第67楽章「修羅と蝶」
出立に至って、誰からも問題視する声が上がらなかったのは意外であった。
昨夜の出来事などまるでなかったかのようにチェレンとベルは沈黙を保ったまま、朝食を取り、旅支度を整えた。
その違和感にノアのほうが戸惑ったほどだ。
「ベル、昨日のポケモンは……」
それとなく声をかけると、ベルはいつもと同様の笑顔で応じた。
「ムンナの怪我は、大した事ないって。ポケモンセンターで回復もしたし、大丈夫だよ」
ノアが心配していたのはベルの心の傷のほうであった。あれほどの呻きがあったのにもかかわらず、彼女は弱音一つ吐かない。
――ああ、強いのだな、とノアは今さらに感じる。
優しさだけでバッジ八つを制する事が出来るほどジムリーダーは生易しくない。プラズマ団が蜂起した時、トウヤと一緒にいたこの少女は最初から強かったのだ。
自分はそれを見通せなかっただけの話。
強さとは、何も外面的なものだけでは決してない。
内なる強さ、その真なる輝きを秘めた眼差しを看破出来なかったのはひとえに己の未熟さだ。
あの時、英雄のポケモンを持つトウヤだけが敵になり得ると思い込んでいた。
その慢心がゲーチスの裏切りと、耐え切れない悲しみの末に放浪の旅をする結果になった。
だが、今はいいのだと思える。あの挫折もあったからこそ、今の自分があるのだと。
「次の街には一本道で着く。さほど苦労はせんじゃろう」
アデクはのらりくらりといつも通りである。バンジロウは強者を求めているためにいつでも戦闘に移れるよう軽装であった。
「オレ、ツエー奴と戦いてーなぁ。この辺、強いのがいるかどうかジムで聞いてくりゃよかったか」
バンジロウはジムバッジに頓着していない。その発言にチェレンが神経質に眼鏡のブリッジを上げた。
「……まるで獣だな」
「んー、何か言ったか?」
「別に。……まったく、メンドーだな」
バンジロウとチェレンの組み合わせは悪いであろう。その祖父であるアデクと度々対峙してきた彼の気風では相容れないのは目に見えていた。
「しかし、次の街は割とすぐに到着出来るって聞いてたけれど、それなりには……」
濁したのは草むらがある程度存在したからだ。やはり最初の関門か、とノアは身構える。
だが、その警戒を意味がないと一蹴したのはチェレンであった。
「この辺りはもう片づけておいた。野性は僕らが通り過ぎない限り出てこないだろう」
あまりに苛烈な強さへの探求にノアは言葉をなくしたほどであった。野性ポケモンが出現しないほどの戦闘となれば相当な鍛錬に違いない。
「まぁ、楽でいいや」
バンジロウはチェレンの苦労など何のその、ただ単に野性が出てこない事を幸運だと思い込んでいるようであった。
チェレンがその言動に舌打ちする。これでは悪循環だ。
「アデクさん、次の街はノーマルポケモンの使い手のジムであると聞きましたが」
意図的に話を逸らすとアデクは地図を縦横に翳して、うむと首肯する。
「ノーマルの使い手、ナチュラルボーンママ、アロエ、とあるな」
「強いのか? ノーマルってあんまりツエーイメージないぞ?」
バンジロウの所持するのは攻撃性能の高い炎タイプだ。だからかその先入観は間違いではない。
「ノーマルタイプってのは突出した部分がない分、その鍛錬には人一倍の努力を要する。何もないのが逆に怖いって事を思い知るといい。打点を打てる部分がないポケモンとはいっても、強さは折り紙つきのはずだ」
そういえば、とノアは思い返す。チェレンはこの二年後、ノーマルタイプの使い手のジムリーダーになるはずであった。
だからか、否定的な発言はない。
「えーっ、でもそんなの、攻撃力でのしちゃえばいいじゃんか」
「……これだから何も考えていない奴って言うのは」
バンジロウとチェレンの会話は平行線である。ノアはアデクに話を振った。
