第61楽章「月蝕グランギニョル」
「ヘレナ……バーベナの様子は?」
ホロキャスターで問いかけた通話先でヘレナは応じていた。
『今は……ですが、あの青年の事が気になっている様子です。彼とはN様の命で出会った、との事ですが……』
「ボクだって彼とは初対面だった。騙した、のだろうね」
しかし、とNは思い返す。レシラムのあの強さ。さらに言えば、身を挺してでも自分達に勝利をもたらしてくれたヴァルキュリアスリーの容態も思慮に上がっていた。
『あの青年が何者なのか……プラズマ団のデータベースを洗い直していますが、皆目見当もつきません……』
「そう容易く尻尾をつかませてはくれないか……。そもそも、彼は何だってバーベナを攫った? いや、攫ったのと、同行していたのが同一人物とは限らない、か」
いずれにせよ、バーベナの失踪の間に戴冠式の日取りは延期し、新たに日程表が組まれる事となった。
『N様……かような時に、戴冠式をやるべきではない、と私は考えます』
ヘレナの熟考の末に搾り出したであろう結論に、Nは首肯していた。
「だろうね。ボクも、戴冠式なんてやっている場合じゃないと思っている。でもゲーチス……父さんはやるつもりだ。そのためだけに、日程をわざわざ合わせてきている」
『ですが七賢人が同席、というのが解せません。彼らは、ヴァルキュリアスリーを……命を愚弄しました』
「ボクのコピー、か。だがそれも、仕方のない事なのかもしれない」
『仕方のない事? 命を軽視した研究ですよ?』
無論、Nとてそれを看過するつもりはない。だが、今のプラズマ団の不安定な均衡を鑑みれば「仕方のない事」と結論付けてもしょうがないのだ。
「プラズマ団は、王を擁立する事を願っている。それが一時的とは言え、引き延ばされた。面白くない人間達が多いのも分かるし、それに彼らの願いはボクを王にする事。そのために、汚れ役が必要だったのも分からない話でもない」
『ですが……』
「ヘレナ、キミは優しいから考えている事も分かる。そうとも。命は、そんな軽々と使われていい代物じゃない。だが、使う使わないで前提付ける以前に、使命というものがあるんだ」
『使命、ですか……』
「そう。ボクに英雄に成る事が課せられているように。人それぞれに使命はある。ヴァルキュリアスリーは使命に殉じようとした。それだけでも、ボクは彼を尊敬する。だから、これはお願いだ。無茶かもしれないが……彼を死なせないで欲しい。決して、このNという人間のコピーで終わらせないでくれ」
それだけが、自分に出来る抵抗の一つ。
通話越しにヘレナが息を呑んだのが伝わった。
『N様……そこまで優しくある必要がありますか? この世界は、あなたが思うほど、優しく慈悲に満たされていないのです。それを、あなたが、自らの眼で見て、判断した。その帰結として、あなた自身の心を傷つけるのなら、私達は、あなたに――』
「ヘレナ。ボクはプラズマ団のおうさま。だから、それも使命のうちなんだ。人の願いの化身となる。それも一つの、使命の形だ」
ヘレナが継ぐ言葉を失ったのが分かった。彼女の言いたい事も分かる。
――あの日の森でずっと過ごせていたのなら。自分達はこんな残酷な世界に生きなくてもよかったのに。
分かっている。だが、あの森から解き放たれたのも一つの運命だとすれば。
運命に従うか、抗うか。
それも一つの選択肢なのだ。
自分達はまだ抗う術を知らぬ子羊達。
抗った結果、血濡れの道が待っていないとも限らない。今回、ヴァルキュリアスリーの犠牲を伴った事を、忘れてはいけないのだ。
『N様、これだけは、私のわがままです。どうか、お身体を大事にしてください。私達は替えのあるただの女。ですがあなたは、替えのない王』
「そんな事を言わないでおくれ。キミ達だって替えなんてない。命に、替えはないんだ」
その言葉を潮にして通話を切った。
自分で発しておいて何と嘘くさい言葉であっただろうか。
「命に替えはない……か」
その替えが作られていた事。さらに言えば、自らの似姿と出会った事。
ともすればこの世界には既に自分の替えなどいくつも存在するのではないか、という不安が胸を満たす。
「ボクが、ボクである必要は、あるのだろうか」
仰いだ視線の先にはライモンシティの名物、観覧車があった。観覧車はいい。遠くの景色まで見通せる。
自分には一寸先さえも見えない。闇の中、手を必死に伸ばすだけだ。
どこに寄る辺があるのかも分からない中、戦い、擦り切れ、ただ疲弊していくのみ。
