FERMATA








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四章 凱歌の子供達
第52楽章「最愛なる魔王さま」

 だが、事ここに至れば、戦いは熾烈を極める。

 ゾロアークの爪に宿った赤い光が閃光を刻み込んだ。

 漆黒に滲んだ赤は血の赤に映る。

 その赤が爪から表皮へと至り、遂には全身に赤い文様を刻み込ませた。

 身体の内奥から響き渡るのは必殺の一撃への布石か。

 脈動が身体を突き破りそうであった。

 ヘレナには分かる。Nに近い能力を持っているからか、その示される力の強さが。

 ゾロアークがどれほどの研鑽の末にその技に辿り着いたのかも。

「……N様、やるっていうの?」

 ヴァルキュリアスリーが最後の警告を発した。

「N様。今ならば、間に合います。七賢人を説得するのなら、するといい。そうすれば、ここで晒さなくてもいいものを見せる事にはならない」

「残念ながら、そうもいかないらしい。納得が欲しいみたいだ。なら、見せるしかないじゃないか。――英雄と言うものを」

 その言葉にフッとヴァルキュリアスリーが笑みを浮かべたのが分かった。

「所詮は血に飢えた野獣と、気品高い王獣の違いに集約される、か。しかし、N様。この世において全てが上と下では分けられないように、実力もまた、いつ如何なる時も、同じだとは限らないのです。勝負とはそれほどに流動的」

「存じている。だからこそ、ボクも見せよう。本気を」

「な、何を抜かしている、ヴァルキュリアスリー! 今すぐに攻撃を中止させろ! もう負けても構わん! ジャローダのその技だけは……!」

「ここで使わずしていつ使うのです? チャンピオン戦ですか? しかし、プラズマ団の矢面に立とうとしているN様に、これ以上無様な戦いは見せられません。全力には全力で応える。それが、トレーナーと言うものではないのですか」

「貴様など……造り物の存在が……偉そうに」

 ヴィオの口から漏れた「造り物」という言葉にNがぴくりと眉を跳ねさせた。

「キミは……そうか、そういう事なのか」

「ええ、愚者の研究です。あなたにだけは、この姿を見せたくはなかったですが」

 ヴァルキュリアスリーが顔を覆っていたマスクを引き剥がす。

 その相貌に全員が絶句した。

「嘘……N、様……」

 ヴィオだけがこの場で歯噛みしている。

「この研究を、N様にだけは知られるわけにはいかなかったのに……!」

「ボクの写し身か。なるほど、反響音。反響する元の音は、ボクだったか」

「そう、ダークエコーズはあなたを基にして造られた禁忌の研究。Nという存在のクローン実験体」

 素顔を晒したヴァルキュリアスリーの声音にNは目を伏せた。

「……でも、それは悲しいね」

「あなたはこれを見ても、恐らくはそう言うのだと思っていた。だからこそ、ワタシも辛い。だが、ここで偽るのは、もっと。造り物の人生でも、もっと屈辱でしょう。だったら、なおさら本気でやってみたくなる」

「やめろ! ヴァルキュリアスリー。これ以上は……」

「醜態、と呼ぶとすればこの局面を言うのでしょう。ワタシはこれだけは知られてはならないと言われ続けてきた。影に徹してきたのですが、二人が消え、ワタシも己を保つのに、少しばかり疲れたらしい」

「でも勝敗はつける。白と黒を」

「ええ、ハッキリと」

 地面が脈打った。地表を何かの気配が滑っていく。その気配がNの直下へと至ったのが、空気の流れで窺えた。

「命、力、信念……全てを投げ打って。命をかけて、かかって来い」

「行きます。ジャローダ! ハードプラント!」

 その命令が下された瞬間、空間が振動した。その最中に亀裂が生じ、地の底から発したのは一本が丸太ほどの大きさのある蔓であった。その蔓が二本、三本と生き物のようにのたうち、地面を引き裂いて現れる。

