FERMATA








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五章 対立者たち
第58楽章「隼の白バラ」

 比して、デントはホルスターに留めたボールを一瞥し、ノアに言葉を投げてきた。

「さて、バトルスタート、と言いたいところだけれど、先の二人の敗北から学ばせてもらうよ。君達は、実力者だ。実力者には、それ相応のポケモンで向かうのが相応しいだろう。もっと言わせてもらえれば、君の面持ちは前の二人とは違う」

 見透かした声にノアは言い返す。

「ボクも初心者だけれど?」

「ウソはいけないね。君は、見るからに違う。初心者どころか……覇権を握っていてもおかしくない眼をしている」

 まさか、そこまで見透かせるのか。僅かな動揺に咲いた隙へと、デントはつけこんだ。

「こうやって言葉で揺り動かせるのはたかが知れている。ぼく達は結局、ポケモントレーナー。戦いでしか語れないことのほうが多い。さぁ、レッツティスティングタイム! 君のバトルの味、見せておくれよ!」

 ノアは握り締めたボールを投擲した。迸った光がその姿を顕現させる。

 ケルディオは雄々しき鳴き声を上げてデントを睨んだ。

 デントは、なるほど、と頷く。

「見た目から、水、かな。ぼくに優位になりそうだが、ここでぼくが使わせてもらうのは、いわゆる彼らの使っていたポケモンの系統じゃない。普段はそれを使っているんだけれど、さすがに三人立て続けに負けたんじゃ、ギャラリーも退屈だろう? ねぇ、みんな!」

 デントの声音に観客達が湧いた。このジムの常連ならば確かにジムリーダーが三人続けて負けるなど、面白くもないのかもしれない。

「でも、勝つのはボクだ」

「強気だね。いい、とてもいい。だからこそ、ぼくはこいつを使える。こいつならば、どう出るのか、ぼくは君の戦いを知りたい! その一心だ。行け!」

 デントの放り投げたボールが割れ、中から飛び出したのは円盤型のポケモンであった。

 明らかに先のバオッキー、ヒヤッキーとは系列が違う。

 銀色の円盤ポケモンが回転し、光を振り払った。

 頭上から生えた二つの触手型の脚部を持っており、それぞれの末端には棘がついている。

 黄色い眼窩がケルディオを睨み返す。

 頑強そうなポケモンは四つの足を用いてバトルフィールドに佇んだ。

「ナットレイ。教えてあげると、草・鋼タイプのポケモンだ」

「どうして、ボクに教える?」

 その問いにデントはフッと笑みを浮かべる。

「少しばかりズルイからさ。だってこのポケモンは、普通ならば使わない。常はヤナッキーというポケモンを使っていてね。それが正式登録されたジムのポケモンなんだが、今回はこいつで行かせてもらう」

