第55楽章「水月鏡花」
きっかけ作りを与えてくれたのは何だったのだろうか。
益のない思考だと思いつつも、ノアはジムの前に立ってそう考えずにはいられない。
様々なトレーナーがおり、そのトレーナー達が競い合うために作り上げられたシステム。ジムリーダー制度を肌で感じ取った世代であるアデクに、ノアは問うていた。
「四十年前も、こんな感じだったんですか?」
「いんや、四十年前はもっと手探りじゃったからのう……。それっぽいジムもここまでしっかりとしてはおらんかったぞ」
眼前にそびえるのは、カフェの外観を設えたジムであった。
三番目の町、サンヨウシティ。訪れたチェレンとベルは早々にポケモンセンターに赴いて回復を行っている。
それぞれジムに挑戦する、という志を抱いて。
ノアとアデクはまだポケモンの能力に余裕があるため、先んじて町を見て回っていたのだ。
バンジロウも同伴しているが、彼はあまり面白そうではない。
「無縁だと思うぜ。だってよ、今さらジムバッジなんて要るかよ」
バンジロウほどの強さになればジムバッジによる強さの保証は必要ない、という事なのだろう。だが、ノアにとってそれは失った強さの再証明であった。
――前の時間軸での強さは消え去ってしまった。ならばここで発揮し直すしかない。
ジムへの挑戦はした事がない。だからか、トレーナー申請が必要なのかどうかも判然としなかったが、サンヨウジムの門扉には「トレーナーならばプロ、アマ、問わず」と書かれている。
最初のジムらしい、フレンドリィな空気が滲み出ていた。
実際、トレーナーらしくない家族連れやアベックがジムへと入っていく。
「イッシュのジムリーダーは副業をやっておるものが多い。ここではカフェ、じゃな」
それを聞き取りつつ、ノアはケルディオの状態を窺った。
ケルディオに大した外傷はない。不安要素があるとすれば、それは「せいなるつるぎ」発動のタイミングだけ。
「……結局、あの後どれだけやっても、聖なる剣はマスター出来ませんでしたね」
バンジロウとのスパーリングとアデクの教えがあっても、ケルディオから技を引き出すのは難しかった。
そもそもどうやってあの技を放っているのかのメカニズムがまるで分かっていないのだ。これでは参照すら出来ない。
「まぁ、焦る事ではあるまい。聖なる剣が使えずとも、お主とケルディオは充分に強いわい」
「そう、ですかね」
「ああ、ビビんなって、兄ちゃん。オレ達と渡り合えてるんだ。それが強くないわけないだろ?」
そう言われてみればその通りであったが、やはりジム戦の前となると緊張はする。
「やっぱり、一度くらいはポケモンセンターで申請を下ろしてもらったほうが……」
「弱気になってんなって!」
バンジロウがノアの背中を強く叩いた。思わずむせてしまう。
「勝ちに来てんだろ? だったら、何も遠慮する事はねぇ。存分に戦えばいいだけじゃんか」
勝ちに来ている。その言葉にノアは思い返した。
そうだ。この時間軸を矯正するためには、己が強くなくてはならない。少なくとも、以前の自分より強くなくては話にならないのだ。
トウヤがいないと分かった今、一つでも場数を稼ぐ事が自分を鼓舞する手段である。
「でも、ケルディオしか、ボクには手持ちがいない……。連戦になる可能性がありますよね……」
「不安か? じゃが四十年前は皆がたった一体のパートナーを信頼して戦ってきたんじゃぞ?」
その話に身震いする。四十年前のポケモンリーグが超ど級の猛者達の集まりであった、というのはやはり間違いではないらしい。
「オレもメラルバしかいねーし。変わらないだろ」
ケルディオでやるしかない。せめて、相手のタイプ相性さえ分かればもっと戦いやすいのだが、そのためにはジムに踏み入らなくては。
その時、おうい、と呼ぶ声が聞こえた。
ベルが手を振ってこちらに駆けてくる。
「ようやく回復出来た! 一緒にジム戦しましょうっ!」
息せき切ったベルに対して、後から悠々と歩いてきたチェレンは鼻を鳴らす。
「一人ずつでもいいと思うけれど」
「でもでもっ! あたしはみんなで行くと楽しいと思うからさ」
「楽しい、ね……。遊びに来てるんじゃないんだぞ」
チェレンが眼鏡のブリッジを上げる。よくよく目を凝らせば、チェレンの指先には無数の傷があった。
「チェレン……その怪我は……」
「今は、かけずらっている場合じゃないでしょう。他人の事より自分の事を心配したらどうなんです」
そう言われてしまえばにべもない。
ベルがカバンを握り締め、きつく目を瞑った。
「大丈夫……何とかなる……」
「祈ったって結果は戦いでしか判明しない。行くよ」
歩み出たチェレンがジムの扉を開ける。
瞬間、飛び込んできたのは威勢のいい挨拶であった。
「いらっしゃいませー!」
ジムの内観は二階建てのカフェである。コーヒーの芳醇な香りが漂っており、自然と神経が落ち着いた。
「いい香りじゃな」
無頓着なアデクさえも納得させるほどの昼下がりの光景である。
ウェイターを務めている三人の店員のうち一人が注文を取りに来た。
「何になさいましょう?」
「あ、えっとその……ここってジムですよね?」
「はい。ポケモンジムでございます。それが何か?」
「いや、その……あまりにも」
