第68楽章「Labyrinth」
垂れ込めた曇天は水タイプにとっては優位となる。
チェレンは息を詰めて追いついたプラズマ団の集団を観察していた。盗難してきたドラゴンポケモンの化石を手に一人のプラズマ団員が口を開く。
「これ、本当に伝説のポケモンの化石なのか?」
「分からん、が、シッポウシティ博物館にある何かが、伝説の龍の痕跡であるのは間違いないんだ。これかもしれないだろ?」
「どっちにせよ、本部に持ち帰るのには少しばかり弱いな」
ドラゴンの頭蓋の化石を弄び、プラズマ団員達が連絡を取り合っている。
仲間を呼ぶつもりかもしれない。
今しかない、とチェレンはモンスターボールを握り締めた。
ゲコガシラで速攻を決め、相手の懐に入り、すぐさま連続攻撃。三人のプラズマ団員を完全に沈黙させる。
難しくはない。脳内にイメージも描けている。
チェレンは深呼吸し、踏み込もうとした。
その時、地面から何かが這い出てチェレンの前に弾き出される。
新緑の、種のようなポケモンであった。そのポケモンが回転し、棘をそこいらに撒き散らす。
チェレンは肩に棘を受け、よろめいた。
呻き声を聞きつけ、プラズマ団がこちらに気づく。
「何だ、追っ手か?」
歩み寄ってきたプラズマ団員は周囲を見渡した。自分以外誰もいない事に気づくと、こちらを覗き込む。
「ガキ一人か?」
「アロエとかいうジムリーダーじゃねぇのか?」
「いや、ガキだけだ。テッシードの罠にはまったヤツは、こいつだけだし、周りに人の気配もない」
完全にこちらを嘗め切っているのか、プラズマ団員からは戦意すら感じられない。チェレンは肩の痛みを押してボールの緊急射出ボタンに手をかけた。
「僕を、嘗めるな……! 悪党共がっ!」
ゲコガシラを繰り出しかけてその手が思念の渦に絡め取られた。もう一人のプラズマ団員の繰り出したエスパーポケモンがチェレンの手を封じている。
「油断すんな。ガキとはいえ、こっちを一人で追ってきたんだ。それなりに自信はあるって事だろう」
「自信、ねぇ。にしちゃ、随分とずさんだな。テッシードの罠にはまって、肩に一撃もらってやがる」
せせら笑うプラズマ団員にチェレンは怒りがふつふつとこみ上げていくのを感じていた。突き刺さった棘を手で掴み、そのまま引き抜く。赤い鮮血が滴ったが、馬鹿にされるよりかはマシだと思えた。
それを目にして団員が、ほうと感嘆の域を漏らす。
「やるねぇ、ガキ。だが、それは失策だぜ」
「言っていろ。僕は、お前達みたいなクズを叩き潰すためにいる。そのために強くなる。誰よりも、何よりも……!」
「こいつは驚いた。王になるって言うのか? 寝言は寝て言えよ」
チェレンはモンスターボールを投擲しようとした。
「黙れ! 行け、ゲコガシラ……」
その言葉とは裏腹に、モンスターボールが手から滑り落ちる。
どうしてだか、手が紫色に膨れ上がり、その末端神経を麻痺させていた。激痛さえも伴わせ、指先が脱力する。
勢いを失ったボールは開閉せず、ころころと転がり、プラズマ団員が踏みつけた。
「テッシードの棘には毒素がある。馬鹿みたいにカッコつけて手で引っこ抜いたのが運のツキだったな。痺れて手がまともに動きはしねぇはずだ」
「早く片づけろよ。バネブーの念力も限界だ」
仲間の言い草にテッシード使いのプラズマ団員が声を振り向ける。
「分かってるよ。ただな、大人に逆らうとどれだけ怖いかだけ、刻み付けてやろうと思ってな」
チェレンの指先が掴まれる。こちらからはまるで感覚がない。痺れて何も感じられないのだ。
その指先をプラズマ団員が思い切り折り曲げた。
