FERMATA








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六章 英雄の座
第77楽章「青蛾月」

 たった一撃。

 だが、それだけで理解出来てしまった。
 
 ――勝てない、届かない刃を。

 テラキオンの金剛石のように輝いた角の一撃を前に、ケルディオが何度目か分からないくらいに立ち上がる。

 その無謀さ、無鉄砲さにダークトリニティの一人が呆れ返った。

「……少しは理解したほうがいい。貴様では私達には勝てない」

 そうだとも。勝てない。それはノアが分かっているのに。

 ――ケルディオは倒れないのだ。

 一度として、ケルディオは膝を折る事はない。屈しない、という瞳を向けたまま、何度も「せいなるつるぎ」の出し損ないの技を使う。

 だが出力を絞った聖剣は、その身に負荷を強いるのみであった。

 テラキオンに突き飛ばされ、ケルディオが地面を滑る。

 まだだ、まだ倒れない。ケルディオの精神の強さに、ノアのほうが根負けしそうであった。

 ケルディオは真っ直ぐにテラキオンを見据えている。どうしてだか、今までのどの局面よりも強情であった。

「度し難い、とはこの事か。言っておくが、私を奇跡的に倒したとしても、貴様の前に立つのはプラズマ団の闇を背負う覚悟を負った二人。さらに言えば、我々よりももっと強い王の存在。貴様に、打つ手などないのだ。最早、詰みである」

 言われずとも分かっている。だが、相棒が歩みを止めないのだ。ケルディオが倒れてくれないのだ。

 打ちのめされているのに。テラキオンの前で倒れるのがまるで一生の屈辱とでも言うように、ケルディオは刃を携える。

「……分からぬのはそのポケモンも同じ、か。ケルディオ、珍しい、と言ったが知らぬポケモンではない。ケルディオは我らが系列に連なる個体。出でよ、聖なる闘者達」

 ダークトリニティの残り二人がボールを放る。

 迸った光が電磁を帯びてポケモンの姿を成した。

 一体は眩しいほどの新緑の色を携えたポケモン。その眼差しから高貴な井出達が醸し出されている。

 もう一体は、群青の青を身に宿したポケモンであった。曲がりくねった角が戦士の威容を漂わせ、瞳がケルディオを睥睨する。

 どちらも見た事もないポケモンであった。

「この、二体は……」

「緑のほうはビリジオン。青のほうはコバルオン」

「この三体は同じ技を使える。貴様のケルディオと同じ、聖なる剣を振るう事を許された特別なポケモンだ」

 聖なる剣を振るう事を許されたポケモン?

