第57楽章「空宙舞踏会」
「第二戦、コーン対チャレンジャー!」
審判の声が響き渡り、ノアは改めてバトルフィールドを見やった。先ほどの奇策があったとはいえ、バトルフィールド自体は綺麗なものだ。どこにも妙な窪みがあるわけでもなく、スタンダードに戦えるであろう。
コーンがホルスターからボールを解き放った。すっと地面に落ちたボールから光が迸る。
現れたのは水色の身体をした二足歩行のポケモン。先ほどのバオッキーの反転色に思われた。違うのは表情だ。
常にニヤついており、どこか読めない印象すら与える。
「ヒヤッキー。わたしのポケモンです」
ヒヤッキーと呼ばれたポケモンがわざわざ水の玉を浮かび上がらせ、指でピンと弾いた。
水タイプであるのは明白。
だが、ベルの選んだポケモンは確か――。
ベルはカバンを底から引っくり返し、ごみを散らかしながらボールを取り出した。
よろめきつつも、それを投擲する。
「い、行って! フォッコ!」
繰り出された四つ足の火狐は想定外の相手に面食らっているようであった。
当たり前だ。まだ実戦の浅いポケモンに、タイプ相性上では相手が悪いポケモンと戦わせるなど。
「アデクさん、この勝負はさすがに……」
諦めムードを漂わせるとアデクは腕を組んで憮然とした。
「いや、分からんぞ」
どこからその自信が来るのか分からなかったが、ノアは見据える事にした。
ベルという少女。前の時間軸ではただただ優しいだけの少女に見えたが、この時間軸ではどうなのか。
ベルはフォッコへと命じていた。
「ひ、火の粉!」
炎タイプの大多数が覚える初期の技、「ひのこ」。フォッコの発生させたそれもやはりというべきか弱々しく、ヒヤッキーに命中する前に霧散してしまう。
「育てが足りませんね。先ほどの彼とは対照的だ」
コーンの言葉にベルは耳まで赤くなってしまう。
「ひ、火の粉! 連続で出せばっ!」
「連続? 持ちませんよ、そのポケモン」
言葉通り、三回ほど出しただけで、フォッコには疲弊が見られた。ベルが目を見開いていると、コーンが口を開く。
「例えば、水鉄砲を打つとしましょう。それがレベル百のポケモンならいざしらず、レベルが十にも満たないポケモンが一秒間に連続で、しかも高威力で、出せると思いますか?」
初歩の初歩である問いかけにベルは帽子を手で押さえて顔を隠してしまう。
戦闘中の仕草とは思えなかった。
コーンは疲れたように嘆息を吐く。
「これでは……。ヒヤッキー、とどめを」
ヒヤッキーが水の砲弾を練り上げる。明らかに勝ちに来ているジムリーダーに比して、あまりにベルという少女は脆弱であった。
「これでは……勝負になんてならない」
その言葉にアデクは、否、と応じていた。
「勝負とは、一時の昂りに同じ。真の勝負師が目覚めるとすれば、それは昂りの只中、死狂いなり」
「食らえ、ハイドロポンプ!」
ヒヤッキーの放った水の砲弾がフォッコに突き刺さった。
確実に戦闘不能に思えたその瞬間であったが、飛び込んできた光景は水に浮かぶフォッコではない。
その水が何らかの力で押し返されているのであった。
コーンも勝負がついたとばかり思っていたのか、既に踵を返しかけていただけに、意想外の結果に目を見開く。
「何が……、ヒヤッキー! 力を抜いているんじゃないだろうな?」
そうではない。ノアは直感的に判じていた。
ヒヤッキーが力を抜いたわけでもなければ、コーンに落ち度があるわけでもない。
これは、ベルの、ほんの小さな少女が生み出した刹那の光だ。
フォッコの額から神経組織のような光が浮かび上がり、そのまま弾け飛ぶ。
直後、水が粘性を持って押し出された。
ヒヤッキーに浴びせかけられた水は明らかに攻撃の姿勢を持っている。
