FERMATA








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四章 凱歌の子供達
第53楽章「黙示録前戯」

 約束の時間を随分と過ぎている。

 そう考え出すとチェレンの思考はそれだけに染め上げられた。

 元々、時間にルーズな人間が苦手だ。だからこそ、交渉相手にも流儀を求める。

 それなりの律儀さも。

「……プラズマ団は彼女をさほど重要とも思っていないのか?」

 バーベナに視線をやると、小さな女神はシェイミと共に戯れていた。

 Nの代わりに貴女の護りを仰せつかった――。世間知らずの少女はそれだけで信じ込んだ。

 それ以上に妬ましいのは、Nという絶対者。

 英雄の存在であった。

「駄目だな。この時間軸でもN、Nか」

 この時間軸のイッシュならば仕方ないのかもしれない。そう納得する事も出来たが、何よりもチェレンのプライドが許さない。

「僕の手には英雄のポケモンがある。それを理解もせず、時間に大いに遅れた。その罰くらいは支払ってもらう」

 チェレンはバーベナへと歩み寄る。振り返ったその肩に触れてやり、強引に唇を奪った。

 一瞬だけ、見開かれる眼。それも関係なく、チェレンはバーベナを押し倒す。

 少女の白い肩。衣装の隙間から覗いた、白磁の胸元。

 この者は酷いとも言わないのだな、とチェレンは醒めた目で観察していた。

「引っ叩いてみろよ」

 その言葉にバーベナが手を彷徨わせる。

「僕の事を最低だって、言ってみろって言うんだ。プラズマ団の女神。そう言えるのならば、まだ上々だと言っている」

 チェレンの挑発に女神は乗らなかった。シェイミが新緑の毛を逆立たせて威圧している。

 それだけだ。こちらにはレシラムがある。恐れるものなど何もない。

 超越者の眼差しをシェイミに注ぐ。それだけで柏餅のようなポケモンは大人しくなった。

 戦闘用にも育て上げられていない、弱小ポケモン。

 それを守るのが女神の操とは笑わせてくれる。

 チェレンはバーベナの肩に手を沿わせた。その手が首筋に至った時、彼はざわめく気配を感知する。

「来たか」

 花畑の中に、不意に湧いたかのように、新緑の蛇ポケモンが佇んでいた。

 ジャローダ。イッシュの初心者用ポケモンの最終形態。チェレンはそれの使い手を見やり、次いで他の人員がいない事を確認した。

「Nは」

「N様は、お前のような人間に会うようなほど、愚かでも、ましてや時間のあるお方ではない。ここで仕留める」

 どうにも愚かしいのは、プラズマ団の私兵が自分を脅かす、と錯覚している事だ。

 チェレンは哄笑を上げた。その様子を、ジャローダの使い手が睨み据える。

「宣告する。本気、である」

 ジャローダが草の刃を繰り出した。なるほど、それを本気と見るのならば、本気で合っているであろう。

「しかし、何よりも愚かしく見えるのは、Nがこの場にいない事だ。どうして、お前のような紛い物がここに来ている? Nは女神を奪い返す事さえも出来ない、腑抜け、というわけか」

