第78楽章「乙女の贖い」
ダークトリニティのもたらした報告はすぐさま矢のようにプラズマ団を突き抜けた。
反逆者を取り逃がした。そればかりか、処分したはずのヴァルキュリアシリーズの生存。
最初に報告を受け取ったのはヴィオであったが、彼は自らの荷物がまだ生き永らえていた事に苦虫を噛み潰す。
「ヴァルキュリアツー……死んだものだとばかり思っていたが……」
だからと言って、ここで騒ぎ立て、ヴァルキュリアスリーに出撃を促すほどの権限は最早残されていなかった。
今、ヴィオが対面しているのは自分を除く七賢人からの弾劾裁判である。
糾弾される側となったヴィオへと七賢人達が皮肉を放つ。
「これはこれは。放ったはずの爆弾が生きていた、となればさぞ肩身が狭いでしょうな」
「いっその事、現場に着任し、主諸共死すべき、ではないのでしょうかねぇ」
平時ならば自分は七賢人をリード出来る。だが、今は七賢人に日ごろの鬱憤を晴らすような謗りを許していた。
仕方あるまい。自分の遣わした手駒が裏切り、なおかつそれがプラズマ団に害を成すなど。七賢人の地位を追い立てられてもおかしくはなかった。
「処分は、何なりと」
「まぁ、急くものではあるまい。まだ一人、生きているのだろう?」
「ヴァルキュリアスリー、でしたかな。しかし、戦闘続行は絶望的だと」
「なればこそ、後始末に奔走すべきだろう。貴君はその責務を果たさなければならない」
相討ち覚悟でも自分の手駒を晒せ、と言われているのだ。事実、ヴィオはもうゲーチスを支援するべく持っている駒はない。
プラズマ団のため、という大義名分を被って動かせる私設部隊はもう存在しないのだ。これでは不利に転がるばかり。
ヴィオは抗弁の口を開いた。
「処分は甘んじて受けましょう。しかし、今の脅威は違うのではありませんか?」
「反逆者が一人から二人に増えようと、我らがプラズマ団の優位を揺るがすものではないよ」
「左様。目線を振り解こうとしても無駄な事。今、糾弾されているのは貴君である。それを一時でも忘れさせようという魂胆なのだろうが、徒労に終わるぞ」
普段は節穴の七賢人はこういう時にだけ監視が鋭い。他者を追い詰めている今が絶頂なのだろう。
「意味がありません」
「果たして、そうであろうかな? ここで貴君をプラズマ団より追放し、完全にその権限を消す事は七賢人の約定の範囲を守っても不可能ではない」
「そう致しましょう。七賢人、ヴィオの永久追放を!」
ここぞとばかりに声を張り上げる七賢人にヴィオは冷笑を浴びせた。
「……己が範疇にないと分かればこその声か。ですが、わたしを欠けばゲーチス様の支援に関わるのでは?」
「ゲーチス様はそれほど短慮ではない。貴君一人の穴くらいは埋められよう」
どう転がってもここで決着をつけたいらしい。
ヴィオは既にこれ以上の抗弁は絶望的だと感じていた。七賢人の内部からヴィオを排斥する動きがあるのだ。
やたらと騒ぎ立てても、事は速やかに進むのみ。
――ここまでか。
「では、七賢人、ヴィオの処分を決定する。七賢人の席より、その身を永久追放と――」
その時、弾劾裁判の部屋へと慌しく報告係が入ってきた。
「で、伝令!」
「控えろ。今は至急の用事以外……」
「愛の女神と平和の女神が失踪致しました! プラズマ団施設内にお二方の消息はなし。完全に……逃げ切ったと思われます」
「何だと?」
女神二人の失踪? ヴィオは突然の事柄に必死に頭を働かせる。
ヴァルキュリアスリーの策か? 否。そのはずがない。彼自身が動けるか怪しいほどの重態だ。だからこれは、自分の巡らせた策ではない。
しかし、好機ではあった。
これを自分の策だと七賢人に思い込ませる事で、こちらに優位な状況を作り出す。
ヴィオはにわかに嗤い始めた。
「何が可笑しい! 貴様、お二方をまさか……!」
「そのまさかですよ。この状況で、こうも都合よく話が通じるとは思いませんでいたがね」
悪役を演じろ。なに、慣れている事だ。
「貴様、ヴィオ! それがどのような罪悪なのか、分かっての所行か!」
「プラズマ団において、象徴たるお二人がいない場合、どうなるのか。今、N様は戴冠式を引き延ばされ、そうでなくとも玉座は空白。そのような状態の最中、もし女神までも失踪すれば」
「プラズマ団は象徴を失い、空中分解する……」
