第76楽章「Water Drop」
場所を聞いてどうするのだ、とチェレンに言えばいい。
しかし、ベルはそれすら切り出せず、チェレンの背中を追うのみであった。
チェレンは人波を分け入り、大都会ヒウンシティを物ともしない。彼が見ているのは、その先なのだ。
戦う事。それのみではない。戦って勝つ事、そちらである。
戦っても勝てなければ意味がない。戦っても、負ければ全てが水泡に帰する。
そこまで自身を追い詰める理由がベルには分からず、チェレンの背中が遠くなっていくのをただただ予感するのみであった。
「……ねぇ、チェレン君。アーティさんはいないみたいだし、この辺りで切り上げても」
「駄目だ」
頑として言い放った幼馴染は振り返りもしない。あの日、故郷を去っていったトウコとも違う、背中に声をかけそびれる。
「でも、さ。せっかくジムバッジは配布性になっていたんだしあたし達がどうこう言っても」
仕方ないじゃないか。そう言おうとしたベルに、チェレンが振り返った。その時になって、侮蔑の色が混じっている事に気づく。
「……悔しくないのか?」
「悔しいって……?」
「戦う前に勝つなんて、そんなの悔しくないのか、って言っているんだ」
ベルは面を伏せるばかりであった。戦わずして勝敗が決するのならばいいではないか。そのような軟弱者の理論を口にしようとして、思い詰めた様子のチェレンの面持ちに遮られる。
「……でも、勝敗の話じゃないんでしょ」
「アーティは、何もせず、たった一人のトレーナーに負けただけで戦意を喪失した。負け犬だ。そんな奴に、施しみたいな形でバッジをもらったって何の意味もない。僕らは負けた奴から確かにバッジをいただく。しかしそれは、勝敗、つまり戦ったゆえの結果だ。その過程もなしに、僕は結果だけを享受出来るほど甘く考えちゃいない。戦って勝たなければ、意味がないんだ。僕は、あの人のおこぼれに預かる気はないよ」
おこぼれ。それはトウコを知っているがために出る言葉なのだろう。だが、戦わなくとも勝敗が決しているのならば、それに越した事はない。何もこの世界、勝者と敗者の二者択一だけではないのだ。
ベルは、それ以外の道も模索するべきだと、口に出そうとした。
「チェレン君、あの、勝った負けただけでさ、そんなに狭く考えなくってもいいんじゃない? だって、この世界には色んな人がいるし、それをあたし達が分かるって言うのもその……旅の意味なんじゃ……」
「旅の意味? 僕は勝つ事しか考えていない」
断じた声は思っていたよりもずっと冷たい。
トウコの背にすがるみなしご、というよりも、彼は超えようとしている。それをハッキリと、今、理解出来た。
自分はトウコに追いつきたい。その程度の野心。しかし、チェレンは違う。根本からして違うのだ。
トウコを這い蹲らせ、その上に勝利を手にする。
玉座への探求、己の強さに賭ける情熱が桁違いであった。
だからか、この時、ベルはかけるべき言葉を見失った。
本来ならば、そのような事はない、とでも言えばいい。アデクのように、もっとどっしりと構えればいいとでも、言えばよかった。
だが、目の前に佇むのは戦いにのみ己の生き場所を求める羅刹。
その相貌に幼馴染の柔らかさはない。
あるのは、戦いに求める血を滾らせた獣。それも賢しい獣であった。
彼は理性で戦っている。だからこそ性質が悪い。理性で、戦いを求めるなど、最早まともではなかった。
――チェレンは、自分の知っているチェレンは、いつからこうなってしまったのだ?