「何故」

「何故かって、理由なんて野暮だろ? 勝ちたいからに、決まっているじゃないか」

 そうだ。今さらの問いである。

 勝つために、自分達は鎬を削っている。戦いの中にしか、己を見出せない。それがトレーナーの性であった。

「ケルディオ、タイプは水・格闘」

「倣う必要はない。ぼくはジムリーダーだ。だから教えた」

「でも、ボクもその点ではズルイ。ケルディオは特別なポケモンだ。そこいらのポケモンじゃ、多分太刀打ちすら出来ない」

「その自信、打ち砕きたいね……! 是非ともやらせてもらおう! ベストウィッシュ! ナットレイ!」

 弾かれたようにナットレイが挙動する。

 変り種に思えた頭上から生えた脚部がばねの役割を果たし、その身を跳躍させた。

 一跳びだけで、軽く二階層に到達する。すると、ナットレイは脚部を引き伸ばし、そのまま天井へと吸着した。

 棘はそのためにあったのか。

 上を取られ歯噛みするノアに、デントは続け様に指示する。

「そのまま、狙い澄ます! パワーウィップ!」

 ナットレイが頭上をまるでパフォーマーのように行き来し、ケルディオへと隕石のように舞い降りてくる。

「ケルディオ! いなすぞ、インファイト!」

 応戦の構えを取ったケルディオの姿勢に対し、デントが口角を吊り上げた。

 四つ足の迎撃が叩き込まれるかに思われたが、それは寸前で空振りする。

 ナットレイが一本の脚部のみを天井に貼り付けたまま、降下してきたのだ。

 その一本の作用だけで軸をぶれさせ、「インファイト」の攻撃網から逃れた。

 背面を取られる、とノアが警戒したその時には、ナットレイの棘付きの触手がケルディオの背筋へと突き刺さっていた。

「……アクアジェット! 推進噴射!」

 蹄から発生させた水流が直撃を免れようと放出される。

 狙い通り、手痛い一撃は逃れたものの、やはり命中した。ケルディオの足取りが重くなっている。

「アクアジェットをそう使うのか。なるほど、完全に接近戦型のポケモンと見た。だったら、ナットレイでちまちまやると鬱陶しいかもね」

 ナットレイが天井に貼り付いたまま、ケルディオを見据える。ケルディオはいつ襲来するのか分からないナットレイの攻撃に怯える形となった。

 何よりも、戦術で上を取られているのは大きい。せめて、同じ土俵ならば、とノアは歯噛みする。

「上を取る手段はないのか……」

「このジムには、天井以上の高さのものはない。だから必然的にナットレイが天井を取れば、それは勝因となる。まぁ、炎タイプがいれば分からない勝負ではあるが、水では、ナットレイの装甲を打ち崩す事も出来ないだろうね」

「……どうかな。ケルディオ、全力噴射だ! ハイドロポンプ!」

 ケルディオが蹄を打ち鳴らし、水流を巻き上げていく。螺旋を描いた水の砲弾がナットレイを狙い澄ました。

 デントが口笛を鳴らす。

「ハイドロポンプで貫くつもりかい? なかなかの自信だ」

「ケルディオの攻撃を、嘗めるな!」

 発射されたハイドロポンプの攻撃射線をナットレイは掻い潜るような愚策を冒さない。

 そのまま直撃した手応えはあったが、ナットレイからはその衝撃波さえも見て取れなかった。

「当たったのに……」

「ナットレイは防御力がとても高くってね。生半可な攻撃じゃ、内部に到達すらしない。しかも、攻撃力もなかなかだ! 反撃しろ、ナットレイ!」

 ナットレイが触手を翳し、やはり天井に一本は貼り付かせたまま、残りの一本を駆使してケルディオへと攻撃を見舞ってくる。

「ケルディオ! 水の皮膜で防御しつつ、相手の直撃を避けるんだ」

「そんな賢しい真似、させると思っているのか?」

 水の皮膜が構築されるが、その防御膜をナットレイの棘がいとも容易く破ってきた。

 打ち下ろすナットレイの質量攻撃にケルディオの左半身が打ち据えられる。

 全くの無防備ではなかったが、相当なダメージではあった。

 ケルディオがよろめいている。

「草・鋼の複合は! 強固な防御と強大な攻撃力を約束する! さらに言えば、ナットレイはこうやってちまちまと攻め込めるがそのケルディオ、恐らくは長期戦は不利と見た! このままナットレイに嬲られるくらいならば、降伏をしてもいい」

