだけ研鑽の日々があると思う? プロトレーナー審査に通過、リーグの許可を得て、ジムリーダーを名乗る」
チェレンは今まで戦ってきたジムリーダー達を思い返していた。誰もが誇りに満ちていた。その胸にジムリーダーとしての矜持を抱いていた。
「……一筋縄じゃない。でも、多分それは、そうとしか生きられない」
「イッシュのジムリーダーは兼業している人間が多いからひ弱だ、と言われる事が多い。確かにその側面はあるかもね。でも、我々は決して、何かを軽んじて、この場に立っているわけでは決してないんだ。この場に立つという事、それは一面を極め、その極みの果てに佇むという事。弱者を迎え撃ち、強者と矛を交える。ある時は、強者を諭し、弱者に希望を見出させる。それがどれほどのものなのか、君にならば分かるはずだ」
彼ら一人一人が、別の玉座を心に抱いている。その玉座に誓っているのだ。
――自分は負けない、と。
心の玉座に約束した言葉は何よりも強い。
それは時に呪縛。それは時に誇り。それは時に――誰よりも強い、己の夢。
「ジムリーダー、その強さ、とくと刻むといい。チャレンジャー、チェレン。歓迎するよ、君のような強者と相見える事を!」
アーティの言葉に周囲の空気が脈打った。ジム全体が一つの生命体のように、主の戦闘本能に共鳴する。
その振動にチェレンは膝を折りそうになった。
なんという、戦意。
これほどまでの戦意を皆が持っているのか。八人のジムリーダー、全員が。
その事実に、震撼するよりもチェレンの口元に浮かんでいたのは笑みであった。
「不思議だな。何故、笑える?」
「……自分でも分からないさ。血潮に流れる死狂いの本能か。それとも、僕もまた、馬鹿の一員だったって事かな」
問い返した言葉にアーティは愉悦の笑みを浮かべ、ボールを投擲する。
「さぁ、君の力を見せてご覧! ハハコモリ!」
繰り出されたハハコモリが光を振り払い、新緑の刃を突きつける。チェレンの手持ちはたった一つ。
たとえ一回負けたとしても、そのスタンスに変わりはしない。
「行け! ゲコガシラ!」
出現したゲコガシラが飛び跳ね様に水の砲弾を叩き込む。瞬時に地面に発生したのは水溜りだ。それを触媒にゲコガシラが手をつけ、波導攻撃を打ち込む。
「水の波導!」
本来ならば相手へと肉迫し、掌底に似た動きで叩き込むそれを、今回は遠隔攻撃としてハハコモリへと直撃させる。
ハハコモリの身体が波導に震えるも、それは一瞬のみ。
「波導、か。何処かの国では波導は万物に宿る共通概念だと聞く。波導の効かぬポケモンはいない、とも。だが、ハハコモリ、一度受けた技を耐え切るくらいはわけない」
ハハコモリが両腕を開いて吼えた。
甲高い鳴き声に呼応して周囲に展開していた粘菌の糸が一斉にゲコガシラへと絡みつく。
押さえ込まれた形のゲコガシラが反撃に転じようとした途端、糸から緑色の光が放出された。
「ギガドレイン! 全方位!」
全身を拘束する形の糸から「ギガドレイン」が放たれ、ゲコガシラの体力を急速に奪っていく。
先ほどはこれ一撃で膝を折った。
――だが。
「一度受けた攻撃を二度も許すほど、僕もお人好しじゃない」
ゲコガシラの発生させていたのは薄い水の鏡面であった。一ミリに満たぬ水の鏡面が「ギガドレイン」を反射させていたのである。
その攻撃の巧みさにアーティが感嘆の息をつく。
「その攻撃の名は!」
「畳返し」
鏡面が瞬時に裏返った。直後、包囲していた糸が弾け飛ぶ。己の吸い取った攻撃力で霧散したのだ。
自由になったゲコガシラが勇猛果敢に立ち上がった。その身体には一切のダメージはない。
「ギガドレインによる吸収攻撃を先読みし、かつ畳返しによる反射攻撃をこちらに気づかせぬ精密さで撃ってきた。なるほど、並ではない。その判断を下そう」
「並、だと? お前こそ、僕らを嘗めている。ゲコガシラ。刻むぞ」
ゲコガシラの身体が瞬時に消え失せる。蹴り技が咲き、ハハコモリが受け止めた。
「移動速度! 速いな!」
「舌を噛む!」
ゲコガシラの瞬間的な拳のラッシュがハハコモリの防御を突き抜けた。後退したハハコモリの足元には水溜りがある。
ゲコガシラが姿勢を沈め、波導攻撃を再び叩き込んだ。
「水の波導!」
「それは受けたと言った!」
跳躍したハハコモリの速度に準じて糸が縦横無尽に駆け抜ける。ジムの空間内に満たされていたのは粘菌の糸の集合体だ。
それらが矢のようにゲコガシラへと狙いをつける。
「一斉掃射だ! リーフストーム!」