 どういう、と問い質す前に、テラキオンが再びケルディオに突撃した。ケルディオが水の皮膜を張って防御するも、最早限界なのは目に見えている。

 三体の闘者のポケモンがヒウンの街に揃った。

 それぞれの醸し出すオーラだけで気圧されてしまいそうになる。

「我々はこの三体を操り、ゲーチス様に光をもたらす者」

「プラズマ団のための天地をこの清浄なるイッシュにもたらすため、その身を粉にする覚悟をした者達」

「問おう。貴様に、覚悟はあるのか? 反逆者、ノア」

 覚悟。その言葉に硬直したように動けなくなった。

 問われれば、自分はここに至るまで覚悟をしたのだろうか。戦う時は負けるのが怖い。刃を振るう時は斬られるのが怖い。

 だから斬り返した。戦い返してきたのみ。

 全ては恐怖から発している感情。あの未来に至らないためにこの時間軸を生き抜く。そのつもりであったはずなのに、いつの間にか、自分はこの時間軸での安息を求めていた。

 戦わないで済むのならばそれでいいではないか。

 争わないでいいのならば、それでいいではないか。

 そのほうが幸福だ。そのほうが利にかなっている。己を騙し、自分を偽り、その感情の矛先を変え、そして、自分の行き着く場所を見誤った、ただの小さく、弱い存在。

 それが、偽りの名の終点。「ノア」という存在の終焉。

「……どうやら、貴様には覚悟がないらしい。ここで潰えろ」

 テラキオンが角を突き上げる。今度こそ、自分とケルディオ、両方を消し去る技が来るであろう。

 だが抵抗も出来ない。

 この瞬間に、自分がこうも無力であるのを理解してしまった。自分がどこまでも夢想家の域を出ない、戯れ言を吐いていたのだと分かってしまったのだ。

 ならば、ここで死ぬのも未来の終点としてみればありか。

 金剛石の刃をその身に受けようとした、その時であった。

「エンブオー! フレアドライブ!」

 水滴を蒸発させ、エンブオーの丸太の両腕がテラキオンの突撃を相殺させる。

 どうして、と問う前に降り立ったヴイツーが声を荒らげた。

「この馬鹿野郎! 帰るのが遅ぇからアデクの爺さんと手分けして探したらこのザマかよ!」

 雨に煙る空気の中、ヴイツーがテラキオンと、その傍に侍るダークトリニティを見据える。

「……ヴイツー、駄目だ。彼らは」

「分かってんよ。ゲーチスの守りだな。ダークトリニティ。いざ目にするとその気迫、半端ねぇな」

 分かっていても彼は退かないのだろう。否、分かっているからこそ退けない。

 自分が、彼らの踏み台であった事を、認めないために。

「その姿……話にあったN様の……。なるほど、貴様がヴァルキュリアシリーズか」

「その名は捨てたんでね。今はヴイツーだ」

 エンブオーと目配せしたヴイツーにダークトリニティが鼻を鳴らす。

「なるほど。無策、無謀にもプラズマ団を裏切った、反逆者。この際だ。一人が二人に増えたところで変わるまい。ここで消し去ってやろう」

「どうだかね。おれは結構手強いぜ」

「生き意地が悪い、の間違いであろう!」

 テラキオンが岩の刃を構築し、エンブオーへと追突する。岩の一撃は炎の属性に効果抜群のはずだ。

 まずい、と思ったその時には、エンブオーが片腕を大きく引いていた。

「炎のパンチ!」

 火の軌跡を棚引かせる拳がテラキオンと真っ直ぐに打ち合った。その衝撃波に岩の刃が砕け散る。