 降伏勧告。だが、ノアは頭を振った。ここで逃げれば男が廃る。

「ボクは……もう逃げない。逃げる事だけはしないと、誓った」

「立派な誓いだよ。だけれど、ナットレイの装甲を打ち破れなければ!」

 ナットレイが遠心力を用いてケルディオへと打ち下ろす一撃を見舞おうとする。ノアは舌打ち混じりにケルディオに命じていた。

「アクアジェット逆噴射! 後退しろ!」

「後退、だろうね。それしか出来ない。だが、逃げてばかりで敵は墜とせないよ、チャレンジャー。ナットレイは刻一刻と強くなる。よく見るといい」

 ナットレイが行き来した箇所はその棘のせいか、ひしゃげているのと同時に、極細の糸が張られていた。

 目を凝らさなければ分からないほどの細い糸だ。粘性のあるそれがナットレイのバトルフィールドを支えている。

「あれは……」

「ナットレイは、通過地点に棘から生成される糸を張る事が出来る。巣穴を作るのと同じ性質のものだ。そう簡単には解けないし、何よりも強固である」

 デントの言葉の行き着く先が読めた。

 つまり、ナットレイに戦闘を許せば許すほどに隙がなくなっていくという事だ。ナットレイは戦いながら巣を張っている。

 その巣は、ナットレイを天井から引き摺り下ろすのを難しくするものであろう。

 磐石のフィールドに、万全のポケモン。

 勝因が刻一刻と削られていくのが分かった。

 一気に相手の戦意を殺すのではない。着々と、念には念を込めての戦術。

 こちらを嘗めてかかってなどいない。逆に狩られる側だ。

 少しでも気を緩めればケルディオは逃げ場のない戦いを強いられる。

 ――どうする?

 ケルディオのメイン戦術である遠距離、中距離の攻撃はまず届かない。「インファイト」の射程に入るはずもない。

 入ったとしても、すぐに離脱出来るものを相手は備えている。

 一秒ずつ、手が潰されていくのが分かった。敵の術中の中、どう足掻けば逃れられる?

「考えているだろう? ナットレイを突き崩す術を。だが、ナットレイは万全だ。ダメージもほとんど受けていない。この状態からどうやって倒すのか、分からなくなっているはずだよ。さらに、その可能性を叩き潰す。ナットレイ、鉄壁」

 ナットレイの白銀の身体が照り輝き、張られていた糸を用いてその装甲が多面性を持った。

 糸の柔軟さと、生来から持つ頑強さを補填したナットレイがこちらを睥睨する。

 多面装甲になったナットレイには、恐らく弱点である炎さえも届かない領域だろう。

 ノアは拳を握り締めた。

 ケルディオが届くとすれば、それは格闘タイプの技「インファイト」のみだと思っていたのだ。

 だが、この瞬間にもナットレイは己を強化し、その攻撃は届かなくなっていく。

「さぁ、見せてくれ。ナットレイをどうやって倒す? インファイトの射程には入らないよ。その上で、足掻いてくれ。それこそがチャレンジャーの特権だ」

 これがジムリーダーか。ノアは汗が額を伝い落ちるのを感覚した。

 今まで、相対する事を組織ぐるめで避けてきた存在。あの英雄の間に最後の最後、現れた猛者達の実力は伊達ではなかった。

 その一角を打ち破るだけでもこれほどまでに執念が要る。

 英雄の座に胡坐していたのは自分だ。

 王座が磐石だと思い込んでいた愚かな自分を叱責したいほどであった。

 こうして一対一のトレーナーになってみれば、何と脆い強さか。

 プラズマ団の後ろ盾がなければ、自分の強さは最初のジム戦で止まりかねない。

 ――嫌だ。

 胸の奥から声がする。叫んでいる。誰が? という問いも生ぬるい。

 それは己自身の渇望だ。

 ――勝ちたい。

 挫けそうな胸を衝くのは、勝利への声。ここで勝てずして何とする、という男としての意地。

 戦士としての誇りであった。

「……ざまぁ、ないな」

 ぼやいたノアにデントが怪訝そうにした。

「諦めたのかい?」

「ああ。もう、ボクは、下らないプライドだとか、今までの自分の矜持だとか、そんなものは一切――捨てる。今までの自分は、もういい。もう要らない。ここで勝てなければ、明日さえも」

