第54楽章「PANDEMIC」
暴風域が巻き起こり、チェレンの周囲の空気がささくれ立った。
ミキサーの中に放り込まれたように、チェレンには逃げ場がない。どこに行っても、四方八方が全て、刃の陣の中。
ジャローダ使いは確実に負傷していた。火傷の痕が生々しく残っている。だがそれ以上に相手を衝き動かすのはNへの忠義であろう。仁義に燃える男の魂が、限界点にあっても使命を全うしようとしているのだ。
その闘志に燃える瞳にチェレンは醒めた眼差しを送った。
「……なるほど。相討ちでも、僕を殺す事を決めるか。あるいはNにその手を汚させないという覚悟か。どちらにせよ、それで僕を落とせると、本気で思っているのか?」
「落とせない道理はあるまい」
新緑の暴風が四方を囲い込む。逃げ場はない。
だが、チェレンには見えていた。たった一つの逃げ場がある。それはジャローダ本体への攻撃であった。
しかし、この状況。
レシラムは標的を見失い、キリキザンもゾロアークの前に倒れ伏した。現時点での駒は存在せず、これでは敗北に流れるは必定。
――だからこそ、チェレンには愉悦がある。
勝てる、という感慨が。
「悪いが、名を教えてくれないか。Nと同じような気配のするお前の」
「……殺す相手に、名乗る義理はなし」
「そうか。僕とは考え方が違うね。僕は、殺すからこそ、名乗らなくては、と思っている。だって、最後の思考に焼きつかせるのが自分の名前だって言うのは、如何にも王らしいじゃないか」
「舌を噛むぞ。いや、それ以上に、全方位を覆っているリーフストームに対応策などあるまい。逃げ口上か」
「逃げ口上かどうかは、勝手に判断したまえ。直後に結果は出ている」
「違いない。リーフストーム! 収束! 相手を絡め取れ! その手足をもぎ、我らプラズマ団に対する挑発と反逆に深い後悔を!」
緑の暴風が一気にチェレンを狙い澄まそうとする。レシラムの射程を抜け、その攻撃の間に合わぬ速度でのトレーナー本体への攻撃。
「いい、かなりの熟練度だと、お見受けした。だからこそ、本気で行こう」
チェレンは眼鏡を外していた。そっと眼鏡ケースに仕舞い込み、収束する暴風域へと一つのボールを放っていた。
「レシラムでも、ましてや付け焼刃のキリキザンでもない。僕の、本当のエースは、後にも先にもお前くらいだ。行け」
「行かせると思っているのか! 出現前にボールを叩き割る。これで開閉ボタンを潰せば、ポケモンは繰り出せない!」
烈風の一部がモンスターボールへと襲いかかる。その様子をチェレンはせせら笑った。
「おかしな対抗策をする。モンスターボールの機能の、真価を全く理解していないのか。毒性のあるポケモンや、何十トンもあるポケモン、触れるだけで大ダメージとなるポケモンをも収納出来るその性能に対して、ポケモンの技による攻勢など。文明の利器に対するあるまじき理解だ。その攻撃は失敗する」
その宣告通り、緑の烈風がモンスターボールを捉えたが割るには至らない。それより先にモンスターボールから光が迸り、ポケモンを繰り出させた。
まず発生したのは蒸気だ。視界を満たした蒸気を吸い上げて腕を組んだポケモンが躍り上がる。
出現した異様な存在に全員が唾を飲み下した。
鬼のような姿形を持つポケモンである。茶色の体色に、身体に宿っているのはその正体さえも分からぬ射線であった。
「この、ポケモンは……」
「トルネロス。少しばかり珍しいか。だが、れっきとした、ポケモンだ。やれ、トルネロス」
「見た事のないポケモンだからと言って……!」
緑の刃が突き刺さりかける。その攻撃網に、トルネロスは手を掲げた。
それだけで全てが霧散する。
不意を衝いたはずの相手が困惑した。「リーフストーム」の欠片さえも失われたフィールドで驚愕に見開かれた眼差しへと、チェレンは語りかける。
「見た事のないポケモンだからと言って、何だったかな? それ以上を口に出す権利が、お前にあるとは思えないけれど」
すっと、トルネロスが指先を向ける。
その一動作であった。
直後、襲撃者の肩口に風穴が開いていた。
攻撃された事も理解出来ないのだろう。膝を折る前に、その脛へと追撃を見舞う。
「どう、して……」