「案外、脆いもんだな。そっちの守りはよ!」

 立て続けに攻め立てようとするエンブオーにダークトリニティは、なるほどと判定する。

「猪突猛進。見た目通りのパワータイプか。さて、だがこれで」

 その指が鳴らされた途端、地面から岩の刃がせり上がった。恐らくは罠を張っていたのだ。

 はめられた、と思った時には、エンブオーの腹腔に刃が深々と突き刺さっていた。

 しかし、血の一滴も出やしない。その違和感に気づいたのは相手が先であった。

 振り仰いだ視線の先に、空中で身体を回転させたエンブオーが大写しになる。

「……身代わり」

「だから言っただろうがよ。おれは結構、手強いってな!」

 霧散する「みがわり」の代わりにエンブオーが炎の鉄拳をテラキオンに叩き込む。

 しかし、テラキオンも負けてはいない。蹄を打ち鳴らし、強靭な角で攻撃を打ち返した。

「前に進むしか見えないようだな。その腕叩き切ってやろう」

「出来るのかねぇ。今しがたの攻撃を見抜けなかったマヌケが」

「……口だけは達者だな。似姿風情がっ!」

 呼気一閃で放たれた金剛石の刃を潜り抜け、エンブオーがテラキオンの至近に至る。だがその距離は同時に相手の攻撃範囲でもあった。

「ぬるいぞ! たわけが!」

 テラキオンが足を踏み鳴らす。地面が鳴動し、エンブオーへと間断のない攻撃が打ち込まれる。「じしん」だ。だが、エンブオーは返す刀の腕を大きく振るい返した。

 そのまま砲弾のように地面に掌底を打ち込んだのである。途端、鳴動する感覚が失せていった。

「地震を、相殺した、だと……?」

「強くならなきゃついてけない連中なんでね。それなりに強さ、極めさせてもらったぜ」

 エンブオーが衝撃波の棚引く腕を引き、ファイティングポーズを取った。いささかの衰えさえも見せないその立ち振る舞いには、改めてノアは戦士の威容を感じ取る。

 そうだ、彼は元々、プラズマ団の闇を背負っていた尖兵。ダークトリニティへのカウンターとして造られた戦士であった。

 彼がダークトリニティと打ち合える事は何も不自然な事ではないのだ。

 テラキオンが主人の舌打ちと共に下がる。このまま継続戦闘が無意味であるとの判断であろう。

「……エンブオー、ヴァルキュリアシリーズの二番目か。悪くはない。相性上の優位を物ともしない、その戦い振り、賞賛に値するであろう」

「あんがとよ。褒められても何も嬉かねぇがな。さて、てめぇら、ここで退くかい?」

「――冗談」

 テラキオンが足を擦る。その動作にエンブオーを操るヴイツーがハッとした。一動作に過ぎないその瞬間、岩の結界が周囲へと展開される。

「ステルスロック……今の今まで張るためにここでやり合っていたわけかい」

「どう出る? 貴様はその反逆者を、生かすために来たはずだ。このまま戦い合っていても、消耗するのはそちらだぞ。逆にテラキオンはまだまだやれる。そもそもステルスロックの展開に全く気づけなかった時点で、貴様らの敗色は濃厚」

「ちぃとばかし、まずいってわけだ」

「……言葉も過ぎるな。貴様、この状況、分からぬわけではあるまい」

「よぉく理解しているつもりだぜ? 囲まれた上に、目の前には相性上では不利な相手。加えてノアを、こいつを生かすために来たってのに、ミイラ取りがミイラに、じゃ意味がねぇ」