それが生きるという事なのだろうか。
「……ボクには分からない」
沈痛に面を伏せたその時、こちらを注視している気配に気づいた。
茶髪をポニーテールにしている少女である。
勝気に釣り上がった瞳は蒼く透き通っていた。
こちらを見ている、というよりも観覧車の前で佇んでいる自分を、物珍しそうに観察している。
その理由がハッと分かった。
涙が、知らぬ間に頬を伝っていたからだ。
拭い去り、Nは少女に向かい合う。
「失礼……観覧車に乗るのかな?」
「そう思っていたんだけれど、妙な奴が何だか列に並んでいるみたいだからずっと観察してた。観覧車で泣けるの?」
てらいのないその声音にNは肩を竦める。
「観覧車はいい。どこまでも高くに昇れる」
「アタシも好きよ、観覧車。王者の景色を望める。でも、他の奴が乗っているのを見るのは嫌い。だから、誰もいないこの時間帯に乗ろうと思ったんだけれど、珍客がね」
自分の事を珍客扱いとは。Nは微笑み返しつつ、観覧車を指し示した。
「相席でよければ」
「構わないけれど、初対面の人間によくそんな提案出来るわね」
「お互い様だろう。泣き顔を見られてしまった。そんなのを観察するのは、いい趣味をしているとしか言いようがない」
ふんと鼻を鳴らし、少女は先に観覧車へと乗り込んだ。
「来るんなら来れば? アタシは一人でもいい」
憮然とした少女にNは観覧車へと乗り込んだ。
「奇縁だね……。キミみたいな気性の人間とは出会った事もない」
「アタシも。観覧車を見て泣く奴とは、ね」
観覧車が静かな振動を立てつつ、ゆっくりと持ち上がっていく。
「ご覧。あれがデルパワー、イッシュ建国の中心となったと言われている高エネルギー地帯だ。その磁力のようなエネルギー磁場を利用し、あらゆる事象がイッシュへと集中する。まるで、全てが運命の名の下に集められたかのように」
Nの説明を少女は退屈そうに聞き流していた。
「どうでもいいわ。アタシ、海が好きなの」
「それはどうして?」
「この場所が全てじゃない、絶対な場所なんて存在しない、って分かるからよ。例えば、海を隔てた遠い土地では、もっと強いトレーナーがいるかもしれない。もっと強い王がいるかもしれない。そう思うと、もっとやれる。もっと戦えるって思えるもの」
少女の気風はまるで獅子だ。王者の風格であった。
Nはこのような高い志の人間もいるのだな、と再認識する。
プラズマ団という狭い鳥籠の中だけを見渡していたせいか、世界の広さを、Nは取り違えていたようであった。
だがどれほど高い志も道を間違えれば頓挫する。
それが高ければ高いほど、折れた時の反動はとてつもない。
少女はそれも分かっていて言っているのだろうか。
「キミは、どこまで強くあれると思っている? 一大国を制したとして、ではその次は? その次はどうする? 強ければ何もかも許されるのが、世界ではない」
「でも、強くなければ、何も許さないのが世界でもあるわ」
一理あった。強くなければ抵抗さえも許されない。
「その強さはどこから出る? キミは、何を目指している? チャンピオンか? それとも、別の何かなのか……」
Nの問いかけに少女は手を振って応じていた。
「つまらないわね」
「つまらない?」
「あなた、頭がいいのに、わざわざそれを下の認識に合わせなくってもいいんじゃないの? だって、アタシの答えなんてもう分かっていて、それで聞いているんでしょう?」
その言葉には面食らった。Nの思考回路を理解した人間など、今まで片手で数えるほどしかいない。
その中でも真の理解者はいないであろうとNは高を括っていた。だからこそ、少女のこちらを見通したような声音に驚愕したのだ。
「……驚いたな。ボクの考えが読めるのかい?」
「読める、というほどじゃないけれど、頭がいい人っていうのは毎回、相手の答えを待っているようで常に答えを複数想定している。あなたは、アタシがどう答えても、一つの帰結に導こうとしている。それが分かるだけよ」
「いや、大したものだ。キミは、他とは違うね」
「違う? 当たり前じゃない。アタシは王になるのよ。近い将来、この地を治めてみせる。そうしたらこの地平線も、海岸線も、デルパワーも全部、アタシのものなのよ。そうなったら、どれほどまでに素敵か! どれほどまでに、心を衝き動かされるか!」
少女の双眸には迷いがない。心の奥底から、この地を治める王になる事を、疑ってもいないようだ。
「どこまでも……だな。強い、というよりも見ている景色が違う」