ベルの胸を掠めたのは、たった一つの過ちであった。
トウコと出会った。彼女の手を引く役目を失ったあの日から、きっと自分とチェレンは違う生き物になったのだ。
目で見ているもの、感じているもの、全てが違う、別の生き物に。
このような場所で痛いほどの断絶が、二人の間に横たわった。
何か言わなくては。
言葉に出そうとして、ベルの頬を熱いものが伝った。
「……何で泣いているんだ?」
心底理解出来ないとでも言うように、チェレンが言いやる。ベルは困惑していた。
泣いている場合ではないのに。止め処なく涙が溢れてくる。
「あれ? おかしいな。あたし、どうして、どうしちゃったんだろ……」
おどけようとしても涙が止まらない。道化になり切れない。
まだ旅の途中だ。だというのに、こんな場所で分かってしまった。痛感した。
――自分はチェレンのようにも、ましてやトウコのようにも生きられないと言う事を。
そう感じると足が竦んだ。一歩も前に進めない感覚が胸を占めていく。
チェレンは無言のまま、手を差し出した。先ほどまで空いていた距離を、彼が埋めてくれる。
「……泣いたのが僕のせいだったんなら、謝るよ」
やめて欲しい。今は、優しくしないで欲しい。
しかし、自分は弱かった。幼過ぎたのだ。
その手を取ってしまった。泣き止むまで、傍にいて欲しいと願ってしまった。
「ゴメンね……、ゴメンね、チェレン君」
「別に、いい。ベルがそんなのは、今に始まった事じゃないし」
涙が時には救ってくれる事もある。自分の理解した事を、チェレンは感じ取らずに済んだようだ。
だが、依然としてベルには分かる。もう戻れない。もうかつてのように、無知なままでこの世界を生きられない事を。
彼と自分が、違う生き物である事を。
「行こう。ゆっくり歩けば、そのうち涙もやむ」
そうなのだろうか。
ベルは空を仰ぐ。ゆっくり歩けば、涙がやむのだとすれば、ゆっくり生きていけばいい。
何も求めず、何も期待せず、ゆっくりとした足取りで。
しかし、そのような事、許されないだろう。
ゆっくりと歩く時は終わりを告げたのだ。もう、戻れない。もう、駆け足で走るしかない。駆け足で、この道を走り切るしかない。
泣いた自分に戸惑っているチェレンに反して、自分の胸中は冷たかった。
誰も、手を引いてはくれないのだ。そのように都合のいい人間など、この世界に一人もいない。
もしそのような人間がいたとすれば、それは偽りと、何よりも虚飾に満ちた存在であろう。聖人君主であろうとして、人である事を棄てた人でなし。人ではない。人であるのならば迷い、惑い、選択し、それでもまだ迷うはずだ。
だが、そのような人間には迷う暇さえも許されない。きっと、誰よりも辛い現実と戦わなければらならないのだろう。
不意にノアの面持ちが脳裏を過ぎったのは何故なのだろうか。
彼の事を、自分は何も知らない。何も知らないが、彼は何かを知っている風であった。
そういえば、彼から自分達の事を何も聞いていない。
彼は何なのだ? 自分達にいつの間にか介入し、当事者のように振る舞う彼に疑問を抱いた事など今まで一度もなかった。しかし、立ち止まってみると、彼の異質さが際立つ。
ノアはいつからいた? ノアは、どこから来た?
