第62楽章「桜の花は狂い咲き」
常闇の中、跳ね上がったゲコガシラが草むらを追い回す。
視線の先には野性ポケモンが群棲していた。その群れへと一気に突っ込み、己の攻撃網を走らせる。
「泡を連続で放ち、相手へと牽制」
チェレンの命じる声音にゲコガシラがすぐさま応じる。野生ポケモン達を打ちのめした攻撃はレイコンマ一秒単位の狂いもなく発射され、野性を無力化する。
しかしまだ足りていない。
チェレンは歯噛みした。
ベルが持っていたのは自分が経験値集めに使っただけの群れのリーダーのラッタ。だが、あのポケモンは確実にベルの制御下にはない。
その事実はしかし、ある一面を覗かせていた。
「戦いで制御の下になるつもりはなくとも、モンスターボールには入っている……。つまりそれは、認めた、って事じゃないか」
ベルを主として認め、ラッタは忠義を尽くすつもりである。たとえ傍目にはそう映らなくとも、あの戦い方を見れば一目瞭然であった。
さしずめ姫を守る騎士の役目であろう。それを買って出ているラッタの眼差しには、自分が得ていない何かがあるような気がした。
「僕が、ベルに劣っているだって……」
その黒々とした感情が渦を巻き、ゲコガシラの力として権限する。
ゲコガシラが両手を払った途端、黒い爪痕が空気中に刻み込まれた。これをものにすれば、戦いでは優位に進められる。
「何としても、ベルにだけは負けられない。それに、あのノアって奴も……」
ケルディオの見せた強力な技は自分とゲコガシラでは到達し得ない極地であった。
あれほどの技を撃つのに相当な信頼関係があるに違いない。チェレンは歯噛みしてゲコガシラに命じる。
草むらを黒の爪痕が切り刻んだ。
「……関係ない。僕が王になるんだ。だっていうのに、こんな、こんなところでツバをつけられて、堪るか!」
ゲコガシラが跳躍し、発見した野性ポケモンに攻撃を見舞う。
――どれだけ経験値を得ればいい?
――どれだけ戦えば、誰も辿り着けない場所に行ける?
そのためだけに、チェレンはゲコガシラを磨き上げていた。力の赴く末がたとえ邪悪でも、彼には関係がなかった。
「チェレン、遅いな。草むらに入ったきりだ」
ノアが不安の声を振り向けると、バンジロウが鼻を鳴らした。
「いいんでねーの? だって飯時に来ないのが悪いんだからよ」
ノアが作っていたのはコーンスープである。木の実も入れており、ポケモンに回復作用をもたらす効力もあった。
「もう炊き上がります。チェレンは……」
「いいんだって! オレ腹減っちまったよ」
「あたしも……。くたくただよぉ」
ジム戦で相当集中力を使ったのだろう。ベルがへたり込んでいた。ノアは微笑み、スープを取り分ける。
「みんなの分はあるから。それに、今日はジムバッジ取得記念だし」
「そうそう! みんなでお祝いしないとね!」
ベルが茶碗を手に取り、スープを飲もうとして熱かったのか、舌を出した。
「熱っ!」
「あっ、ゴメン。ちょっと沸かし過ぎたかな……」
「オレはこれくらいで大丈夫」
「右に同じく」
白米にスープをかけてバンジロウとアデクがかけ込んでいる。さすがは血の繋がった家族だな、とノアは感じていた。
「チェレンの分もあるけれど……探しに行こうか?」
「ううん、きっと鍛錬の最中だと思うし……。それに、何ていうのかな。あたし、戦っている時のチェレン君、あんまり好きじゃないかな……」
ベルが好き嫌いを口にするのは珍しい。ノアは理由を尋ねていた。
「それは何で?」
「あっ、その別に、チェレン君が嫌いになったわけじゃないんだよ? そういうわけじゃないん、だけれど……」
「戦ってる時の彼は……怖い、とか?」
ベルは気後れ気味に首肯した。
