第56楽章「カフェテラスでお茶をどうぞ」
打撲痕が、最初に残った一撃であった。
バオッキーの跳ね上がり様の蹴りをゲコガシラが交差した腕で受け止める。その動きに一切の逡巡はない。
だが、ゲコガシラ本人が力の使い方をまだ完全に物にしていないのか、発生したジムの床を捲り上げさせる攻撃――「たたみがえし」は中途半端な発動に終わった。
捲り上がった地面に身体を引っかけさせてしまったバオッキーが僅かに腕を引く。
打撲痕。
ただのそれだけ。体力を削るにも至っていない、怪我の範疇ですらないもの。
当然、失策だとチェレンは判じるかに思われたが、その声音には力強さが窺えた。
「今のでいい。ゲコガシラ。慣らし運転だ。ゆっくり行こう」
「今ので?」
対する相手であるポッドはプライドを傷つけられたと感じたのだろう。眉を跳ねさせて手を払った。
「ダメージですらないぜ、今の。そんな調子じゃ、日が暮れちまう」
「分かっている。だから、今のでいい、と言ったんだ」
その言葉の真意をはかりかねたのか、ポッドが怪訝そうにする。
ノアはその戦いの行方を眺めていた。まずは先鋒の戦い。チェレンのゲコガシラの存在には驚かされたが、それさえも範疇だとするジムリーダーの風格。
相手の育てを侮ってはいないな、とノアは感じ取っていた。
どれほどの相手だろうとも全力で相手する。それがジムリーダーなのだ。
前の時間軸ではジムに挑戦するような暇はなかった。だからこそ、純粋に、英雄としての強さだけを極められたのだが、今のノアには必要であった。
戦士の証明。その実力の証であるジムバッジが。
当然、チェレンも渇望しているはずだ。今の彼に足りないのは実力以上に、その客観的証明。
敗北を早々に突きつけられた彼からしてみれば一つでも白星が欲しいに違いない。
だが、チェレンの挙動に焦りはなかった。むしろ、堅実に、今は勝ちに行っている様子だ。
「どう見る?」
アデクに言葉を振り向けられ、ノアは素直に返していた。
「分かりません……。チェレンがいつの間にゲコガシラに進化させていたのかも。それ以上に、今の畳返し、あれは失敗だった。でも、あれでいい、という指示も」
「分からんか。いや、ワシからしても当て推量だが、あの坊主……、掴んでは来ているようじゃな」
掴んできている。アデクという王者をもってしてそう言わしめるという事は、アデクはその実力を把握しているのか。
「でも……バオッキーには単純に攻めればいい。泡でも、何でも水攻撃ならば。こだわる必要性はない」
ゲコガシラの相性ならば水タイプの攻撃を何も考えずに撃てばいいのではないか。ノアの考えを透かしたように、アデクは指を振った。
「それで決着がつけば、世の中強者と弱者には分けられんのう。なにせ、タイプ相性が全てではないと、お主自身、知っておろうに」
「それは……」
口ごもるしかない。だが、ここは最初のジムではないか。タイプ相性が何より大事とうそぶくジムで、それ以上を求める事はないはずだ。
バトルフィールドを見据えるチェレンはゲコガシラの動きを注視しているようであった。
まだ物にしていないはず。彼の眼差しは、ただただ観察にのみ注がれていると思われた。
そうでなければ――可能性に、ノアは身震いする。
既に物にしているのならば、何というトレーナーとしての才覚。
チェレンの指示に迷いはなかった。
「ゲコガシラ! 放て、水の波導」
水流が一挙に掌に帯びる。流転するそれをゲコガシラが掲げた途端、四方八方に水流が飛び散った。
「みずのはどう」は波導、と呼ばれるエネルギーの一種である。水の属性を帯びたそれを、相手へと叩き込む特殊技。
波導攻撃をバオッキーは受ける前に、大きく後退した。
やはり水は弱点、と感じたノアにバオッキーの手で膨れ上がる炎が入る。
「バオッキー! 焼き尽くす!」
炎が弾け、水滴の一部を気化させた。「やきつくす」の威力で気化した水から漏れたのは青い波導の残滓である。
その波導を足がかりにしてゲコガシラが跳んだ。相手へと肉弾戦を仕掛けるつもりなのは明白。
だが、肉弾戦が得意そうなポケモンには見えない。しなやかに伸びた手足、泡の纏いついた身体は確かに成長をしている。