腕を交差させて防御したヒヤッキーであったが、正体不明の攻撃にコーンはたじろいでいた。
「炎じゃ、ない」
「これは……」
絶句するノアとは対照的にアデクは顎へと手をやる。
「やはり、あの娘っ子……」
「やめて……」
ベルが帽子を押さえて声にする。その一声ごとに空間を揺るがす力が増幅した。
「これ以上、フォッコをいじめないでっ!」
爆発力であった。
あまりにも強大な力の瀑布にヒヤッキーどころかトレーナーであるコーンまで押し出される。
幸いにしてフィールドアウトはしなかったが、不可視の力がポケモンの膂力を超えた瞬間であった。
「これは……念動力? 何で、炎のポケモンに……」
コーンの声音に浮かんだ疑念にフォッコが飛び上がる。
「フォッコ! 火の粉!」
「こけおどしだ……、ヒヤッキー! 冷静になれよ、水の波導!」
波紋が浮かび上がり、ヒヤッキーを中心軸にして同心円状に水が拡散する。
ゲコガシラとはまた違う「みずのはどう」の使い方だ。
フォッコが及び腰になったのを目にしてコーンが勝負をかけにかかる。
「そのまま波乗り攻撃!」
連続攻撃であった。足先に水の下駄を形成したヒヤッキーが跳躍し、そのまま下駄をミサイルのように放出したのである。
当然の事ながら耐久力にも優れていないフォッコは今度こそ完全に、戦闘不能になった。
だが、当のコーンは疲弊していた。
突然のフォッコの謎の戦力に恐れを覚えたのだろう。
それは外野で見守っている自分達も同様であった。何かが起こった。だが、それを明言化する言葉が存在しない。
「ふ、フォッコ戦闘不能!」
審判の判断にベルが慌ててフォッコへと駆け寄る。フォッコは水による攻撃で弱っているもののただの瀕死状態だ。ポケモンセンターですぐに治るだろう。
「よし、ならば今回は、わたしの勝利……」
そのはずであった。
一勝一敗の結果に終わるはずであったこの戦闘で、ベルが不意に手を上げていた。
「あの……その……、もう一体、ポケモンがいるんですけれど、その場合、続けてバトル……できますか?」
その問いかけに審判が呆然としていた。
コーンが襟元を整える。
「もう一体、か。ルール上、何の問題もない。トレーナーは六体までの手持ちを許される。審判、そのはずですね?」
おっかなびっくりに審判が首肯し、戦闘続行を宣言した。
トレーナーコートに戻ったベルがまたしても慌ててカバンの底を探る。ごみと共に落ちてきたボールを慌ててベルが放った。
どうせ、この旅の序盤だ。大したポケモンではないだろう。
そう、誰もが思っていた。思い込んでいた。
――直後に現れた巨大な躯体を目にするまでは。
「……何だ、このポケモンは」
特徴的なのは突き出した前歯である。針のような茶色の体毛はごわごわしており、見た目通り刃のように鋭いのが窺えた。
尻尾も太く、強くしなっている。
「ラッタ……カントーのポケモンのはず」
ノアの言葉にコーンは慌てふためいた。
「ラッタ……ラッタだと? 通常の個体の数倍はあるぞ……。どうしてこんなものが、旅の序盤に……」
「ラッタ。お願い。あたしを勝たせて。あなたの技を、あたしはあんまり分かっていないけれど、でも……」
おずおずとしたベルの声にラッタが一瞬だけ視線を振り向けた。
ただそれだけである。
直後、ラッタが空間を引き裂いてヒヤッキーへと肉迫していた。全身を使っての突撃。ほとんど特攻に近い。
その猪突猛進な攻撃がヒヤッキーに一発、突き刺さったかと思うと、ラッタの尻尾が鞭のようにしなり、相手を叩きつけた。
フィールドを無様に転がるヒヤッキーだが、さすがにジムリーダーのポケモン。自ら姿勢を整え、相手へと向かい合おうとする。
だがその時には、既にラッタの射程であった。