最悪の想定であったが、実のところそれはない。ゲーチスの事を視野に入れれば、その事態は免れるのだと理解するのだろうが、今の七賢人には余裕がなかった。
その横腹を突いてやれば、この事態は簡単に覆る。
「どうなさいますか? わたしの追放、が処分でしたね」
踵を返そうとするヴィオの背中を七賢人達が呼び止める。
「待て! 貴様をここで逃がすわけがないだろう」
「喋ってもらおうか。ヘレナ様とバーベナ様の居場所を」
ヴィオは口角を吊り上げ、顎をしゃくってやった。
「では、その席に今一度、座らせてもらえますかな?」
忌々しげに七賢人がヴィオを睨み据える。
「貴様……抜け抜けとよくも……」
「まぁ、待て。今は、仲違いの場合ではない。女神二人の奪還は急務である。七賢人、ヴィオ。今一度、その任を継続させる」
ヴィオはわざとらしく頭を垂れた。
「仰せのままに」
しかし目下の懸念事項は愛の女神、平和の女神の行方が分からぬ事。狸を演じようとしても、手がかりが一切ないのでは話にならない。
「それで、何処にいるのだね? お二方は?」
「それを今、お話しするとお思いですか?」
無論、その事実は引き延ばす。ここでは一秒でも長く七賢人の席にいられる事を重視せねばならない。
「そのような事が言える立場か!」
「では逆に問います。そのような事を仰られる立場ですか?」
ぐっと言葉を詰まらせたのが分かった。ここでヴィオを追放の憂き目に遭わせる事は難しくない。
だが、追放した後の事まで考え抜いているわけでもあるまい。逸った判断は身を滅ぼすくらいは頭が働くであろう。
ヴィオは悠々と、七賢人の席についた。
やはり支配者からの眺めは一味違う。
「七賢人、ヴィオ。すぐに教えるつもりはない、それくらいは分かる。しかし、意図くらいは教えてもらえないのだろうか。何故、お二方を?」
ここから先が腕の見せ所だ。どれほどの嘘を重ねられるのか。その嘘を如何にもっともらしく見せられるのかを。
「現状のプラズマ団において、愛の女神、平和の女神の求心力は高い、と判断します。しかしながら、お二方を欠けば、末端構成員の意欲は下がるでしょう。それこそ、象徴を失うのです。彼らの心の拠り所がなくなる」
「分かっていてやったのか。何のために……」
「真に組織の力を試すため、ですよ」
その言葉にここでの代表を務める七賢人がほうと感嘆の息を漏らす。
「真に組織の力を? その心は?」
じっとりと汗が額に浮かんでいるのを隠しつつ、ヴィオは瞬きさえもせずに口にしていた。
渇いた喉がひりつき、嘘を発する度に痛みさえも生じさせる。
「プラズマ団はシンボルで出来上がった組織。その実、組織としての熟練度は遥かに劣る。過去、四十年、五十年の間に出来上がった地下組織の例を見るまでもなく、我がプラズマ団は脆弱。それは何故か、考えた事がお在りですか?」
「馬鹿にしているのか! 組織の事を考えない重役が存在するとでも?」
「ではお話しください。このプラズマ団という組織の強みを」
逆質問にたじろぎつつ、相手の七賢人は応じる。
「……ポケモンの解放を謳い、それによって少しずつイッシュを掌握する。その過程でN様という王を戴き、イッシュ英雄伝説に倣った方法論で、このイッシュの実権を支配する」
百点満点の答えにヴィオは拍手を送った。
「よくお分かりで」
「嘗めるのも大概にしろ! 貴様、先ほどまで糾弾されていたのを忘れたか!」
「ではイッシュ英雄伝説の再現に当たり、必要なものは? N様だけではございますまい。英雄だけでは成り立たない。そう判断したからこそ、我々七賢人が居るのです」
ヴィオの言葉の赴く先を代表者が引き継いだ。
「つまり、このままやっていても英雄伝説は再現出来ない、と?」
ヴィオは深く頷く。イッシュ英雄伝説の再現に必要なものは明らかに足りていない。それを分かりやすく七賢人達に分からせなくてはならない。
その過程で必ず、己の存在意義が出てくるのだと、理解させなければ。
「かつての英雄に関する資料は乏しいですが、英雄は兄弟であった、という記述があります。合わせ鏡のような兄弟は争い合い、理想と現実を体現するポケモンでイッシュを焦土に変えた。ここで着目すべきは、兄弟である点、さらに言えば、その理想と現実が合わせ鏡である点」
その段で一人の七賢人がハッとする。
「まさか、そのための二人の女神……」