「攻撃された事も分からないだろう。それさえも理解の外である事が、このポケモンの真骨頂だ。さて、理解の及ばぬ相手と戦うのはいささか疲れる。眼鏡を外させた事だけは、敬意に値するよ。よくやった、とね。でも、僕に勝てるわけがない。この時間軸ならば英雄になれる保証があるのだから」
もう一撃を叩き込もうとして、割って入った影があった。ゾロアークである。
その手から黒い瘴気が棚引き、瞬間的に膨れ上がった。
「ゾロアーク、ナイトバースト!」
闇の散弾がトルネロスの攻撃を引きつける。ゾロアークを操るNはまだ冷静さを欠いていなかった。
すぐさま襲撃者をゾロアークに回収させ、自身はレシラムの攻撃射程外に逃げおおせている。
バーベナも無論、一緒だ。
「当初の目的は果たした、という事か。なるほど、僕が女神を得た事を、お前は面白くないはずだからね」
「キミは……何でこんな事をする?」
「何で? それこそ愚問だな。お前こそ、これだけやっておいて何故、一個も報復が来ないのだと、思い込んでいる?」
Nは歯噛みしたようであった。全くの心当たりのないわけでもあるまい。
「……だが今は、プラズマ団のためだ」
「全体に責任を求めるのか? それは破滅への道だぞ?」
「それでもボクは……、ボクが正しいと思う道を歩みたい」
「たとえ英雄のポケモンがこちらにあっても、か。だが、N、英雄は一人っきりだから英雄なんだ。それを二つや三つに分かれさせてもらっては困る。英雄になるべくして生まれた男よ。英雄の因子は依然、僕にある。それを理解しながら、退く事だ。どうせ、勝てはしないだろう?」
こちらの挑発にもNは乗らない。恐らく力量差くらいは分かっている。
「……いつか、キミを倒す」
「そう吼えていられるのもいつまでかな。レシラムを得ていない、という事がどれだけプラズマ団にとっての影響なのかも知らず、お前は失い行くだろう。その果てに待つものは――」
ゾロアークが駆け抜け、チェレンの胴体を割ろうと爪を奔らせた。
Nの命令外の事だろう。ポケモンが自律的に対象が危険だと判断し、排除に回ろうとしたのだ。
その攻撃をトルネロスが受け止める。
血の陣がゾロアークの爪に宿っていた。直後、拡散した陣形の赤がトルネロスとチェレンの視界を覆いつくす。
灯ったのは灼熱であった。
一つの光を嚆矢として炎の円環がトルネロスを焼き尽くさんと迸る。
「……ポケモンのほうが賢いようだ。ここで僕を殺したほうが利にかなっている事を理解している。だが、もう無理だ」
満身創痍のキリキザンが跳躍した。その手刀がゾロアークを引き剥がす。
チェレンにとってしてみればその一瞬だけでもよかった。
トルネロスの展開する雲に飛び移り、レシラムをボールに戻す。
下方からこちらを仰ぐのは、かつて英雄として己の前に立ったN。その眼光に鋭いものが宿っていた。
「ボクは、止める。キミのような人間を」
「止める、か。まるで正反対だな。あの時とは。いいだろう、やってみるといい、N。いいや――、ナチュラル・ハルモニア・グロピウス」
紡がれた名前にNが戦慄した。バーベナも同じである。
「どうして、ボクの本当の名を……」
「なに、お前自身が、何も特別な事ではない、証明だと受け取るといい。この時間軸では特に、ね」
飛翔したトルネロスの高度にゾロアークは付いて来られないようであった。キリキザンだけを残し、チェレンはその場を離脱する。
しばらくして、キリキザンの入っていたボールが明滅し、やがて光が失せた。
「ありがとう、キリキザン。一時の主従関係だったとはいえ、よく働いてくれた」
チェレンは眼鏡をかけ直し、ブリッジを上げて黎明の空を見据える。
「さて、この時間軸で巻き起こる事が僕のいたあの時間とは決定的に違う事、見せてくれよ。そうじゃないと、……ただ単にメンドーなだけなんだから」
ヴァルキュリアスリーの負った外傷は思っていたよりも深くはない。
だが、至急治療が必要なものであるのは明白であった。
「シェイミ! 傷を癒して!」
バーベナのシェイミが作り上げた植物の回復フィールドでヴァルキュリアスリーの怪我の進行が抑えられる。
傍らに立つバーベナを見やり、Nは成し遂げたのだ、という感触にふけった。
「バーベナ。酷い事をされなかったかい?」
「N様、私は特に……。それよりもヘレナは? 彼女はどうしているのです?」
