第66楽章「絶國TEMPEST」
「電気ポケモンって強いんじゃなかったの?」
第一声がその言葉だったので、ライモンシティジムはごった返した。
再戦を申し込もうとするジムトレーナー達に対して一喝の声が張り上げられる。
「やめ、やめだ!」
三重のセキュリティゲートを越えた先に待っていたのは電極で彩られた玉座に佇む精悍な男であった。
軍服を着込んでおり、金髪を逆立たせている。
その眼差しからは好奇の視線が注がれていた。
「面白いな、ユーは。電気ポケモン専門のジムであるこのライモンシティジムを指してこうシャウトしたのか? 弱い、と?」
「ジムリーダー! わたし達はまだやれます! どうか再戦の機会を――」
「シャラップ! 黙りたまえ、ユー達。まずは名を聞こうか、チャレンジャー」
歩み出た少女はジムリーダーへと言い放つ。
「トウコ。トウコ・キリシマ。このイッシュの王になる名前よ」
その言葉を聞くなり、ジムリーダーは笑い転げた。心底可笑しいとでも言うように笑いが止まらない。
「そんなに可笑しい?」
「ああ、なかなかに、ユーはセンスがある。笑いのセンスが」
「笑わせたつもりはないんだけれど」
「いいや、その通りさ。ユーはそれ相応の覚悟と、ポケモンを伴って訪れたのが分かった。オレも宣言しよう」
掲げた腕をジムリーダーはサムズダウンさせた。
「――ここで敗北する、ユーの末路を」
挑発の言い合いにトウコはふんと鼻を鳴らす。
「そういうの、どこで習うわけ? イッシュのジムリーダーって」
「今までもそうだったのかな?」
「どこへ行ってもそうよ。みんな、勝てると思い込んでいる。過信している。そんなの、やってみればすぐにケリがつく出来事じゃない。勝つか負けるか。強いか弱いか、なんて。そんなの、とってもシンプル」
その言葉にジムリーダーは拍手を捧げた。唐突に湧いた拍手にトウコが怪訝そうにする。
「何?」
「いや、志は立派だ。だが、思い違いをしているな、チャレンジャー。オレも一端のジムリーダー。当然、勝つつもりでここにいる。イッシュ軍人気質のオレはとてもデリケートでね。三重のセキュリティは全て、その証だ」
「臆病者と、言ってもいいのかしら?」
その論調にジムトレーナーが声を飛ばす。
「失礼だぞ!」
「いや、いい。確かに一面から覗けば、それは臆病にも映る」
「わざわざこのセキュリティを開けるのにゴミ箱を漁らなければならないなんて。手が汚れたわ」
「だがな、チャレンジャー。ユーは誤解している。このライモンシティジムリーダーであるオレ――マチスジュニアがまさか臆病風に吹かれてこんな仕掛けをしていると?」
「違うの?」
豪快にマチスは笑い飛ばす。その声量だけでジムトレーナー達が震えた。
「ナンセンス! 実に! だがユニークでもあるぞ、チャレンジャー。オレはライモンシティジムを親父から継いで一度として、敗北した事がない。何故か分かるか?」
「運がよかったからでしょ」
「それもあるだろう。だがこうは考えられないか? 単純に、弱きは挫かれ、強きが残る。シンプルだ、実に」
マチスが立ち上がり、電極の埋め込まれた壁を見渡す。壁一面が波打ったように色を変え、挑戦者の到来を祝福した。
「ここまで来ただけでも充分。噂になっていたさ、ライモンの道場破り、とね」
「道場? あれが? だとすれば看板を張り替えたほうがいいわ」
あまりに失礼なその声音にもマチスは笑みを絶やさない。
「確かに。ライモンはトレーナーのメッカ。当然の事ながら質の高いトレーナーが集まるべきなのだが、ちょっとばかし迂闊が過ぎた。獅子はウサギを狩るのにも、全力を尽くさなければならない。その点で言えば腑抜けていた、とも言える」
「じゃああんたは違うって言うの?」
トウコの値踏みするような視線にマチスは昂揚感を覚えていた。
――この挑戦者は本物だ。
本気でジムリーダーを狩りに来ている。
ならば答えるのが礼儀、と。
「マチスジュニア! 相手にとって不足はなし! ミストウコ! ユーを討ち、再び枕を高くして眠るとしよう! ゴー、ライチュウ!」
放たれたモンスターボールから光が迸り、繰り出されたのは矮躯のポケモンである。
アンテナのように尻尾を掲げ、稲妻の文様を模したその尾が激しく地面を叩きつけた。それだけでジム全体の電気が震え出す。
「本当に、ライチュウでいいわけ?」
「そちらこそ、随分とプリティなポケモンを連れている。チラーミィとは」