「理解が早くって助かります。そうですとも。お二方は合わせ鏡。まるで姉妹のように育ってきた。しかも、そのお二人は、N様の幼少期の人格形成に影響を与えている。つまりは半身も同然」
「イッシュ英雄伝説の再現に、愛の女神、平和の女神は必須、というわけか……」
無論、そこまで考えているはずもない。ここで話しているのは全て、でっち上げだ。だがでっち上げこそ、時に真実よりもそれらしく聞こえるものである。
「その通り。お二方を利用せずして、英雄伝説の再現はあり得ない。つまり、プラズマ団の隆盛も然り」
「だが、その二人を何故、今回、手の内に置いた? それこそ組織としての退廃を示す」
ヴィオは指を振り、その考えを棄却する。
「N様にその気がない今、お二人の身柄は押さえておいたほうがいい。いざという時、切り札になります」
「N様を説得するための手段、か。確かに今のN様に、玉座に至る気がないと言われればその通りかも知れんな」
以前のヴァルキュリアスリーとの模擬戦がここで活きてくる。Nに自ら王になるという意思は少ない。だがその実力を疑問視する者は最早ここにはいなかった。
「女神二柱の存在はN様にとって精神的支柱、それは間違いありません。それを押さえておく事で我ら七賢人に権限が委譲され得る、とは思いませんか?」
嘘と詭弁で塗り固めた理論でありながらも、七賢人達はその言葉に乗っかってくる。
「つ、つまり……我々の優位に運ぶため……全ては我らのためだと?」
自分達に優位だと分かれば見境なく、彼らはその意見に耳を傾ける。ここに来て厚顔無恥な者達がその本性を現した。
先ほどまでの糾弾の空気は最早存在しない。ヴィオがこの場の空気を制圧していた。
「その通りですとも。N様が組織のために動かれるか、と問われればノーですが、二人の女神のため、誰かのために動くか、と問われればイエスです」
そう、Nはプラズマ団の利益のために生きている節はない。あくまで、己の意志に準じている。だからこそ、つけ入る隙は個人的思想にこそあった。
「N様は人を捨て置けぬ考えの持ち主。確かに、あのお方を動かすのならば女神二柱の存在をもってしかない、か」
誰もが納得の空気を呑もうとしている中、代表者が重々しく声を発する。
「だが、その事実と、ヴィオ、貴君の処遇とは別の話」
忘れかけていた事案を呼び起こされ、ヴィオが苦々しい思いを噛み締める。
「……ですがわたしの身の振り方次第で、女神はどうとでもなりますよ」
「脅迫かね。貴君らしくない。場を制圧したつもりであろうが、話は別と言っているだろう。この場でどうあるべきか、という事と、七賢人としての権限をどうするか、は別種なのだ。ヴィオ、貴君の七賢人としての権限を完全抹消する」
言い切ったその声音にヴィオが息を呑んだ。他の人々が慌てて声にする。ここでヴィオを解任されれば、女神二人の行方が分からないままだ。
「それは早計が過ぎます! まだ、ヴィオ殿にはやってもらうべき事が!」
「その通り。判断が早過ぎるのも考えもの。ヴィオ殿には継続して、七賢人としての職務を全うしていただくべき……」
「貴君らの目は節穴か」
その言葉に絶句する他なかった。目の前に吊り上げられた餌に飛びついた、無知蒙昧なる人々を七賢人の長は糾弾する。
「ふ、節穴などでは……」
「女神二人の行方は急務です!」
「七賢人として、ヴィオ殿にはこれまで通りの働き、否、これまで以上に関わってもらうべき……」
「ここでヴィオ候を赦せば、なるほど、女神二人を利用してN様の行動を制する事の出来る、武器は手に入るであろう。しかし、罰するべきを忘れ、その罪すらも忘れた末に待っているのは愚行。ヴィオ候。ここで貴君を罰するべき弾劾裁判が行われていた。つい先ほどまで、貴君は窮地であった。それが一転して、この場においてなくてはならない存在と変わる。これは果たして、偶然かな?」
唾を飲み下す。代表者の声音にはこの場のヴィオが仕組んだ策など瑣末にも等しいという重々しさが宿っている。
ここで逃げおおせる事など許さぬ。決して、ここで逃げる事は敵わない。
額を伝う汗にヴィオは必死に抗弁を発しようとした。ひりついた喉から声を発しようとして、言葉に詰まる。
「わ、わたしはプラズマ団のため」
「組織のために死ぬというのならば、貴君は今、死ぬべきである」
断じた声の冷たさにヴィオは首裏に冷や汗が噴き出したのを感じ取った。