この二人はまるで合わせ鏡だな、とNは感じる。どちらかの不在がどちらかにとっての深刻な問題なのだ。
「ヘレナには何ともない。彼女は無事だった。問題なのは、バーベナ、キミのほうだ。攫われたって聞いたから」
その言葉にバーベナは疑問符を浮かべる。
「えっと……でもN様、ずっと一緒だったじゃないですか」
思わぬ返答にまごついたのはNのほうである。
「ずっと一緒って……だって数日間、キミはプラズマ団の下を離れていた……」
「でもN様は、彼……チェレンに任せるまでは一緒でした。だから安心出来たんです。左目は? 治ったんですか?」
チェレン、左目……。分からぬ言葉ばかりが滑り落ちていく。
一体、何が起こったのか。
それを整理するために一度プラズマ団に帰還せねばならないだろう。
「……とにかく無事でよかった。キミの帰りを、ヘレナはずっと待っている。帰ったら……」
そこまで言って口ごもる。帰れば、彼女らを用意してプラズマ団は戴冠式を推し進めるであろう。
所詮、愛と平和の女神は道具。そのための儀礼的措置に過ぎない。
それが痛いほどに分かるからこそ、Nは躊躇ってしまった。ここで帰っていいのか。
「N様、彼をまずは帰還させるべきです。私達のために身体を張ってくれた戦士を」
ヴァルキュリアスリーのためにプラズマ団員を何人か寄越さなければならないだろう。
だが、Nはその後、悠々と戴冠式、という気分ではなかった。
何かがおかしい。何か、窺い知れないものが蠢いている。
自分が王となるこのイッシュで――。
Nはすくっと立ち上がっていた。
「バーベナ。ボクは帰れない」
その発言にバーベナは困惑した。
「でも、N様がいなければ、プラズマ団は……」
「分かっている。戴冠式もまだだ。正式に王になったわけでもない。でも、確かめなければならない事があまりに多いんだ。あのチェレンという青年。ボクの本当の名前を知っていた。ともすればこのイッシュで、何か別の意思が動いている気がしてならない」
それはライモンの地下鉄で出会った自分の似姿を追及する事にもなるだろう。
バーベナは女神としての体裁は崩さずに、Nへと進言した。
「ですが、プラズマ団に王は必要です。そのために、戴冠式くらいは」
「……今の、中途半端な気持ちじゃ、王様になっても同じだと思う。戴冠式の日取りを延ばすくらいは出来るだろう。問題なのは、何も知らぬまま、この地を治めていいわけがないという事なんだ」
あまりに無知な自分にNは歯がゆかった。どうして自分の与り知らぬところで、こうも事態が動く。
ヴァルキュリアスリー、ダークエコーズに関してもそうだ。彼らを生み出したのは今の自分への不信感に他ならない。
もっと、経験を積む必要があった。そうでなければこの先、呑まれかねない。
「一週間でいい。ボクに自由な時間をくれ。プラズマ団も一週間程度なら、ボクのわがままを許すだろう」
「それは……そうかもしれませんが一週間で何を?」
Nは首を横に振る。何も分からない。だが、何も分からないまま先を進むのは、もっと怖い。
最も恐れるべきなの無知なまま前へ、前へと行く事だ。それこそが愚行だと知らず、崖っぷちにまで追い詰められる事なのだ。
「分からない。分からないが、一週間でも出来る事はあるはずなんだ。シェイミ、……スカイフォルムの彼女ならキミは平気だね? ボクは、プラズマ団に送り届けた後、すぐに出立する。これは、キミとヘレナ以外には知らせないで欲しい。ボクが、チェレンなる人間と出会った事。その彼が、恐らくボクが手にするはずのポケモンを所有していた事も。この数奇な運命を、ボクは潜り抜けなければならないらしい」
それこそが己の宿命のような気がしていた。バーベナは面を伏せ、ただただ声を聞く。
「……ヴァルキュリアスリー、でしたか。彼のように、あなたを思っている人はたくさんいます」
「分かっている。だが、ボクはやらなければならない。ほんの、一週間でいい。ボクの王になる前の、最後のわがままだ」
同時に、一生で一度であろう。このような勝手が許されるのは。
バーベナは強く頷いた。
「……ご武運を」
Nは歩み出る。どこまでも続くかに思える曇天の切れ間から光が差し込んできた。
その光の向こうへ、自分は行かなくてはならない。
「ボクは、どうやら知らなければならない。この世界の事を」