新緑の刃が幾何学の軌道を描きゲコガシラへと迫っていく。ゲコガシラは一発を拳で受け止めた。
その途端、拳に花が咲く。一撃を触媒とし、粘菌が根を張ったのだ。
「一撃でも受ければ、即座にギガドレインの餌食か」
「その通りだ! どう受ける? チェレン!」
百の刃がゲコガシラ一体へと降り注ぐ。それを避ける事などどう考えても叶わない。
「だったら――全部撃ち落とせ。ゲコガシラ、標的用意! 目標、粘菌の糸、その総数、推し量るに百数十! 全て、狙い撃つ!」
ゲコガシラが弓を番える真似をする。その動作に応じて水が引き出されていった。ゲコガシラの魂の奥底に刻まれた戦闘本能が呼び起こされ、水流が逆巻き、ゲコガシラの力となっていく。
ゲコガシラが矢を放った。一発の矢が数百に分かたれ、粘菌の糸を撃ち落としていく。
その様、迎撃の様子にジムトレーナー達が息を呑んだのが伝わる。
「嘘だろ……アーティさんの全力だぞ……」
矢が一つ一つの糸の触媒を掻き消していく。だが、相手のほうが素早い。あるいはタイプ相性の差か。
矢の攻撃網を潜り抜けてきた糸がゲコガシラの足に絡みついた。姿勢を崩しかけたゲコガシラが己の膝に波導攻撃を叩き込む。
身を焼く波導の一撃が膝頭を黒く染め上げた。
次いでもう一発、今度は胸元へと糸が突き刺さる。ゲコガシラは迷わず己の心臓部へと波導による相殺攻撃を打ち込む。
爆破の硝煙を棚引かせ、糸が途切れる。
ゲコガシラの身体が一発ごとに黒く変色していった。糸を撃ち落とす度に、身体が墨に侵食されたかのように黒くなっていく。
「ゲコガシラが、黒の姿に……」
見守っていたベルがそう発したのを、チェレンは耳で聞いていたわけではない。最早、五感は跳び越え、ゲコガシラと共にある。
戦うと決めた相棒と呼応した心臓の音を聞き、チェレンは歩み出した。
「ゲコガシラ!」
一発、またしても糸が左腕に巻きついた。チェレンは左腕を掲げる。その動作を一秒のロスもなく模倣したゲコガシラの腕が純黒に染まった。
黒くなった部位からは炎のようなオーラが発生し、ハハコモリの攻撃をことごとく焼き尽くしていく。
黒い炎がゲコガシラの新たなる武器であった。
粘菌の糸を焼き尽くし、ゲコガシラが吼える。
最早、トレーナーの精神を凌駕したチェレンがその鳴き声に応じて叫んだ。
「ゲコガシラ! 相手を捉え、叩き潰せ! 水の波――」
言いかけたチェレンとゲコガシラの喉を貫いたのは一本の粘菌の矢であった。
ゲコガシラが喉を射抜かれ、その攻撃を緩ませる。
共鳴していたチェレンもその攻撃に仰け反った。
「過度の精神的昂揚による同調現象……。聞き及んでいたが目の前で実行されると青ざめる。だが、これで君らは、もう飛べない。もう、吼えられない」
糸が両腕に絡みつき、両足を縛り上げ、胴体を押さえつける。
完全にハハコモリの支配下に置かれたゲコガシラが逆さ吊りでその下へと持ち上げられていく。
糸の頂点に佇むハハコモリは支配者の面持ちを崩さぬまま、刃のように見える腕を高く掲げた。
「完全に動きを止めた上での禁じ手……ハサミギロチン。一撃……必殺」
アーティが目を細める。チェレンは喉を潰されて何も言えない。激痛が思考を満たしていく。
――痛い。苦しい。
「トレーナーの高み、見せてもらったといってもいいだろう。だが、ここで潰える。ジムリーダーとて戦士だ。相手の成長を見るのは楽しみではあるが、末恐ろしくもある。二回も続けて、禁じ手を打つ事、我が人生において悔恨と共に刻みつけよう。そして、最高のトレーナーと二人も出会えた事を胸に抱いて、トレーナーとして第一線を去れる事、光栄に思っている」
――痛い。だが……。
ハハコモリの掲げた刃に粘菌の糸が次々と絡み付いていく。必殺の一撃であるのは疑いようもない。
磨き上げられた鏡面のようにその腕が光り輝いた。宿すのは禁じられた一撃。それそのものが、相手の命を奪い去る禁忌の技。
「我が人生に一片の悔いなし! さらばだ! チェレン!」
打ち下ろされる腕がスローモーションに映る。その世界の中、チェレンはある一言を思い出していた。
脳裏を掠めるのはただ一つ。
――君は、英雄になれる。
誰も言ってくれなかった。誰も期待していなかった。誰も、そこまで辿り着くなど、思ってもいないだろう。
自分でも、そこまで行けるとは思えない。この地を治める王を越えた、歴史に名を刻む存在――英雄。
本当になれるのか? なってからどうする? なって、何をしたい?
