FERMATA








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六章 英雄の座
第71楽章「形而上的な、蝶になる」

 駆け抜けたのは熱風と流水。

 相反する相性が一体の標的を打ち据えるかに思われたが、直後に展開された現実にチェレンは呆然としていた。

 チェレンだけではない。ベルも、ノアもである。

 ミルホッグは大して行動をしていない。だというのに、この結果は――。

「ゲコガシラと……」

「オレのメラルバが、破られた……」

 茫然自失の二人にこの場を制圧している威圧の持ち主が声にする。

 ナチュラルボーンママ、アロエ。このジムのジムリーダー。その実力者は腕を組んで笑みを浮かべるばかり。

「どうしたんだい? まさか、今のだけでブルっちまったのかい?」

 ゲコガシラとメラルバに再度戦闘の闘志が灯る。

 まだだ、とチェレンが口にしていた。

「たった一回の誤射、計算に入れるまでもない。僕が、勝つ」

「やってみなよ、チャレンジャー。張り合いがないってもんさ」

「ゲコガシラ! 懐に入って水の波導を叩き込む!」

 先ほどはメラルバとのほぼ同時攻撃であった。誤射はそのためだ、とチェレンは判断したのだろう。

 ゲコガシラが空間を跳躍し、ミルホッグへと波導攻撃を見舞おうとする。

 その掌をミルホッグが特徴的な赤と黄色の瞳で見据えた。

 直後である。

 メラルバが立ち現れていた。

 バンジロウは命令していない。だというのに、メラルバはゲコガシラの進路を遮る。

 退けとも、避けろ、とも言えない。

 一瞬の交錯に両者の攻撃網が咲いた。

 メラルバの反射的な放射熱線とゲコガシラの流水の攻撃がお互いに突き刺さり、両者が後退する。

 馬鹿な、とノアは絶句していた。

「何をしたんだ、今……」

「あたしにも分かんない……。だって、今動いたのはバンジロウ君でしょ?」

 その言葉に疑問符を浮かべたのはノアである。

「いや、動いたのはチェレンのゲコガシラだけに見えた……バンジロウは、命令さえも下していない」

 今度はベルが戸惑う番である。えっと、と行動を反芻した。

「バンジロウ君のメラルバが動いて、そこにチェレン君のゲコガシラが偶然にも進路を取った、じゃないの?」

 自分とベルの認識が違う。

 ノアがその違和感に言葉を失っているとチェレンが舌打ちする。

「幻術か」

「そんな難しく考える事はないよ。かかってきな。それだけの事さぁ」

 ミルホッグに攻撃の兆しはない。無抵抗のポケモンに近い相手をどう倒すかなどいちいち論じるまでもなかった。

「ゲコガシラ! もう一度だ! 水の波導を全力に設定。たとえメラルバが突っ込んできても!」

「押し切れるってわけかい。いいよ、来な。その自信がどうなるのか、見てみたいもんだねぇ」

「……馬鹿にするな。ゲコガシラ!」

 バトルフィールドを駆け抜けたゲコガシラがその掌に波紋を充填し、ミルホッグへと肉迫する。

 その段になって初めてミルホッグが動いた。

 歩行ではなく、滑るようにゲコガシラから距離を取っていく。

 逃げ水のようにゲコガシラが進んだ分だけ、ミルホッグが後退した。

「当てさせないつもりか……どこまでも嘗め腐って!」

「……水の波導の射程には入っている。ミルホッグがどこまで逃げたところで、それは意味が……」

 ない、と言いかけたノアにベルが声を張り上げた。

「駄目だよ! チェレン君、そのままじゃ……!」

 その言葉の意味するところを判じる前に結果が訪れた。

 ゲコガシラの足場が不意に消失する。

 よろめいたゲコガシラはバトルフィールドを離脱していた。

 審判が旗を掲げる。

「ゲコガシラ、フィールドアウト」

 誰もがその結果を飲み込めずにいた。戦って負けたならばいざ知らず、フィールドアウトだと?

