第65楽章「共月亭で逢いましょう」
「それが、トウコというトレーナーの始まりか」
黙って聞いていたアデクが感想を結ぶ。ノアも圧倒されていた。
トウコが娼婦の娘であったからだけではない。元々、素養のあるトレーナーだからチェレンが嫌っているのだとばかり思っていたのだ。
そうではない。
一夜にして生まれ変わった人間であった。
そのような存在などいるのか、という疑問はベルの言葉振りから鑑みてナンセンスだろう。
彼女はこのイッシュに存在する。
今も、刃の収めどころを見つけられずに彷徨う、力だけの存在なのだ。
「でもそんな……じゃあチェレンが嫌っている理由は……」
「それ以降、全く相手にされなかったからって言うのもあるかもしれないけれど、でもチェレン君はきっと、トウコお姉ちゃんが好きだったんだと思う。勉強も駄目で、トレーナーとしても駄目な頃のお姉ちゃんの手を引くのが、自分の役目だって思っていたから。だから余計なのかな。その手を引かなくってもいいってなってから、チェレン君はお姉ちゃんを嫌った。もう、自分の知っているトウコお姉ちゃんじゃないって」
話を聞いていたバンジロウが頬杖をついた。
「勝手だよなー。別にいいじゃん。トレーナーとして立派になったんだろ?」
「……でも、どうしてあの時、チラーミィと出会っただけで、お姉ちゃんが変わったのか、あたしにもよく分からない」
しかしノアは、何となく理解出来る気がしていた。
自分が森から解き放たれた時と似ている。
他人からしてみれば些細な出会いであっただろうその邂逅は、自分達の世界と運命を揺るがす出会いであった。
経験したからこそ、分かるのだ。
「……チェレンはどうして、その背中を追ってあんな真似を?」
あんな真似、と形容したのは短期間での一進化である。当然の事ながら、ポケモンにもしわ寄せが来るはずだ。
ベルは首を横に振った。
「分からないけれど……チェレン君が今でもトウコお姉ちゃんを、あの日変わってしまったお姉ちゃんの責任を取りたいと思っているのは本当だと思う。自分が余計な事をしなければ、お姉ちゃんは変わらなかった、って思っているかもしれない」
だがそれは幸福なのだろうか。
娼婦の娘として扱われ、ポケモンもろくに使えず、迫害される日々。
その地獄から抜け出したトウコを誰が責められようか。
地力で抜け出すのに、並大抵の苦労ではなかったはずだ。
チェレンはその姿を責めようとしているのか。あるいは、その姿に輝きを見たのか。
いずれにせよ、彼の歪みの一端をトウコという少女が握っているのは間違いなかった。
「しかし、その娘、成るべくしてそうなった、と言えなくもないのう。草むらの奥に住まうポケモンは特別な個体が多いと聞く。導かれたとすれば、それはチラーミィに、じゃな」
「でも、チラーミィが戦いを教えたって考えると、あたしは……」
ベルにも責任がある、と考えざるを得ない。しかし、この世で誰が、その責任の所在を問えるだろう。
トウコは放たれるべくして放たれた。
そう思うしか、全員を納得させる手段はない。
「いずれにせよ、遠くない未来に戦う事になるかもしれない」
ノアの胸中を占めていたのは、この時間軸でトウヤの代わりとして存在するトウコがどれほど強いのか、であった。
英雄になり得るのならば、その覚醒の全てに納得が出来る。
この時間軸のイッシュは英雄を求めているはずだ。
白と黒。善悪をはっきりさせる真の英雄を。イッシュ英雄伝説の再現を。
しかし、今のところ、その片割れであるレシラムを所有しているのが自分の似姿、という歪み。
このままでは英雄伝説がそのままの帰結を辿るのかどうかも怪しい。
「強いんだったら、オレも手合わせ願いたいぜ。って言っても、今もチラーミィだってのか? そいつ」
「分かんない。でも、チラーミィを手離す事はないと思う」
これで話は終い、とベルは面を伏せて言葉を切った。
チェレンを今のようにしたきっかけ。それが聞けただけでもよかったのだろう。
同時に、いずれ戦うかもしれない相手の事も。
「トウコ・キリシマ……。今、何をやっているのだろう」
見当もつかない、とベルが声にしようとしたその時、甲高いポケモンの鳴き声が響き渡った。
「何じゃ、今のは?」
アデクが周囲に視線を巡らせる。
