第72楽章「アタラクシア、そして対峙する自己」
勝てなかった。
ただそれだけの事実なのだ。ジムリーダー、アロエに敗北し、誰でもない、ベルの力でもぎ取った勝利。
そんなものにすがっていてはいつまで経っても、真の勝利者にはなれない。本当の王者にはなれないのだ。
チェレンはヤグルマの森に入り、大木を殴りつける。獣のように吼えた。
その雄叫びが森の中に木霊する。
「ふざけるな……僕は、じゃあベルより下だって言うのかよ……」
歯噛みしてチェレンはゲコガシラの入ったボールを見やる。
どうして勝てなかった? それ相応に育て上げたはずだろう?
「まだ足りないって言うのか。なら」
ゲコガシラを繰り出す。色めき立った空気を感じ取ったのかすぐに相棒は戦闘姿勢を取った。
森の中に分け入る。
ヤグルマの森に棲むポケモン達がにわかにざわめいた。
殺気を剥き出しにしたチェレンは踊りかかってくるポケモンに攻撃を見舞った。
「一撃」
奔った波導攻撃が弱小の虫ポケモンを弾き飛ばす。だが、それだけではない。
「一体だけじゃないだろ。来いよ。全員、吹き飛ばしてやる」
ヤグルマの森が震えた。震撼した感覚と共に鋭い視線が首筋に注がれる。
チェレンが身構えた。
どこから来るのか、と首を巡らせた直後、不意打ち気味に新緑の刃が襲いかかる。
首を取りにかかった殺意の刃をゲコガシラが受け止めた。
「お前が、ヤグルマの森の主か」
首に果実を実らせたポケモンであった。葉っぱで構築された翅を有しており、一見するとタイプが不明に見える。
しかし、チェレンは知識でこのポケモンを知っていた。
「トロピウス……ホウエンのポケモンだな。外来種か、あるいは元々ここにいた奴か」
トロピウスが吼え立てる。森に相応しくない者をその一声だけで威圧するのだろう。
しかし、チェレンは臆する事はない。ゲコガシラと共にトロピウスを睨み返す。
「来いよ。余計な言葉は不要だろ」
トロピウスが新緑の暴風を作り出し、その翅を振動させて飛翔した。
ゲコガシラは水タイプ。圧倒的に不利な戦局だ。
「……勝つ。僕が、勝つ」
繰り返したチェレンが面を上げる。
降り立ってきたトロピウスの翅に刃の性能が宿った。その一閃をゲコガシラが水の放射で受け流す。
トロピウスが旋回し、再び首を刈ろうとしてきた。
チェレンは振り向きもせず、ゲコガシラに命じる。
「水の波導を打ち込んで牽制。奴の真価を試す。出来るな?」
有無を言わせない口調にゲコガシラが首肯する。跳ね上がったその身がトロピウスと交錯した。
トロピウスの新緑の刃をゲコガシラは展開した水の皮膜で受け止める。
しかしタイプ相性上では不利。水の皮膜を容易く破ったトロピウスの一撃にゲコガシラが不格好に倒れた。
チェレンは歯噛みし、ゲコガシラに命じる。
「立て! 立って戦うんだ! そうじゃないと僕らは……!」
ゲコガシラが足に力を込め、立ち上がろうとするがジム戦の直後だ。あまりに疲弊したその身では必殺の一撃さえも出せない。
焦燥に駆られ、チェレンは叫んだ。
「戦って勝たなきゃ、何のためにここにいるんだ! 何のために全てを犠牲にしたんだ! 何のために……旅を続けているんだ……」
トロピウスの刃がゲコガシラを射線に入れる。さしものゲコガシラでも避け切れない、と判じた、その時であった。
「ケルディオ! 聖なる剣!」
黒白の一閃が瞬き、トロピウスに一太刀浴びせかける。トロピウスがその威力にたじろいだのか、戦線から即座に離脱した。
視線の先には息を切らして追いついてきたノアがいる。
チェレンは敵を見る眼を注いだ。
「……何で来た」
「それよりも、ゲコガシラを! 体力がレッドゾーンだ、傷薬で……」
「施しは要らない!」
払った手で傷薬を拒否する。何も理解していないノアとケルディオに、ゲコガシラと自分は対峙した。
きっと、この行動の意味も理解出来ないだろう。
「チェレン……? キミは……」
「勝負しろ。ノア」
その言葉にノアが震撼する。
「どうして……意味なんて」
「意味とかそういうんじゃない! 勝負しろ! ノア!」
ゲコガシラの身体に再び熱が灯り、掌に波導を形成する。その面持ちが真剣だと分かったのか、ケルディオが先に戦闘姿勢に入った。
しかしトレーナーであるノアはまごつくばかりである。
「どうして……意味ないじゃないか。ベルが、バッジを取ってくれた。それがそんなに不服なのか?」
「不服だとか、そういうんじゃない。お前は、やっぱり何も分かっちゃいない」