 その言葉に襲撃者は殺気を剥き出しにする。

「今の言葉、取り消すがいい。そうすれば無様に死なずに済む」

「無様、ね。それがどっちの事を言うのか。……まったく、メンドーだな」

 手を払った途端、常闇に潜んでいたポケモンがジャローダと打ち合った。火花を散らし、ジャローダと鍔迫り合いを繰り広げる。

「このポケモンは……!」

「キリキザン。さほど育ててもないが、なかなかに従順でね。お気に入りだ。平時のポケモン編成ではないから、まぁ不安要素は残るけれどね」

 キリキザンの連続攻撃にジャローダが押され気味になる。否、その均衡は一秒で破れた。

 キリキザンが懐に入り、繰り出したのは「つじぎり」である。紫色の無慈悲な太刀筋がジャローダのおっとり刀の反撃を見事にいなす。

「悪タイプってのはなかなかに闘争本能が高くっていい。僕が命じたよりも数段階上の事をやってくれる」

 キリキザンの手刀がジャローダの肉体に潜り込んだ。その切っ先でジャローダの身体を引き裂こうとする。

「その首、もらった!」

「――そうか。そう見えているか」

 直後、ジャローダの姿が霧散する。先ほどまでジャローダの首のあった空間から黒いポケモンが出現した。

 その疾駆の爪がキリキザンと打ち合い、瞬間的に膨れ上がった熱線がその腕を焼き払った。もつれ合いになったキリキザンがその場に膝を折る。

「何だ……ジャローダじゃ、ない……?」

「ジャローダはこちらだ」

 振り向いた先にいたのは全く同じ格好をしたトレーナーであった。襲撃者が二人、と判じかねた思考へと差し込むように、漆黒のポケモンが跳ね上がる。

「ゾロアーク、火炎放射」

 赤い文様が照り輝き、キリキザンの頭部へと叩き込まれた。爪による一閃で鋼の属性を持つキリキザンに致命傷が与えられる。

 よろめいたキリキザンへと命令を重ねようとして、板挟みになっている自分に気づく。

 後ろには制したはずのジャローダが。前方にはジャローダであったはずの別のポケモンがいる。

 そして、両者言える事は、同じ人間が二人いるという事だ。

「どういう事だ……。この感覚」

「ゾロアーク、幻影を解け。ヴァルキュリアスリー、キミの物まねをするのには、いささか、ボクは感情的であったようだ」

 景色の中に溶けていくのは前方のトレーナーの衣装であった。黒衣が空間に流れ、その真の姿が露になる。

 チェレンは目を瞠っていた。バーベナも同様である。

「まさか……N様……?」

「待たせたね、バーベナ」

 その段になってチェレンは理解した。先んじて戦っていたのはNのほうだ。注意をひきつけておいた間に、襲撃者の本丸がバーベナを押さえる。

 Nが出てこない、と見てこちらが罠にはまると思ったのだろう。実際、その目論見にはまってしまったわけだ。

「……やられたね。僕とした事が。冷静さを欠くとこうなる」

 しかし、この事実はチェレンに平時の怜悧さを復活させる原因になった。相手がNならば、申し分ない。

 キリキザンでは戦闘続行は不可能だろう。

「キリキザン、もういい。勝てない戦は、するもんじゃない」

 ゾロアークと呼ばれた黒いポケモンには先がある。それを見ずしてここで退くものか、とチェレンは心に決めていたが、Nは攻撃の手を緩めるつもりはないらしい。

 すかさず飛んできたゾロアークの爪の一撃をキリキザンが受け止める。

 従順さが仇になったか、とチェレンは舌打ちした。あまりに自分のトレーナー能力が高いせいでキリキザンが即座に裏切る、という真似に出ない。

 加えて後方からのプレッシャーの波。

 ジャローダの実力は恐らく折り紙つき。それを後方に従えさせて、自分は一対一の攻勢に出る。

「……なるほど、お前らしいやり方だ。プラズマ団の王」

「どこまで知っていて、いや、どこまでのつもりでこういう事をしたのかは分からないが一つだけ言っておく。……トモダチを害した奴を、ボクは許さないよ」

「害した、か。それほどまでに、憎いか? バーベナのはじめてが、僕であった事に」

 ゾロアークが爪を立ててキリキザンを押し出す。あまりに限界が近い。キリキザンを退かせようにも、その闘争本能が逆効果だ。

「これでは、退くに退けない、かな」

「聞かせてもらえれば、一度くらいは矛を収めよう。何のつもりで、ボクを挑発した?」

「挑発、か。プラズマ団の王ならば、それなりに思い当たる節があるんじゃないかな?」

 売り言葉に買い言葉の体でお互いのポケモンがぶつかり合う。熾烈を極める戦いの果てに、キリキザンの脚部に亀裂が走った。

 あまりに、ゾロアークの速度が圧倒的なのだ。さらに言えば、その爪からは常に熱線が放射されている。

 鋼の属性を持つキリキザンには辛い相手であった。

「そろそろ、かな。キリキザンは限界だ」

「話す気になったのならば、一度くらいは退く」

「……癪だな。僕から交渉を持ちかけたのに、退くって言うのは」

 キリキザンがゾロアークへと飛び込んだ。その腹腔へとゾロアークの問答無用の爪が叩き込まれる。

 接触点から灼熱が宿り、キリキザンを戦闘不能に陥れた。

「これでもまだ?」

 駒が潰されては話にならない、か。チェレンは肩を竦める。

「……バーベナを使ってお前と話がしたかったのは、本当だよ。交渉、と言っても僕はプラズマ団に対価を求めているわけじゃないからね。どうせ、この時代のプラズマ団なんて放っておいても自壊する。それを静観するスタンスでもいいんだが、この時間軸に呼ばれた以上、意味があるのだと理解した」

 その言葉にNが眉根を寄せる。

「どういう意味だ……」

「言葉通りなんだけれど、理解は出来まい、王とは言ってもね。この時間軸は既に歪み、亀裂が入っている。もう元には戻れないだろう。だからこそ、言っておく。時間が正常な時を刻んでいる間に、取り戻せるものは取り戻すべきだ。僕は前の時間では英雄にも、ましてや王にもなれなかったが、この時間ならば分からない。それこそ、まだ何も確定していないだろうさ」