「……選択は賢いほうがいい」

 エンブオーを操るヴイツーは舌打ちと共に拳を振るい下ろした。

「エンブオー!」

 呼応したエンブオーが鉄拳を打ち下ろす。その途端、拡散した衝撃波が岩の波を削いでいった。

 一時的にせよ、無効化された「ステルスロック」の檻をエンブオーの脚力とヴイツーが駆け抜ける。

 エンブオーに抱えられ、ノアとケルディオは戦線を離脱していた。

 ヴイツーが捨て台詞を吐く。

「また会おうぜ。今度はもうちょっとマシな戦闘でな」

 ダークトリニティにこちらを追う気はないようであった。しかし、ノアはもがく。

 ここで、ダークトリニティを逃がせば、確実に自分達は追い詰められるであろう。自滅覚悟でもここで足止めをしなければならないのだ。

「ヴイツー……! でもここで退くよりも、戦ったほうが……」

 その横っ面へと張り手が見舞われた。熱い頬をさすり、ようやく叩かれたのだと思い知る。

「自惚れるんじゃねぇ! 今、てめぇは一切動けなかった。このままやっていても、ケルディオを苦しめるだけって分からねぇのか!」

 ケルディオを苦しめるだけ。

 ケルディオはエンブオーに抱えられ、項垂れていた。一度として膝を折らなかった相棒は憔悴し切っている。

 いくらポケモンの言葉が分からぬようになったとはいえ、ポケモンの状態まで分からなくなったわけではない。

 戦闘継続は絶望的であった。

「でも、ヴイツー……。ボクは彼らを、ここで足止めしないといけないんだ」

 抗弁を発したノアに二度目の張り手は来なかった。代わりのように言葉が投げかけられる。

「未来をどこまで知っているのか分からないけれどよ、てめぇがここで犬死する事が、未来にプラスに働くとは思えねぇな」

 にべもない。自分はここでは口を閉ざしすしかなかった。

「でも、ヴイツー……、ボクは、なんて弱い……」

 ケルディオに負担をかけさせてしまった。それだけではない。ダークトリニティを侮り、彼らに勝てると自惚れた。

 その結果がこれでは再起も難しい。

 だが、ヴイツーはあえてか、優しい言葉はかけなかった。

「ケルディオは立ち向かった。だがトレーナーであるてめぇがそれじゃ、ケルディオも本気出せねぇよな。覚悟、か。連中の弁じゃないが、てめぇ、本当に覚悟してんのか? 覚悟して、そこに立っているのかよ?」

 分からなかった。返事も出来ない。覚悟してここに立っているのか。その問いに返せるだけの自分はない。

「……覚悟した、そのつもりだった。でも、つもりだけだったんだ。今まで、うまく回り過ぎていた。ボクの本当の実力で、本当の覚悟で、戦っていたわけではなかった」

 全ては周囲の助けと何よりもケルディオの存在の大きさ。

 それを理解せずして暴れ回った結果がこれでは立つ瀬もない。

「……まだ理解するくらいの頭があるのなら、マシだと思いな。これから先、てめぇが本当にプラズマ団に対抗出来るのか、あるいは繰り返すだけなのかを決めるのは、何よりもてめぇ自身の、覚悟なんだからよ」

 覚悟。

 その言葉にノアは掌に視線を落とす事しか出来なかった。

 雨はその心を他所に強く叩きつけてくるばかりであった。













「コーヒーくらいは出そう」

 セーフハウスはヒウンの一等地に存在した。ビルに塗れたこの街では人が住めるのか怪しいほどであったが、住居ビルの屋上に居を構えたアーティの部屋は思っていたよりも簡素である。

 ささやかな作品が壁にかけられており、トロフィーが部屋の隅にあるのみ。

 あとは生活に必要最低限なだけのキッチンと、別棟に区切られている一室のみ。

 本当に人が住んでいるのか、と訝しげなベルにアーティは微笑みかける。

「たまにしか来ないんだ。大体はジムで片付くからね」

 椅子を差し出したアーティに対し、チェレンは座ろうとしなかった。代わりのようにベルが視線を彷徨わせる。

 アーティが席を譲った。

「座るといい。長話になるかもしれない。それに、酷い雨だ。お茶にしよう」

 叩きつける雨音を聞きながら、アーティがコーヒーメーカーを抽出する。ベルはおっかなびっくりに椅子を引き寄せた。チェレンは、というと窓の外を見やったまま、立ち竦むばかり。

 来客なのだ、という意識もないのか、呆然とした瞳が映すのは暗い光であった。

 一分もせぬうちにコーヒーの芳しい香りが運ばれてくる。三人分のマグカップをテーブルに置いたアーティは柔らかく言いやった。

「別に、恥じる事はない。あれはジム戦では使わない、全力のポケモンだ。だから、規格外の戦闘だったと思えばいい」

 慰めてくれているのが分かったが、それはチェレンにとって一番に痛いのだろう。彼はアーティを一顧だにしない。

 差し出されたマグカップをベルは手に取る。チェレンを呼びつけるだけの言葉を自分は持っていない。

 口に含むと、僅かに苦味が勝ったが、ベルは笑ってみせた。

「おいしいですね」

「だろう? アローラで取れた貴重な豆だ。高山地帯でしか産出されないものらしい」

 アーティは一口飲んでから、ベルのほうに向き直った。

「あの強かったトレーナーを、君達は知っているんだね?」

 予感もあったのだろう。ベルはチェレンを窺う。彼は口を開こうともしない。

「……はい。トウコお姉ちゃんの事は、あたし達の、その……憧れみたいなもので」

「ああ、とても強いトレーナーだった。その眼差しの赴く先も。王者になる、と息巻いたその気迫も。他のトレーナーの追従を許さないだろう。あれほどのトレーナーに出会ったのは久しぶりだ。つい昂ってしまって、ハハコモリを使ってしまった」