生来の人のよさがそれを感じさせなかったのか、それとも愚鈍が過ぎたせいなのか。ノアに関して疑問視したのはこれが初めてであった。
「ねぇ、チェレン君、ノアって……」
言いかけたチェレンが不意に立ち止まる。よろめいたベルはその視線の先にいた人物を認めた。
海沿いに沿った道路でキャンバスに色を塗っている人物である。茶髪の癖毛で、緑の服を着ていた。
その時、雷鳴が木霊する。堰を切ったように雨が降り出した。
「ヒウンの涙だ。これで作品は完成だな」
そう呟いた青年に、チェレンが問いかけていた。
「ヒウンシティジムリーダー、アーティだな?」
その声音に青年が振り返る。雨のせいか、それとも涙か。その頬に一筋の水滴が刻まれていた。
「何の用かな」
チェレンがホルスターからボールを抜く。その時点で、纏っている空気が変わった。戦闘神経を引き絞ったチェレンに、アーティがフッと笑みを浮かべる。
「何が可笑しい? ジム戦だ」
「急いている。生き急いでいると言ってもいい。何か不手際があったかな? ジムバッジは配布制度にしたはずだけれど」
「納得出来ない」
「納得か。では何が欲しい? ジムリーダー打倒の証か、それとも賞金か、それとも、その胸に勝利の矜持でも抱きたいのかな」
「……繰り言を」
チェレンがボールを投擲する。光が迸り、ゲコガシラが降り立った。
雨の中、ゲコガシラがアーティを睨む。
「いい育てをしている。僕なんか通過点だと言ってもいい。これ以上、何を望む? ジムリーダーからの賞賛だ」
「嘗めているのか。抜け、アーティ」
チェレンの挑発にも、アーティは動じない。キャンバスの片づけにいそいそと入っていた。
「悪いけれど作品の完成間近でね。これを次の個展にでも出そうかと思っているんだ。どうだい? タイトルは、ヒウンの涙」
キャンバスに描かれていたのは悲しげな青で彩られたヒウンシティであった。チェレンが舌打ちする。
「馬鹿にして……。ゲコガシラ!」
空間を跳躍したゲコガシラがその掌に水を構築する。刹那の出来事にベルが言葉を制する前に、アーティが声にしていた。
「ハハコモリ、防御を」
キャンバスの陰から現れたのは細い体躯のポケモンであった。ゲコガシラの渾身の一撃をそのポケモンが受け止める。脆さ、細さの際立つポケモンである。葉っぱの構築した肉体は骨組みのような危うい均衡さえも窺わせた。
「そんなポケモンで、防御なんて!」
ゲコガシラが口腔を開き、瞬間的に体内から水の攻撃を放出しようとする。
避け切れまい、とベルが予感した直後であった。
ハハコモリがゲコガシラの顎へと一撃を与える。たった一撃だ。だが、その一撃だけで、ゲコガシラが傾いだ。
ぐらり、とゲコガシラがよろめき、そのまま仰け反る。
何が起こったのか、チェレンを含め分からなかった。
「何、を……」
「トレーナーなら、彼我実力差は分かりやすいほうがいい。君は、これでもやるかい?」
ゲコガシラが痙攣を始める。明らかに平時ではない。ベルは覚えず声を荒らげていた。
「チェレン君! 今はダメ! 勝てない!」
勝てない、という言葉はしかし、ほとんど焼け石に水。
チェレンはこみ上げてくる怒りを放出した。
「ふざけるな! 僕は、勝つためだけにここにいる。そして、ここに来た! 臆病風に吹かれただけのジムリーダーなんて、僕の実力の前に沈む! そのはずだろ! ゲコガシラ!」
ゲコガシラの瞳が持ち直す。昏倒しかけているというのに、主の期待に応えようというのだ。
だが、それも余計な努力だというのは明白であった。
ハハコモリの刃のような腕がゲコガシラの身体へと突き立つ。
「ハハコモリ、ギガドレイン」
ハハコモリへとエネルギーが吸引される。その一瞬だけで、ゲコガシラが昏倒した。
「ギガドレイン、一発だけで……」
敗北に震えるのはチェレンだけではない。ベルもそれほどまでの実力だとは思いもしなかったのである。
「早く戻すといい。あまりポケモンに無理を強いるものじゃないよ」
一発のみだ。だというのに、歴然とした敗北であった。
チェレンが膝を折る。その中で、ベルはチェレンからボールを引っ手繰り、ゲコガシラを戻した。
「そちらのお嬢さんのほうが少し冷静なようだ」
放心状態のチェレンは、顔を伏せたまま動こうとしない。
「……その、アーティさん。あたし達……」
「いい。来なさい。セーフハウスで話を聞こう。なに、もう廃業したジムリーダーだ。いくらでも話す時間はあるよ」
ついて来るように促すアーティの背中に、ベルは困惑の視線を投げた。チェレンは、というとすぐには動け出せそうにない。
酷だと思いつつも、その顔を覗き込んだ。
「その、チェレン君。行こう」
手を引っ張る。まるで死人のように冷たい手を引いて、ベルは雨に打たれるヒウンシティを抜けて行った。