それは恐らく第二段階に過ぎない。最終段階に至っていない、半端な力では逆に押し返されるであろう。
ゲコガシラの拳がバオッキーへと襲いかかったが、バオッキーはそれを軽くいなし、逆に拳を叩き込んだ。
「接近戦では、こっちのほうが有利!」
拳に灼熱が充填される。「ほのおのパンチ」だ。撃たれれば如何に水タイプとは言え痛い一撃となる。
一時撤退、を命じるかに思われた。
自分ならば相手を蹴って後退し、距離を取って継続射撃。それでじわじわと削ったところを決定的な一撃でフィニッシュする。
自分ならば、の話であったが、これはポケモントレーナーならば叩き込まれている基本であった。
遠距離戦、近距離戦の別を間違えればバトルはすぐさま転落へと辿る。
遠距離に秀でているポケモンを近距離に置く愚策を敷けば、それだけ相手との優位が縮まってしまうのだ。
これでは勝てまい。
そう判じたノアの耳朶を打ったのは思いも寄らぬ声であった。
「ゲコガシラ、組み付け。そのまま相手を放すな」
馬鹿な、失策だ。ハッとしたノアだが、試合中の相手への助言は憚られる。
ポッドがにやりと笑ったのが目に入った。
「失策だな、チャレンジャー。近距離、遠距離の勢いを間違えれば、如何に一進化とは言え、すぐに堕ちるのみ! さらに言えば、そのゲコガシラ、消耗しているぜ! 習得してまだ日の浅い波導攻撃。波導を用いる技はポケモンに過度の負荷をもたらす。それは体内の根幹エネルギーを用いるからだ。おれの見立てじゃ、そいつ、まだ三日と経っていない。覚えたてほやほやの技じゃ、バオッキーの鉄壁は突き崩せない!」
炎の拳がゲコガシラの腹腔へと打ち込まれた。ゲコガシラが衝撃によろめく。その身へとすかさず、もう一撃、炎を棚引かせたパンチが放たれる。
防戦一方ではないか、とノアが感じた時には、ゲコガシラは打ちのめされていた。
これでは、と拳を握り締めるノアだがチェレンは事ここに至っても焦らない。焦燥の汗一つ掻いていない。
何故、という疑問にチェレンは口を開いていた。
「そのバオッキー、さっきから見ていたら気づいたんだが、右手、負傷しているな」
思わぬ指摘だったのだろう。ポッドが青ざめた。ノアも、この場にいるアデク以外の全員が瞠目していた。
「右手に、負傷……?」
「そんな、いつ?」
バンジロウも分かっていないらしい。チェレンはすっと指差した。
「先ほどの畳返し、あれを失敗であった、と思っているな? だが、あれは成功だった。反射ダメージを狙ったのではなく、ジムの床、地面を捲くり上がらせる事による地面タイプの攻撃を発生させた。擬似的な地震だと思えばいい。それを、バオッキーは食らった。いや、食らった事さえも理解し切っていないだろう。無意識下のダメージだ。だがそれは、僕からのダメージじゃない。中で、じわじわと蓄積するんだ。それこそ、バオッキーが右手で攻めれば攻めるほど、な。もう少し経ってから言おうかと思っていたんだが、あまりに勝利に酔っているから、言ってやったよ。……まったく、メンドーだな」
反射ではなく、捲り上がった地面を利用した擬似地面タイプの技。
そのような攻撃、誰も想定していなかった。
しかし、ポッドはその言葉にバオッキーを一度後退させようとする。
負傷の度合いを見るためだろう。だが、だからこそチェレンは言ったのだ。組み付いて離すな、と。
「ゲコガシラ、逃がすな。トレーナーに、絶対に負傷度合いを見せてはならない」
「バオッキー、退け! 一度でいい、一秒でもいい! 一旦は距離を置いて――」
「逃がすわけないだろ」
差し込まれた声に迷いのない攻撃網が咲く。
掌から発生した「みずのはどう」がゼロ距離でバオッキーへと叩き込まれた。
一撃でバオッキーが大きく仰け反り、もう一発でその身体から炎が失せていった。
こうなれば自棄だったのだろう。ポッドは叫んでいた。
「バオッキー! そいつのこけおどしかもしれない! 全力攻撃だ! フレア――」
バオッキーの体表から炎が迸る。瞬く間に広がった炎熱空間に大気が歪んだ。
バオッキーと組み付いているゲコガシラは水とは言え消耗しているはずだ。その身体の水分を蒸発させるのに充分なほどの熱気。
だが、ゲコガシラは離れない。最後の一撃に、と掌の上で水を回転させる。
「ドライブ!」