 ここまで勝負にこだわった事など今までなかった。

 生来備えていたものなのか。勝負師としての血が騒ぐ。

 ナットレイに勝つ手段は依然として浮かんでこない。それどころか、気ばかり焦って勝機を逃していくイメージが死神の様相を呈してくる。

 だが、ノアはあえてその死神の鎌に、剥き出しの切っ先に、手をかけた。

 ――刈るのならば刈ってみろ。

 ――ここで落ちる首ならば落とせ。

 背後に迫る死と敗北の影を、ノアは強固な意志で問い質す。

 敗北の影が怯えた。

 死神が、ノアの眼に宿った強い意志に、遅れを取ったかのように後ずさった。

「そうだ。ボクは勝つ。だから、ここに来ている」

「……いい眼になってきたね。そうだ、そういう眼をした人と戦うのが、ジムリーダーは一番面白い!」

 ナットレイがケルディオへと攻撃の布石を打とうとする。触手を大きく引いて構えを取ったのだ。

 ナットレイが天井に貼り付いたまま、前傾姿勢を取る。

「ならば全力でやるまで。ナットレイ、アイアンヘッド!」

 通常ならば鋼の頭突きをかますだけの「アイアンヘッド」という鋼技はこの時、別の様相を呈していた。

 全身をばねの如く用い、天井から放たれた渾身の攻撃は頭突きなどという生ぬるさではない。

 まさしく突進。

 己の全神経をかけた特攻のようであった。鋼の突撃にケルディオが四つ足に力を込める。

 ケルディオも退く気はない。ここで徹底抗戦する構えだ。

「インファイト!」

「届かないね!」

 四つ足を用いた格闘戦術が鋼の勢いに負けた。そのぶつかり合いは一瞬で、火花が散った事くらいしか窺えない。

 一瞬の交錯の間に、ナットレイは再び天井へと戻るルートを辿っていた。

 落ちてきたのもこちらへの敬意のためだけだろう。

 だが、ノアも布石を打っていた。

「ケルディオ……ダメージは」

 水の皮膜を張っておいたからか、鋼タイプのダメージはほとんどない。むしろ、深刻なのは交錯の瞬間、突き刺さった棘の一撃だろう。

 眼には見えないほどの高速で叩き込まれた草タイプの突き上げるアッパーをノアは確かに捉えていた。

 それがケルディオの顔面を打ち据えたように見えたのも。

 ケルディオの頬が鋭く切れて血が滲んでいる。

 だが、それも織り込み済みだ。振り返ったケルディオの双眸の先には、水の攻撃網を打ち込まれたナットレイの姿があった。

「あの一瞬で、水の砲弾をいくつも付けた……」

 デントでさえも驚愕する。

 ノアは手を払って命じた。

「一斉射撃! ハイドロポンプ!」

 ナットレイの四方八方にばら撒かれた「ハイドロポンプ」の種が開花し、全方位攻撃を叩き込んだ。

 ナットレイは当然の如く、よろめくはずであったが、その堅牢な表皮を回転させ、水を全て弾いた。

「悪いが、読めていた。こちらが熱くなった隙をつく。いいスタンスだし、センスもあると思う。だけれど相手が悪かったね。ナットレイはほぼ無傷!」

 それを誇るかのように、ナットレイが触手を振り払う。だが、ケルディオとノアは諦めていなかった。

 その眼差しの先にあるのは勝利への渇望だ。

「かもしれない。だが、ボクがつけた枝は、ハイドロポンプによる包囲攻撃じゃない。ハイドロポンプは、それを撃つためのルート作りだ」

 水流がつぅ、と空気中に拡散している。それをケルディオの角先が集約させた。水滴が道を作り、ナットレイへと至る一条の線が出現する。

「これで、ナットレイに届く」

 ケルディオが角を振るい上げた。ナットレイが触手を交差させ、防御姿勢に入る。

「やるね! だが、距離が開き過ぎている! インファイトは届かない!」

「いや、ボク達が振るうのは、それを超える。ケルディオ、集中しろ……なんて言うのは野暮か。ボクだって、集中しないと出せないだろう。覚えたてて申し訳ないが、ケルディオ! 角から放て!」

