第70楽章「愛だけじゃない」
「N様は、私を救ってくださったのよね」
そう切り出した自分の半身は、どこか所在なさげに目線を伏せている。
ヘレナはどうして、と口にした。
「そんな当たり前の事を? N様は昔からお変わりないわ」
「本当に、そう……なのかしら。だって、あの時、N様は……」
そこから先を濁したバーベナにヘレナは言葉もかけられない。
もう一人のN。それだけではない。バーベナを攫ったトレーナーの身元もようとして知れない今では、迂闊な事は言えなかった。
Nは正しい。いつもそうなのだ。だからNに従っていれば自分達は間違わずに済む。
そうなのだと、思い込んでいた。絶対なのだと。
しかし、もう一人のNの存在でそれが瓦解しようとしている。
ともすれば、プラズマ団を内側から分裂させる事さえも出来たもう一人のNの存在。
しかし、彼はそのような行いをせず、自分とバーベナを攫うのみであった。
何か裏があるのではないか。ヘレナははめ殺しの窓から外を見やる。
鳥ポケモンが横切っていく箱庭の中で、変わらない平和な光景が繰り広げられている。
だがそれは、管理されていない平和だと誰が言い切れよう。
Nは自分達の代わりに泥を被る心積もりだ。あの時、もう一人のNと出会った事、さらに言えばバーベナ奪還の際にこちらに刻まれた傷痕はそのままに、彼だけが進もうとしている。
この暗闇の中を。暗黒のイッシュの世界を。
「N様は……いつも正しいのだと私達は思い込んでいた。いえ、今でもそう思っている。でも、その足場がいつ壊れてもおかしくないのだと、分かってしまったから……」
分かってしまったから、では何なのだ。
自分は誰も信じられず、プラズマ団の象徴である事も放棄するのか。
どだい無理な話である。
今さら愛の女神、平和の女神の役割を捨て去るなど。女神の名は呪縛。
自分達は気づかぬうちに、プラズマ団の鎖に繋がれた咎人。
「N様は、私達のこういう疑問も含めて、分かっておられるのだと、思っていたわ」
バーベナの言葉にも一理ある。今まで万能の存在だと思い込んでいたNに、その似姿が現れたとなれば組織の統括にも支障を来たす。
「プラズマ団はN様という絶対者を戴いて完成する居城。でも、私達が信じないでどうするの? だって、あの日、あの森で、N様を一番に知っているのは、私達でしょう?」
そう問いかける事でしか、胸を占めようとする虚無感を消す事は出来なかった。
問い続けて、ではNは? Nという存在はそれほどまでに高尚なのか。
プラズマ団のためにNがいるとすれば、自分達は何なのだ。
プラズマ団の前のNを知っている自分達は、では何のためにNと一緒にいたのだ。
あの時間は、嘘だったのか。
ヘレナは覚えず拳を握り締めていた。
嘘のはずがない。あの森での穏やかな時間を嘘だと言ってしまえば、自分達には何もない。それこそ虚無ではないか。
「私、何を信じればいいのか、分からなくなってしまった。N様は戴冠式を?」
「引き延ばしになられておられるわ。七賢人を説得して、自分で世界を見ておきたいと。私達が止める立場にないのは今さらだけれど、N様は七賢人の反感を買ってでも、今、この世界を見据えようとしていらっしゃるのよ」
ここにある世界。今、この時代のイッシュを。
だが、それは、砂の城のように脆く崩れ落ちない保証のない時間。いずれNは王となり、イッシュを束ねる存在に昇華する。
しかし、今だけは。彼に束の間の平穏を、とヘレナは願った。
自分達はもう、いい。もう、自由など要らない。
誰かの犠牲の上で成り立つ自由など、もう望むまい。
だからこそ、Nの心の平和を。Nの幸せを切に願うのだ。
その願いがどれほどまでに自分勝手で、実現不可能なものであっても。
「N様は、どうしておられるの?」
「先日ライモンシティに滞在しておられたそうだけれど、後の消息についてはまだ……」
自分達が根掘り葉掘り聞くものでもないのだとヘレナは感じていた。七賢人を実力でもって納得させ、強攻策に近い形で旅に出たNを誰が責められよう。
彼はバーベナのために、自分の手持ちを晒したのだ。
七賢人という俗物の集まりに、わざと。その覚悟が分かっているからこそ、ヘレナは簡単に口を挟める事なのではないと思っていた。
Nはどこを見ているのか、時折分からない。
昔のNは純粋であった。無邪気でもあった。
何よりも、無垢であった。
何一つこの世界の穢れなど知らず、己と周辺のみで出来上がった世界の片隅にただ存在するだけの善意。
しかし、今はそうではない。
