第64楽章「エルフの娘は地上に降り」
「ねぇ、チェレン君。トウコお姉ちゃん、そんなのいいって言ってるよ」
トウコの手を引くベルはチェレンの行動を真っ先に止めようとした。しかし、チェレンはそうと決めた眼差しを崩さない。
「駄目だよ、ベル。トウコお姉ちゃんは僕が守るんだ。アズマ、とかいう上級生くらい、のしてやれなくってどうするんだ」
ベルはトウコが泣くでもなく、かといって笑うでもないその表情に浮かべているものを感じ取れなかった。
顔を窺うとトウコはいつもそっぽを向く。
「トウコお姉ちゃん、そんなの嫌だって」
「言ってないだろ。勝手な事言うなよ、ベル」
チェレンは怜悧な瞳を眼鏡の奥に潜ませ、アララギ研究所のパスコードを打ち込んでいた。
チェレンは物覚えが速い。だからか、アララギ博士や教授が打ち込むパスワードを一度見ただけで完璧に覚えている。
今行っているのは博士達の抱えている預かりボックスへのハッキングであった。誰か来るのではないか見張りをしているベルは気が気ではない。
「危ないよぉ、チェレン君」
「時間はかけないよ。ほら、これで」
エンターキーが押され、ブランクのボールにポケモンが転送されていく。その間、十秒にも満たない。
手渡されたポケモンの感触に、トウコは呆然としていた。
「これは?」
「ムーランド。バタフリーが逃げたって言うのなら、これを使えばいい。僕がこの間習ったんだ。ムーランドはハーデリアの進化系で、主への忠義が厚い。きっと、トウコお姉ちゃんの助けになる」
「チェレン君……それでどうするの?」
ベルの質問にチェレンは馬鹿を見る目つきを向けた。
「聞くまでもないだろ? まったく、メンドーだな」
「メンドーって言わないで。それ、嫌な癖だよ」
ねぇ、とトウコに声を振り向けるが、トウコは切れ切れに応じるだけである。
「あの、その……」
その手へとチェレンはしっかりとモンスターボールを握らせた。熱のこもった声でチェレンは言いやる。
「これを使えば、きっと見返せる! アズマとかいうのを倒してやろうよ!」
「でも、たぶん、言う事聞かない……」
「分からないじゃないか。トウコお姉ちゃんなら出来るって!」
チェレンの熱意に半ば押される形で、トウコがモンスターボールを手にする。ベルは歩み寄ってくる研究者の足音を聞いていた。
「来るよ! 逃げ出さなきゃ!」
「トウコお姉ちゃん。手を」
チェレンがトウコの手を強く握り締め、研究所から抜け出す。幸いにして追っ手はかからなかったようだ。
「チェレン、ベル……やっぱり、やめておこう。こんなの、どうせ思い通りになんてならない」
弱気なトウコにチェレンが頭を振る。
「駄目だって! アズマとかいうの、僕だって許せない。でもまだ僕とベルは、トレーナー登録をしていない。だから見返したくっても出来ないんだ。でも、トウコお姉ちゃんなら」
トウコにならば可能性があると言ってくれている。それだけで自分ならばその気になってしまうだろう。しかし、トウコは否定を崩さなかった。
「だめだよ、返しにいこう」
「じゃあ、いつ! アズマって奴を倒すのさ!」
声を荒らげたチェレンにベルは言いやった。
「ちょ、ちょっと、チェレン君、そんな言い方……」
「でも、僕らのトウコお姉ちゃんが馬鹿にされたままなんて絶対に駄目だよ!」
トウコは、というと面を伏せたまま、ボールを握り締めている。
「お姉ちゃん……、ためしにムーランドを出してみて。それで駄目なら、また考えよう」
ベルの進言にトウコはおずおずとボールを投げた。繰り出されたムーランドがトウコへと向き直り、次の瞬間、爪を立てて攻撃をしてきた。
ベルとチェレンが反応の遅れた一拍の間に、トウコは頬に傷を負っていた。
「お姉ちゃん!」
チェレンがムーランドを下がらせようとする。ムーランドはこちらに警戒の眼差しを注いだまま、攻撃姿勢を取っていた。
「何だって、ムーランドが……」
ベルの疑問に震えるトウコが応じる。
「……ほら、やっぱり。アタシの言う事は、誰も聞かない」
「そんな事ないよ! ムーランド、お願いだ。トウコお姉ちゃんの力に、なってはくれないだろうか?」
チェレンの交渉にもムーランドは応じず、そのまま草むらへと分け入ってしまった。