「アタシはこれでいいのよ。相棒だもの」
「オレもその帰結は同じだ。相棒だから信じている!」
トウコは呆れたように髪を掻いた。
「……凡俗と王が言う相棒って違うと思うけれど、そうじゃないかしら?」
「どうかな……、ライチュウ! 先手必勝!」
ライチュウが姿勢を沈め次の瞬間、跳ね上がった。
天井を足場に据え、ゴム鞠のように読めない軌道を描いてチラーミィへと肉迫する。
「で、出たっ! マチスさんの十八番だ!」
ざわめくジムトレーナー達を一瞥して、トウコは手を払う。
「アクアテールで薙ぎ払え」
「アクアテール? それが、かな?」
チラーミィが展開しようとしていた水の一撃は発生する前に霧散していた。空気中に溶けていく「アクアテール」の残滓を眺め、トウコが目を見開いた途端、ライチュウの拳が照り輝く。
「雷パンチ!」
チラーミィはまともにその攻撃を受ける事になった。雷の名を冠する事を許された一撃の貫通力は推し量るべきである。
だが、チラーミィはそれで終わっていなかった。
勝利の笑みを浮かべようとしたマチスがハッとする。
渾身の拳を、チラーミィはその肉体で受け止めていた。
「貫かれていない……?」
「ジムリーダー、マチスだっけ? ……少しだけ認識を改めたわ。このジム自体に特殊な仕掛けが成されている。水タイプの攻撃力を減衰させ、さらに言えば、それらを気化させるほどの熱量がジムの床から放熱されている。アタシ達トレーナーはそれを関知出来ないけれど、ポケモンには分かる。痛いほどの打撃となる。特に、何の考えもなく水技を撃てば大きな隙が生じる」
それが分かっていながら、挑戦者トウコは笑みを浮かべていた。
「オーノー……理解に苦しむ。何故笑っている?」
「簡単な事よ、ミスター。あんたのポケモン、これで、取った」
チラーミィの右腕が紫色のエネルギーを充填し、輝いた。マチスがライチュウへと離脱を命じようとしたが、がっちりと掴んで離さない。
「これでとどめ……、破壊……」
「ライチュウ、ここで出すつもりはなかったが、奥の手を使え!」
瞬間、ライチュウの身体が青白い閃光に包まれた。チラーミィがその手を離す。
途端に放出された一条の光線がバトルフィールドを貫いていった。
しかし当のライチュウは、というと射線上にはいない。
その姿は天井に張り付いていた。
青白い電流の輝きを帯びたライチュウが瞳まで青く染め、チラーミィとトウコを睥睨する。
「これは奥の手だったのだが、いやはや、恐ろしい挑戦者だ」
「この技は……」
「ボルテッカー。特別なピカチュウだけが覚える特別な技。これは一定条件下でなければ自然発生はしないものでね。こう言うのもなんだがオレのライチュウでなければ、ここイッシュでは観測すらされていないだろう。それほどまでに研ぎ澄まされた刃の技なんだが、これを出すとつまらなくってしょうがない」
「つまらない?」
マチスは額に手をやって口元を綻ばせた。
「――簡単に勝負がついてしまってね」
瞬間、掻き消えたとしか形容出来ないほどの速度でライチュウがチラーミィへと接近する。
チラーミィが反撃に転じようとした時には既に遅い。背後を取ったライチュウが尻尾をしならせた。
稲妻を想起させる尻尾から電流と共に鋼鉄の勢いを伴わせて薙ぎ払い攻撃が成される。
チラーミィの体躯が容易く吹き飛ばされ、壁にめり込んだ。
「アイアンテール。それも、ボルテッカーで筋肉に倍以上の加速度を与えた特別なものだ。ボルテッカー状態のライチュウに、通常速度の攻撃が当たると思うなよ、ミストウコ。それ、次は首を狩ろうか」
瞬間移動したライチュウにトウコが声を飛ばす。
「チラーミィ! アクアテール!」
「それは効かないと言った!」
水の尻尾は推進力を得る前に気化していく。ライチュウが天井を蹴りつけ、一気にその尻尾でチラーミィの首へととどめを差そうとした、その時である。
チラーミィの瞳が確かに、ライチュウを捉えた。
その刹那、チラーミィが踊り上がり、ライチュウへと尻尾の一撃を叩き込む。
羽箒のような尻尾が隕石の如く攻撃性能を持ち、ライチュウの頭部を叩きつけようとした。
しかし離脱も心得ていないライチュウとマチスではない。
危険域だ、と判断した習い性でライチュウが飛び退る。
その空間を引き裂いたチラーミィの尻尾が地面を穿った。
トウコが舌打ちを漏らす。
「当たったと思ったのに」
――何だ?