紡がれた技の名前に、バオッキーの身体が照り輝いた。光の連鎖と共に、炎熱が質量となってゲコガシラへと打ち込まれる。
右手を固めた拳による「フレアドライブ」。その一撃を、ゲコガシラは片腕で受け止めていた。
境目から水が伝い落ちる。
それを嚆矢として、一挙に水のベールがバオッキーを包み込んだ。
「水の波導。連打、連打、連打、連打、連打!」
波導を帯びた水とそれを伴った引っ掻き攻撃がバオッキーを幾重にも引き裂き、遂に炎の皮膜を引き剥がした。
その時、勝負はついていた。
片手を上げた状態のまま、硬直するゲコガシラと、ゼロ距離のバオッキーが両者共にもつれるように倒れ伏す。
立ったほうの勝ちだ。
観客含め、全員が固唾を呑んでいた。
すると、ゲコガシラの体表から水が浮かび上がり、その身体を持ち上げる。
魔術のように、ゲコガシラの身体には何一つ傷がなかった。
先ほどまでの猛攻を制したのは、チェレンのゲコガシラであったのだ。
「勝者、チャレンジャー!」
審判の言葉にチェレンがゲコガシラをボールに戻す。
「よくやった。初陣を飾れたな」
「すごい! すごいよ、チェレン君! いつの間にそんなに強くなってたの?」
ベルの質問にチェレンは素っ気なく答える。
「別に。普通にしていたらこれくらいにはなるだろ。それより、ベル。中堅の君がやられちゃ世話はないよ。自分で選んだんだからね、水タイプの使い手とやるって」
その言葉にベルがおっかなびっくりに頷いた。
ポッドがチェレンを呼び止めようとする。
「待て、チャレンジャー! まだバッジを渡してない」
「全員終わってからでいい。どうせ、僕の勝ちは勝ちだ」
その言葉にポッドはぐうの音も出ないようであった。バオッキーの右手を確かめる。
「……言う通り、右手の負傷は地面タイプのものだ。全て、計算ずくで?」
「ポケモンバトルは常に変動する。でも、その確率を、限りなく確定に上げる要素はあるんだ。それを僕は試しただけ。それとも、ジムリーダーには出来ない所業だったか?」
挑発の声にもポッドは清々しく笑うだけである。
「へっ……やるな、チャレンジャー。いいぜ。勝ちは勝ちだ」
ポッドがバオッキーを戻し、フィールドから引き下がる。
次の対戦者はベルであった。緊張しているのか、カバンの紐を強く握り締めている。
相手のジムリーダーは悠然とした佇まいで、ベルの挑戦を受け取っていた。深く会釈し、声を投げる。
「どうぞ、よろしくお願いします」
「こっ、こちらこそ! よろしくお願いします!」
「お見合いじゃないんだぞ」
チェレンの声にベルはかあっと赤くなる。
「ち、チェレン君! あたし、一応は本気なんだから! 茶化さないでっ!」
「はいはい。まぁ、半分削れれば上々だろうね」
既に勝ったチェレンには余裕がある。ノアはそれとなくアデクに尋ねていた。
「先ほどの戦い、最初から見えていましたか?」
「チェレンの坊主がやるのは、一応は、な。だが、なかなか一朝一夕では身につかん戦法よ。あれを生み出した覚悟だけは買おう、と言った感じかな」
覚悟だけは。煮え切らない言葉であった。
「では戦術としては下策だと?」
「ポケモンに無理をさせとる。今は説教する気分でもないが、これがジム戦ではなく野良戦ならば、一時間ほどは叱っておるな」
つまり、邪道の戦い方。それをチェレンはトレーナーとして旅立ってすぐに身につけた。
ノアとて分かる。邪道の戦いは王道の戦いよりもなお濃い闇があるのだと。
その闇の中を這い進むような覚悟がなくてはならない。チェレンは恐らく、勝てる道を選んできた。
それは、最短ルートである。
だが同時に蛇の道は蛇とも言う。最短を選んだからと言ってそれが最善とは限らないのだ。
「……ボクには、今の戦い、かなり賭けるものの多い戦いであった気がします」
「ワシもじゃよ。彼奴はまだ分かっておらんが、あれを続ければいずれ自滅する。それとなく、アドバイスしてやるのが吉じゃろうが、今は戦闘後の昂揚に酔っておる。何を言っても無駄じゃろうて」
アデクも一線を心得ているのだ。今のチェレンに道を説くのは不可能。
だが、その道がいずれ破滅だと、アデク本人が語っている。
教えるのも、教わるのも、自分自身で気づくのが一番だろうが、果たして可能であろうか。