研究所のポケモンを逃がしたとなれば大目玉である。
チェレンはそのまま草むらへと駆けていった。
「チェレン君! 博士から、草むらには入るなって……!」
「放っておけるわけないだろ! 何より、これでアズマって奴を倒すんだ。ここで諦めてたら、それこそトウコお姉ちゃんのためにならない!」
自分の身の安全も顧みないチェレンに、ベルはトウコの身を案じていた。
「その、お姉ちゃん。多分博士も、正直に言えばどうにかしてくれると思う。でも、あたしはチェレン君を放っておけないし……、ううっ……どうすればいいんだろう……」
困惑するベルにトウコが歩み出た。
無言のまま草むらへと分け入っていく。
その背中にベルは追いすがった。
「えっ? ちょっと、お姉ちゃん?」
トウコの考えている事は分からない。先ほどまで盗みを頓着していたかと思えば、今度は躊躇なく草むらに入っていく。
ベルは時折揺れる草むらにびくついていた。
「……あたしとチェレン君はまだ、トレーナーじゃないから。入っちゃ駄目って、博士が」
言い訳のように口にすると、トウコの目指している先が窺えた。
草むら、であるのだが、洞窟のように背の高い草が入り組んでおり、入れ子構造になった草のアーチがある。
「……これ、何?」
ポケモンが出現する草むらにこのような場所があっただろうか。自分はまだ浅学で、ポケモンに関する知識も乏しい。
草の洞窟の奥に佇んでいたのは一匹のポケモンであった。
灰色の矮躯が小さく丸まっている。
特徴的な羽箒のような尻尾を抱えて、そのポケモンは眠りについていた。
ベルでも分かる。灰色の毛並みと小型のその姿は、確か――。
「チラーミィ、だっけ……」
チラーミィへとトウコは歩み寄り、その身体へと触れた。チラーミィがにわかに起き上がり、トウコを見やる。つぶらな瞳は愛玩ポケモンのそれであったが、次の瞬間、攻撃色に染まった眼差しがトウコへと襲いかかろうとする。
灰色の尻尾はそれだけで攻撃性能を持っているのが窺えた。
「ダメっ! お姉ちゃん!」
駆け寄ろうとしたベルを制したのはトウコ自身であった。チラーミィの一撃を受け止めて、その体が傾ぐ。
チラーミィは叩かれたトウコの眼を見据えていた。トウコもまた、その眼を見つめ返している。
僅かな沈黙の後、チラーミィが歩み出した。
ベルの真横を通り抜け、草の巣穴から這い出る。
トウコもその後に続いていた。ベルには何が起こったのか、皆目分からなかった。
「その、チラーミィは……」
チラーミィとトウコは目指すべき場所を見つけたかのように草むらを分け入り、チェレンがムーランドと格闘している場所へと導いた。
チェレンはボールをいくつか手にしており、ムーランド捕獲に乗り出していたが、割れて失敗したボールがそこいらに転がっている。
あまりにレベルの高いポケモンを召喚したせいであろう。まだトレーナーでもない自分達ではムーランドを捕獲出来ない。
荒い呼吸をつくチェレンに対し、トウコは前に歩み出ていた。
「お姉ちゃん?」
瞠目したチェレンに、トウコはすっと指差す。
チラーミィが姿勢を沈めた。
「はたく」
トウコの命令でチラーミィが挙動する。ムーランドへと渾身の力を込めた「はたく」が命中した。
驚いたのはベルとチェレン両方である。
今までどのようなポケモンも命令を聞かなかったトウコの指示を初めて聞いたポケモンの出現に困惑した。
「そのチラーミィ……」
追及する前にムーランドが跳躍し、チラーミィを圧倒する。
レベル差は歴然。チラーミィの「はたく」はまさしく蚊が刺したような威力でしかなく、ムーランドの威圧するような攻撃に押されていた。
このままでは、とチェレンがボールを投げようとしてトウコはその行動を制した。
「トウコ、お姉ちゃん……?」
「チラーミィ。はたく」
続け様にチラーミィが猪突する。だが、少し首をひねっただけでその攻撃が完全に相殺された。
やはりチラーミィでは……。
そう判じた二人の思惑とは裏腹にチラーミィはムーランドへと攻撃を続ける。
ほとんど特攻の有様であった。
これはバトルですらない。ムーランドが前足を振るい、それだけでチラーミィを押し出す。