違和感にマチスは一度ライチュウを戻すべきか、と考えた。
ポケモンでさえも関知出来ない領域の速度のはずである。その速力から放たれる攻撃は常人では眼で追うことなど叶わない。
どれだけ動体視力がよくとも、無理、という領域だけは超えられないはずである。
しかし今のチラーミィは確実にライチュウの攻撃速度を上回っていた。
ライチュウがどこから来るのか、最初から予見したように。
「……まぐれだ。ライチュウ! 光速度の拳を撃ち放て! 今度こそ、終わらせる!」
再びライチュウが光の速さへと達する。狭いジムが逆に仇になっているのは分かっている。だがそのディスアドバンテージを背負っていてもライチュウは無敵。
そのはずであった。
チラーミィへトウコが命じる。
「アクアテール! そして、次に来るのは……」
水の推進剤は不発に終わる。このバトルフィールドそのものが高温の電熱線だ。水攻撃は撃つ前に霧散する。
しかし、チラーミィの眼も、トウコの眼も死んでいなかった。
勝てる、と思い込んでいる眼をしている。
――何故、と思案を浮かべた一瞬、ライチュウの攻撃軌道へとチラーミィが跳ね上がっていた。
「どうして読めて……」
「あたしのほうが、強いからよ」
羽箒の打ち落とす一撃にライチュウの身体が傾ぐ。纏っている電力の鎧に一瞬だけ綻びが生じた。
その綻びを縫うようにチラーミィが肉迫する。
「十万、ボルトっ!」
電力を得たチラーミィの攻撃をライチュウはしかし、その身で吸収した。電気タイプに電気はほぼ通用しない。
「どうやらカントーで言う釈迦に説法、って奴だな。電気使いに電気とは!」
しかし、チラーミィの機動に迷いがない。あまりに正確無比にライチュウに動きへと追従する。
羽箒が再び振るわれ、ライチュウの身体に命中した。マチスは胸中に舌打ちする。
――どうして当たるのか。
現在のライチュウは光速に近い速度である。確かに攻撃に際して離脱、接近、攻撃、という三パターンの準備動作からは逃れられないものの、それでも当たり所を間違えるだけで痛手を負う砲弾も同じ。
だがチラーミィはその攻撃部位をしっかりと見定めているように感じている。
――何が、それを可能にしている?
マチスの観察眼がチラーミィに注がれる中、二体がもつれ合い、そのままきりもみ回転になってお互いに攻撃をぶつけ合った。
相手の攻撃力が高いのは分かる。
だがボルテッカー状態のライチュウを突き崩すほどではない。現段階のライチュウを攻撃力だけで凌駕したければオノノクスほどの攻撃特化型のポケモンを用いなければならないはずだ。
しかし、オノノクスでは素早さで勝てない。
第一に相手はオノノクスではない。そこいらにいるチラーミィのはずだ。雑魚に過ぎないはずの相手がどうしてだか、ライチュウの高機動について来られている。
次いで考えられたのはライチュウの癖であった。
攻撃をする際の癖を看過出来れば、確かにその軌道はある程度読めるであろう。
だがそれも当て推量の部分が大きい。完全な予知はまず不可能。
では何だ?
