第73楽章「apre le noir」
「少しばかり、心配になってきたのう」
雨脚が強まった窓の外を見やり、アデクが呟いた。バンジロウは既に寝転がっており、ヴイツーが夕食の準備に取り掛かっていた。
ベルがヴイツーを手伝っている。ノアはそれを見やってから、口にしていた。
「チェレンを、止められませんでした……」
あまりに苛烈なその生き方に口を挟めなかったのもある。自分は痛いほど分かっているのに。チェレンがどのような思いで旅をし、その行く末に待っている結末でさえも。
アデクはしかし、言及するわけでもない。
「帰らんのなら、それでいいのかもしれん」
「アデクさん? でも、チェレンは」
「ここで負けて、では二度と御免だと、勝負を投げるのならば、そこまでじゃ。他人がどれほど言ったところで、本人の問題にはどうしようもない」
どうしようもない。本当に、そうなのだろうか。
チェレンを止められる言葉ならばあった。キミはジムリーダーになれる。強さを他人の模範として示す事だって出来るのだ、と。
未来を教えてやる事など容易なのに。その一言が何かをまた変えてしまいそうで、ノアは踏ん切りがつかなかった。
「……ボクは臆病だ」
「ここで逃げるのならばそれもありなのかもしれんの」
こんなところで潰えてしまう才能ならば、それはそこまでなのだ、と。残酷にもこの地の王は言ってのける。
そこには王者として様々なトレーナーを見てきた横顔があった。きっと、己が見出したトレーナーがたくさんいたのだろう。彼らの挫折と叫びを一身に受けてきた老躯は、悟っているのだ。
ここで終わるのもまた一つの結末だと。
ノアも諦めていた。チェレンを追ったところで、自分では逆効果。彼を苦しめる事しか出来ないのならば。
そう思いかけたその時である。宿屋のドアがノックされた。全員の視線がドアへと集まる。
チェレンがその瞳に氷のような意志を抱いたまま佇んでいた。
言葉をなくす一同の中、切り出したのはベルである。
「チェレン君……あたし」
「何も言わないでくれ」
遮った声はいつものような覇気が感じられない。やはり逆効果であったのか、とノアが感じかけるが、チェレンは繰り返すのみであった。
「何も、言わないで欲しい」
その姿に無用な声をかけられるほどの人間はここにはいない。無論自分も、と言葉を飲み込む中、ヴイツーがチェレンへと歩み寄る。
「……いっぺん負けたら、そこまでか?」
何を、とノアが制しかける前に、ヴイツーは問い質す。
「いっぺん負けたら、てめぇの根性はそこまでなのか、って聞いてんだよ」
彼は負けたどころではない。組織を裏切り、仲間を裏切り、全てから縁を切ってでも自分達と共に来る事を選択してくれた人間だ。
だからか、その言葉に宿る説得力に、アデクさえも押し黙る。
「……あんた、強いんだよな」
チェレンが視線を合わせずに口にした言葉にヴイツーは応じる。
「強いかどうかは、てめぇで決めろ。おれはケチつけねぇよ」
「だったら、僕を……もう一段階、上に立たせてもらえないか?」
あまりにも唐突な言葉に面食らっていた。
チェレンは自分に負けた事がショックであった以前に、ジム戦での敗北、それに伴うベルの成長も重なったはずだ。
もう一段階上。意味するところは一つしかない。
この地方の玉座。
アデクを超えるトレーナーになる事。
しかし、ノアは残酷にも知っている。彼は英雄にはなれない事を。
英雄になれなかった彼はトウヤと度々衝突した。その戦いで磨耗していく彼自身の精神をノアもよく知っている。
だからこそ、軽々しくその道に口出しは出来ない。当然の事ながら、知った風な口を利く事も。
だがヴイツーは言ってのけた。
「強い奴ってのはよ、結局どこにいたって登り詰めちまうもんなんだ。環境のせいにしている間は、まだまださ」
誰しも口を閉ざす中、ヴイツーだけが彼の闇を直視する。
チェレンはその言葉を受け、ぽつりと呟いた。
「……だったら、まだここにいる」
誰がその決断を後押ししたのかは分からない。ただ、漠然とその決意は誰かによってもたらされたものだとノアは悟った。
誰かが彼の背中を押した。
しかし一体誰が――。