「分かるさ! キミは無理をしている。強くあろうとして、その結果他人を傷つけるんじゃ、それは本当の強さじゃない」
「知った風な口を、利くな!」
薙ぎ払われたゲコガシラの水流が刃のような鋭さを帯び、ノアの横合いを駆け抜けた。その太刀筋があまりにも本気であったせいだろう。ケルディオが飛び込み、水の皮膜を張る。
「……ありがとう、ケルディオ。でもボクは戦わない。こんなところで何をやっているんだ、チェレン! ベルを悲しませて、その先に未来があると思っているのか? こんな……こんな事ってない!」
「何を偉そうに……。お前はいつだってそうだな、ノア。いつだってカッコいいよなぁ、お前はさァッ!」
チェレンの怒りを飲み込んだゲコガシラが一気にケルディオへと接近する。その勢いに気圧されたようにケルディオが後ずさった。一気呵成に攻め立てたゲコガシラが優位を取る。
水タイプ同士だ。タイプ相性上は不利ではない。
波導攻撃をその身に叩き込もうとして、ケルディオが地面を四つ足の蹄で蹴りつけた。激しいその振動で地面が捲れ上がり、即席の壁を作り出す。
壁を水の刃で突破したゲコガシラが迫るも、依然としてノアとケルディオに戦闘の意思はないようであった。
「戦え! ノア! 白黒つけるんだ!」
「何でそんな……。ハッキリさせないでいい事が、この世にはある! それを、分かっていないのか、キミは!」
「ハッキリさせないでいい事、だと……それは僕とお前の力量差の事を言っているのか? だとすれば、お前は敵だ! ノア!」
ゲコガシラの水の網がケルディオの逃げ場を塞いだ。ケルディオを射線に入れたゲコガシラがその身を肉迫させ、拳を突き上げる。
腹腔に突き刺さった一撃にケルディオは本能的に反撃しようとするのが分かった。
だが、ノアがそれをせき止める。
「駄目だ! ケルディオ! 反撃はするな!」
主人の命令にケルディオの判断が鈍る。その隙をついて、ゲコガシラが角を掴んだ。
これで主兵装である「せいなるつるぎ」は撃てまい。
「反撃するな、だと……どこまでも他人を嘗めるのが好きなようだな、ノア。お前は! 僕と戦う! 戦わなければならない!」
「……いずれはそうかもしれない。でも今じゃない!」
「今ならば勝てるからか? そんな都合よく戦局が回ってくると思うな! 今なら、僕が勝つ!」
ゲコガシラがケルディオの角を叩き折ろうともう一方の手を添える。その手に力が篭った。
「終わりだ!」
ゲコガシラの全力攻撃がケルディオの角を折ろうとする。その瞬間、ケルディオの眼に見た事のない光が宿った。
一瞬だけ、ケルディオの瞳から理性が消え失せる。
途端にゲコガシラの手が弾かれていた。
黒白の稲光が渦を巻き、ケルディオを軸に流転する。角先で弾けた光と闇がじりじりと空気を焼いていくのが分かった。
――これは、殺気か?
チェレンはその感覚に絶句する。ケルディオの身に纏っている空気は今まで見知ったどのポケモンとも違う。
別格だ。
別格の殺意が渦巻き、自分とゲコガシラを灰塵に帰そうとする。
黒白の「せいなるつるぎ」程度ではない。それ以上の何かが放たれようとしていた。
それはケルディオの誇りである角を掴んだ罰か。あるいは、種の本能か。ケルディオの放出するであろう技の予感に、全神経が粟立つ。
逃げなければ、とチェレンが感じたその瞬間である。
ケルディオの姿が一瞬だけぶれ、角の形状が変わったように見えた。
だが、見えたのはその一瞬のみ。
「やめろ! ケルディオ!」
ノアの言葉にケルディオが我に帰ったように殺意を仕舞い込む。黒白の稲光が失せ、元のケルディオが佇むのみであった。
しかし、それでも理解出来る。
今の一撃、食らっていれば負けていた程度では済まない。
まさしく、死んでいただろう。
その予兆にチェレンは腰が砕けていた。あまりの殺気に戦意は萎えていく。
ノアが不安そうにこちらへと歩み寄ってきた。差し出されたその手を、チェレンは払う。
「やめろ! これ以上、僕に惨めな思いをさせるな……」
ノアもかけるべき言葉が見つからない様子であった。
時雨れた森が雨に包まれていた。多くの湿気を含んだ雨に、二人とも打たれる。
禊にもならない、とチェレンはゲコガシラをボールに仕舞った。
「チェレン、ボクは……」
そこから先をチェレンは聞いていられなかった。
駆け出したのは逃げるためでしかない。恐れを抱いた。その時点で、敗北であったのだ。
自分に毒づき、チェレンは無茶苦茶に走る。どこをどう走ったのか分からないまま、チェレンは自分の行方を見失った。
どこへ行けばいい? どうすればいい?