何が、チラーミィ如きのポケモンにそれを可能にさせている?
マチスが攻撃命令を下し損ねている間にも戦局は刻々と移り変わっていった。
チラーミィの仕掛ける技にライチュウが対応するようになっているのだ。
これでは後手に回っている。
マチスは慌てて叫んだ。
「ライチュウ! 速度では圧倒出来るんだ! 雷で串刺しにしてしまえ!」
「串刺し? 悪いけれど、それをする前に、あんたのポケモンは息切れする」
何を馬鹿な、とマチスがせせら笑った途端、ライチュウの高圧電流の皮膜が解けた。
露になったライチュウへとチラーミィの「アクアテール」が食い込む。
しかし水属性はほぼ無力化され、ただの物理技と化していた。
――そこで、マチスはハッと思考を止める。
「ただの物理技……? 違う。水は放出されている。高熱で気化していても、水は確かに発生する。ほんの、レイコンマ一秒にも満たないかもしれないが、完全な無効化は出来ない……」
そこでマチスはチラーミィが使っていた関知網に気づいた。
チラーミィが攻撃する際、常に「アクアテール」を先に命じていた。
「まさか……ほんの、ほんの小さな、アクアテールによる水の攻撃網を関知し、自らの周りに発生させる……。それを破ってきた角度、精度などを完全に理解した上で、ライチュウの軌道を読んでいた……。つまり、ライチュウがどこから来るのかを分かっていたのではなく……」
その結論に至ったマチスへと、トウコは指鉄砲をかます。
「正解。ライチュウが水の皮膜を破ってくる場所さえ分かれば先に攻撃が出来る。ライチュウは高熱度の塊みたいなもの。それを水が捉えれば」
「水は……熱に強い。発想の逆転だ。電気と、高電圧が水を気化しているから意味のない戦いなのではなく、水を気化させてあえて関知網を広げ、ライチュウの軌道を読んだ。ライチュウは高熱の砲弾。その速度が増せば増すほどに」
「関知速度も速くなる。よく出来ました」
だがそれは理論上の話。
実際に戦闘中、その理論を試してみるなど正気の沙汰ではない。
机上の空論を、トウコは実演してみせた。それもあり得ないほどの高速で。ポケモンと人間が同じくらいの戦闘の土俵に立てていなければ出来ない芸当を。
「あり得ない……ポケモンの状態を常に理解し、その上で完璧なパフォーマンスを発生させるなど……それこそ」
口に出しかけてマチスはハッとした。
それこそ、常軌を逸した、王でなければ、と――。
トウコはその言葉の先を読んだのか、フッと笑みを浮かべる。
「そうね。普通は無理かもね」
「アクアテール」の打ち損ないの攻撃がライチュウを打ち据える。打ち損ないでも攻撃力は確約されている。
何よりもライチュウがこのフィールドを制すれば制するほどに、トウコの攻撃は磐石となる。
マチスは額に手をやっていた。
これがどうしようもない、差という奴か。
だが同時に、笑みも浮かべている。
これほどまでに、愉しませてくれるとは――。
「……ライチュウ。一度離脱せよ」
主の命令にライチュウが跳ね上がろうとしたが、その進路をチラーミィが阻んだ。
「馬鹿じゃないの? 返すわけがない」
「だろうね。だがだからこそ……、ライチュウ、奥の手の先を使う」
「奥の手、で終わりじゃなくって?」
マチスは手を払った。その動作でライチュウの内奥から青い光が浮かび上がる。
ジムに埋め込まれている電極が反応し、光の幾何学模様を走らせた。その幾何学の輝きが全て、ライチュウへと注がれていく。
「これは、本来、使うべきではない技だ。オレが本能的に、叩き潰すと決めた人間にしか使わない。ジムトレーナー達、下がれ。あれをやる」
それだけで了承が取れたジムトレーナー達が一斉に、蜘蛛の子を散らしたようにジムから逃げ出した。
それを見やってトウコが肩を竦める。
「囲いが逃げちゃったけれど?」
「人がいると出来なくってね。あまりに無茶なんだ。だからこそ、意義があるとも言える。ライチュウ、このジムの電力、全て吸い尽くせ」
波打った電流がライチュウへと集中する。チラーミィが阻もうとしたその時、ライチュウから一際強い雷が放出された。
まるで矢のように、雷の一閃がジムの壁面を焼き払う。
「焼く、という単純動作一つでも、あらゆる分子結合がある。その一つを実演させた。雷は高密度の電流の集合体だ。それを繋ぎ、形作り、再構築し、己の思うがままに出来れば、どうなると思う?」
質問にトウコは無感情に応じていた。
