FERMATA








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六章 英雄の座
第75楽章「In The World」

「大丈夫、なんでしょうかね」

 こぼしたノアの口調にアデクが応じていた。

「何がじゃ?」

「チェレンとベルを、その……二人きりにして」

「幼馴染じゃろう。何も心配はあるまい」

「でも、チェレンは前の街からちょっと……近づき難い空気を出していたって言うか……」

 自分のケルディオを前にゲコガシラが敗北した事はまだ話していない。否、話せなかった。

 ケルディオが制御を離れた事。さらに言えば未知の技を顕現させた事も。

「心配性じゃのう、ノアタローは。彼奴らはそれほどまでに頼りないか?」

「頼りないというよりも、チェレンには危なっかしさがあります。ナイフみたいに、切れ味が鋭くって……」

 お互いを傷つけかねないほどの、苛烈さ。その刹那に生きる眼差しをしている。

 かつて、自分が見たチェレンよりもなお色濃い闇が彼を覆っているのが窺えた。

 トウヤがいた時間軸でも彼は闇に呑まれかけていたが、今ほどではなかった。

 自分がいる事で少しずつ、全てが変容しようとしている。その変容の只中に、チェレンの鬱屈した闇がある。

 ベルではその闇を解きほぐせないであろう、というのは予感ではあったが、確信の近いものであった。

 トウヤか、あるいはそれに準ずる存在が必要不可欠であろう。

 しかし、この時間軸はトウヤを欠いている。その時点で、チェレンを救済する手段は存在しないように思われた。

「ノアタロー。お主、ともすればチェレンの坊主を、救おう、とでも思っておるのではあるまいな?」

 心の中を見透かされて、ノアが絶句する。アデクは嘆息をついた。

「お主は他人を思いやり過ぎる。よいか? 過ぎたる同情は相手にとっては何よりの侮辱よ。お主の優しさを相手がそのまま受け取れるわけではないんじゃ。殊に勝負にこだわる生粋の戦士であればあるほどに、その溝は深い」

 アデクの言葉には何も言い返せない。数多のトレーナーを見てきた説得力には、自分のような知った風な人間など逆効果であろう。

「でも、チェレンはこのままじゃ……」

 未来を知っている。それだけだ。この時間軸の先を知っている、というわけではない。だが、未来が分かるのならば、それを助言すべきではないのか。

 分かっていながら静観しているのも、また罪ではないのか。

「ノアタロー。お主には未来が分かっておるらしいな。ワシが敗北する事、プラズマ団が勝利する事、それら全てが。しかし、未来は変えられる。否、変えるために、お主は戦い抜いてきたのではないのか? その戦いを無駄だとは言い切れんじゃろう」

「そりゃ、そうですけれど……、でも、ボクには何となく分かるんです。全く違う結末にはならない。トウヤがトウコになっていた事は驚きましたが、それでもきっと、全然違う結末にはならないんだと思います。それこそ、約束された未来があるように」

 自分が想像も出来ないほどの未来はない。そこにあるのはただ歴然とした事実だけだ。

 プラズマ団は台頭し、Nが英雄のポケモンを得る。恐らくそれへのカウンターとして、トウコが王として立つ。

 それら全てが、約束された事象なのだ。

 だからこそ、時に変えられない、と強く思ってしまう。この流れを変えようとするのならば、もっと早い段階で動き出すべきであった。

 しかし、アデクは肩を竦める。

「思い詰めておるようじゃが、ワシはそうは思わんよ。約束された未来があったとしても、ワシは否と応える。それはきっと、何よりもつまらんとな」

「つまらない、ですか……」

「ワシはかつて、四十年前、歴史に異を唱えた。このまま行けば四十年後、いや、それを待たずして世界は破滅する、と」

 初めて聞く話であった。ノアはアデクの横顔を眺める。四十年前――第一回ポケモンリーグを勝ち抜いた猛者の双眸にはかつての日を回顧する輝きがあった。

「世界の、破滅……」

「詳しくは話せんが、そういう戦いがあったんじゃ。そこでつくづく思ったのは、未来は人の手で変革出来るという事。変わり続けたいと願う人の心こそが、何よりも未来を切り拓く原動力なのだという事」