 角に光が宿った。黒白の輝きにデントが目を瞠る。

「何だ……その輝きは……」

「聖なる――」

 黒白が拡散し、周囲を一瞬、その色で染め上げた。

「剣!」

 放射された一閃がナットレイへと至る道筋を経て、その甲殻を打ち据える。今までにない威力にナットレイの体躯が震えた。

「まさか……この攻撃は……! 想定外だ! ナットレイ、防御層はまだあるな? 飛び移れ!」

 ナットレイが糸の防御層を捨て去り、天井をアクロバティックに進む。

 瞬間、圧縮し切れない「せいなるつるぎ」の瀑布が天井を突き破った。

 穴が空いた天井から煤けた土が伝い落ちる。

 デントは額に汗を掻いていたが、余裕のあるスタンスをまだ崩さなかった。

「聖なる剣……と言ったか、今の技。なかなかの威力とお見受けした。だが、直撃しなければ同じ事! ナットレイはまだ動く! 今の攻撃は鉄壁で作り上げた糸の防御層は貫通したが、やはり接近戦用の技と見た、堅牢な鋼の防御は崩せない!」

 勝利宣言に等しいデントの声音にノアは焦りを浮かべなかった。それどころか、ケルディオと共に首肯する。

「よし。よくやったな、ケルディオ。これで、勝つ事が出来る」

 その言葉にデントは手を払った。

「何を、言っている? まだナットレイは健在だ! その防御も、まだ有効。比して、ケルディオは今の一撃で疲弊しているようだ! 肩で息をしているのが分かるよ! もってあと一発、と言うところだろう。だって言うのに、まだ戦える? 勝てるだって? 無理だね。だってもう、ナットレイは二発目を撃たせるほど、粗野なポケモンじゃない!」

 ナットレイが一本だけを支えにして攻撃姿勢に移る。触手を使っての先発「パワーウィップ」。さらに、後部の一本を使っての「アイアンヘッド」でとどめ。

 これで戦いが終了するのだと、デントは思い込んでいる。

 しかし、ノアは宿った勝機を逃さなかった。

 ケルディオへと問いかける。

「ケルディオ、行けるな?」

 ケルディオが雄々しく鳴いて構えを取った。その構えは「インファイト」ではない。四つ足でしかと地面を踏み締めた「せいなるつるぎ」への布石。

 その攻撃姿勢にデントは鼻を鳴らす。

「射程外だ! 当たらない!」

「どうかな。先ほどは当たった」

「少しばかり、ぼくも油断していた。だが二度目はない、と言ったはずだよ」

「こちらも、二度も三度も撃つつもりはない。あと一発だ」

 デントが眉をぴくりと跳ねさせた。

「……分からず屋って言うのかい? どうにも、諦めが悪いね。水タイプで来ている時点で、そもそも勝ち筋なんてないのに、そこまでこだわるのなら、いいだろう。徹底的に叩き潰すまで」