「それこそ、雷一つの技で全ての技の再現が出来るでしょうね」
賢い挑戦者にマチスは笑みを浮かべた。
「正解だ、チャレンジャー。では、それを可能にする個体がいた場合、そいつの周りはどうなるか」
ライチュウが青い輝きを胸のうちに内包した。
単純に見れば先ほどまでの「ボルテッカー」より弱く見える。だが、その実の威力を分かっているのだろう。トウコはいたずらにチラーミィを機動させなかった。
鼓動のように脈打つ青い血潮が掌に至る。
ライチュウが手を払った。それだけでジムの壁が焼き払われる。
今のライチュウは全身が高電圧の電熱線であった。しかもショート寸前の圧力をかけている。
「……相当、無理をしているわね」
「オレも、この状態はそうそう持たない。それは分かっているが、叩き潰すと決めた相手に、だ。敬意を払おう。ライチュウ、眠っていた野性を研ぎ澄ませ。体内にある電気回路全てを解放し、空気圧さえも震わせてその一撃を放つ」
ライチュウが片手を下段に構えた。その手から青白い刃が構築されていく。
高電圧の剣であった。
可視化されるほどの青い電流がのたうち、今にもライチュウと言う躯体から飛び出しそうである。
マチスもこの状態の意地には集中力を伴う。ポケモンとトレーナーが、同調に近い域に達してようやく可能な技だ。
「……すごいわね」
トウコも感嘆した声音を漏らした。ライモンシティジムを父親から譲り受けてからただ凡庸に身を落としていたわけではない。
研鑽の日々と、それ相応の立ち位置になるべく、努力を怠らなかった。
その結果が、ライチュウに雷の刃という形で結実した。
両手で稲妻の刀剣を保持したライチュウが構えを取る。下段に携えた刀身がトウコのチラーミィを反射していた。
映し出されたチラーミィは勝負を捨てたわけではない。
主と同じく超然としている。
「可視化された青い刀剣を目にして、うろたえない奴は初めてだ」
チラーミィもトウコもどこにも及び腰になったところはない。それどころか、強い戦意を崩さずにこちらを見返してくる。
「悪いけれど、今さら勝負を投げるほど、温室で育ってないのよね。アタシのスタンスは一つ。勝つまでやめない」
勝つまで、か。だがそれは虚しく崩れ落ちるであろうとマチスは予見した。
勝利するまでの戦い、というものは終点が見えている分、性質が悪い。
その渇望を誰かに利用されないとも限らない上に、勝つまで、というのは上限を見定めないも同義。
この戦局において勝利するまでの戦い、というのが如何に消耗するものなのかを考えていないのか。
あるいは、消耗さえも視野に入れた決断なのか。
それは定かではないが、マチスは一言だけ忠告した。
「……ユーのような猛者の決断は嫌いじゃないが、それは賢いとは言えない」
ライチュウの光速柔術と、さらに剣術が折り重なればその結果は推し量るまでもない。
チラーミィは敗北する。それも再起不能のレベルだ。
二度と、ポケモントレーナーになどなろうとは思わないほどに。
だからこそ、マチスは忠言した。
ここまで戦った敬意を込めて。同時に、ここまで自分を昂らせた、という賞賛もある。
それだけの言葉の上の賛辞を得ていても、トウコはここで降りる、という術を用いなかった。
それどころか、より強い決意の眼差しでライチュウを睨み据える。
「チラーミィ。勝ちに行くわよ」
チラーミィが気高く鳴いた。ここまで実力差があっても諦めないとなると最早、無策か、あるいは馬鹿の領域と蔑まれても無理もない。
だが、マチスは馬鹿と罵る気はなかった。
むしろ、勇敢だ。誇りあるトレーナーとポケモンである。
「……だからこそ、ここで潰えるのが惜しいほどだ。ユーの玉座、見たかったよ。ライチュウ、ボルテッカーを凝縮、展開したその刃で敵を討て」
一拍呼吸を置いたライチュウの姿が掻き消えた。
どこへ、と首を巡らせる隙すらも与えない。天井を蹴りつけたライチュウは残像さえも引かなかった。
空間を跳び越えたとしか思えない速度がチラーミィの背後を取る。稲光の刃がその首裏を狙い澄ました。
「勝った!」
その声音にトウコは、いいえ、と応じていた。
「それはこちらの台詞よ」
直後である。
ライチュウの速力が急速に低下した。首にかかりかけていた刃が霧散する。雷の剣が消え失せ、ライチュウの手が何もない空を切った。
もつれるようにライチュウが地面に倒れ伏す。
チラーミィがゆっくりと振り返っていた。
――何が起こった?