まさか、チェレンが、と感じたのは二人同時であったらしい。ベルとノアは考えるより先に駆け出していた。
「鳴き声、こっちの方向から……」
脳裏に浮かぶのはチェレンのポケモンが敗退している姿だ。チェレンは一度の黒星だけでも相当にこだわる。
それがまた、彼を歪める事にならないとも限らない。
身構えたノアはサンヨウシティの廃棄区画へと至っていた。
そこいらに打ち捨てられたコンクリートの跡がある。どうやら何かの建造物を建てようとして打ち止めになった場所のようだ。
その一角で小さなポケモンを蹴りつけている二人組を発見した。
「夢の煙出せ!」
殴打されたポケモンが地面を転がる。頭頂部から燻るようにピンク色の煙が立っていた。
「あのポケモンは……?」
二人組の姿が廃材置き場の明かりに照らし出される。その時、ノアは息を呑んでいた。
水色の僧衣のような衣装は紛れもなく、プラズマ団員のそれであったからだ。
「プラズマ団……」
ノアの声音にベルはハッとする。
「あの人達も……?」
小型のポケモンが甲高く鳴くとまたしても蹴りが入る。
「うるせぇんだよ!」
腹腔を蹴りつけられたポケモンがその小さな身体から血を流した。傷だらけで今にも消え入りそうな命である。
ノアはモンスターボールへと手を伸ばしていた。
プラズマ団の蛮行を止めるのは自分の役目である。
歩み出ようとしたノアより先に、プラズマ団員の前に立ったのはベルであった。
「やめたげてよぉ!」
喚いたベルへと二人組が注視する。
「何だ? お前」
「そのポケモン、かわいそうだよ……」
「夢の煙を出さないから、こうなってるだけだ。大人のやっている事に口出ししないほうがいいぜ、嬢ちゃん」
「でも……でも、あたしはっ……」
「それとも、お嬢ちゃんがオトシマエつけてくれるっていうのか?」
まずい、とノアがモンスターボールを手に止めに入ろうとした瞬間、声が迸った。
「――オトシマエ、か。だったらお前らの命でつけろよ」
割り込んだ声音と共に廃棄区画の電力が落ちる。
その暗闇の中を駆け抜けたのは俊敏な影であった。水攻撃がプラズマ団員の頭部へとかかり、二人の団員を包囲した泡で一気に戦闘不能に追い込む。
頭を狙い澄ました攻撃は即座に呼吸を乱し、二人組を混乱させた。
「何が……」
そこから先の言葉が泡沫と化す。水のベールが二人組の頭部を囲い込み、呼吸を止めようとしていた。
「追い込まれるって分かっていないから、こういう風になる」
その声の主をノアは知っていた。常闇から現れた声の主は手を払う。
途端に、糸が切れたかのように二人組が倒れ伏した。
眼を戦慄かせたベルが問いかける。
「チェレン、君……」
「メンドーな事を起こさないでくれよ、ベル。また掃除しなければいけない」
チェレンの声音には迷いがない。昏倒したプラズマ団員の頭をゴミのように蹴りつける。
「チェレン君! そんな事――」
「酷い、って? ポケモンにした事が返ってきているだけだ。僕は酷いとは思わないけれどね」
ベルはその言葉の説得力に絶句するだけであった。
チェレンは蹴りつけられていたポケモンを見やる。
「ムンナ、か。小さなポケモンだな」
それだけで興味を失ったかのようにチェレンは場を立ち去ろうとした。
「ち、チェレン君? この子を助けてくれるんじゃ」
「勘違いしないでくれ。僕は、前を行くハエが邪魔だったから払っただけだ。そのポケモンを助けたいだとか、そういう事、考えているのなら僕はどうだっていい」
「どうだっていい、って……」
「だってそうだろう? 弱いムンナだ、戦力にもならない」
どこまでも冷たく断じる声音にノアは、これが彼であったかと感じ取ったほどである。
チェレンと言うトレーナーは確かに、自分のいた時間軸でも強さに貪欲であった。だが、それはトレーナーとしての強さの探究心が違う道筋に行っただけの話。
まだ純粋なものであったその矛先が、この時間軸では歪んでしまっていた。
「弱いって……チェレン君、そんな事」
「だったら、ベル、君が管理すればいい。手持ちが増えたら助かるのは、君のほうだろう?」
チェレンがボールをベルに手渡す。それだけで用事が済んだとでも言うように、チェレンは廃材置き場を抜けていった。
その背中にベルが叫ぶ。