這い登るのは恐れ。震え出す歯の根を止められず、ヴィオは繰ろうとした言葉さえも忘れてしまう。
「わ、わたしは……」
駄目だ。これ以上、弁明の口は開けない。
女神二柱の身柄があると誤認させているとは言え、それは張りぼての詭弁。通用するのは所詮、舌先三寸でどうにかなる連中だけだ。
七賢人の長。彼だけには通用しない。自分の弄した策を嘲笑と共に踏みしだいていく。
――騙し切れないか。
折れかけた心根に、差し込んできたのは報告係の言葉であった。
「や、やめましょうよ! 今は、女神二人の救出が急務のはず。上がごたごたしている場合では……!」
下っ端の言葉がここに来て生きてきた。七賢人の長が僅かに冷静さを取り戻したかのように言い返す。
「貴君は黙っていよ」
「いえ、黙れません! 聞いている限りでは、ヴィオ様を除いて女神二人の奪還はあり得ないのでしょう? だとするのならば、我々プラズマ団下位部隊が敵となります」
下っ端全ての裏切り。その言葉に他の七賢人がほうと感嘆の息を漏らした。
この場での反論は打ち首獄門に値する。だが、七賢人の長に命知らずの団員は口ごたえした。
命が惜しくないのか、とヴィオが窺ったが、その瞳に宿していたのは使命の光だ。
――ここで女神を救えずして、何がプラズマ団か。何が王に連なる者達か。
愚直でありながら、彼らが勇敢であった事を、これほどまでに痛感した過去はない。
このプラズマ団の一報告係は己の命など度外視して、お歴々に喧嘩を吹っかけたのだ。
それは身分もないプラズマ団下っ端だからこそ、出来た行動であった。
七賢人の長がその勇気に、フッと口元を緩めたのを感じ取る。
「……よかろう。確かに上で騒いだところで、女神が戻ってくる保障はない。貴君の言う通りだ。我々は急き過ぎている。結果は、慌てたところで出るものでもあるまい」
「で、では、この弾劾裁判は……」
「一度閉会する。そうでなければ、女神の行方すら、ようとして知れぬのだからな。ヴィオ候、貴君の首、皮一枚で繋がっていると知れ」
その警句を潮にして七賢人の長が閉会を発する。ヴィオははからずして下っ端に助けられる形となった。
立ち去っていく顔の見えない七賢人達の気配が引いてから、ヴィオは報告係を見やる。
「……助かった、とは言わんぞ。下っ端が七賢人の長に口ごたえなど、この場で殺しが起こってもおかしくはなかった。とんだ愚行だ」
その言葉に報告係が頭を垂れる。
「も、申し訳ございません! しかしながら、女神お二方の安否、どうしても自分には見過ごせなかったもので……!」
愚直が過ぎる。ヴィオは息をついてから、命知らずの青年の顔に視線をやった。
「……よい。わたしも一度、体勢を立て直さなければ。負け試合を続けるのは性に合わん。貴様、名は何という?」
新緑の髪をベリーショートに刈り上げた青年はフードを取って名を告げた。
「――ニーア、と申します」
目に沁みるのは、透き通る青空。
鳥籠に囚われたままだと思っていた身は、思いのほか簡単に外に出る事が出来た。
ヘレナは一人のプラズマ団員の助けを得ていた。どうしてだか自分達の脱走計画に手を貸し、その身分さえも明かさない奇妙な団員であったが、彼の助力なしで抜け出す事は不可能であっただろう。
「ヘレナ、一度連絡を。彼は三時間おきの定期通信を、と言っていた」
ヘレナは最新式のホロキャスターを取り出す。組織の逆探知電波の届かない新型である。
それを手渡した彼はどうしてだか一度も顔を見せなかった事を思い出した。
「そうね……、彼に連絡をしなければ」
数回のコールの後、相手先は受け取った。
『脱出に成功したようですね。おめでとうございます』
その声が誰かに似ているような気がしてならないのに、誰なのかは思い出せない。
「私達を逃がすのに助力して、貴方は……」
『ご心配には及びません。お二方の脱出、それも込みでの作戦です』
「作戦、ね。貴方のその言葉振り、好きにはなれないわ」
フッと、通話先が微笑んだのが分かった。
『ですが作戦と呼ばずしてどうしろと? お二人はそこから西方、ドラゴン使いに助力を頼むとよろしいかと存じます』
「西方……」
仰いだ空を鳥ポケモン達が横切っていく。ここはもう外なのだ。しかも前回のように何者かの意図が生じて出たわけではない。自らの意思で、プラズマ団には身を置けないと判断した。