「変わり続けたい……」

 この時間軸を変えたいと願ったのは自分だ。英雄であった自分を是としない、と強く誓ったのも自分自身。

 ならば、まだ諦めるのには早い。

 ノアは拳をぎゅっと握り締めた。まだ、戦いの途上だ。

 ここで諦めるくらいならば最初から諦めている。

「やれるのでしょうか。ボクには、まだ」

「やれるとも。あの時、戦い抜いた好敵手達はその程度では折れんかったぞ?」

 自分にも出来る事があるのならば。今は歩みを止めている場合ではない。

「部屋、人数分、取れたぞ」

 ヴイツーが宿屋にかけ合って客室を取ってくれていた。バンジロウはその背中に続く。

「しかし、あの眼鏡とベルはどこまで行ってんだ? 帰って来ないな」

 視線を巡らせるバンジロウに、ノアは応じていた。

「ボクが探してきます」

「頼むぞ」

 アデクの言葉を背に受け、ノアはヒウンの街並みを駆け出していた。

 雑多な都会の空気に、潮風のにおいが混じる。

 臨海都市であるヒウンシティは円形であり、中心部に向けて毛細血管のような小道がいくつも点在する。

「……そういえばヒウンに来たのは初めてだったか」

 知識としては知っている。だが、実際に目にするのとでは雲泥の差だ。

 迷い込みそうな道を抜けて、ノアはタウンマップ上のジムを目指す。

 タウンマップから顔を上げた、その瞬間であった。

 肌を刺すプレッシャーの波にノアが防衛本能で飛び退る。

 先ほどまで自分がいた空間を射抜いていたのはエネルギーの矢であった。

「何者だ!」

 仰いだ視線の先にいた人影に、ノアは瞠目する。

「報告で知るのと、実際に目にするのとでは違うな。それこそ、歴然とした差がある」

「しかしながら、我々の赴き先は変わらない。貴様が、ノア、と名乗る存在だな」

「似ている、確かに。それはヴァルキュリアスリーの報告通り。しかしながら、我らが動くとは思いもしない」

 黒衣を纏った三人組だ。

 痩身を風に棚引かせ、射る光を灯した瞳を見返す。

「お前達は……ダークトリニティ」

 その名前をノアは紡ぎ出した。ゲーチスに最後の最後まで忠義を尽くしたプラズマ団の尖兵。

 常闇に生きる自分とは理の違う存在。

 全ての汚れ仕事を引き受けた、プラズマ団の最後の柱。

 どのような言葉でも言い尽くせない。自分とは最初から最後まで、傍観者と王、というスタンスを崩さなかった三人組だ。

 ――そのような実力者が何故?

 浮かんだ疑問にダークトリニティの一人が顎をしゃくった。

「抹殺対象Aクラスの人物である。ノア、本名不明、経歴不明、その全てが不明でありながら、我々の行いを全て見透かしたように動く謎の存在」

「……ゲーチスの、命令か」

 苦々しく口走ったノアに相手は鼻を鳴らす。

「ゲーチス様の手を煩わせるまでもない。貴様はここで死ね、ノア。我らの大いなる目的のために」

「その目的で、どれだけ人が犠牲になるのか、考えた事はあるのか?」

 大勢の人が運命を捩じ曲げられる。それを分かっていて、言っているのか。

 ダークトリニティはしかし、動じる事もない。

「瑣末な事だ。大義の前には、少数の正義など」

「――だったらボクは」

 ホルスターに留めたモンスターボールを手にする。ノアの構えに、ダークトリニティも構えた。

「やるつもりか?」

「ああ、やってやるとも。いずれ戦う運命ならば、今、ここで!」

 投擲したボールから光が迸り、ケルディオを顕現させる。

「ケルディオ! やれるな?」

 強く鳴いたケルディオの姿にダークトリニティがほうと嘆息を漏らす。

「ケルディオ、か。珍しいポケモンを使う」

「ならば私から、行かせてもらおう」

 歩み出たダークトリニティの一角がボールを落とした。迸った輝きをそのままにポケモンが猪突してくる。

 その一撃をケルディオが受け止めようとしたが、あまりの膂力の違いにケルディオの疾駆が吹き飛ばされた。

 ノアは相手ポケモンを注視する。

 岩石のような巨体に、鋭く生えた二本の角がある。かつてないほどの存在感を放っており、オーラだけで空気が逆巻いた。

 そのポケモンの一歩は他のポケモンの心血を注いだ突撃に値する。

 あまりの凄味にノアは言葉をなくした。

 ダークトリニティの手持ちは確かに不明であった。

 だがこれほどまでのポケモンだとは思いもしない。

 全身から破壊の衝動を放出し、そのポケモンが吼える。ビル群が震え、都市が恐れに戦慄いた。

「テラキオン。貴様のケルディオと同じポケモンだ」

「同じ……どういう」

「それを知らずして、ケルディオを用いていたか。だが、それはすぐに終わるであろう。テラキオン、ストーンエッジ」

 テラキオンが足踏みをした瞬間、砂塵が舞い上がり角に纏いついた。構築されたのは長大な刃である。

 一本角が天を衝く勢いで屹立した。

「これは……こんな存在感なんて……」

「予言するまでもない事だが、言っておこう。ノア、貴様はこのテラキオンに敗北する。そして知るのだ、我らプラズマ団の崇高なる思想の前には、未来視など意味がない事を」

 未来視を知っている? 