滑り落ちていく思考の中、明瞭なのはただ一つの事実。
――ここで勝たなければ……、勝たずして、何が英雄か。
ぐっと拳を固めたチェレンは己の喉を叩いた。
呼気と共に、己の全神経がゲコガシラへと注ぎ込まれる。思考がクリアになっていき、戦闘本能だけが光の翼を得て、ゲコガシラの身体に熱を通した。
「……まだだ」
脈打ったゲコガシラの躯体がハハコモリの腕を掴み上げる。ハハコモリが赤い瞳を見開き、ゲコガシラの挙動に戦慄した。
「……まさか。全ての手は封じたはずだぞ……」
アーティでさえも想定外なのであろう。それは操っているチェレンでさえも、であった。
神経が研ぎ澄まされ、最後の一片に至るまでゲコガシラに流し込まれていく。自我と呼ばれる領域が液状化し、雫となってゲコガシラの戦闘神経を一つずつ明瞭化した。
「まだ……まだ」
一声搾り出す度に激痛が身体を突き抜ける。脳天が沸騰するかのような熱を帯び、身体が制御の鎖を引き千切っていくのが分かった。
それは平時における理性と呼ばれるたがであったのだろう。そのたがを捨てたヒトの身は、純粋なる生命の力となって、ゲコガシラの体内に熱を灯した。
ゲコガシラの瞳が燃えるような赤に変ずる。黒色に染まった全身から氷点下の炎が発生し、粘菌を焼き尽くしていった。
掴み上げた接触点から侵食が始まっていく。ハハコモリはゲコガシラの変化に、操る者を葬るべきだと判断した。
新緑の刃がチェレンに照準する。アーティは考えもしなかったのだろう。ハハコモリを制する前に、ゲコガシラの変化に戸惑っていた。
「何が起こっている……。ゲコガシラ、いや、チェレン! 君は何に成ろうとしている」
「何に成ろうと、だって……」
一欠けらの理性さえも放出し、全てが黒と白の彼方へと葬り去られる。本能の牙が理性を打ち砕き、その制御網を次々と叩き壊していく。
一つ、砕かれる度に強くなる。
二つ、壊される度に狂気に沈む。
そして、三つ。刻み付けられる度に、芽生えてくる。
戦いへの本能が。全てを停止させてでも進まんとする精神の輝きが。
発露するのは戦闘本能の赴く先。破壊の向こう側にある再生。
汗と脈動、心音は高速を刻み、脳波は異常値を示す。磨き上げられた死狂いの精神がゲコガシラへと最後の光を灯した。
「させるな! ハハコモリ、打ち下ろせ!」
ギロチンの刃がゲコガシラの喉を掻っ切る。迸った血潮に同調していたチェレンがかっ血する。
血の臭気の漂う中、アーティが眉をひそめた。
「このような勝ち、望んではいなかったが……。ヒトが至ってはならぬ極地か。これもまた、結果だと言うしかないな。だが、君はここで立ち止まれ。ヒトの域で!」
ヒトの域で立ち止まれだと? チェレンは奥歯を噛み締め、焼くような灼熱の痛みを叫びに変えた。
「決まっているだろう……。僕は、英雄になる。そのためなら、何だって捨ててやるさ。この身体だって、何もかも、惜しくは……」
切り裂かれたはずのゲコガシラの喉元から新たな生命が芽生えた。瞬間的にハハコモリの身体を絡め取り、その何かが形を成していく。
「舌、か……? しかし斬ったはずの箇所から新たなる部分の再生など、そのような事が可能なわけが」
「可能、不可能の領域を、僕は超える。英雄だ! 行くぞ、ゲコガシラ。いや、お前はもう――!」
ゲコガシラが片腕を掲げる。その掌から展開されたのは光り輝く水の刃であった。光沢を放つ刃が振り翳され、ハハコモリの「ハサミギロチン」と打ち合う。干渉波のスパークに目が眩む中、チェレンだけはゲコガシラの見据える先をしっかりと焼き付けていた。
ゲコガシラの頭部に鋭角的な意匠が宿り、次々と形状を変えていく。最早、その姿はゲコガシラではない。
新たなる姿を得たそれは――。
「ゲッコウガ……。最終進化だと、このタイミングで、何故……」
戸惑うアーティへとチェレンは言いやる。その声も喉を震わせたものではない。争い合うお互いのポケモンを通した感応波であった。