あの時、ケルディオに負けた彼を追う事は出来なかった。あの背中に、どう呼び声をかければ、雨音に掻き消されずに済んだのかも分からない。
しかし、それがたとえ借り物の決意であっても、彼の目に灯る炎は本物だ。
本物の、闘志の色をしていた。
だったのなら、自分は口出し出来ない。彼が決めたのだから。
「そうツンツンすんなよ。風邪引くぞ。あったかくしておけ」
ヴイツーが上着を着せる。チェレンはノアに目線を合わせる事なく、シャワールームへと入って行った。
「……これが、正解だったんでしょうか」
「ワシにも分からん。じゃが、あの闘志の光だけは、本物じゃったな。その炎が、燻っておったのが分かった。彼奴はまだやれる」
王者がそう判断するのならば、チェレンは再起不能ではないのだろう。
ノアは言葉をかけそびれた己の不明さを恥じるよりも、今は一つでも前に進む事だ、と頭を切り替えた。
「……次、ヒウンシティですよね」
「ああ、イッシュきっての外交都市じゃな。あまり招かれた事はないのう」
「意外、ですね……。チャンピオンだから首都にはよく行くものだとばかり」
「ワシは田舎の辺ぴ暮らしが合っておるんじゃよ」
その言葉にバンジロウが口を差し挟んだ。
「じィちゃん、未だにパソコンも使えねーからな。だからモンスターボール首から提げてるんだぜ?」
それは初耳であった。ノアが確認の視線を振り向けるとアデクは苦笑いする。
「これ、言うでない。それはさすがに恥ずかしいわい」
「四十年前のポケモンリーグから、預かりシステムの実用化は始まっていたって聞いてましたけれど……」
「マサキの世紀の発明な。ワシにはよく分からんかった! じゃから今でも相棒達はこの中じゃわい」
数珠繋ぎのボールをさするアデクにポケモン達はさぞ安心しているのだろう、とノアは感じ取った。
その孫であるバンジロウは、というとメラルバしか所持していない。
「バンジロウは……さすがにパソコンは」
「使えるって。でもオレ、シュギョー中だからよ。一匹の縛りでやってんだ」
目配せするとアデクが首肯する。
「ワシも四十年前はメラルバでやっておった。それを追体験させたいわけではないが、なに、そういうのも体験出来る年齢があるという事じゃよ」
四十年前と全く同じ、というわけか。しかしバンジロウは不服そうである。
「メラルバには不満ないけれどよー。いい加減、じィちゃん、オレの預かりシステムのロック解いてくれよ。あそこに何匹かツエーのいるんだぜ?」
「……例えば?」
アデクは視線を宙に彷徨わせて思い出そうとする。
「あーおったのう。確か、青い体色のどこかの地方の速いポケモンじゃった」
「ラティオスだよ。ツエーのに使わせてくれねーの」
ラティオス。その名はノアも聞き及んでいた。プラズマ団に所属していた頃、何度か他地方のポケモンのデータを参照させてもらった事がある。
その中にいた、貴重なポケモンのはずだ。
「そんなに強いのを……」
持っていて何故? というのが言葉にしなくとも伝わったのだろう。アデクは後頭部を掻いて言いやる。
「最初から強いポケモンを持っておってどうする? 己と共に強くなるのが、ポケモンの本来の形じゃろう」
耳に痛い。ノアも現地で捕まえたポケモンを基にした編成を組んでいた上に、自分がアデクを下したのは英雄のポケモンだ。
「ま、そこいらのポケモンの科学者に請け負ってもらうよりかは確実だけれどな。じィちゃんのウルガモスの子供だし」
「そう、なんですか?」
「おお、四代目じゃったかな。初代から数えて」
継いでいるのは血縁だけではないという事か。ポケモンも受け継ぐ形である事に、ノアは感嘆の息を漏らす。
――これが、王座につく事を許された者達の領域。
その道は決してやわくはないはずだ。だというのに、バンジロウからは悲壮感の欠片も見られない。
それほどまでにポケモンと自分を、愛している。
愛して、戦っているのだ。
自分はどうだ、と自問する。
ケルディオは応えてくれているのに、自分はまだ踏み出し切れていない。本当にやるべき事を見据えられていないのだ。
「……羨ましいな」
ふと出てしまった本音にバンジロウが眉根を寄せた。
「……あの眼鏡の奴の前では言うなよな、兄ちゃん。あいつ、また怒るぜ」