 ケルディオが角先にエネルギーを集約する。黒白の電磁が迸ったが、ナットレイに届くのには明らかに射程が足りていない。

「ケルディオ、限界ギリギリまで溜めろ。そして、撃つんだ」

「撃ってももう当たらないよ。それも分からないほどの愚かではあるまい」

「いや、当たるさ。道は作った」

「道? ああ、水滴か。そんなもの! ナットレイ、ジャイロボール!」

 ナットレイが高速回転し、身体についた水滴を余さず全て払い落とした。磨き上げられた鏡面のようにナットレイの表皮は輝いている。

「これで、ナットレイについた枝は消えた」

 勝利を確信した様子のデントに、ノアは言いやる。

「いや、そっちじゃないさ」

「そっちじゃ、ない……?」

 デントが周囲を見渡す。水滴もなければ、水の道もない。どこに勝機が、と言い出しかけた口が開いたまま塞がらなくなった。

 気づいたのだろう。

 ノアは腹腔から叫びを上げていた。

「ケルディオ! 跳ね上がれ! 今なら、ナットレイの上を取れる!」

「しまった! 天井に穴が……!」

 ケルディオが四肢に力を込め、一挙に跳躍した。格闘タイプの膂力が支え、天井への移動は一瞬で済んだ。

 天井のさらなる上、屋根を足場にしたケルディオが黒白の輝きを纏った角を振るい上げる。

 今の状態は先ほどまでの展開のまさに正反対。

 ケルディオが絶対的な上を取り、ナットレイは天井に張り付いている以上――下でしかない。

 デントがすかさず命令を下す。

「パワーウィップを命中させろ! 一発でも入ればそれが嚆矢になる!」

 そうと決めたナットレイの動きは迅速であった。天井を突き破る事は出来ないがそのまま進む事は可能。

 棘付きの触手を伸ばし少しでも速くケルディオに一撃を叩き込もうとする。

 しかし、そうさせないために地上で既に技の充填は終えておいた。

 完全にエネルギーを溜め込んだケルディオには最早、一滴の迷いもない。

 黒白の刃は、振り下ろされる。

「聖なる、剣!」

 最早この段に至っては回避など不可能と判じたのだろう。デントは反撃命令を出す。

「ジャイロボールで回転して装甲への磨耗を減らす! さらに! パワーウィップを回転で出せ! こっちが届くか、あっちが届くのが先か!」

「勝負だ」

 黒白の刃が屋根からナットレイを狙い澄ます。ナットレイが穴から這い出て触手を打ち込もうとした。

 一瞬の交錯。

 じりじりと天井を引き裂いていく「せいなるつるぎ」の威力は減殺しない。それどころか、強烈な一条の閃光となってジムを真っ二つに両断した。

 その中心軸でナットレイが攻撃を受け止める。

 ナットレイの刹那に下した判断は攻撃ではなく、主人のいるジムを守る事であった。

 防御陣形を組んだナットレイが回転する事によって黒白の閃光が反射される。それでも減衰し切れない勢いがカフェのジムを突き破っていった。

 観客達が逃げ惑う。

 その光景が続いたのはほんの一刹那であったが、それだけでも充分に破壊の爪痕が残されていた。

 屋根の一点を軸としてジムの天蓋がほぼ割れている。

 差し込んだ光の中、主を守り切ったナットレイが回転しつつ、屋根の上で佇むケルディオを見据えていた。

 両者、一瞬の睨み合いであった。

 その均衡が崩れたのは、ナットレイの表皮に亀裂が入った時である。

 ぐらりと傾いだナットレイがその身を横たえさせた。

 審判がほとんど呼吸困難のように、息も絶え絶えに判定を下す。

「し、勝者、ケルディオとチャレンジャー!」

 その裁定が下った瞬間、ケルディオが屋根から崩れ落ちた。保っていた力が抜けたのだろう。

 ノアは駆け込んでその身体を受け止めていた。

 体毛が灰で煤けている。埃を払ってやり、ノアは満身の感謝を述べていた。

「よかった……! ありがとう、ケルディオ」

「なんてこったい。ジムを斬りやがった」

 ポッドの声音にノアは慌てて平謝りする。まさかこれほどの威力だとは思わなかった。

「す、すいません! その、こういう時、どうすれば……」

「どうもしないさ。チャレンジャーは、胸を張っていればいい」

 デントの穏やかな声音にノアは毒気を抜かれたようになっていた。ボールへと赤い粒子となってナットレイが戻っていく。

「ナットレイが身を挺して守ってくれなければ、ぼくらごと消し炭かい?」

 肩を竦めたデントにノアは頭を下げる。

「すいませんでした! 戦いに夢中になって……」

「いいって事よ。おれらも、面白いもん見れたし」

 ポッドの声に続いてコーンが会釈する。

「ええ、とてもいい試合でした」

 にわかに湧いたのは観客席からであった。最初は小さな拍手であったが、やがて波のように拍手喝采が鳴り響く。浴びせかけられる賞賛にデント含め三人のジムリーダーが会釈する。