 先ほどのポケモンの事だろう。ベルはアーティもどこか恥じ入っているように見えた。

「ハハコモリ、強かったですね」

「対人用には出来ていない。最初に育て上げたハハコモリだ。本気で戦う時、それこそイッシュの国防に関わってくる場合にのみ、使用すると決めていた。トレーナー協会からも使用厳禁を食らった代物だよ。それくらい強いんだ」

 だから何も敗北を恥じる事はない。言外に付け加えたアーティであったが、チェレンは言葉を返さない。

 鉛を呑んだように彼は沈黙していた。

「……チェレン君。ここまで言ってくださっているんだから、せめて座ったら……?」

 ようやく切り出せた言葉にチェレンは冷たくあしらう。

「どうして。僕は心を許していない」

 平時よりもなお研ぎ澄まされた刃のような声音。断絶を感じ取ったベルに、アーティは言いやる。

「好きにするといい。ここにいる以上、君らは客人だ。それに、君のゲコガシラはとても強かった」

 圧倒された相手から言われても、それは皮肉にしか聞こえないのだろう。チェレンは鼻を鳴らした。

「だから?」

「ポケモンを、何も強さの鏡だとばかり思わない事だよ。彼らは我々に、生きる道さえも見出させてくれる隣人だ。よき隣人に、謙虚な態度を取れば、自ずと道は拓ける」

 チェレンの生き方を矯正しろ、と言っているように思われたに違いない。チェレンは眉を跳ねさせ、怒声を上げた。

「だったら……だったらお前らは! せいぜいそれで満足するがいいさ! 僕は違う!」

「違わない。ポケモンを愛する心は人一倍。それは一度矛を交えれば分かる。彼女もそうだ。トウコも、そうであった」

「知った風な口を利くな! あの人はそんなんじゃない!」

「いや、そうなんだ。戦えば分かる。負ければ分かる。勝っても、分かったかもしれない。彼女の前に、自分は通過点でしかないと」

 言葉を呑んだチェレンにベルは口を差し挟んだ。

「その、トウコお姉ちゃんは、元気でしたか?」

 そんな事しか聞けない愚図。

 分かっていても、自分は鈍感でノロマをやるしか出来ないのだ。アーティは首肯して微笑みかけた。

「ああ、パワーに溢れた少女だった。何ていうのかな、彼女の心意気を前にすれば、清々しい風が吹き抜けるというか」

 それは自分達の知るトウコとは正反対であった。彼女は娼婦の娘。カノコタウンに安息はなかった。

 彼女の居場所を作るのが、自分達二人の役目。

 だが、一方的に捨てられた自分達は彼女を憎むか、あるいは追い求めるしかなかった。そうする事でしか、胸の穴を埋められなかったのだ。

 トウコを喪失した虚無。己の中にあった満たされていた感覚を。

「清々しい風? あの人が、そんなものを起こすはずがない」

「信じてくれ、とは言わないよ。旅で人は変わるもの。自分で思い知った事をそのまま言っているだけだ。妄言、虚言と思ってくれてもいい」

 アーティは思いのほか謙虚であった。自分達が押しかけた形なのに、何もてらうところはない。

 その態度がチェレンを苛立たせたのだろう。彼はアーティに言葉をぶつける。

「あんたの言っている事は嘘だらけだ。どこにも本当なんてない」

「そうかもしれない。所詮、一時戦っただけのトレーナー。言ったろ? 通過点だったって。だが、通過点だからこそ、分かった事もある。彼女の胸には故郷があるのだと」

「故郷?」

 問い返していたのは、それを完全に捨て去ったのだと思い込んでいたから。

 あの日、振り返らなかった旅路に、彼女は故郷を捨てたのだと思い込んでいた。

 故郷ごと、自分達の友愛は消え去ったのだと。それをチェレンも痛いほどに感じていたはずだ。だからこそ、その言葉が許せないようであった。

「嘘だ! あの人は故郷を捨てた!」

「嘘じゃない。これは、嘘なんかじゃないんだ。胸の中に故郷のある強者は、自ずと瞳に真っ直ぐな輝きを宿す。何人のトレーナーと戦ってきたと思っている? その辺りは、こちらを信用して欲しいな。伊達にジムリーダーをやっているわけじゃない」