ヒヤッキーの胴体に渾身の拳が打ち込まれる。空気さえも打ち砕いたかのような一撃に、覚えずノアがうろたえたほどだ。
その一撃の冴えはただのポケモンの攻撃の域を超えている。
ノアには分かる。あれは、群れのリーダー格だ。
森で生きていた頃、時折目にする事はあった。だが決して自分達とはつるむ事はなく、人間は人間、ポケモンはポケモンの一線を引いていた。
それほどまでに風格と気品、さらに言えば誇りに満ち溢れた存在。
それが群れのリーダーである。
大型個体なのもそれならば頷けるが、問題なのはどうやってベルのような少女がそれを捕まえたのであるかだった。
ラッタは間断のない攻撃の末にヒヤッキーを中空へと投げつける。
防御の姿勢も取れないヒヤッキーへとラッタが前歯を軋らせた。
――危険だ。
ノアの戦闘本能がそう告げている。このラッタは特別個体。その身体から放たれる技は、通常のポケモンの倍ほどはあると思っていい。
当然の事ながら、野性に生きる個体は加減を知らない。
ポケモンバトルにおいての敗北が、野性世界での敗北ではない。
相手を打ちのめし、完全に屈服させるまでが野性の性なのだ。
モンスターボールはそれを無意識的に閉ざす枷なのだが、今回の場合、トレーナーが扱い切れていない。
強過ぎる力は暴走する。
ラッタの前歯から放たれる必殺の一撃は、ヒヤッキーを絶命せしめるのに充分であった。
ラッタ自身も分かっているに違いない。投げ放たれたヒヤッキーは防御も、ましてや反撃に転じる事も出来ない。
ジムバトルが血に染まるのか。その予感に全員が硬直していた。
その時である。
「駄目! 駄目だよ! ラッタ!」
響き渡った声音にラッタが攻撃を中断する。
振り向いた先にいるベルはラッタをしっかりと見据えていた。決して逃げていない。ましてや、力に呑まれたわけでもない。
トレーナーとして、ラッタと向き合っていた。
ヒヤッキーが落下する。カウントを取るまでもなく、戦闘不能なのが窺えた。
「ひ、ヒヤッキー戦闘不能! 勝者、チャレンジャー」
「えっ、嘘……。あたし、勝っちゃったの?」
先ほどまでの威勢はどこへやら、ベルがきょどきょどと周囲を見渡す。超然とした佇まいは一瞬の幻であったのか。それとも、これから先登り詰める人間の風格であったのか。
判ずる術もなく、コーンはすみやかに退場した。
「負けましたね。まさかこんな隠し玉があるとは。あなたは強い。誇りに思うといい」
コーンの賞賛にも、ベルは戸惑うばかりである。
「えっと……ありがとうございます」
ノアも戦いの行方に唖然としていた。まさか、このような局面があろうとは。
「戦いは……分からないものですね……」
「うむ。お嬢ちゃんには何かがあるようには思えていたが、まさかここまでとは。しかし、ノアタロー。二戦勝したからと言って自分の戦い、慢心するでないぞ」
分かっている、と首肯を返した。
自分が勝てなくては意味がない。チェレンもベルも、初陣を白星で飾った。ならば、これまで戦ってきた自分が勝てなくてどうする。
ベルが降りたのと入れ違いでバトルフィールドに立つ。
煤けた戦闘の臭気。血と、ポケモンの放つ獣気の混じった空気を肺に取り込み、ノアは息を詰めた。
相手は三人目のジムリーダー。デントはその佇まいはどこまでも落ち着き払ったまま、対面に出てきた。
先鋒と中堅の敗北をさほど痛いとも思っていない様子である。
「……案外、余裕があると見えます」
ノアの放った感想に対してデントは首を引っ込めた。
「ぼく達は意外にドライでね。三人併せて一人前なところもあるけれど、だからこそ、研鑽を止めない。それに、二人負けたからと言ってぼくが気後れする必要がどこにある?」
ノアはケルディオの入ったボールをホルスターから抜き放つ。