マチスは一瞬、目の前の現実が受け入れられなかった。何も起こってはいない。攻撃が巻き起こる前の出来事であったはずだ。
光速の剣術を観測出来る存在など、トレーナーであるマチス以外に存在し得ない。その太刀筋を読む事はいくらトウコが先ほどまでの戦術を展開していても不可能だ。
水の蒸発速度から相手の攻撃射線を読む。その戦術の有用性だけは認めよう。
だがそれは、通常より素早いボルテッカーであったからだけの話。
今のライチュウに一分の隙もない。
どこに攻撃網を仕掛けても、防御皮膜を適用しても、どうしたところで応戦出来るわけがないのだ。
だからこそ、理解に苦しんだ。
チラーミィは身動き一つ取っていない。回避に転じる隙も、防御に移る時間もないはずだ。
だというのに、目の前の現実は何なのだ。
ライチュウがひれ伏し、チラーミィが何事もなかったかのように振り向いている。
「何をした……」
「何も。ただ、さすがはジムリーダーのポケモン、って思っただけよ。毒の耐性もそれなりにつけているみたいね」
「毒、だと……」
だが毒の攻撃などいつされた? そう考えたマチスは一つの帰結に至る。
「まさか、電熱線で蒸発させた水攻撃の中に……」
マチスはその段になって空気中に漂う異臭に気がつく。今までライチュウ自身が発生させる熱量と高熱源の臭気で気づけなかったのだ。
大気が毒で満ちていた。
誤算であったのは己の身体が毒など物ともせぬほどに鍛えられている事。さらに言えば、ライチュウにも毒耐性はつけさせており、半端な毒は無力化出来る事であった。
だからこそ、これほどまでの長丁場が予測出来なかったという事実と、マチス自身が感知出来なかった、という迂闊さが表立つ。
毒で満ちたバトルフィールドを今の今まで見出す事は不可能であった。
ライチュウが攻撃をやめたのではない。空気を満たす毒の効力が今になって効いてきたのだ。
先ほどまでは「ボルテッカー」の高電圧皮膜がそれを抑止していたのだろう。だが「ボルテッカー」を解いた事が結果的に毒を招き入れるという失策となった。
ライチュウは身一つ動かせない。指先の筋すら自由ではないのだろう。立ち上がる事も困難に思われた。
「チラーミィ、充分に溜め込んだわね。至近で放て! 破壊――」
「避けろ! ライチュウ!」
無理と分かっていても叫ばずにはいられなかった。それはトレーナーの性であったのだろう。
ライチュウの頬から青い電磁が跳ね上がる。その電磁が拳に纏いつき、脚部から放った推進剤のような青い光が最後の抵抗を可能にした。
身体は動かないままであったが特攻は出来る。
ライチュウが拳に全身の電力を充填させ、渾身の「かみなりパンチ」を放った。それと同期したかのようにチラーミィの拳が紫色に輝く。
両者、合わせ鏡の如く拳が交差した。
「光線!」
「穿て! 雷パンチ!」
もつれ合った両者の拳から放たれた威力は通常観測される威力とは桁違いの代物であった。
「はかいこうせん」の高威力の瀑布が視界を埋め尽くしていく。同時に、チラーミィの腹腔へと確実に「かみなりパンチ」が突き刺さった。
一条の光線がフィールドを貫き、壁に穴を開ける。
こちらの攻撃もチラーミィの臨界値に達していたはずであった。
その灰色の躯体がよろめいた。
一瞬だけ、勝利の女神がどちらに微笑んだのか分からなかった。
しかし、勝敗は一秒にも満たない世界で決していたらしい。
ライチュウが瞳に浮かべた覚悟の光をそのままに倒れ伏した。
チラーミィはまだ戦闘が継続していると思っているのか、あるいはあまりの攻撃の応酬に呆然としていたのか、その場に立ち尽くしていた。