「チェレン君! そりゃ、確かにトウコお姉ちゃんに、追いつきたいのは分かるよ。あたしだって、力になりたい……! でもあの日、お姉ちゃんが目指していたのってこういう強さなの? こういう風に、チェレン君に成って欲しくって、旅に出たんじゃないでしょう?」
ベルの必死の訴えにチェレンは一瞥を投げただけであった。
「だから、何だって言うんだ? 僕はあの人をいずれ超える。それだけじゃない。僕はアデクさんも超えるつもりだ。戦って、いずれは決定的な敗北を突きつける。そうじゃないとケジメがつかないんだよ」
「でも、あんなによくしてもらっていて……」
「だったら、ベルは踏み止まればいい。王者にもならず、強者にもならず、弱者のまま、搾取されればいいじゃないか。君が無欲なら、僕はどうだっていいと思っている。玉座につくのに、二人分も背負うのは間違っているからね」
玉座には二人も立てない。それは真理なのだろう。
ノアはあの孤独の玉座を思い返す。あの場所には何もなかった。戦い、果て、その戦い辿り着いた王の座には、何一つ残っていなかったのだ。
あったのは深い孤独と虚無感ばかり。
最後の最後に語られたのは、化け物と罵られた自分の生涯と、己で成し得た事など何一つない、という真実。
理想は正しい。
真実もまた正しい。
どちらも間違ってなどいない。どちらも、同じものなのだ。
それに気づけず、自分はあらゆる人々の人生を歪めた。
己だけではない。トウヤの人生もそうだ。トウヤは、普通に生きられた。
凡庸な人生があった。強さを極めるにしても、誰かを傷つける必要なんてなかった。
英雄などと言う、歴史に名を残す存在になる必要性もなかった。
自分と同じになど――、なる事はなかったのだ。
今すぐ飛び出してチェレンに言ってやりたい。
玉座は虚無だ。そこに何を求めても結局、振り落としていった者達の輝きには勝てはしないのだと。
自分も、その玉座には立った。全てを犠牲にしてでも、プラズマ団の理想を掲げなければならなかった。
真実を、問い質さなければならなかった。
だが真実は、こぼれ落ちていく砂の城のように儚く、理想は虚飾で彩られた影の中にしかなかったのだ。
自分はだからこそ、この時間軸でやり直しを選択しようとした。
だが、それもまた、誰かを傷つける結果になるのならば――。
何も求めないほうがいいのか。
何かを求める事自体が、罪だと言うのか。
ベルは何か、気の利いた事一つも言おうとはしなかった。彼女はそういう存在だ。分かり切っているじゃないか。
そう考えていたノアに、ベルが声を振り絞った。
「分かんないよっ! ……あたし、馬鹿だから、全然分かんない! でも、この子を……小さく丸まっている、このムンナを、助けてあげたいってのは、いけない事なのかな? トウコお姉ちゃんの傍で手を引くってのは、いけない事だったのかな……?」
その言葉にチェレンが振り返った。トウコの手を引く役目を買って出ていたのはチェレンのほうだ。
ノアは初めてベルが他人に切り込んだ言葉を発したのを目撃した。
これまで他人の人生には、干渉をしてこなかったベルが、初めて見せた表情は、今にも零れ落ちそうなほど脆い泣き顔であった。
「ベル……」
「チェレン君はっ……! 強くなりたいだけなの? トウコお姉ちゃんの傍に、行きたいんじゃないの?」
チェレンは押し黙る。トウコの傍にいたいから強くなりたいのか。トウコより上に立ちたいから強くありたいのか。
「……その質問は、卑怯だ」
「卑怯でもっ! あたしは言うよ! トウコお姉ちゃんに一番行って欲しくなかったのは、チェレン君でしょ?」
核心をつく声音であった。同時に、これほどまでに決定的な言葉もなかっただろう。
本音は、消えて欲しくなかったはずだ。その手を繋ぐ役目を、果たさせて欲しかったはずだと。
その一言を言えるのは世界で恐らくベルだけであった。
チェレンは拳を握り締めたのも束の間、振り向いた眼差しに、迷いは見せなかった。
「……僕の、何が不満だって言うんだ。強くもなる。あの人が守れなかったものだって、守ってみせる。それの、何が不満だって言うんだ! だっていうのに、君は……一番近くで見ていた君が、その僕を否定するのか」
ベルはバッグを振って面を伏せた。