「……何を、言っている」

 Nの言葉に震えが宿った。理解出来ない事、それそのものが恐怖だとでも言うように。

 事実、今まで他人の思考のさらに上を常に行っていたNからしてみれば、理解の範疇の外は恐怖であろう。

「分からないだろうさ。だが、騙し合いというのはこうしている間にも始まる」

 ホルスターに留めておいたボールを切り離し、チェレンは足で踏みつけた。緊急射出ボタンが押された事に気づいた襲撃者がジャローダを奔らせる。

「N様! その男――」

「遅い。行け、英雄のポケモンよ」

 出現したのは蜃気楼さえも漂わせる灼熱の使い手。白銀の翼が揺らめき、その全体像をぼかす。

 炎熱の彼方に追いやられた射程でジャローダの新緑の刃が燃え盛った。

 すぐさま切り離したジャローダの使い手はまだ利口なほうだろう。Nは、目の前で展開された事象について来れさえしないようだった。

「それは……それは、レシラムか」

「知っているのか。いや、それも当然か。名前くらいは聞き及んでいるだろう。何せ、お前がいずれ手にするポケモンだからだ」

 そのポケモンを何故、チェレンが持っているのかを理解出来ないはずだ。慄くNにゾロアークが前に出て威嚇する。

「ポケモンのほうが随分と利口に映る。敵対心も抱けないとなると本当に、英雄なのかと疑いさえする」

 Nは呆然とレシラムを見つめるしか出来ないようだ。

 当たり前と言えばそうか。この時間軸のNはまだ、英雄に相応しくない。

「そうだとも……、この時間軸なら、僕が王になれる。見るがいい、N。これが、王の力の片鱗だ。蒼い――」

 レシラムの全身から立ち昇った青白い瘴気にゾロアークが瞬時に対応した。

 自らの血を触媒にして赤い陣形を作り上げる。円環を描いたその陣形が回転し、レシラムの攻撃を防ぎきるであろう防御陣を作り上げた。

 ――だがそれさえも、脆い。

「N様!」

 バーベナの叫びが迸る。

 その声音でようやく、Nは我に帰ったようであった。

 しかし、展開されるのは地獄の呼び声。交わす炎は蒼く、深く、空間を捩じ切っていく。

 捩じ切れた空間が光の屈折角を超え、大気中の微粒子が干渉波を受けてスパークした。

 その時には既に勝負は決している。

「焔!」

 途端、空間を落とし込んだのは減殺される事のない、純粋なる光であった。

 拡散光が照り注ぎ、地表を焼き尽くしていく。

 レシラムの専用技「あおいほのお」は射程内の全てを塵芥のレベルにまで還元し、炎熱で焼却する。

 それが分かっているチェレンの対応と、Nの対応は雲泥の差。

 拡散する光の渦に呑まれて、Nとゾロアークの姿が完全に消失した。少なくともチェレンにはそう映った。

 口角を吊り上げる。

 勝ったのだ。

 英雄に勝利した。

「やったぞ……これで、この時間軸は彼でもない、ましてや、Nでもない、もう一人の英雄が生まれた。王は僕だ!」

 哄笑を上げるチェレンに炎を纏い付かせたレシラムが飛翔する。

 仕留め損なった事はあるまいが、念には念を入れておかねばならない。

「生きている事はないだろうが、生きていられるとメンドーだからね。ここで確実に死んでもらおう!」

 チェレンの覗き込んだのはこの地表に唐突に空いた穴であった。おおよそ二十メートルはあるであろう陥没した地面。それはレシラムの放った「あおいほのお」が確実に着弾した事を示していた。