結果は、マチスが下した。
「……ライチュウ。ナイスバトル」
ボールに赤い粒子となってライチュウが戻されていく。その意味するところを最初に理解したのはジムトレーナーの一人であった。
「マチス少佐が、敗北された……」
茫然自失のその声音にトウコが震えた声で言いやった。
「勝った……」
「その通り。チャレンジャー。見直したよ。その気高さ、勝負を捨てない心意気に。ウィナーはユーだ」
マチスが歩み寄って握手を交わそうとすると、トウコは、あっ、と声を漏らしてその場にへたり込んだ。
「だ、大丈夫か?」
「……平気。アタシは、だってまだ」
地力で立ち上がり、トウコはマチスの手を強く握り返す。
「そうだな。まだ王になっていない」
トウコがチラーミィを戻した事でようやく場が収束した。新たなる勝利者の誕生にジム中が沸いた。
「マチス少佐に勝利された! 真の実力者だ!」
「大げさだな。だが、真の実力者、というのは当たりだ。まさかオレにここまで全力を出させた上で勝利するとは。完敗だよ」
マチスのてらいのない声音にトウコは言い返す。
「当然よ。だってアタシはこの地を治める、王になるんだから」
だがマチスは勘付いていた。その手の僅かな震えに。今の勝利が必ずしも安全な道ではなかった、という証明に。
しかし、この少女は何故ここまで強くあれる? 対峙したマチス以外の眼からしてみれば傲岸不遜、どこまでも強気な勝負師であろう。
戦いを通してでしか、マチスでもその真意を覗く事が出来なかった。
恐らく他者にとってしてみれば、それこそ王者の気質。弱者を顧みない真の強者の風格であろう。
「バッジを授ける。手を」
そのバッジをトウコは手から引っ手繰った。渡されるまでもない、という事なのだろう。
「……なるほど。ユーはあくまで、そういうスタンスか」
「アタシは王になる事しか考えていない。ジムなんて踏み台よ」
戦わなければこの発言でさえも敵を増やしかねない。マチスは勝負を通してのみ、トウコという少女を理解する事が出来た。
それも、片鱗に過ぎないのだろうが。
「聞かせてもらえないだろうか。どうして王者にこだわる?」
その道筋に幸あれ、と願うからこそ、茨道にしか見えない王道を問い質したかった。
トウコは踵を返し、マチスを一瞥する。
「そんなの、決まっているでしょう? 強くなければ、生きられない世界がこの世には存在する。だから、アタシは強くなる。このイッシュで一番に強く。そうなれば、全てが収まるべきところに収まるわ」
「収まるべき、か……」
まるで自分には最初からその居場所が失われているかのような言い草だ。だが彼女の傷を見出すのも、全力を出し切って戦い抜いた今でしか出来ない。
他のトレーナーからしてみれば、その強さは眩しい。
眼が眩んで、直視すら出来ないだろう。
だが、マチスはその王者の道を直視した。その先に待つであろう、覇道も。
「……いい王になってくれ」
「当たり前じゃない」
その一言でトウコはライモンジムを立ち去った。あまりに圧倒されていたのだろう。一人のジムトレーナーが彼女の姿が消えてからようやく、拍手を送る。
その小さな波はやがてうねりのように全員に伝播していった。
だが、勝利者は知る事がない。もう、行ってしまった。
「王は、些事にはこだわらない、か。しかし、オレもここまで決定的な敗北を経験すると……また勝負師の勘が強くなってくる。まだまだ強くなれるのだと、思い知らされる」
一点に極まったと思い込んでいた強さにまだ先があるのだと希望が持てる。
マチスはライチュウの収まったボールを見やり、フッと笑みをこぼした。