――英雄になるために、お前は超えろ、ゲッコウガ。
アーティが歯噛みする。この領域のトレーナーとポケモンを相手取った事がないのだろう。ハハコモリが刃を両腕に閃かせた。ゲッコウガと打ち合うのは極力避け、不意打ちを狙うつもりなのだろう。
再び粘菌の糸で機動するハハコモリへとゲッコウガがすっと手を掲げる。その手から水が滴った。
その途端、ハハコモリを支えていた糸が断ち切られる。
あまりの速度にハハコモリが姿勢を崩した。
「何が起こった? 今、水の波導を撃ったのか?」
「水の波導じゃない。これは、水の刃……?」
観戦していたベルの声音にチェレンが面を上げる。その眼は既に視界を凌駕し、ポケモンと同一になっていた。
ゲッコウガの視野と少しずつピントが合っていく。照準するかのように、少しずつではあったがゲッコウガの意識がチェレンの側へと流れ込んできた。
「感じる。お前の息吹を……英雄になれる、その力の真髄を」
黒いゲッコウガが大きく片腕を引く。その手から弾き出されたのは小さな水の刃であった。
一発ごとの破壊力はさしたるものではない。ハハコモリが弾き落とすも、それは一発で留まる技ではなかった。
連射されたのである。
水の刃が連続してハハコモリへと襲いかかった。叩き落した直後に胴体を切り裂かんと迫った刃にハハコモリがうろたえる。
「水の、手裏剣か……」
ゲッコウガが跳躍し、片腕に「みずしゅりけん」の刃を内包したままハハコモリへと肉迫する。ハハコモリは応戦すべく片腕を掲げた。
新緑の刃と水の刃が打ち合い、お互いに激しく後退する。着地した瞬間、ゲッコウガが両手を合わせ水の手裏剣を発射した。
速射される刃をハハコモリは叩くも、その次にはもう、ゲッコウガは空間を跳び越えているのだ。
一時の場所に留まらぬ速度はまさしく、熟練の戦士であった。
ハハコモリの背後を取ったゲッコウガが刃を掲げる。ハハコモリはしかし、振り向きもせずその攻撃に応じていた。
背筋から無数の粘菌の糸が放出されゲッコウガの攻撃網をことごとく相殺していく。
「嘗めるなよ。ハハコモリは背後を取られたくらいで」
やられはしない、と言葉を継ぎかけたアーティは身体を拘束されたゲッコウガから放たれた無数の刃に息を呑んだ。
黒いゲッコウガは両手首と足首からクナイに近い刃を形成し、己への束縛を完全に解いたのである。
その様はまさしく全身これ武器。相手を威圧する武装の塊であった。
ゲッコウガがハハコモリへと追撃を見舞おうとする。ハハコモリは一度着地し、粘菌の糸による飽和攻撃を準備した。
ジム内に点在する糸が全て、矢のようにゲッコウガを狙い澄ます。四方八方から放たれる瞬間的な破壊力にゲッコウガは四散するか、あるいは立ち止まるしかないと踏んでいたのだろう。
だが、ゲッコウガは立ち止まるどころか、その領域に踏み込んできた。
アーティが苦々しく口にする。
「……愚かしい、という言葉は出来れば使いたくないんだが、この状況はそれに値する。進ませる事、愚直、と言うほかない。勝負を捨てたか、チェレン!」
しかし、チェレンは答えなかった。否、ゲッコウガの歩みが既に答えなのだ。
全方位から放たれる粘菌の矢をゲッコウガは怯みもせずに応戦する。
片腕の刃を拡張し糸を一つずつ切り裂いていく。だが、そのような速度で間に合うほど相手は生易しくない。
足元から弾き上がった矢がゲッコウガの胴体を射抜いたかに思われた。
「勝った!」
その確信に間違いはなかったのだろう。確かに、通常のポケモンとトレーナーならば、この速度には全く関知不可能。
通常ならば、の話ではあったが。
ゲッコウガの片腕が掴んでいたのはその矢じりの先端であった。胴体に命中するその一歩手前で防いだのだ。
水による皮膜でもなく、他の技でもない。
反応速度だけの、瑣末な差で。
掴み上げた粘菌の糸をゲッコウガが掲げてそのまま膂力に任せて振り回した。
ジムの内壁が崩れ落ち、ハハコモリの絶対防御のフィールドが瓦解する。