 だが、それを認めてしまえば、チェレンの中の憎悪は空回りする。だからこそ、彼は容易にはその意見を呑めなかった。

「だったら……だったって言うのなら……何で一度として振り返りもしなかったんだ。あの時、それくらいは出来ただろうに」

 悔恨の言葉が滲む中、アーティが静かに切り出した。

「これは憶測だが……彼女は故郷を愛していたが、非情にならざるを得なかった。非情なるトレーナーになる事でしか、それまでの自分と決別出来なかったのだとすれば? 王者の座を求め、他人に息巻く。それは、とてつもなく勇気の要る事だ。それを、誰彼構わず言っているわけじゃないだろう。彼女とて胸に矜持がある。だからこそ、本気を出してくれた。その本気に応えられた事、誉れと思えどすれ、後悔はしていないよ」

 だったなら、トウコは最初から、カノコを見捨てていなかった事になる。チェレンに視線をやったベルは絶句した。

 今まで信じていたものを失い、これから信じるものも失ったチェレンの眼が戦慄く。彼からしてみれば、トウコへの憎悪と競争心だけがここまで来る原動力であった。それを根っこから否定されたとなれば、支えるものは消え失せる。

「でも、だったら僕は……何で。どう思えばいいって言うんだよ。あの人がそういう、非情な人間だと思っていたから、だからここまで来られた! ここまで否定するつもりでいられた! だって言うのに、これじゃ……」

 自分の意思はまるで意味がないようで。継ぐ言葉を失ったチェレンへとアーティは言いやった。

「君は、君のために戦う事は出来ないのか?」

 その問いかけにチェレンはハッとする。

「自分のために……?」

「王になる。彼女はそれも、自分のために、だ。だからこそ、他の追随を許さない。圧倒的な強さを誇る事が出来る。君もそうであればいいんじゃないのか? 自分のために強くなればいい。誰かへの当て付けではなく、無論、誰かのためでもなく。自分のために、自分の強さを模索すれば」

 チェレンは今までトウコに追いつく事だけを考えていたのだろう。だからこそ、彼には自分のためだけの強さ、が思い浮かばなかった。

 だが、真に強さを追い求めるのならば、それは誰かのためではなく自分のためでなければならない。

 その強さが本物になる日が来るとすれば、それは自分のための強者。

 誰かのために捩じ曲げられた強さではない。

 チェレンは掌に視線を落とす。拳を握り締め、彼は眼差しを返した。

「だったら……僕は自分のために強くなる。強くなってやる」

 その瞳にアーティは椅子から腰を上げる。

「……いい眼になってきた。ジムに戻ろうか。今の君なら、本気でやり合えそうだ。こちらも自信を喪失していてね。リハビリのための戦いは強者と共に在れればいいと思っていた」

「リハビリなんかじゃない。本気で来い」

 チェレンの双眸に浮かんでいるのは勝利者の輝きだ。ここで勝てる、と思い込まなければ出せない煌きを宿している。

 アーティの言葉だけで導き出されたものではない。もしかすると自分の与り知らぬところで、チェレンは天啓を得ていたのかもしれない。

 アーティがコーヒーを呷り、チェレンへと突きつける。

「さぁ、チャレンジャー。戦いの時間と行こうか」



オンドゥル大使 ( 2017/11/06(月) 20:03 )