「あなたも、そうなんじゃないの? 観覧車が好きなんじゃない。上から人を見下ろす事に慣れている」
「どうかな」
惑わせたつもりの声音にも少女は動じない。
「だって、あなた、アタシを見ているようで見ていないもの。遠く、未来の出来事に心を動かされようとしている。そう映るわ」
「ボク相手に未来を語ったのは、キミが初めてだ」
自分が未来を指し示す事はあれど、他人に諭された事はなかったのだ。
「そう? 随分と危なっかしい綱渡りをしているみたいだから、忠告のつもりだったんだけれど」
「ボクは忠告された事もない」
「随分と温室で育ったのね」
少女の言葉は棘を帯びているようでその実、Nの深層を理解しているようであった。
自分がこの世界を攻撃しない事を無意識的に察知しているような物言いである。
「ボクは、この世界を愛している」
「そう」
「ポケモン……トモダチも、だ。彼らを愛している」
「よかったわね」
少女は頬杖をついて海岸線を眺めている。目の前の自分にも興味がないように。
その眼差しはどこまでも遠くを見据えているようであった。
「……ボク以外で、そういう眼をしている人を、見た事がない」
「それは見識の違いという奴ね。そこいらにいるわよ。アタシみたいなトレーナーは。まぁ、王になれるのはアタシだけだろうけれど」
どこに重きを置いているのかもわからぬ自信の果ても、Nには読めない。読めないからこそ、この少女には価値があると感じた。
「一つだけ、この世界の真実を教えよう」
「なに? 神様にでもなった気分?」
「プラズマ団、という組織がある」
「ああ。そこいらで街頭デモを行っているあれね。つまらない事ばかり言っている。ポケモンを解放するべき、だってさ。ポケモンは、人と過ごすからこそ存在を保っている部分があるってシンオウの神話にはある。人が理解したからこそ、ポケモンは草むらに現れるようになった」
「博識だね」
「常識よ。どこのスクールでも習う。ただ、学ぶ気があるかどうかの違い」
「ポケモン……トモダチをボクは守りたい。そのために、ボクはこの場所にいる。ボクの正体はプラズマ団のおうさまだ」
どうして見ず知らずの少女に自分の身分を打ち明ける気分になったのかは分からない。
どこかではけ口が欲しかっただけなのかもしれない。あるいは、目の前の少女ならば、このどうしようもない運命をどうにか出来るかもしれないと期待したからか。
王になれる、とうそぶくほどの人間ならば、プラズマ団の王などと言ってところで驚きもしないと思ったからかもしれない。
しかし、少女はそれ相応に驚愕を浮かべていた。
今まで興味などまるでなかったNへと視線が注がれる。
「……嘘でしょ?」
「いいや、本当だ。正式に王になっているわけではないけれど、事実上、ボクがプラズマ団の、そのトップだ」
王と凡俗。
その対峙が小さな観覧車の箱の中で行われる。
一方は王になると吼える少女。もう一方は王になってしまった自分。
どちらが愚かなのか、この場では判ずる手段はなかった。
少女は、ふぅんと一呼吸の末、新たにNを見やった。
「妙な格好に妙な顔をしていると思ったら、そうか。王と来たか」
「キミも、強気な物言いに強気な態度と思えば、そうか、未来の王か」
二人して笑い合う。
秘密を打ち明けあったかのようにお互いの心にそよ風が吹き込んでいた。
少女は悪戯っぽく微笑む。
「でもアタシのほうが強い」
「どうかな。ボクのほうが強いかもしれない」
少女の眼にはどこまでも続く蒼穹が反射している。自分の眼差しもきっと同じだろう。
「じゃあ、アタシは、いずれあんたを倒さなくっちゃいけないわけか」
「ボクも心苦しい。いずれキミと、戦わなければならないかもしれないなんて」
「言ってなさい。アタシは負けない」
「ボクだってそのつもりだよ」
観覧車が終わりに近づいていた。
少女がモンスターボールをホルスターから解き放ち、それをNの眼前に突きつける。
「じゃあアタシは先に言っておく。アタシのエースはこのチラーミィ」
何と、この場で自分の手持ちを明かしたのだ。それほどの豪胆さにNは敬服さえもする。
「ボクは……いや、やめておこう」
「負けるから?」
「彼の本懐は隠密でね。ボクが手持ちの長所を潰してどうするって話さ」
観覧車が終着し、Nが先に降りた。
「楽しかったよ。キミは……」
「トウコ。トウコ・キリシマ。覚えておきなさい。このイッシュの王になる者の名前よ」
「そう、か。いずれ、また。トウコ」
「ええ、あんたは?」
振り返り、自ら名乗った。
「――N、だ」