ごきり、と嫌な音が響き渡る。
痛みは存在しないが確実に折られた、という感覚に冷や汗が伝い落ちた。
喉元から叫びが迸る。プラズマ団員はそれを目にしてせせら笑う。
「ガキが、どれほど無鉄砲かと思えば、ゲコガシラか。この程度なら、どうしてやる事もないな。ポケモンを奪って、両手を潰してさよなら、だ。大人の世界に首を突っ込むと怖いって事、教え込んでやるよ」
チェレンの頬へと平手が叩きつけられる。眼鏡が地面を転がり、唇の端が切れた。
血の味が口中に広がっていく。
「後悔しても遅いんだぜ。ここに来ただけで、自分がどれほどまでに愚かしかったかを知れ。身の程知らずが」
次に腹腔を蹴りつけられた。咳き込むチェレンの前髪を掴み、プラズマ団員が言いやる。
「ごめんなさい、って言えば、有り金全部で許してやるよ」
その言葉にチェレンは目の前が暗く滲んでいくのを感じていた。何も出来ず、このまま潰えるのか。
目の前が真っ暗になるのを感じ取った矢先、声が飛んできた。
「――その必要はねぇぜ、少年」
次の瞬間、灼熱が身体を押し包んだ。
眼鏡がないせいで誰なのか分からないが、炎熱の使い手となればバンジロウかアデクだろうと、チェレンは感じ取っていた。
――また助けられるのか。
潤む視界の中、立ちはだかった影がこちらへと振り返る。
見た事のない男であった。黒衣に身を包んでおり、顔には痛々しい火傷の痕がある。
男はすっと手を差し出した。
チェレンが判じかねていると、男が口にする。
「立てよ、少年。てめぇも、一端の戦士だろうが」
「だ、誰だ?」
うろたえるプラズマ団員に男が声を飛ばす。
「てめぇら一般団員じゃ知る由もねぇ、か。プラズマ団、ヴィオ直属の隠密部隊、ダークエコーズが一人、ヴァルキュリアツー」
プラズマ団。その言葉にチェレンは身体を震わせた。まさか、連中の仲間なのか。
相手もそれを感じ取ったのか、言葉を継ごうとして灼熱のフィールドに阻まれた。
「我々の、手助けに来たのでは……」
「勘違いすんな、三下。おれはもう、プラズマ団じゃないんでね。一人の男のために、この身を捧げると決めた。おれの今の名前はヴイツーだ。そして、てめぇらは後悔する。その男の仲間に手ぇ出した、己の迂闊さを」
炎熱を発生させているのは巨躯を持つ橙色のポケモンであった。
丸太のような腕を掲げて炎がたちまちヤグルマの森に屹立する。
「何と……何という事だ。ヴィオ様直属の人間が、プラズマ団を切る、だと? そんな事、許されるはずが……」
「だから、咎は受けたさ。ただまぁ、てめぇらとは覚悟の度合いが違うんでね。質と言い換えてもいい。おれは一度死んだも同然。なら、もう怖くねぇよ。何を敵に回しても、怖くはねぇ」
「て、テッシード!」
テッシードが跳ね上がり、棘を乱射しようとする。
危ない、とチェレンが声を飛ばす前に、放たれた高温の放射熱がテッシードを焼き尽くした。
「エンブオーに、そんなやわなポケモンは通じねぇ」
プラズマ団員が及び腰になる。このままでは、と判じた連中にヴイツーは言ってのけた。
「退くのなら、止めはしねぇ。行け」
その言葉に耳を疑ったのはチェレンも同じである。ここで連中を逃がすわけにはいかない。
曇る視界の中にゲコガシラのボールを見つけ出す。チェレンはヴイツーの視界を抜け、炎へと飛び込んだ。
「てめぇ、何を――」
言い切る前に、チェレンがボールの緊急射出ボタンを押し込む。
「ゲコガシラ!」
跳ね上がったゲコガシラがプラズマ団員に襲いかかった。飽和攻撃が一人のプラズマ団員を拘束する。