 Nを狙い澄ました。確実に、Nは骨の髄まで焼かれたはずだ。

 ゾロアークもそうである。

 付け焼刃の防御陣など役立つはずがない。

 窺ったチェレンの視界に入ったのはもうもうと黒煙を上げる地の底。生きているはずがない。

 勝利の感慨に打ち震えようとしたその時、チェレンはハッと気づいた。

 ジャローダ使いがいない。

 それだけならばさほど気にも留めなかったであろう。

 だが、同時にバーベナもいなくなっていた。

 今の戦いの最中、逃げ出す隙があったか。

 思い返したチェレンが眼鏡のブリッジを上げようとした途端、背後から差し込んできた一閃があった。

 レシラムが熱の防御膜で弾き返す。

 遅れてチェレンが振り返ったその視界には、あり得ない存在が大写しになっていた。

「それは……シェイミ、か……?」

 そう尋ねたのはシェイミの姿形があまりに違っていたからである。

 地を這う事くらいしか出来ないと思い込んでいた愛玩ポケモンが翼を得て飛翔し、主であるバーベナと、満身創痍でありながらも眼光に鋭いものを宿すNを連れていた。

 そのシェイミが二体いる。

 どうして、と考える前に先ほど巻き起こった事象をすぐさま思い出した。

「幻影……! 片方はゾロアークか!」

 しかし解せない事はまだある。ジャローダ使いはどこへ行ったのだ?

 バーベナが瞬時にシェイミをフォルムチェンジさせてNを庇った。Nはゾロアークの能力を使い、シェイミを模倣した。

 ここまでは分かる。理解出来る。

 だが足りないピースがある。

 ジャローダ使いの存在。どこへ、と首を巡らせたチェレンへと再び叩き込まれたのは新緑の刃であった。

 レシラムが自分の関知領域外を防御してくれているが、先ほどからチクチクとこちらを攻めてくるのは間違いなくジャローダ使いだ。

 だが、どうして、とチェレンは考えを巡らせる。

「灼熱の穴に落としたはずのNが生きている……これは、まだ百歩譲って理解出来よう。だがジャローダ使いがレシラムの炎熱領域で生きているはずがない。どう足掻いたところで、射程内に入れば問答無用で焼かれるはずなのに」

「それが、慢心だとすれば?」

 Nの声音にチェレンは目を見開いた。慢心。自分の考えとは常に正反対の場所にある言葉であった。

 レシラムの制御領域に間違いはない。加えて「あおいほのお」は正常に作動した。

 それらの事象を加味してまだ生きているとすれば、その存在の行方は……。

 ここでチェレンを助けたのは過去の戦闘における経験則であった。

「レシラム! 地面だ! 地中にいるぞ!」

「――正解だ」

 地面からドリルのように螺旋を描いて這い出てきたジャローダとその使い手にチェレンは舌打ちする。

 手を払って炎熱攻撃――間に合わない。

 では熱の防御膜で一時撤退――駄目だ、近過ぎる。

 ジャローダとその使い手はチェレンへとほぼゼロ距離の至近へと迫っていた。

 ここまで至れば、最早圏内。

 どちらの攻撃も命中する。

 レシラムが対応策を練る前にジャローダの攻撃がどこかに命中するのは必定。そして、その攻撃の矛先がレシラムではなく、トレーナー本体なのは見るも明らか。

 新緑の刃が逆巻き、瞬時にチェレンを覆い尽くした。


オンドゥル大使 ( 2017/09/15(金) 22:06 )