「なんていうのかな……、あたし、ポケモンバトルも旅も、もっと楽しいんだって思っていた。でも、チェレン君はそうじゃなくって、プラズマ団に襲撃された時も、ジム戦の時も、今もそうだけれど……ずっと追い求めている人がいるみたい。その人の背中に追いすがる事しか、多分、考えていない」
「トウコ・キリシマ、か」
ベルは所在なさげに周囲を見渡した。
「トウコお姉ちゃんは、でもとてもいい人だったよ? ノアさんや、アデクさん、それにバンジロウ君に誤解して欲しくないのは、トウコお姉ちゃんは本当に、いい人だった。でも、チェレン君はそれを、認められなかった」
「わかんねーのはそれなんだよな。強かったんなら別に認めりゃいいじゃん」
バンジロウの声音にベルは面を伏せて沈痛に呟く。
「……そう思うにしては、トウコお姉ちゃんの強さは眩し過ぎたんだよ」
そういえばトウコに関しての事は、ノアはあまり聞き及んでいない。トウヤがない、というショックで聞きそびれていたのだ。
この時間軸におけるトウヤかもしれない彼女の存在は知っておくべきだろう。
「トウコって人は、そんなに?」
ベルは拳をぎゅっと握り締める。
「強かった。強過ぎて、誰もついてこられないほど。上級生なんて当たり前にのしちゃって……。アララギ博士と教授が本気に近い編成でやっと、ってほどに、強い」
ポケモンのエキスパートである博士達をやっとの勢いで退けるなど並大抵ではない。トウヤも強かったがあれは成長していった強さだ。生来持っていた素質はあるものの、それほどまでに突出したものではなかった。
「手持ちは?」
「最初のほうは、初心者用のポケモンであるバタフリーだったかな。でも、それじゃ追いつかなくなった」
「どういう意味で?」
「バタフリーじゃ、トウコお姉ちゃんの命令についてこられなくなった。次に選ばれたのは少し上級者向けのムーランド。人懐っこいし、ちょうどいいって思われていたけれど、トウコお姉ちゃんの能力にはそぐわなかった」
「そぐわなかった?」
ムーランドならば個人差があっても大抵のトレーナーには懐く。さらに言えば、能力値としてみても他のポケモンを抜けるだけのものがあるはずだ。
しかしベルは、ノアの考えを見透かしたように首を横に振る。
「強さだとか、そういう代物じゃ断じてないの。ポケモンと共棲するに当たって、お姉ちゃんの強さは別格だった。だから、ほとんどのポケモンはお姉ちゃんのボールにさえも入らなかった。入っても、システムエラーを弾き出してすぐに駄目になったの。あるいは、そのポケモンが逃げ出したりして……」
トレーナー側に問題があったのか。ノアの思考はトウコとやらがそれほどまでに強いという事実を再確認するものではなかった。
むしろ、その逆である。
トウコは、ポケモンに懐かれていなかった。
強くなかったのではないか、という考え。
それならば、トウコにポケモンがそぐわなかった理由も成り立つ。
「その、それはトウコが、トレーナーとしては未熟だったからじゃないかな。それならば説明も出来るし」
「それなら、チェレン君はあそこまで思い込むわけがない」
その事実一つでノアの安っぽい考えが淘汰された。
チェレンの眼を自分は見た事がある。
これほどまでの短期間で一進化を成し遂げ、さらに強さの高みへと昇ろうとしている少年の、苛烈なまでの眼差しを。
「チェレンが、トウコ、という一人のトレーナーの強さの証明だって言いたいのか?」
無言を是とするベルにバンジロウが言葉を差し挟む。
「でもよー、それほど強いって言うんなら、あいつ、嫌ったりしなくねぇか? むしろ憧れだろ?」
バンジロウの言葉にも一理ある。どうして、チェレンは憎悪にも似た感情でトウコを目指しているのか。
ベルは小さく肩を震わせ、吐息を一つついた。
「少しだけ、長い話になるかもしれないけれど」
聞かなければならないだろう。チェレンとベルのルーツを。
この時間軸におけるトウコ、という存在の特殊性を。