「でも、ノーマルの強さは、アデクさんも分かっていらっしゃると思いますが……」
「おお、そうじゃな。バンジロウよ、攻撃力で何もかも解決出来るわけではない事を学ぶためにも、一戦交えてみる気はないか?」
「オレが? ジムリーダーに?」
バンジロウが目を見開いて問い返す。その提言にはノアも賛成であった。
「それもいいと思います。ノーマルっていう相手がどれほどやりにくいのかを知るのには、実戦が一番いい」
「でもよー、多分勝っちまうぜ?」
孫の自意識過剰な発言をアデクは快活に笑って制する。
「なに、戦ってみんと分からんのは、分かっておるはず。いつでもいつもうまくいくわけではない、とな」
「じゃあやってみるけれど、オレ、ジムバッジ興味ないのに受けていいのかよ?」
「自分の強さを客観的にはかるのに、ジムバッジは最適だって話だと思います。ボクはそれがいいと思う」
「本当かー?」
怪訝そうにするバンジロウと視線を交わしあう間に次の街の建築物が目に入ってきた。
「あれだ……ジムリーダー、アロエの牙城」
慌てて駆け出したチェレンにベルが声を投げる。
「待ちなよー。そんなに急いだって、ジム戦がすぐ出来るわけじゃないのに……」
善は急げと街に一足先に辿り着いたチェレンの背中を、ノアは複雑な心境で追っていた。
――それほどまでに強くなってどうする?
彼は知るはずだ。己の力の至らなさを。何もかもが自分に味方するわけではない世の不条理を。
知る立場のはずなのだ。
彼は、英雄にはなれないのだから。
その運命にノアは拳をぎゅっと握り締めた。誰もが皆、求めた姿になれるわけではない。それをまざまざと見せ付けられると、既に運命に刻まれた少年。
その道筋がどれほどの努力と泥に塗れていようが、結果は同じように帰結する。
運命の残酷さを、ノアはただ無言のまま呪うだけであった。
時間が巻き戻っても、自分という存在が他に多数いたとしても、きっと彼の運命は変わらない。
この世に、人の身ではどうしようもないうねりがあるのだと、ノアは既に窺い知っている。
だからこそ、辛い。
その努力を目にするのは。報われぬ存在を、いつまでも見ているのは。
「ノアタロー。余計な事は考えるな」
差し込まれたアデクの声にノアはハッとした。アデクがいつになく真剣な声音でこちらへと言葉を振る。
「あの坊主の行く末を、お主は知っているのだろうな。知っておるからこそ、余計な事は言わんようにしておるのだろう。だがな、運命は変えられると、ワシは思っておる。どれほどまでに強固なものが定められていたとしても、人は超えられる、それを超えるだけの力を持ち合わせておると」
それは四十年前のポケモンリーグを指しての言葉であろうか。経験した猛者の声音は重くノアの中に沈殿する。
「……でも、変えられないものもあるんです。きっと、どうしようもないうねりも」
「だからといって、お主が彼奴に諦めろ、と言えないのと同じに、ワシも言わんよ。どれほどあの坊主が間違えておろうとも、ワシは口出しはせん。それは臆病に映るからな」
「臆病、ですか……。ボクのほうがよっぽど……」
あなたより臆病だ。臆病者が、口出し出来ないだけの話。
だがアデクは否と首を横に振る。
「未来を知っておる事が、何もかもの万能ではない、とワシは思っておる。人は刹那の時に自分で判断し、その結果を甘んじて受ける。それが正しい在り方じゃ。未来を知っておるからと言ってその未来に胡坐するのは、それは今の自分にも、未来の自分にも失礼じゃとて」
未来に胡坐する。自分はいつの間にか未来を分かっている事に諦観を抱いていたのかもしれなかった。未来がどうせこうなるのだから、今の努力は無駄だと。
だがそれは、自分を否定する事と何が違う?
ケルディオを得て、やり直すと決めた。
その自分の決意を自分で捩じ曲げてどうする?