 当然、チェレンはそのような愚を冒すトレーナーではない。

 初歩中の初歩のミスである。一番に戸惑っているのはゲコガシラに攻撃を命じていたチェレンだ。

「何で……僕の眼がおかしいのか?」

「おや、フィールドアウトかい。ちょっとばかし期待し過ぎたかねぇ」

 挑発するアロエへの挑戦権は既にチェレンにはない。フィールドアウトは敵前逃亡も同じ。ボールに戻ったゲコガシラに、チェレンは茫然自失であった。

「いつ、だ? いつ僕がそんなミスを……」

 口中に繰り返すチェレンに、バンジロウが声を跳ねさせた。

「メラルバ! これで一対一! ミスはない!」

 メラルバが赤い触手を煌かせて熱線を手繰る。その精密機器並みの放射熱を受け止める事は不可能だ。

 どれだけ逃げおおせても、メラルバの射線は確実にフィールド内のミルホッグを焼く。

 棒切れのように立ち竦むミルホッグへと、メラルバの炎が纏い付いた。

「そうれ! もう一発!」

 熱線がさらに灼熱の温度を上げてミルホッグに迫る。

 ミルホッグの肉体が焼き尽くされ、今にも倒れそうであった。

 好機、と判じたのだろう。メラルバが駆け抜けて全身に炎を纏う。

「フレア、ドライブ!」

 渾身の灼熱の体当たりがミルホッグへと突き刺さったかに思われた。

 その瞬間である。

「へぇ、そういう風に攻めるのかい。だったら、こう攻めようかねぇ」

 ミルホッグの位置が反転した。

 メラルバの背後にミルホッグが立ち現れたのである。一瞬の事に誰もついていけない。

 当然、戦闘中のバンジロウとメラルバがその事象についていけるわけもない。振り向いた瞬間、ミルホッグの攻撃が隙だらけのその身へと叩き込まれた。

 たった一撃である。

 その一撃で相当に育て上げられているメラルバが沈黙する。

 ベルが息を呑んだ。ノアも言葉が出ない。

「オレの、メラルバが……一撃? 一撃だって言うのか」

 信じられない心地のバンジロウへとアロエが言いやる。

「戦闘不能が二体目。さて、チャレンジャー。どうする? このまま戦いを挑むかい?」

 相手の策も分からぬまま戦いを挑み続けるのは下策。しかし、ここで勝たなければバッジは手に入らない。

 破格の条件なのだ。

 一人でも勝てればバッジは手に入る。

 しかし一人も勝てなければ――。

 最悪の想定が浮かぶ中、ベルがモンスターボールを握り締めた。

「……あたし、やるよ」

 握ったのはフォッコのボールである。自分のケルディオとは相性が悪い。

「……相手の策が分からない。このまま二体で挑んでもまた自滅するかも」

「でもでもっ! 挑まない理由もないじゃない。あたし、二の足を踏んでちゃ、一生勝てないと思う」

 ベルにしては強気な発言であった。

 よろめきながらベルがボールを放る。

「行って! フォッコ!」

 飛び出したフォッコが光を払い、ミルホッグを見据えた。

 ノアはケルディオを出すべきか決めあぐねていた。一人でも勝てばいい。しかし、バンジロウほどの実力者でも敗北した。

 単純なトレーナーの腕で勝利出来るとも思えない。

 フォッコは不安そうにベルを窺っている。あのようなポケモンでどうにかなるのだろうか。

 ノアのほうが不安に駆られる中、フォッコへとベルが命じる。

「火の粉!」

 フォッコが酸素を吸い込み、口から小さな種火を吐き出した。ミルホッグへと命中するが大したダメージにはなっていない。

「火傷にもならないねぇ」

 矢継ぎ早にベルは命令を下す。

「同じ場所へと、火の粉、連発!」

 続け様に放たれた「ひのこ」をミルホッグは避けもしなかった。右足に集中して放たれた種火を、ミルホッグが踏み潰す。