「否定は、しないよ。出来るわけがない。だって、あたしだってトウコお姉ちゃんの境遇は、どうにかしたかった。どうにかして、一人前になって欲しかった。でも、それが理想と違うからって、チェレン君は戦うんでしょう?」
自分の理想の勝手な押し付け。
理想を描いたチェレンは真実を射抜くベルと対峙するしかない。
「……そうだよ。僕の理想じゃない。あの人は、だって振り返ってもくれなかったんだ」
先ほどの話を聞いた後ならば、その言葉の印象も違った。
振り返らせるだけの思い出を作っていたはずの自分達が一顧だにされなかったのは、チェレンからしてみれば裏切りに等しいだろう。
トウコ、という少女。
孤独に生きるしかない彼女に道を指し示す事の出来た二人を、彼女は置いていった。
カノコと言う牢獄に。
何よりも、白と黒を分けなくてはならない運命に。
「あたしは……あたしは、ただ……」
「ベルが何を望んでいても、僕は知らない。行くまでだ」
それが決定的な断絶に思われた。
チェレンは行くのだろう。覇道を。
だが、それはベルとは異なる道だ。
誰かと一緒に歩みたいという、ベルの願いとは相反するもの。
行ってしまったチェレンの気配が失せるまで、ノアは出ていく事さえも出来なかった。二人の間に割って入る事が出来なかったのもある。
だがそれ以上に、自分のような半端者が、彼と彼女の理由に踏み込めるわけがなかった。
――自分は、なんと表面だけ見ていた事か。
チェレンは強さを求めるだけの求道者だと思い込んでいた。
ベルは弱いながらも優しいだけの心根の持ち主だと思い込んでいた。
だが実のところを言えば、二人ともたった一人を求めて彷徨っているだけだ。
トウコという一人の欠落を埋めるために、旅に出る事を決めた二人の評価を、誰が下せよう。
トウコがそれを認めるか認めないか、それさえも口出し出来ない。
ノアは歩み出てから、ベルが嗚咽を漏らしている事に気づいた。
泣いている子が近くにいても、自分は何も出来ない。
気の利いた言葉もかけられなかった。
「……ボクも昔、二人の大切な人を泣かせた」
だからか、自分の境遇でしか語れない。自分が見てきた後悔の道筋でしか、ベルを癒せなかった。
「二人ともとてもボクによくしてくれて。二人ともとても正直で、美しかった。だが、あの日、たった一日でその世界は覆った。父親だと言う人がボクらの森に来てね。その人の一声で、ボクらの世界は塗り替わった。どうして、ああなってしまったのだろう。ボクにはまだ、答えが出せないでいるんだ」
ヘレナとバーベナ。二人に対して何のお詫びも出来ていない。二人に何の礼も返せていない。
自分勝手な王様は、自分勝手に不幸を形作り、自分勝手に消えていった。
きっと、それが彼女らの全てに違いない。
だから自分も後悔の念の中にいる。一人じゃない、と声を振り向けようとしたその時には、ベルは涙を拭っていた。
「……ノアさん。この子、まだ大丈夫ですよね」
足元のムンナへと、ベルが手を差し伸べる。
瞬間、巻き起こった思念の刃がベルの手を払った。掌から生々しい鮮血がこぼれ落ちる。
「ベル……!」
「あたしはっ! 自分の弱さを飼い慣らしたい! チェレン君が頑張っているんだもの。あたしだって……」
痛みを殺してベルが再び手を伸ばす。払われた思念の渦を包み込むように、ベルがムンナを抱き留めた。
胸の中のムンナから敵意が凪いでいく。ポケモンの言葉を判ずる術を失った今でも分かる。
ムンナとベルは傷を分け合ったのだ。
ベルがボールをコツンと当てると、ムンナは光となって吸い込まれていった。
「キミは……」
「あたしは、チェレン君ほどじゃないかもしれない。そんな、高尚な理想なんて描けないけれど、でも、自分の思った真実を貫く力が欲しい。その力があれば、きっと……」
ムンナのボールをベルはぎゅっと握り締める。
これから先の未来をある程度分かっていても、ノアは何も言えなかった。
未来は変えていくものだ。
彼ら、彼女らの帰結がたとえ刻まれたものだとしても、それを超えていく力が、きっと人間にはあるのだ。
自分はかつて、それを信じられなくなった愚か者。
せめて、この時間軸では素直に信じていたい。人の力というものを。
「理想を描くか、真実を貫くか……」
皮肉な事に彼らの思想はそのまま、イッシュの英雄伝説の象徴へと結ばれていくのであった。