堂々巡りの思考の中で、ただ一つハッキリしているのは、自分はベルにも、ノアにも劣るという事。
叫び出したくなる雨の中、チェレンは熱いものが頬を伝っていくのを感じていた。
トウコがいなくなってから一度として流した事のない涙が堰を切ったかのように流れる。
子供のように丸まって泣きじゃくる事しか出来なかった。
どうして世界はこんなにも残酷なのだ。
弱ければよかったのか?
弱ければ、分不相応な願いを持つ事もなく、このような惨めな思いをする必要もない。
「どうして……僕は弱者ではいられなかった?」
勝ちたい。飢えがある。だというのに、こうも実力が伴わないのは。
ここで捨てるか、と胸中に囁いた。
ここで何もかもを捨てて、根無し草のトレーナー以下の存在になるか。
簡単だ。ゲコガシラの所有権を捨て、そこいらで底辺の暮らしをすればいい。
自分には他に育てるべきポケモンもいない。ゲコガシラ一匹を逃がせばいいのだ。
所有権を捨てるのは、たった一回でいい。ボールの緊急射出ボタンを二十秒以上長押しし「バイバイ」と言えばいいだけ。
それだけで積み上げてきたものは簡単に崩れ去る。
チェレンはゲコガシラのボールと向かい合い、逃げていい、と言おうとした。
もう、自分には何もないのだから。
「ゲコガシラ……逃げても――」
「そこから先を、言わないほうがいい」
その言葉に初めて、この場に他人がいる事に気づいた。振り返ると、灰色に煙る雨の中、佇む人影がある。
ノアかと警戒したチェレンにその人物は語りかけた。
「後悔しない生き方を、君は選択出来るんだ」
その声音は今まで聞いたどの人間の言葉よりも優しかった。不思議と初めて聞いた気がしない。
「あんたは……」
「ここでは名乗らない。ただ、君の可能性を信じる人間だと言っておこう」
可能性を信じる人間。そのような人間などいるものか。
チェレンは投げやりに口にする。
「可能性、なんて信じられない」
「かもね。今の君には、残酷な言葉かもしれない」
「だって、勝てなかったんだ! ベルにも、ノアにも……! だっていうのに、僕に何が出来る? 何に成れるって言うんだ!」
酷く不格好な言葉であっただろう。しかし、相手はハッキリと口にしていた。
「君は、英雄になれる」
ハッと、チェレンが面を上げる。
英雄。
今の自分の境遇とは、まるで真逆の言葉である。問い質す前に、相手は言葉を継いだ。
「英雄に成れるんだ。君にはその資格がある」
「……英雄になんて、成れるわけがない」
「成れるさ。君は、人を救える。自分より弱い誰かを救うために、君は進まなくてはいけない。それがどれほど過酷な道であろうとも」
誰なのだ。まるで自分の事を何もかも知った風な口ぶりである。
しかし反論出来ない。いつもならば、知った風な、と言い返せるのに、この人物にだけは言い返せない気がしていた。
「……本当に、成れるのか? 僕なんかが、英雄に」
自分でも愚かな問いかけだと思っている。どうして、無条件に他人を信じられよう。
だが、相手は嗤うでもない。馬鹿にするでもなく、チェレンの言葉を肯定した。
「ああ、成れるさ。その本質があるんだ。君に与えよう」
投げかけられた物体をチェレンは反射的に受け止める。それは白い石であった。特段、妙なところがあるわけでもない。ただの白い石材である。
「これ、は……」
「いずれ君を英雄に引き上げる。その時、必要になるはずだ。それを持っている事、誰にも言ってはいけないよ。アデクや、ベルにさえも」
この人物は自分の事を確実に知っている。声を振りかけようとして、雨の壁が邪魔をする。
どうしてだか、その人物の背中が明瞭に見えない。
「あなたは……!」
「まだ、僕と会うのには早いか。でも、いつかはきっと、君は英雄に成れる。それを胸に刻んでくれ。ゲコガシラ、いいポケモンだ。一級になった時を見てみたい」
霧の向こう側に、その人物は消え失せた。
しかし幻ではないのは、手にした白い石が証明している。
「英雄に……僕が、誰かを救う番に成れるのか?」
問い質したチェレンに応える声はなかった。