 それだけでノアは目の前の存在に慄いた。どうして、と疑問を重ねる前にテラキオンが重機を思わせる威容で突撃してくる。ケルディオが水の皮膜を張るも、その付け焼刃の防御はすぐさま突き崩されてしまった。

 テラキオンが角を突き上げる。その様、まさしく天を突く威容なり。

 重戦士の面持ちにケルディオはあまりにあどけない。

 ノアは実力差を痛感していた。自分も、遥かに青い。

 ダークトリニティ。実力は聞き及んでいるものの、その正体は闇に包まれたままであった。

 自身が王になった際にも、決して出張らず、ゲーチスの影、プラズマ団の闇に徹してきた。

 ダークエコーズ以上、という実力以外は一切不明。所持ポケモンでさえも、今知ったばかり。

「臆したか? 反逆者」

 その声音にケルディオが蹄を鳴らしてノアに呼びかけた。

 ――まだ闘える、と。

 相棒の訴えかけに主が膝を折るわけにもいくまい。ノアは萎えかけた精神に鞭打つように眼光を滾らせた。

 敵は三人。たったの三人だ。今まで何人と戦ってきたと思っている。自分は遥か、世界と戦ってきたのだ。世界との闘争に比べれば、たった三人の戦力など児戯の如し。

 勝てる、と己を鼓舞する。

 勝たなければならぬ。ここで勝たなければ、己の信念を曲げる事に相成るからだ。

「……ボクは、負けない」

「それは先も聞いた。反逆者、私が聞いたのは貴様の中にある恐怖よ。恐怖は如何なる強者といえども、その足を竦ませ、膝を笑わせ、屈服させ得る。その胸に恐怖あるのなら、反逆者、今すぐにここで引き返し、二度とプラズマ団に叛意なしと誓え。それならばその幼いポケモン共々、見過ごしてやろう」

「反逆者には死じゃないのか?」

「死は、自ずとやって来よう。私が与えるのは恐怖だ。恐怖は死に繋がる。死に伝播する。ならば、恐怖の一芽吹きさえさせれば、貴様は最早、羽根をもがれたも同義」

「羽根をもがれた、か。ボクは、ここで立ち止まる気はない」

 何のために再起を誓った? 何のためにここまでやってきた。

 勝つためだろう? 勝つために、変えるためにやってきたのだ。己を変え、反逆の謗りを受けようとも、変革するために、自分はこの時間軸に舞い戻ってきた。

 ならば、進む道は今さら変えられるはずもない。

 その志を感じ取ったのか、ダークトリニティが目を伏せる。

「……残念だ」

 テラキオンが咆哮する。その一声だけで、ビルのガラスが破砕し、建築物が共鳴の音叉を響かせた。

 身体の内側から掻き毟るかのような音程にノアが膝を折る。

「折ったな」

 一歩、踏み出てくるダークトリニティにノアが声を張り上げた。

「ケルディオ! 聖なる剣!」

 黒白の稲光が角先に纏いつく。相反する事象を纏め、その剣筋から相手を切り裂く真髄の技。「せいなるつるぎ」は放射されるかに思われた。

 しかし、その直前、テラキオンが一声する。

 構築されたのは一対の刃であった。角の間で雷撃が交差し、幾つもの光の連鎖を棚引かせる。

 高密度の岩が一瞬にして金剛石と変じた。煌びやかな光を放出するテラキオンが口元から呼気を発する。

 まさか、とノアは体細胞が竦み上がっていくのを感じ取った。

 この感覚は知っている。

 かつて、白と黒のポケモンを使った際、敗北が際立つ一歩手前に感じたのと同じ。

 終わる。全てが終わる前に感覚する鋭敏さ。脳細胞をビィンと震わせる敗色。

 身体が知っている。精神が理解している。この感覚は一度味わえば、二度と這い上がる事の出来ぬ屈辱なのだ。

 敗北の感覚とは、それほどまでに濃厚である。

 刻み込まれた敗北の感覚は、人生の最後までついて回る。今、それが目の前で展開されていた。

 テラキオンの一対の角が輝き、放たれた技は紛れもない――。

「聖なる剣」

 途端、雷鳴が天地を割った。天蓋が砕けたように雨が降り出した。

 ――ああ、この感覚を、ボクは知っている。

 あの日、この世界にサヨナラを告げた時と同じ。

 敗北の黒き闇であった。



オンドゥル大使 ( 2017/10/31(火) 21:28 )