計画済みの脱出。二人の女神の不在がプラズマ団にどのような波乱をもたらすのか、推し量る事しか出来ない。
「私達は、でもあの場所で死ぬか、生きていても生き地獄しかなかった……」
あのまま静観するくらいならば舌を噛んで死んだほうがマシだ。それくらいは覚悟出来るほど外の世界を知った。
あの日、あの森の日々を取り戻すのには待っているだけでは駄目なのだと。
「ヘレナ。見て」
バーベナの指差した先で鳥ポケモンが巣を作っている。自然の風景にバーベナは声を弾ませた。
あの森と同じだ。まだ、世界は終わっていない。
微笑みかけてから、ヘレナは交渉の声を吹き込んだ。
「でも貴方だって、死ぬくらいの覚悟がないと出来ないはずでしょう? 脱出のほう助なんて」
『自分も、我慢ならなかっただけですよ』
この下っ端にもしもの時、全ての泥を被せて自分達はプラズマ団に戻れるようになっている。だが、あまりに都合よく行き過ぎではないだろうか。そこまで世の中、うまく進むはずがない。
「西方に待っているのが地獄でも、私達は進むしかないのね」
『ドラゴン使いのシャガ様と言えば人格者ですよ。彼ならばあなた方の身柄、邪険にはしません』
「本当かしら。でも、そこしか、行き場所はないのね」
プラズマ団の城壁から逃げ出した自分達には進み続けるしかない。
そうする事でしか、己を示せないのだ。Nに、この世界に、生きている証明を刻めない。
『あと一つ助言を。自分以外のプラズマ団員の接触は全て罠です。あまり安易に他人を信じられませんよう』
「その論調なら、貴方も信じられないけれど」
顔も見せず抜け抜けとよくも言う。その論法に相手は笑った。
『ぐうの音も出ませんね。信じてください、と言えば嘘っぽい。そうですね、あなた方の身柄の安全こそが、自分の仕事の証明です』
今のところ追っ手はなし。この状況そのものが彼の力、というわけか。
しかし、解せないのはその力の行方である。一プラズマ団員が最新型の通信機を用い、なおかつ幹部連を騙し切れる、という自信。それが分からない。
「……貴方、何か隠している事がお在りなのではなくって?」
『隠し事なしで、あなた達を逃がせるとお思いで?』
そう逆に問われれば自分は何も言えない。その沈黙を悟ってか、通話先の相手は和やかに笑ってみせる。
『ご安心を。お二人をそう易々と売り渡すような真似はしませんよ。あなた達はプラズマ団の精神的支柱。何より、N様の理解者。無下に扱うはずがない』
その言葉振りもどこか嘘くさいが今は信じるしかない。最後に、とヘレナは口を開いた。
「あなた、名前は?」
「ニーア、と呼んでいただければ」
聞かぬ名だ、と思いつつ、ヘレナは言葉を結んだ。
「結構。ならばニーア。貴方を一応は信用します」
『一応は、か。それは信じてない人間の言い草ですね』
「信じられたかったら私達の旅路を確保する事ね。それしか貴方の証明材料はないのだから」
『手厳しい。ですが、約束しますよ。お二人にきっと、幸あらん事を』
通話が切られる。ヘレナは息をついてこれからの事を思案した。
組織からの追っ手はない。だからと言ってゆったりとしている時間はないだろう。
「今は、一歩でも、か」
前に進むしかない。バーベナのほうに振り返ると、彼女は木の実を鳥ポケモンにあげていた。
彼女は優しい。女神の名を冠するのはその優しさゆえに。だが、脆さも併せ持っている。
自分のように一度人を勘繰る事を覚えてしまえば、それは墨のように心の中を占めていく疑念となる。
Nも同じ事を感じたのだろうか。あまりにも純粋なる存在であったNは、外の世界を知り、己の限界を知り、なおかつこの世界の殻を破ろうとしている。
外の世界には希望はないかもしれないのに。彼は変えようとしているのだ。全てを。世界を敵に回してでも。
もう純粋であった頃には戻れない。戻れない自分達はせめて、泥に塗れ、土を踏んで生きていくしかないのだ。血に汚れた道であったとして、後戻りなど許されるものか。
「バーベナ。行きましょう。今度は、私達自ら、世界を見定めるための旅路を」
世界に品定めされるのではない。世界を見るために。自分達は旅に出る事を誓う。
バーベナは鳥ポケモン達を名残惜しく見送った後、一歩を踏み出した。
鳥籠の中の姫君が歩んだ一歩はしかし、世界を試す一歩であった。