「レベル差か。それ以上に戦いの差ってものがある。ミルホッグ、お嬢ちゃんに分からせてあげな。そのまま接近」

 ミルホッグが音もなくフォッコへと迫った。その速度にベルが追いつけない。

 ミルホッグが突き上げる拳を放つ。フォッコがよろめいた。その腹腔へと蹴り上げられる。

 トレーナーであるベルのほうが痛ましいほどに目を瞑っていた。端には涙が浮かんでいる。

「……頑張って、フォッコ。まだ……まだだよ」

 ベルに策はあるのだろうか。策がないのならば今すぐにケルディオを出すべきであった。

 旅の仲間が蹂躙されているのを黙って見過ごせるほどの冷徹ではない。

「このままじゃ……ケルディオ、行けるな?」

 ボール越しの了承を振り向け、投擲しようとしたその時である。

 ベルがその手を遮った。

「ベル? このままじゃフォッコが……」

「待って。まだ、まだいける。それに、あたしも、逃げちゃ駄目なんだって思えた。この戦い、あたしは勝ちたい。勝ちに行きたい!」

 いつになくその瞳に宿っていたのは勝利への執念であった。闘志に火が点き、煌々と燃えている。

 諦めていない。ベルは、諦めなど通り越しているのだ。

 その諦めを踏み越え、ベルが声を張り上げる。

「フォッコ! あの時の炎を出して!」

 フォッコの瞳が紫色に輝く。途端、発生した炎がミルホッグに纏い付いた。

「こんなもの……」

 ミルホッグが身体を回転させて炎を払おうとする。しかし、炎は粘性を持ったかのように剥がれない。

「この炎……ただの炎じゃ」

「マジカルフレイム。あたしのフォッコはもう覚えている」

 ベルの眼差しがミルホッグを捉える。その声音に迷いはなかった。

「ちょっと強い技を覚えている程度で!」

 ミルホッグが滑るように後退し、魔術の炎の射程から逃れようとする。

 容易く射程から逃れたミルホッグに、ベルは追撃の指示を出さなかった。

「ベル! これじゃせっかく捉えたのに……!」

「ううん。もう見えている」

 その瞳が捉えた先には、もう一体のミルホッグがいた。

 一体ではない。

 場にいたのは三体のミルホッグだ。

 三体がそれぞれ、ほぼ同じ位相を伴って移動している。重なって見えるため、動きにブレがない限りこちらからは今の今まで窺い知れなかった。

「三体……?」

「最初から、そうだった。三体いたのに、それを一体に見せていた。あたしも最初は分からなかったけれど、バンジロウ君のメラルバのすぐ背後に現れた時、一瞬だけ、その動きにずれが生じていた。そのずれを突く方法があるとすれば、それは二体のポケモンによる同時攻撃よりも、一体による集中攻撃のほうが分かりやすい」

 一体のミルホッグの右足のみに「ひのこ」でついた焦げ痕があった。ベルはその一つの差異のみでこの戦法を見破ったというのか。

 ――否、そう簡単に見破れるのなら、チェレンもバンジロウも気づいているはず。

 その二人が戦闘に夢中であったとは言え、気づけなかったものを、ベルは見出した。

 ノアが言葉をなくしていると、フォッコが飛び出した。

 三体のミルホッグが再び一体へと位相を変える。

「催眠術か、それに近い何かで一体にしか見えないようになっている。でも、もう三体だって分かった。だったら!」

 そうか、とノアはケルディオのボールを構えた。

「だったら、今ならば一体に収束する前! 隙がある!」

 ケルディオがボールから光を棚引かせて飛び出し、瞬間的に間合いを詰めた。

「インファイト!」

 四つの蹄が交差し一体のミルホッグを引き剥がす。その背後へともう一体が迫った。

 先ほどからの違和感はこれであったのだ。ゲコガシラがフィールドアウトしたのも一体を追いかけていたから。メラルバが隙を突かれたのも、一体だと思い込んでいたからである。