プラズマ団という総体を纏め上げ、その上に立つ王になるために、彼はいくつ犠牲にしてきたのだろう。
あの森の日々の穏やかさ。あの時、流れていた時間を対価にしてもまだ足りない。
彼は己の自由そのものと引き換えに、プラズマ団の主張を通すための力となろうとしている。
その力の象徴たる白と黒のポケモン。英雄になる事を宿命付けられて。
「……英雄なんて、ならなくてもいいのかもしれない」
だからこそ、そのような言葉がついて出た。
もし、Nが全てを手に入れ、英雄になった時、その時自分達はその傍にいられないだろう。
その予感はあった。
きっと、英雄になったNを一目見る事さえも叶うまい。
それほどまでに遠い存在になろうとしているのだ。
Nは己を投げ打ち、プラズマ団の理想になるために王冠を戴く。
しかしそれは、罪と血に穢れた王冠。
そのようなものをNに被せていいのか、とヘレナは自問する。
プラズマ団が裏でやっている事を全く知らないほど愚かではあるまい。
Nは分かっていても何も言えないのだ。彼は王であって、命令権のある上官ではない。
王は座して待つもの。王は取り乱さないもの。
王は……全ての責任があると分かっていながらも、決して俗世に干渉しないもの。
王は絶対者であるのと同時に、最も遠い存在である。
王そのものが執政するわけではない。王そのものが国を守るわけではないのだ。
王が守るのはその地位のみ。
己が最も位の高い場所にいる、という証明だけ。
その地位に甘んじて、蜜だけを吸おうとしているのはプラズマ団七賢人に限った話ではないだろう。
数々のスポンサーや企業もおこぼれに与ろうとしている。
プラズマ団の所業を見過ごす代わりに。
ゲーチスのやっている演説とて、あれはただの問題提起なのだ。
人々が自分からポケモンを手離すのかどうかは結局、民草の判断。
ゲーチスの言葉で踊らされるくらいならば、最初からその程度の繋がりでしかない。
Nは恐らく王になっても何も言うまい。
王だからとこの世界を支配出来るわけでもないのだ。
支配するのはでは誰になる?
胸に湧いた疑問にヘレナはゲーチスを浮かべた。
野心の塊のような男だ。あの男が全てを狂わせた。森で育っていた日々を壊したのは、ゲーチスである。
「……私達は、ただ放っておいてくれればそれでよかった」
望むものは少なく、ただただあの時間を取り戻したいだけ。
放っておいてくれさえすれば。あのまま、あの時間を置き去りにしてくれれば。どれほどまでに幸福であったか。
どれほどまでに、自分達は純粋な、子供時代を生きられたのか。
しかし、それも意味のない問答。
過ぎ去ってしまった日々は取り戻す事など叶わない。焦がれても、焦がれても、あの日々だけは取り戻せない宝石であった。
「でも、放っておかれたら、私は多分、死んでいた」
バーベナの語調にヘレナは返そうとして言葉が出なかった。元々、自分がNに頼み込んだのだ。
バーベナを助けて欲しいと。
あの森に分け入った時点で、自由などなかったのかもしれない。
森に住む敬謙なる使徒は、外に出るべきではなかった。
森の人が外に出た時、既に物語は始まっていたのだ。
堕ちていくだけの物語が。自分達の有限なる理想郷が。
Nに助けなど乞わなければよかった。今さらの後悔を浮かべても仕方がない。
Nは未来のために戦っている。ならば、自分も背負うべきだ。
「未来のために……私達は戦うべきなのかもしれない」
この鳥籠で一生を終えるか?
否、断じて否である。
それはNに対しての裏切りだ。Nは必死に状況を変えるべく奔走している。その努力を裏切る事だけは決してしてはならない。
「ヘレナが行くのなら、私は止めない」
半身の言葉にヘレナは重く受け止める。バーベナは外に出た事で何かを知ったのだろうか。
己の限界? それとも、この世界の魅力?
分からない。何一つ。一つだけハッキリしているのは、ここで動き出さなければ、Nも、ひいては自分達も、状況に流されるだけだという事のみ。
「……バーベナ。私は、行くよ」
その背中をバーベナは呼び止めない。女神でいるだけにしては知り過ぎてしまった。汚れ過ぎてしまった。
ならば、これ以上汚れるのに、何も躊躇いなどない。
ヘレナの目指したのは七賢人の待つ会議室であった。
従者に所用を口にして招集させた、賢人の名を騙る打算に満ちた大人達。
その大人達と事を構えなければ、自分は一生このままだ。
一生、何も知らぬまま、幽閉されるが如くこのプラズマ団で生きる事だろう。
それは浪費である。
人生の浪費など、Nは決して望むまい。
「私は、N様に報いたい」
扉を開けるのにも、躊躇いはなかった。