「こいつら、シッポウシティから……化石を盗んだって」
「ああ、それで、か。だが、無茶無謀、無策が過ぎるぜ。今の一瞬、おれが相手を焼いていたらてめぇも消し炭だ」
さて、とヴイツーが三人組に視線を振り向ける。最早、手を失った三人が蜘蛛の子を散らしたように逃げていった。
炎熱の空間が解け、瞬時に静寂が降り立つ。
先ほどまでの高温が嘘のように森の中は冷やされた空気に満たされていく。
チェレンは眼鏡を探して手を彷徨わせた。
その手にヴイツーが眼鏡を握らせる。
「……どうも」
それを受け取ろうとした刹那、手首をひねり返され、チェレンは成す術もなく背筋から地面に打ちつけられた。
抗議を発する前に、その首筋へとヴイツーの手刀が添えられる。ただの手刀ではない。殺人術を心得た人間の手腕であるのは自分でも窺えた。
「……解せねぇな」
言葉も出ない中、ヴイツーが口にする。チェレンは身動き一つ取れない。
「別にゲコガシラなんて出さなくっても、おれに任せりゃよかった。あいつら、どうせ尻尾を巻いて逃げ出した」
チェレンは拳を握り締める。今だけは、目の前のヴイツーの顔がぼやけていてよかった。そうでなければ羞恥の念で声も出せなかっただろう。
「……僕は、強くなりたくってここに来た」
「ほう。で? ノア達を振り切ってまで来て、そこでのこのこと負けて帰るのが正しいとでも?」
ノアの事を知っているのか。チェレンは歯噛みして声を振り絞る。
「……でも僕は、一人でも勝たなくっちゃいけなかったんだ」
「それは本当にそうなのか? お前、今は神経が死んでいるから痛みも感じねぇだろうが、片手折られてるんだぞ? 再起不能になって、それで何もかもを失って逃げ帰るのと、何が違った?」
彼も自分を否定するのか。チェレンは言葉を搾り出す。
「だからって……じゃあ仲良しこよしして、みんなで立ち向かえばよかったって? そんなわけがない! 僕は、一人でも戦える。一人でも勝てる! それを証明しないで、どうするっていうんだ。そんなの男じゃない! 男じゃ……ない!」
必死に発した声音にヴイツーがどのような表情をしたのかは見えなかった。ただ、手刀を離し、チェレンを見下ろす。
「男じゃねぇ、か。そいつには同意だが、何も無茶するだけが男道ってわけじゃねぇだろ。だがまぁ、心意気だけは買ったぜ」
差し出された手をチェレンは困惑して見つめ返していた。
「立てよ。名前は?」
「……チェレンだ」
「おれはヴイツー。説明するともっと長いんだが、まぁいいだろ。借りを返すために、ノア達に合流しようと思ったらてめぇが襲われていてな。思わず助けちまった。だが、預かった命だ。てめぇ、強くなりてぇみたいだな」
その言葉にチェレンは無言を是とする。
「……いいぜ。強くなりたい奴は大歓迎だ。ただし、まずは一度、敗走した事をアデク達に報告だな。それに、おれが合流した事も。……まぁ、怪我の完治なんて待っていられなくって慌てて来たんだが、それも込みで、な」
火傷の痕をさすったヴイツーは微笑んでいた。その笑みの理由が分からずに、チェレンは反抗的な眼差しを向ける。
「僕は、あなたとは違う」
「そりゃそうだろうさ。ただまぁ、ノアに限っては、そういう話の次元でもないんだがな」
どうして、行く先々の人間はあのノアという青年を買っているのだろう。
あんなもの、ただのちょっと強いだけのトレーナーではないか。
眼鏡をかけ直したチェレンは口にしていた。
「……僕は負けない」
「いい心意気だ。気に入ったぜ、チェレン」
ヴイツーが背中を豪快に叩く。チェレンは思わずむせてしまった。