志はまだ定まっていない。未来の不確定さに投げる気にもなれない。
――だが今を生きる人間の輝きは、誰にも否定出来ないはずだ。
今はそれだけで充分であった。その決意を感じ取ったのか、アデクが満足気に頷く。
「諦めん眼をしておる奴を見るのは飽きんからのう」
街に入ってチェレンの姿を見つけたのは奥まった場所に建っている巨大な建造物の前であった。
「博物館、か……」
カフェの次は博物館経営のジムリーダー、というわけだ。ノアがその威容に立ち竦んでいると、チェレンが頭を振ってこちらに歩み寄ってきた。
「どうかしたか?」
バンジロウの問いかけを無視してチェレンはアデクを見やる。
「……トラブルがあったみたいです」
「トラブル、とは?」
バンジロウを一瞥するなり、チェレンが言葉を濁す。
「全員に言うのは得策じゃない」
「何でだ? 共有したほうがヘーキだろ」
「……そういう考えなしがいるから、嫌なんだよ」
額に手をやって首を振るチェレンに対し、ベルが事の次第を語った。
「博物館の資料が盗まれたみたいなんです」
「盗まれた? それでどうしたと言うんじゃ?」
「ジム戦は、それが落ち着くまで出来ない、との事で……まったく、メンドーだな」
勝ち進められないのはチェレンからしてみれば歯がゆい事だろう。ノアはベルに詳細を問いかけていた。
「それで? 盗んだ奴の当てとかはあるの?」
「それがその……プラズマ団、みたいで」
チェレンが言い辛そうにした理由が分かった。プラズマ団絡みといなれば、自分でどうにかしたいのが人情のはずだ。
しかしアデクやバンジロウに打ち明ければ全員で対処、という事になってしまう。彼からしてみれば雪辱を晴らすチャンスを掻っ攫われるものだろう。
「それはまた……、奴らめ、何を考えておる」
「とにかく、アロエさんもその事件で警察と付きっ切りで……、今はジム戦って空気じゃないみたいで」
煮え切らないベルの声音にバンジロウが言いやった。
「じゃあ追ってさっさとぶちのめそうぜ。相手が出て行った当てくらいはあるんだろ?」
「当然のようにその帰結になるのが、僕は嫌なんだ」
チェレンの反論にバンジロウは心底理解出来ないように首を傾げた。
「何でだ? 全員で事に当たればすぐに済むじゃんか」
「短絡的なんだよ、君は。そんなので相手が矛を仕舞うとも思えないし、何より全員で、っていうのが気に食わない」
「意味わかんねーな。だってすぐ叩き潰せばいいだろ?」
バンジロウの疑問がチェレンには一生理解出来ない問答のように映っているに違いなかった。
「そんな事を、言っている場合じゃないのでは? ボクらが一悶着している間に、相手は逃げていくし……」
ノアが間に入ったが事態はさらに悪くなったようであった。チェレンが眉根を寄せる。
「その考えなしを庇うのか?」
「おいおい、そいつの言っている事が正しいってのか? それは兄ちゃん、違うだろ」
ノアが二人を交互に見比べている間にも、その距離は遠ざかっていく。
「僕は反対だ。一人でやる」
「全員でやろうぜ。さっさと終わらせてジム戦だ」
「だからそういうのが……! もういい」
チェレンは説得を諦めたのか、踵を返した。
「どこへ行く?」
アデクの声音にもチェレンは動じない。怜悧な眼差しが返ってくるだけであった。
「僕一人でやります。僕だけでやれるんだ」
それは力量を見誤っている、とノアが反論する前に、アデクが承服した。
「よかろう。お主一人で片づけてみせよ」
「アデクさん……! そんな、みすみす……」
「感謝します。……今だけ、ですけれど」
チェレンが駆け抜けていく。その背中をベルもさすがに追えないようであった。
「あいつ、わけわかんねー。だって全員で事に当たったほうが絶対に効率的だろ? それに、まだあいつのゲコガシラ、ヨエーよ。一人で何人もに勝てるわけがない」
「バンジロウ。正しい事を言うだけが、トレーナーに正答を与えるわけではない」
「アデクさん! これじゃ、チェレンは……!」