「チラーミィ、はたく」
それでもトウコは命令をやめなかった。最初、ベルはその指示の無鉄砲さがトレーナーとしての熟練度の低さから来るものだと思い込んでいた。
そうでなければ、チラーミィに「はたく」ばかりを要求しないはずだ。
ムーランドが前足だけでチラーミィを制する。次第にムーランドのほうにも慣れが出たのか、攻撃を制するのにさほど力が要らない事を覚えた様子である。
「チラーミィ、はたく」
それでもやめないトウコにチェレンは叫んでいた。
「トウコお姉ちゃん! はたくばかり命令したって、ムーランドは!」
倒せない、と続けようとしたチェレンをトウコの眼差しが射抜いていた。
その眼は死んでいない。
諦めてここで命令しているわけではないのだと窺えた途端、ムーランドの前足が急に痺れた。
先ほどまで「はたく」を制する事に使っていた右前足だけに麻痺が至っているのである。
「手は打っておいた。はたくに混ぜないと、多分、避けられちゃうから。電磁波、をはたくのダイレクトの直後に使っていた。そして、何度かはたくを繰り返して分かったのは、ムーランドの右前足に使っている体重移動の推移。右前足でチラーミィを払うのに、その体重の四分の一を消費する。つまり、右前足を麻痺させれば、ムーランドは四分の一、無力化されたも同義」
トウコがこれほど喋った事もなければ、それほどまでにポケモンバトルに精通していた事も、二人は知らなかった。
トウコの双眸は一つの事象を見据えている。
チラーミィが「はたく」を仕掛け、ムーランドの懐に入った途端、トウコは手を払っていた。
「チラーミィ、全ての技を使い尽くした時のみ使える技を使う。――とっておき」
チラーミィの連鎖する拳の残像を掻き消し、幾つもの弾道がムーランドを打ち据えた。
中空に持ち上がったムーランドへと跳躍したチラーミィが尻尾を振るい上げる。
そのまま叩き据えた対象へと最後の一撃が放たれた。
エネルギーを充填し、紫色に染まった拳がムーランドの眉間へと叩き込まれる。
「とっておき」とは全ての技を使い尽くした時にのみ発動可能な技だ。多くの場合、それを使う前にやられるか、あるいは使う機会のない技である。
だが、トウコは瞬時にその技の特性を理解したばかりか、最後の流れを完全に読み切ったかのようにチラーミィの戦略を練っていた。
凡庸なトレーナーの出来る範疇を超えている。
ムーランドがよろめき、倒れ伏した。
その無防備な身体へとトウコがボールを放り投げる。
揺らぐまでもなくボールがロックされ、ムーランドが捕獲された。
その手際の鮮やかさに二人とも言葉を失っていた。
――眼前の存在は何だ?
本当にトウコなのか?
今まで、言葉を知らないかのように振る舞っていた少女が唐突に目覚めた瞬間であった。
覚醒した王者はチラーミィを携えムーランドのボールをチェレンに放る。
「あげる、チェレン」
チェレンは絶句したままボールを受け取っていた。
翌日、アズマという上級生は捕獲したばかりのチラーミィを前に完全に敗北していた。
それだけではない。
トウコは一両日中にカノコの全てのトレーナーを倒し、候補生に至るまで全員を戦闘不能にした。
役所への申請書類も全て、たった一人でこなし、一週間にも満たぬ間に、トウコはカノコタウンを出る準備を進めていたのだ。
博士は当然の事ながら困惑した上に、誰もトウコのペースに追いつけなかった。
最初の三匹を与える、という通過儀礼もこなさず、チラーミィだけでいい、とトウコは博士に助力を求めなかった。
トウコの母親に博士は一度連絡したものの、母親は面倒が減っていい、とその対処を完全に怠っていた。
一週間後には、トウコは別格のトレーナーとしてカノコを旅立つ手はずが整っていた。
せめて、孤児院全員で見送ろうと、ベルとチェレンがその旅立ちを見つめようとした時に、トウコは一度だって振り返りはしなかった。
チラーミィを得ただけだ。
それなのに、今までの揺籃の日々は嘘のように、トウコは研ぎ澄まされたナイフと化していた。
刃は収めるべき場所が存在する。
抜き身のトウコという存在はまるで標的を追い求める猛獣のようにカノコから放たれた。
今、その王者の足取りは、ベル達には全く分からない。