失言であった、と口元に手を当てた時、ベルが言葉を発していた。
「あの、あたし……ちょっとチェレン君見てきます」
立ち上がりかけたベルにヴイツーが声を投げる。
「いいが、出立の時間は変えられないぜ。明日の朝だ。余計な事は」
「分かっています。でも、今言わないと多分……」
濁したまま、ベルはチェレンに割り振られた部屋へと向かった。
共同部屋でヴイツーが鍋を煮ている。その芳しいにおいの漂う中、明日からの計画を全員で立てていた。
「……心配しておるのか」
不意にかけられたアデクの声音にノアはうろたえる。
「心配……っていうか余計なお世話かもしれません。彼の苛烈さについていけなくって」
「誰も、足並みを合わせるだけが対等というわけでもあるまい。ワシはそれでもいいと思っておる」
足並みを合わせるだけが対等ではない。
その言葉がノアの胸に残響する。
かつてプラズマ団を率い、自分の思想を相手に押し付けていた身としては、いささか返答に困る言葉であった。
足並みを合わせ、ポケモン解放に向かわせていた己に、何があったのか。
結局はゲーチスの掌の上で踊らされ、七賢人にいいように利用されただけの「化け物」。
自分は足並みを合わせる事だけが、正しい事だと思い込んでいた。
「そう、なんですかね……。みんな、自分のペースで歩む事だって」
「充分に、それもありじゃと思うぞ」
チェレンのペースについていけないのも、それは人と人とが分かり合えるわけではないのと同じ。
ポケモンと人とが、垣根を越えて理解出来ないのと、同じ事なのかもしれない。
しかし、ベルは理解しようとしている。チェレンという闇を直視してでも、彼の身を案じている。
ノアにとってはベルの遥かに強い精神に心を打たれていた。
幼馴染であるから、だけではないのだろう。
それ以上を詮索するのも野暮であったが。
「ワシらはヒウン行きの車両を掴まえないといかんのう。あそこはサイクリングロードじゃ。自転車を今から買うのは間に合わんし、下の高速道路から行くのが速かろう」
ヒウンシティへのアクセスに高速道路がピックアップされているのをノアは発見する。
「こんなのあるんだ……」
「トレーナー専用のバスもあるみたいだし、割とここ最近のヒウンは便利がいいぜ?」
ヴイツーが鍋を持ってテーブルへと移動する。ヴイツー特製のシチューの出来上がりであった。
「チェレンとベルは……」
「積もる話もあるんだろ。おれらで先に食うことにしよう」
ヴイツーはどこまで理解しているのだろう。
自分と同じく、プラズマ団に所属していたとは思えない。彼はどこか他人に心遣いが出来る優しさがあった。
「オレ、腹減ってんだよなぁ」
早速ありついたバンジロウをいさめる事もせず、全員が食事をとり始めた。
「……チェレン君、いい?」
ドア越しに振り絞った声に、一つ隔てた向こう側からチェレンの声がする。
「ベルか。なに」
何、と聞かれてしまえばどうとも言えない。大丈夫だったのか、ノアと不仲になったのではないか、旅を続ける事が出来なくなったのではないか……。
聞きたい事は山ほどあるのに、どれも言葉の表層を滑り落ちていくだけであった。
「あのその……ゲコガシラは」
「ポケモンセンターで回復しておいた。問題はない。明日、ヒウンだろ?」
いつもの調子のチェレンの声音。だが、張り詰めているのをベルは感じ取る。
何かあったのはノアから窺い知るまでもなく伝わったが、チェレンの口から聞いていいものか。
彷徨わせた声音に、チェレンが逆に言葉をかけた。
「ベルは、進化したんだろ」
「あ、うん。フォッコがテールナーに」
「よかったじゃないか。最初の三匹も進化させられないんじゃ、これから先、やっていけないからね」
その言葉の嘘くささ。
本当に感じている事とは別なのは聞き返すまでもない。だが、ベルはこの時、その嘘くささに甘えるしかなかった。
「うん、そうだね……」
言えた事はほんの些細な事。しかし伝えたい事はもっと大きな事。
ノアと何があったのか。もう旅をやめるなんて言い出すのじゃないのか。自分みたいな愚図とはもう、顔も見たくないなんて言い出すのではないか。
頭の中で交錯する思考に、チェレンが投げたのはたった一言であった。
