第60楽章「わたしは慾望という名の處女」
チラーミィへとズルズキンは照準する。「ドレインパンチ」による瞬間接近を見破ったとは言え、それを打破する手段は持ち合わせていないだろう。
突き出された拳が再び瞬間的な移動を可能にするかに思われた。
だがその時、トウコのチラーミィは片手をひねり上げていた。その手から発生したのは紫色の粘液である。
急接近したズルズキンの顔面にその液体がぶちまけられた。当然の事ながら、近距離戦闘を得意とするズルズキンにはその変化技の回避、というところまで頭が回っていない。
攻撃を叩き込めば勝ちなのだ。その極地に至っては瑣末な技など使用して来ないと決め付けてかかっていた。
だからこそ放たれた粘液をズルズキンはまともに食らってしまった。
瞬間移動の攻撃も手伝い、回避さえも儘ならず、ズルズキンは視覚を潰される。
「何だ、これは……。ズルズキンの目を潰した……」
「毒々。本当はこんな分かりやすい使い方じゃなくって、もっと潜ませるんだけれど……敬意を表して真正面から使ってあげたわ」
毒タイプの変化技「どくどく」を浴びたズルズキンが呻いた。高濃度の毒素は視聴覚を奪い去り、果ては脳幹に至るであろう。
粘膜からの侵入に、ライクは慌ててズルズキンを下がらせようとした。
「一度下がれ! 毒消しを使って――」
「逃がすと、思っているの?」
ズルズキンに組み付いたチラーミィがその身体に電磁を纏いつかせる。
――いけない。今食らえば確実に逃げる手を失う。
「ズルズキン! 何を使ってもいい! 逃げろ!」
「逃げろですって? トレーナーに背中を向けるなんて事は許されないはずよ。勝負の局面において、それだけは絶対にしてはならない事。子供だって知っているわ」
ズルズキンへとゼロ距離の電磁攻撃が放たれる。内奥から焼かれる鋭角的な痛みにズルズキンがよろめいた。
その身体へと再度電流が打ち込まれる。
最早、反動も、自分へのダメージも全て無視してチラーミィが勝利を掴みに来ているのが分かった。
チラーミィの灰色の毛並みが焼けている。
生き物の焼ける嫌なにおいが立ち込める中、ライクは必死に逃がす手段を講じようとしたが、それをチラーミィが許さない。
尻尾から噴射した水流によって踊り上がったチラーミィが右手に高エネルギーを充填する。
「ゼロ距離破壊光線!」
右拳の鉄拳を身体に受け止めつつ、放たれた紫色の光条が周囲を埋め尽くす。捲り上がったバトルフィールドから砂塵が舞い上がり、視界を覆いつくした。
穴の空いた天井から覗く星空が逆に嘘くさいほどであった。バトルコートで展開されている決死の戦闘を月が見下ろしている。
粉塵の晴れた空間でチラーミィが跳ね上がり、水流の尻尾を叩き込んだ。
受け止めようとしたズルズキンだが見えていないものを受け切る手段はやはり存在し得ない。
大きく後退したズルズキンに間断のない攻撃網が叩き込まれる。
「アクアテール」による肉弾戦。水滴を利用した「じゅうまんボルト」の高圧電流で皮膚を焼き、爛れた皮膚に「どくどく」の猛毒攻撃が染み渡る。
恐ろしく計算された動きにライクは頭を振っていた。
「もういい! ……もう、これ以上は……」
モンスターボールを突き出す。戻れ、の指示に対してチラーミィがようやく引き下がった。
赤い粒子となってズルズキンはボールに戻る。これほどまでに苛烈な戦いを今まで経験した事がなかった。
「あら? 終わり? まだやれたけれど」
嘘に違いない。トウコも身を削る覚悟で戦っていたはずだ。だが、呼吸を乱した様子もなければ取り乱す事もなかった。王は、どこまでも王であった。その高潔なる精神にライクは敬意さえ払う。
「どこまも……、こちらの予測を上回ってくる、というわけか」
ライクはトウコの背中に王者を目にしていた。この地を治めるとすれば、恐らくは彼女か、それと同格の素質を備える事となる。
「当たり前じゃない。勝って当然よ」
しかし王者はポケモンへの配慮を怠らない。きっちり毛並みを整えてやり、労いの言葉を投げてから彼女はボールに戻した。
どこまでも、王者は王者である。
「完敗だ……気風も気高い」
トウコはボールを片手に全員に問い質した。
「さて……これでアタシより強いのは、この街じゃ一人もいないってわけね」
「そうとも限らないさ」
そう口にしたのは負けた仲間の一人であった。ライクもその語調に合わせる。
「ああ、ジムリーダーは違う。別格だ」
「ジムリーダー? そんなの、問い質すまでもないでしょう? 勝つに決まっている。あなた達のほうがむしろ、レベル的には強いんじゃないの?」
「レベル差が、戦力の決定的差じゃないんだよ。ジムリーダーの所有ポケモンは圧倒的に違う。それこそ、おれ達との戦いなんて前哨戦だと思えるほどに」
トウコは鼻を鳴らしてホルスターにボールを留めた。
「期待しておくわ」
踵を返そうとするトウコへと、ライクは言葉を投げる。
「待ってくれ。一つ、聞きたい事が」
「何かしら?」
振り向きもしない。だがライクは尋ねていた。
「どうやって、そこまでの強さを? そんじゃそこいらのトレーナーじゃないのはよく分かった。だが、イッシュの地で戦っているだけにしてはあまりにも……別格過ぎる。何が君をそうさせた?」
必要に駆られなければこれほどの強さを得る事もないはずだ。ライモンシティはまだ中盤の街である。
旅立ったトレーナーの強さとしては破格であった。
トウコはうんざりしたかのようにその質問に応じる。
「強くなければ、じゃあ何になるって言うの?」
「何って……ポケモン図鑑を埋めたり、あるいはあらゆるポケモンを育てたり……」
「凡庸ね」
一言で切り捨てられた。あらゆるトレーナーの生き方を「凡庸」の一語で。
「凡庸って……でも普通のトレーナーはそうだ。そうやって旅をしているんだろう?」
「アタシは、普通に終わるつもりはないの。必ず、王者を倒し、四天王を従え、この地を治める王となる。そうなった時、初めて、アタシの物語が始まるのよ」
「君の、物語か……」
「そう。旅立ちが物語のスタートだっていう大多数の人間に、アタシは異を唱える。成功したその後こそが、スタートなのだと。物語を始めるのに、まだ何も準備が出来ていない。そのための、準備が旅なのよ」
「……不思議な言葉だな。旅をそう断じたトレーナーは見た事がない」
通常なら反感を買いかねないその傲岸不遜な言葉も、トウコならば似合っていた。むしろ、彼女の強さを飾り立てるのには不充分なほどである。
「アタシはジムリーダーを倒す。そうやって示すのよ。この世界に、アタシという存在を」
「……もう言葉もない。ジム戦、頑張ってくれ」
ライモンシティのジムリーダー。その名を口にする事はなかった。
せめてもの彼女の試練にしたかったのか。あるいは、どこまでもフェアに戦う彼女への手向けか。
「王になる日が、そう遠くはない事を、約束しておくわ」
バトルコートを後にした未来の王者を見送った者達は全員が放心状態であった。
「……彼女は、本当に王になるのだろうか」
口走った仲間にライクは応じていた。
「分からない。分からないが、彼女ならば、王になってもおかしくはない」
それだけが、バトルコートで敗北した者達全員の認識であった。