「ありがとうございます、皆様方。本日のジム戦はこれにて終了とさせていただきます」

「とてもいい試合だった!」

 口笛と共に放たれた声にノアは頬を染めた。戦って褒められる事など今まで経験してこなかったのだ。

 それがジム戦という場においてしてみれば当たり前になる。

 改めて、世界が違うのだと思い知らされる。

「バッジを進呈しなければ」

 三人のジムリーダーがそれぞれ歩み寄り、ジム攻略の証を手渡す。金色に輝くバッジの持つ栄光にノアはほうと感嘆の吐息を漏らす。

「これが、ジムバッジ……」

「だが、まだまだ序盤だぜ」

 ポッドの言葉にデントが頷く。

「ああ、これからだ。強いトレーナー達。これから君らの戦いが始まる」

 これからなのだ。自分達は八つあるジムのうちたった一つを制したのみ。

 だがこの胸の昂揚感は全員、同じようであった。

 ベルは素直に笑顔になる。チェレンは、というとクールぶっているが、その眼差しが輝いているのが分かった。

 勝利の美酒とはこれほどまでにトレーナーを昂らせる。

 早速ジムバッジを胸に留めたチェレンに対し、ベルはカバンに留めていた。

 ノアは、というとケースにジムバッジを入れる。

「なかなかの戦いじゃったな」

 迎えたアデクにチェレンは声を投げる。

「まだまだですよ」

 その言葉にアデクはうむと頷いた。

「その心意気はよし。じゃが、素直に喜んでもいいのじゃぞ?」

 チェレンがそっぽを向く。笑いながらアデクはベルへと向き直った。

「お嬢ちゃん、ラッタは使いこなせておらんかったな」

 叱責が来ると思ったのだろう。首を縮こまらせたベルにアデクはそっと肩に手を置いた。

「じゃが、ラッタはお主を信じておる。信じるところよりトレーナーは始まる。努力すれば物に出来る強さじゃ。誇るといい」

「は、はいっ!」

 ベルの言葉を受けてから、アデクはノアへと視線を振り向けた。

 その口元が綻ぶ。

「随分と無茶な戦いじゃったな」

「でも、ケルディオを使うのには、あれくらいじゃないといけない」

「分かっておるではないか。そうじゃとも。お主が一番、高みに上るのに必要なものを他人以上に取り込まなくてはならない。茨の道だと分かっていても、戦い続けよ。それしかワシには言えん」

「いえ、充分です」

 戦い続けた先にこそ、栄光がある。

 それを理解出来ているのだから。

 チェレンはベルとノアにばかり賞賛が行くのが面白くないのか、ぼそりと声にした。

「さっさと行きましょうよ。こんなところで油を売っている場合じゃない」

「そうじゃな。とりあえず宿を取って、今日は休むといい。明日の昼から、また旅路に出なければならん」

 その言葉にノアは目を見開いた。

「早過ぎませんか?」

「いいや、遅いくらいだぜ」

 応じたのはバンジロウである。

「でも、チェレンとベルはまだ新人トレーナーなんだし……」

「オレらの本当の目的のためには、とっとと先を急ぐのが一番だろ」

 バンジロウは分かっている。これまで数多の犠牲があった事を。ノアの目的とするところを。

 今すぐにでもプラズマ団を止めなければならないのだ。

 そのためには手段を選んではいられない。

「……分かった。チェレンにベル、あまり時間はないけれど、ボクの旅についてきてくれないか?」

 ベルはおずおずと首肯する。

「うん。あたしも、みんなと旅をするのが楽しいし」

 窺ったチェレンは鼻を鳴らした。

「仲良しこよしがどこまで通用するのかは疑問だけれどね」

 だが、どちらにせよ休息を取らなければポケモン達も万全ではない。

 サンヨウジムを後にする際、三人のジムリーダーがそれぞれ言葉を送った。

「また来いよ! 今度はもっと強いのでバトルしようぜ」

「またのご来店、お待ちしております」

「君達の旅路に、ベストウィッシュがある事を祈って!」

 手を振ったノアとベルに対して、チェレンは振り向きさえもしなかった。

 ここが到達点ではないと分かっているのだろう。

 自分とて、ここで満足はしていられない。

 向かうのは次の街、次の戦いへ。



オンドゥル大使 ( 2017/09/26(火) 22:12 )