「そんな力技……ゲッコウガ、なのか、本当に……」
アーティの戦慄く目線を受け止め、ゲッコウガが全身を開く。四肢から放出された刃が身体に纏いつき、水の刃が赤く染まった。
瞳と同じ、紅蓮の赤を纏ったゲッコウガがハハコモリの領域へと歩み出る。
ハハコモリが両腕を払い、新緑の輝きを放った。
「ハハコモリ、最早手加減は無用だ! 何としても、ここで抑えろ! ハサミギロチン!」
粘菌の守りを完全に捨て、ハハコモリがゲッコウガへと駆け抜ける。相討ち覚悟の特攻はゲッコウガの真紅の刃とぶつかり合った。
片手に形成したのは、水でありながら灼熱の属性も誇る赤い手裏剣。ハハコモリの一撃必殺の刃と打ち合い、威力で勝った。
仰け反ったハハコモリへとゲッコウガが両手で手裏剣を担ぎ上げる。
肩に担いだ姿勢のまま、ゲッコウガは体躯を沈めハハコモリへと一閃を見舞った。
流れるような光の軌跡を残しゲッコウガの一撃がハハコモリへと食い込む。直後、全ての時が静止したように静寂が訪れた。
蠢いていた粘菌が停止し、ハハコモリの身に宿していた一撃必殺の輝きが消える。ゲッコウガの手にあった赤い手裏剣が光に溶けた。
途端、時が動き出す。
ジムの内壁が生命の鼓動を消し、ハハコモリが倒れ伏した。それらの事象を理解したのはアーティが最初であった。
ギャラリーのジムトレーナー達も、ベルも何一つ分かっていない。
この勝負の行方は決したと言う事を。
「敗北……、こんな、高みの勝負なんて」
慄くアーティがチェレンへと目を向ける。チェレンはその場に佇んでいた。それがどのように見えたのだろう。アーティが忌々しく口にする。
「それが、英雄の姿か……!」
「アーティさんが、負けた……」
ベルが観覧席からバトルフィールドへと駆け寄った。チェレンを労おうとしたのだろう。
だが、ベルがチェレンに触れた途端、彼はよろめいた。
最初、極度の緊張から解放されたためだとベルは思ったが、そうではない。チェレンの中に生命の光が存在しなかった。その瞳から生気が消え失せている。
「嘘……どうしたの、チェレン君」
揺り動かしても、チェレンは反応一つしない。その状況が異常だとようやく判じたアーティがチェレンへと駆け込んだ。
脈を取り、鼓動を診る。
「まさか、嘘だろう……今の彼に、生命反応はない」
放たれた言葉にベルは震撼する。
「どういう……」
「死んでいるんだ。見間違えようもなく、チェレンは」
――チェレンが死んだ?
悪い冗談だろうとベルは笑おうとするが、目の前の現実に笑う事すら出来ない。
目を見開いたままのチェレンは身動き一つしなかった。それを死と呼ばずして何と呼ぶのだろう。
チェレンの身から、魂と思えるものさえも見出す事は出来なかった。
「嘘、でしょう、チェレン君。いつもみたいに冗談だって……メンドーだとか、そういう事を言い出すんじゃ……」
チェレンの唇が言葉を紡ぐ事はない。勝利の感慨に耽るわけでもなかった。死者に、そのような反応は存在し得ない。
「医療班を! すぐにヒウンの病院に運ぶんだ!」
アーティの飛ばした声にジムトレーナー達がおっとり刀で対応する。全てが滑り落ちるように展開していく中、ベルはチェレンの肩を揺すり続けた。それでも、彼に一欠けらの反射も見られない。
「何で……だって死んじゃうなんて、おかしいよ。そんなの絶対、だって、チェレン君……」
どれだけ言葉を投げても、チェレンから反応はない。
その代わりのようにゲッコウガが声に応じていた。赤い瞳に宿しているのは、たった一体のポケモンの魂だけではないような気がしていた。
黒いゲッコウガにベルは掴みかかる。
「返して……、チェレン君を、返してよ!」
気が触れたのだと思われたのだろう。ゲッコウガからベルを引き剥がしたアーティは怒声を飛ばした。
「救急車を! すぐにだ! 速く!」
「いや……チェレン君、いやだよ、そんなの……」
咽び泣くベルの声だけが、勝利者などいない空白のジムへと残響した。