「こっぴどくやられてくるか。あるいは満身創痍で勝ってくるかのどっちかじゃろうな。無論、ジム戦にすぐには臨めまい」
「分かっていて……!」
何故止めなかった、と言いかけたノアへと、アデクは言葉を投げる。
「では、正論を言ってやって、彼奴にまた反感を買うか? ワシは、いい機会じゃと思っておる」
「いい機会って……」
「今まで都合のいい事にワシや、お主が割って入ってきたプラズマ団との戦い。どれほどの力量差があるのかまだ理解もしておらんじゃろう。その苛烈さも。当然の事ながら、負けてもいいとワシは思っておる。そりゃ、身ぐるみ剥がされるかもしれんのは辛いじゃろうとは思うがな」
いつになく冷徹なアデクにノアは困惑していた。
「どうして……じゃあどうして、あんな事を言ったんですか?」
ノアには分からない。その真意も。アデクはゆっくりと振り返り応じていた。
「勝てるだけが、いつだって正しいわけじゃない事を、知っておくべきじゃな。ここで全員で行けば、なるほど、プラズマ団など恐れるものではないじゃろう。だが、彼奴はそれに不満を覚える。一滴の墨のように心の奥底に滴った不満は、いずれ大きく膨れ上がる。そうなる前に、己で知るべきなのじゃよ。自分の強さの、天井を」
だからと言って、チェレンだけに任せてはおけない。ノアは博物館の前にいる女性へと話しかけた。
恰幅のいい女性はこちらを見やるなり、胡乱そうな目を向ける。
「さっきの少年ならヤグルマの森のほうに向かって行ったよ。……しかし、物好きだね。プラズマ団なんて今のイッシュじゃ一番関わり合いになりたくない奴らだ。無鉄砲、というべきか」
「ボクらは、でも倒さないといけないんです」
女性は眉根を寄せてドレッドヘアに近い緑色の髪を掻く。
「分からないねぇ……。そりゃ、確かに博物館のものが盗まれた。大事には違いない。でも、ジムをちょっとだけ休ませてくれ、ってのも聞けないほど、あんたら切羽詰ってるのかい?」
「ワシはそうでもないが、彼奴は別じゃとて」
口を挟んだアデクに女性は目を見開いた。
「アデク老……、イッシュのチャンピオンじゃないかい。何だってこんなトレーナー初心者と?」
「ワケがあるのじゃが、それはまた別の話。シッポウシティ、ジムリーダー、アロエ殿。わがままを押し通させてもらっていいじゃろうか。あの少年に、加勢はしないでもらいたい」
アデクの提言はノアからしてみれば疑問でしかない。
「何で……だってチェレンが負ければ」
「坊主が負ければ全て終わりというわけでもあるまい。こっぴどくやられてきても、ワシは関知せん。それに、いつまでも子供と思っていても向こうの本意ではなかろう。ワシは、ここで一度様子を見るのが一番じゃと思っておる」
「じィちゃんがそう思っているなら、オレもサンセー。だってよ、あいつ、根拠もないくせにエラそうなんだもん。いっぺんくらい負けたほうが、これからのためになるんじゃねーか?」
バンジロウもどこまでも冷たい。ベルは、と視線を振り向けると、彼女も困惑していた。
「……危ない事には、首を突っ込まないほうがいいと思う」
「ベル……キミまでそんな」
「だって……、チェレン君はどんどん遠くなっちゃう。どこを目指しているのか分からない人には、ついけいけないよ……」
正直な気持ちだったのだろう。言葉尻は涙で潤んでいた。
ノアはどうするべきか己を持て余す。ここでチェレンを助けに行けば、プラズマ団の一手を掻い潜る事くらいはわけないだろう。だがそれは、チェレンのためにはならない。
一同の意見は一致しているのだ。
だったら、余計な事をするべきじゃないのは明白。
だが、分かっていても――。
「ボクは、行きます」
告げた声音にアデクは止めなかった。
「そうか。ノアタロー。しかし坊主は、礼も言わんかも知れんぞ?」
「それでも、ボクは放っておけない」
駆け出したノアを誰も引き止めはしなかった。焦燥に駆られたように、小雨がぽつぽつと降り出していた。