ただの喫茶店のようにしか見えない。その言葉を予見したのだろう。緑色の髪の青年は、ああと得心した笑みを浮かべた。
「普段は喫茶店として経営していますから。ですが、お客様のご要望に答えて、我々はサービスを提供しております。喫茶をお望みならば、最上級のコーヒーとケーキを」
「御託はいい。ジムバトルを始めさせてくれ」
チェレンの高圧的な態度に青年はフッと笑みを浮かべる。
「どうやら随分とお急ぎのご様子。では、最上級のポケモンバトルのもてなしを行いましょう。レッツ! ショータイム!」
指を鳴らした途端、軽快な音楽が鳴り始めた。三人の青年がそれぞれステップを踏みながら優雅に歩み出る。
「ポケモンバトルはタイプ相性が命!」
「それを理解しなければ、ここから先、戦い続ける事も難しいだろう」
「だからわたし達が教えるのです。まずはタイプ相性、それを」
三人がポーズを取ると客の黄色い歓声が飛んだ。ノア達は付いて行けずに硬直している。
「あの、その……」
「無論、ポケモンバトル、承っております。ですが、このジムは少しばかり特殊でしてね。ジムリーダーは一人ではないのです」
三人のうち、赤い髪の青年がスポットライトを浴びる。
「おれは炎使いのポッド! 勝ちに行くぜ!」
青い髪を流した青年が次にスポットライトを浴びて会釈した。
「わたしは水使いのコーン。常に冷静に行かせてもらっています」
緑色の髪をした青年が最後にステップを踏み、指を鳴らした。
「そして、ぼくが草タイプ使いのデント! ミステリアスに決めるよ!」
観客の応援の声が響く中、チェレンが舌打ちをする。
「……まったく、メンドーだな。こういう奴らだなんて」
「こういう奴ら? でも正真正銘のジムリーダーだ。さて、誰が誰の相手をする? 挑戦者が一人の場合、そのトレーナーが選んだ最初の一体目に合わせてこちらが選ぶんだが、とてもマッチしている事に、君達もぼくらも三人。ならば一人に一人ずつ、アタックしていくよ」
ベルがしどろもどろになる中、チェレンはホルスターからボールを解き放った。
「馬鹿馬鹿しいな。相手の術中が割れているのなら、そのタイプに合わせるまでだろう? 僕はポッド、あんたを相手にする」
「あ、あたしは、えっとその……草に強いのが炎で、炎に強いのが水だから……あ、あなた! コーンさんに挑戦します!」
その判断にチェレンが呆れ果てる。
「おいおい、ベルの手持ちは火だろう? 水を相手にしてどうする?」
ハッとしたベルが取り消す前にコーンが深々と会釈する。
「ご注文、承りました。……なお、一度ご指名されれば取り消せないのでご了承を」
しまった、とベルが呆然とする中、ノアは最後に残った相手を見据えた。
「じゃあボクは、あなたという事になりますね。デントさん」
「そのようだね! まぁ、ぼく達と戦うのにはちょうどいいだろう。最初のジムリーダー! トリプルトライアングルのデントと!」
「コーンと」
「ポッド! 三人、全力でお相手させてもらうぜ!」
しかしどこで、とノアが首を巡らせていると、床がせり上がり、観客席がスライドしていく。
客達がそのまま二階層へと導かれ、客席がこちらを俯瞰する形となった。
どうやら最初から観客含めて、このジムは成り立っているようである。
一階層の床が無骨な灰色のバトルフィールドへと様変わりした。
「一人目はおれだ! そこのメガネ! 名を聞こうか!」
「眼鏡、ねぇ……。いいだろう。僕の名前はチェレン。よく聞け。王になる者の名前だ」
「自信だけはありまくる様子だな! でもよ、おれも負ける気はねぇぜ!」
ポッドがボールを投擲し、フィールドにその光が巻き起こる。
出現したのは火の粉を纏い付かせた二足歩行のポケモンであった。
前傾姿勢で両手を払う。赤い体毛はポッドと似通っていた。
その、どこか眠たげに垂れた眼差しがチェレンを見やる。
「バオッキー! おれのエースだ!」
バオッキーと呼ばれたポケモンが両腕に炎を纏いつかせる。
「うわ……強そうだなぁ」
ベルの漏らした感想に比して、チェレンはどこまでも冷静であった。
「それだけか?」
「……何だと?」
「そのポケモンだけかと、聞いている」
あまりに厚顔不遜に映ったのだろう。ポッドは手を払って応じる。
「ああ、こいつだけさ! でも侮るなよ、チャレンジャー。言うまでもない事だがこいつ、強いぜ」
その言葉にチェレンはボールを掲げる。
「侮ってなどいない。むしろ、こいつの性能を試すのに、充分かどうかだけを聞いただけだ。行くぞ、僕のポケモンは」
投擲したボールから光が迸り、チェレンのポケモンを出現させた。
空間に泡が浮かび上がる。
そのシャボン玉を縫って現れたのは、ケロマツではなかった。
首筋から泡のマフラーのようなものを生成し、ケロマツであった頃よりも発達した四肢を持っている。
その威容に、ノアは絶句していた。
「ケロマツじゃ、ない……」
「当たり前だ。進化したんだから。改めて言おう。――ゲコガシラ。勝ちに行くぞ」
その声音にゲコガシラと呼ばれたポケモンは強く鳴いて呼応した。
「……なるほど、水タイプか。いいだろう! おれの全力、見せてやるぜ!」
バオッキーとゲコガシラが睨み合う。
今この瞬間より、自分達の旅は始まったのだと、ノアは強く感じていた。
第四章 了