「もう、その術は通じない!」

 ケルディオが前足で制動をかけ、振り向き様に一閃を浴びせる。

 ミルホッグがフィールド上を滑って転倒した。

 今、場には三体のミルホッグがてんでバラバラの方向を向いて点在している。

 制圧するのならば今であった。

「ケルディオ! 聖なる剣!」

 黒白の稲光が角の先に充填され、電磁を帯びた途端、三体のミルホッグが再び一体へと位相を変えようとする。

 それを阻んだのはベルのフォッコであった。

「させない! ここで逃がせば、チャンスを逃す! あたしは、役に立ちたい! だからフォッコ! 応えて! あたしの想い!」

 ベルの握り締めた手から光が弾け飛ぶ。

 その光が拡張し、フォッコを押し包んだ。

 涙の粒がフォッコへと降り注ぎ、その身を立ち上がらせる。二つの足でフィールドを踏み締めたフォッコが片手に松明を持っていた。

 最早、その姿はフォッコではない。

「進化、したっていうのか……」

 驚愕するチェレンに、ベルは強い意志の光を携える。

「あたしに、力を貸して」

 フォッコの進化形態が松明を払い、炎の位相を操った。ただの「ひのこ」に過ぎないそれがミルホッグの収束を邪魔するように転移する。

「この炎……エスパーの属性を帯びている?」

 ミルホッグが集まり損なってタイミングを見失った。それぞれ別方向に散り散りになったそのうちの一体へと、ケルディオが角先を掲げる。

 次の瞬間、空間を引き裂く黒白の刃がミルホッグを打ちのめした。

 一体のミルホッグはたちまち戦闘不能に陥る。もう二体、とノアが手を振り翳したところで、アロエが声を飛ばした。

「審判! やめだ」

 その言葉に審判が心得たように旗を掲げる。

「ジムリーダーアロエ、戦闘続行不能を宣言! よって勝者、チャレンジャー!」

 掲げられた旗の意味に最初気づけなかった。だが、その余韻にようやく現実が追いついた時、ベルが前によろめく。

「ベル?」

 身体を震わせて、ベルがフィールドに佇む自分のポケモンを見やっていた。その瞳に映るのは、新たなる姿を得た炎のポケモンである。

「勝った……」

「そうだ、勝った。キミのお陰だよ」

「あたし、の……?」

 ベルがミルホッグの幻術の正体を見破れなければ突破出来なかっただろう。バンジロウが歩み寄り、手を差し出した。顔には満面の笑みがある。

「すげぇな! ベル! 今まで弱っちい女だな、って思っていてゴメンな! オレ、今日からお前もライバルだと思うよ!」

 てらいのない賞賛にベルは困惑しているようであった。

「ライバルって……あたしが?」

「おお! だってあの策はオレも見破れなかった! だから対等以上だ! その資格がある!」

 おろおろとベルが周囲を見渡す。アデクが微笑み、その背中を後押しした。

「立派なもんじゃわい! お嬢ちゃんの慧眼が今回の決め手となったのう!」

 バンジロウがベルの手を引き、無理やり立ち上がらせた。この勝利はベルによるものだ。その大きさに、ノアも実感している。

「ベル。キミの勝利だ」

 二人に押さえ、ベルが首を巡らせているとアロエが呼び止めた。

「そこのお嬢ちゃん、前に」

 ベルがおっかなびっくりにアロエへと歩み寄る。その途端、アロエがベルに抱きついた。

 あまりの事にベルが困惑する。

「えっ、ちょっと……」

「すごいねぇ! あんた立派だよ! 四人のトレーナーがいて、あんたが突破口になった! まさしく、勝者に預けたいこのバッジ。持つのに相応しいトレーナーだ!」

 ベルの手へと四人分のバッジが手渡される。ベルは首を横に振った。

「そんな、あたしだけの力じゃ……」

「それも込みで、さ。そういうのを分かっていて、冷静に判断した。トレーナーの素質ってのはただ単に強さではかれるものじゃない。観察眼、ってのがいいね、あんた」

「観察眼……あたし、そんなの言われた事初めてで……」

 紅潮したベルが帽子を目深に被って面を伏せる。しかし、この場で賞賛を受けるべきトレーナーは彼女だろう。

「後は賞金だね。ホロキャスターを出しな」

 赤外線で渡された金額にベルがおろおろし出す。

「そんな……こんなにもらえません!」

「もらっておくもんだよ。勝ったんだからね」

「勝った……」

 その肩をバンジロウが叩く。

「祝杯と行こうぜ! オレら、まだ次を目指すんで!」

 急かされたようにバンジロウがジムを出て行く。その背中にバッジを渡しそびれて、ベルが持て余した。

 代わりにアデクが受け取る。