「なぁ、ベル。王様に、なれると思うか?」
不意を突かれた気分であった。毒気を抜かれた、と言ってもいい。
どうしてそんな質問を、と問い返す前に、チェレンが言葉を継ぐ。
「王様じゃなくっても、英雄、みたいなものに、なれると思うか?」
その質問の意図は分からない。分からないが答えなくてはならないのは明白であった。
自分の中に、相応しい答えはない。だからと言って後回しにしていい疑問でもなかった。
ここで答えなければならない。ここで、返さなければならない。
これは分岐点だ。自分とチェレンとの。
何よりも、彼自身が求めている。この質問の行き着く先の言葉を。
「……あたし、難しい事は分かんないけれど、でも、英雄とか、王様には、なれると思う」
「それは何でそう思う? 数日前まで、僕らはカノコの田舎町出身の、初心者だったんだ」
それは、と返しかけた言葉が言ってはならない一言だと気づく。
――それは、トウコがいたから。
トウコのようなトレーナーがいたから、不可能ではないのだと思わされた。彼女のようになりたい、なれるのだと思っていた。
しかし、今、彼にこの名前を告げる事はきっと、この世で最も残酷な事なのであろう。
いくら鈍いベルでもそれは直感する。
「それは……、何?」
「いや、その……アデクさんみたいな人達がいるから」
嘘をついた。
しどろもどろな自分の語調から既にチェレンは悟ったかもしれない。それでも糊塗した嘘を並べ立てた。
「この世界も広いんだな、って思えたの。アデクさんみたいな、王様が、だってすぐ傍にいるんだよ? だったら、あたしも、誰かの、何かになれるんじゃないか、って」
自分の胸の中で曖昧になっていた言葉を紡ぎ出す。
誰かの、何かになる。
それはきっと、恐ろしく難しい事であろう。
同時に、この世で人として生まれ落ちたのならば、必ず通らなければならない命題でもある。
誰かの何かになるために、人は努力する。人は、飛躍する。人は、競い合う。人は――欺き、騙し合う。
それが人なのだ。
悪意も善意もひっくるめて、それは人間である証明なのだ。
だから、善性も悪性も、ベルには言えない代わりに、アデクのような人間を引き合いに出す事しか出来なかった。
「アデクさん、か……。強いな、あの人は」
その言葉にベルは拍子抜けの気分になる。
チェレンはいつでも上を目指している。アデクを超える、と豪語してみせたのも覚えている。
しかし、今の彼はどこか、虚脱したかのような声ばかりだ。
自分の限界点を一瞬、垣間見てしまったかのような清々しささえ漂わせている。
その口調は、自分のよく知る幼馴染のチェレンではなかった。
ともすれば、彼のほうが先に大人になってしまうのかもしれない。
一枚のドアの隔絶が永遠の距離のように思える。
このドアを開けて、チェレンと会えば、きっと彼は変わらない。変わらないはずだ。
だというのに、ドアを開けるのが堪らなく怖い。
彼の姿を見るためにここまで来た。お節介にもほどがある自分を見せてきた。
だが、こんなふとした瞬間に、彼と一枚のドアだけで隔てられるなんて思いもしなかったのだ。
あの日、黄昏の落ちるカノコタウンで。
トウコがこちらを一顧だにせず出て行ったあの日を思い出してしまう。
相棒のチラーミィだけを得た彼女は自分達のかつての居場所を振り返らなかった。それは強さだと今の今まで思い込んでいた。
違うのだ。
トウコは、大人になったのだ。
だから振り返らなかった。振り返る必要もなかった。
己の中で、満たされるべき目標を見据えたのなら、もう振り返る暇さえも惜しい。
そんな当たり前の事を、こんな場所で分かってしまうなんて。
自分の愚鈍さに、ベルは嫌気が差す。
チェレンに何か、気の利いた言葉の一つを投げようとしたのに、自分が心底子供である事を実感するとは思いもしなかった。
ベルはドアノブに何度も触れかけて、その手を彷徨わせる。
「王様でも、英雄でも、目指す人には応えてくれるんじゃないかな。だってそれが……」
言えないまま、ベルはドアから離れるしかなかった。
そのような事、言えるはずがない。
――だってそれが、夢を追う、という事なのだから。