「またバンジロウには渡しておくわい。それにしても、あの姿……フォッコの進化系、テールナーと呼ばれておる」

「テールナー。それが、あなたの名前なの?」

 問いかけたベルにテールナーは首肯した。

 松明を手にした新たなるポケモンはベルの力となるであろう。

 ノアもバッジを受け取り、最後にチェレンに渡す段になって、彼は視線を逸らした。

「僕は、要らない。受け取れない」

「何で……、だって一人でも勝てば、ジムを攻略したって――」

「ベルの白星だ。僕にとっては負けに違いない」

 その言葉にベルはしどろもどろになる。どうすればいいのか分からないのか、チェレンへと言葉を投げ続けた。

「でも、でも勝ったんだよ! だから、チェレン君も……」

「だから! 勝ったのはベルだけだろう! 僕にとってはそんなの、ちっとも勝った気分じゃないって言ってるんだ!」

 叫んだ声音にノアも含め全員が気圧されていた。苛烈なまでに強さを追い求めるチェレンの事だ。このような事態は想定出来た。

 その時、涙が伝い落ちる。

 滴った雫がベルの頬を濡らしていた。

 ハッとしてチェレンが面を上げた時には、ベルが泣きじゃくっていた。

「あたし……考えなしだったのかな……ゴメンね、チェレン君」

 何度も謝るベルにチェレンは顔向け出来なくなったのだろう。逃げるようにジムを後にする。

 その背中を呼び止めかけて、ベルが蹴躓いた。

 その身を支えたのはヴイツーである。

「あの、その……」

「今は、放っておいてやりな。勝ちを勝ちと思いたくねぇ、ってのは分かる。あの坊主は飛びっきりみたいだからな。勝つ事への飢え……執念か。そういうもんを背負っちまった人間ってのは、素直に受け取れないものなんだよ」

「でも、あたし、これを……」

「今は、預かってやりな。あいつがこの戦いを笑って語れるようになったら、きっと受け取ってくれるはずさ」

 ベルを泣き止ませようとするヴイツーにノアは何も出来なかった。

 チェレンにも、ベルにも、何一つ。自分は無力でちっぽけだ。そう考えかけたのを察したように、アデクが呟く。

「己の能力を過小評価するのは、お主の悪い癖じゃぞ?」

 読まれているな、とノアは言葉を発した。

「……でも、彼の気持ちは分かる。痛いほどに。自分の実力でないものを、そうだと教え込まれても納得は出来ないんだ。かつてのボクのように」

「実力じゃとて。お主らが全員で勝ち取った白星じゃ。お嬢ちゃんがおらなくとも、あの坊主がおらんくとも、バンジロウとノアタロー、お主ら四人が力を出し切ってようやく得た勝ち星。誇りに思えばいい。何も、遠慮する事はないのじゃよ」

 アデクの言う通りなのかもしれない。だが、自分は。どこかでこの勝利に酔えないチェレンの気持ちが分かる。

 彼は常に勝者の気持ちを理解しようとしていた。弱いわけではない。ましてや努力が足りないわけでも。

 求めるものが多いばかりに、その理想と現実が遊離する。

 ならば求めなければいいのか。

 否、とノアは感じる。求めるものの少ない人間は一見無欲のようであるが、それはただの諦観だ。

 諦めた人間の枯れた欲望には何も咲かない。

 漠然とした荒野が広がるのみ。

 だから、まだ伸びしろはある。ベルにもチェレンにも。無論、バンジロウにも。

 彼らは気高く飢えられるのだ。

 ――ならば自分は?

 問いかけた胸の中に、虚無が口を開けている。自分がどれほど強くなっても、この時間軸でどれほど救っても、いずれは戻らなくてはならない。

 何もかもが手遅れで、何もかもを諦めていたあの時間軸に。

 不可思議なものだ。

 最初こそ、やり直しを渇望していたのに、今となっては、彼らとの旅が楽しいだなんて。

 焼き直しではない。彼らは生きているのだ。その生をどうこうするかは彼ら次第。決して定められた運命のみで動いているわけではない。

 自分という人間が与えた影響のみで世界がまわっているわけではないのだ。

「チェレンを追います」

「嫌な役割ならば、老人が引き受けるぞ?」

「いえ、ボクは、こういうのも込みで、やらなくっちゃいけない気がする」

 痛みを背負わずして何がやり直しか。

 駆け出す前に、ノアはベルからバッジを受け取った。

「ありがとう。キミのお陰だ。ベル、誇りに思うよ」

 涙は止まらなかったが、少しだけ微笑んでくれた。今は、それで充分。

 身を翻したノアはチェレンの後を追っていた。



オンドゥル大使 ( 2017/10/21(土) 21:06 )