 観覧席から戦局を覗いていた七賢人達が呆然としている。恐らく対面しているNからしてみれば、もっと脅威に映るだろう。

「草タイプ最強の技……、覚えていたのか」

 ヘレナにも知識があった。「ハードプラント」は限られたポケモンしか覚えない最強の草タイプの技。

 その威力は相手を呑み込み、地形を変えてもなお有り余るという。この場合、プラズマ団の施設の半壊、という形で収束するかの自信すらもない。

 Nというカリスマの抹殺さえも最悪、想定され得る。

 ヘレナは腰を浮かし、Nへと叫んでいた。

「逃げてください! N様!」

 しかし、この言葉は届かないであろうとも感じていた。

 Nは逃げない。

 いつだって、逃げた事だけはなかった。

 今回も自分のため、バーベナのため。他人のために全てを投げ打てる。

 それがNという王なのだ。

 イッシュ地方を背負って立つ、王の姿なのだ。

「それが本気のキミか。ならボクも迎え撃とう。ボクの身体から溢れ出すトモダチへのラヴ! その最高潮を!」

 Nが手を薙ぎ払う。

 オォン、と咆哮が聞こえた気がした。

 気がした、というのはその獣の声がどこから発せられたのか、結局のところ誰にも分からなかったからだ。

 赤い文様を全身に滾らせたゾロアークが爪で地面を引っ掻く。

 十字に引っ掻いたその文様を境にして、赤い血潮の皮膜が形成された。

「血塊の……陣地……」

 誰がそう呟いたのかさえも分からない。

 血の陣地を敷いたゾロアークへと数本の巨大な蔦が襲いかかる。

 その数を数える事さえも愚かしいほどの強大さ。津波のように一斉に、ゾロアークへとその新緑の牙がかかろうとする。

 ゾロアークの血の結界に触れた瞬間、蔦の先端が磨耗した。

 塵芥に還った蔦がそれでも押し通そうとする。ゾロアークへとNが命じた。

「まずは一本」

 呼応してゾロアークが爪を振るう。

 血の陣地が拡大し、ジャローダの蔦を押し返そうとする。

 だが、渾身の技である「ハードプラント」がその程度で返されるわけがない。

 何本かの蔦が一体化し、最早蔦とも呼べぬ巨大な暴力の奔流となってゾロアークを押し潰そうとする。

 血の陣地に亀裂が走った。

 赤い文様が激しく光を帯びる。

 鼓動の如く、その文様が明滅した。

 ――そうか、あれは命を吸って使用しているのだ。

 ヘレナの理解に血の陣地へと一本の蔦が侵入する。

 カッと目を見開いたゾロアークが跳躍し、蔦の一撃を回避した。しかしそれだけで地面に破壊の爪痕が刻み込まれる。

 たった一本でもそれは驚異的な威力であった。

 恐らくトレーナーが食らえば、その存在の証明さえも残るまい。肉片の一部となって消滅するのみ。

 しかしNは動じない。それどころか、ジャローダの発生させた蔦に向かって歩み出した。

 血の陣地がなければ消し炭になっていてもおかしくはない。

 それほどの一撃に臆した様子もなければ、恐怖しているようでもない。ましてや狂ったわけでは決してない。

 ――真に勝てると信じている。

 戦い、その末の勝利があるのだと信じている眼差しが蔦を睨み据えた。

「ゾロアーク。相手の本気を見た。ならばこちらも、本気で返すまでだ。その爪を払え。その牙を研ぎ澄ませ。鼓動を静かに保て。眼差しは正気を失うな。禁忌と神域の狭間で狂わず、怒らず、その真意をもって、示せ。その名は――!」

 血の陣に灼熱が宿った。

 その段になってヘレナは理解する。

 その技の名前を。

 どれほどにありふれた名であるのかを。どのようなトレーナーでも到達出来る境地でありながら、Nとゾロアークの示すそれは圧倒的な彼岸。

「火炎放射……」

 呆けたようにヘレナがこぼしたのを、七賢人が聞きとめた。

「馬鹿な! 火炎放射だと? あれが火炎放射であるものか! あのような布陣は必要ない。さらに言えば、火炎放射とはただ単に炎を発するだけの中級技。それがこのような……」

 そこから先の言葉を飲み下す。

 血の陣地が「ハードプラント」の蔦を焼き尽くし、触れた途端、炭化した。

 あり得ないほどの燃焼速度で蔦が焼き切れていく。まるで魔術を見ているかのようであった。

 逆回しの如く、蔦が次々と消え行く。この世にあった証明すら消し去られる最強の技の残滓に、ヘレナは儚ささえも感じたほどだ。

 血の陣地が拡大し、瞬く間に最強の草タイプの技を押し返す。

 それが「かえんほうしゃ」というありふれた技なのだと、誰もが信じられなかっただろう。

 瞬間的に膨れ上がった陣の勢いでジャローダが眩惑されたように傾いだ。

 赤き放射熱の向こう側に見たのだろう。

 ――英雄の姿を。

 それを目にしたからには、ポケモンは平伏せざる得ない。

 ジャローダからは完全に戦意が失せていた。それを使用するヴァルキュリアスリーも同様である。

 ひれ伏し、その身を傅かせていた。

「――見事」

 そう言う他ない、とでも言うように。

 事実、ジャローダにはこれ以上の抵抗は無意味であった。

 眼前で巻き起こった光景にヴィオは目を戦慄かせていた。

「ただの……ただの火炎放射に、あれほどの威力が宿るはずがない!」

 しかしこの場にいる全員が理解している。

 あれは「かえんほうしゃ」であった。だが、立場が違うのだ。

 王と凡百では辿り着ける領域がまるで違ったと言うだけ。

 王の模造品では、所詮は王の足元にも及ぶまい。それが証明された。

 他でもない、王の手によって。

「顔を上げるといい。キミのジャローダも見事だった」

「勿体なきお言葉」

 本来、ヴィオの差し向けた複製人間などここで首をはねられても何らおかしくはないのだ。

 だが、Nはそれも込みで許す、と言ってのけた。

「命は大事にしたほうがいい」

 振り向けた視線にヴィオが羞恥の念に赤面する。

 王は、その愚行を納得した上で、無罪放免とした。

 七賢人を追われても何らおかしくない立場の男は、王の寛大さに許されたのだ。他でもなく平伏すべきは、ヴィオであろうに。

 ヘレナは覚えずバトルコートへと歩み出ていた。

 あれほどの戦いの後。バトルコートには平時の穏やかさとは無縁の恐ろしい爪痕が残されている。

 ――これを、Nがやった。

 あの森の日々から全く変わってないように思えた青年は実のところ、最強のトレーナーとして立つために、もう準備は終わっていたのだ。

 後はお膳立てを整えるのみであった。

 プラズマ団の磐石な支配。それさえあれば、Nは王になれる。

 ヘレナがまず行ったのは、自らの衣装を引き千切り、ゾロアークの傷に当てた事であった。

 Nの長年の相棒である。それを無下には出来ない。伝わったのか、Nは微笑んだ。

「優しいね、ヘレナ」

 ああ、こんなにも、穏やかな声の持ち主が……。

 最強の技「ハードプラント」を破られたヴァルキュリアスリーはヴィオの下を訪れていた。

 最早、手は尽き果てた。

 それを発言するのに、どれほどの覚悟の要る事か。ヘレナが歩み出しかけてその肩をNが掴んだ。

 そっと、首を横に振る。

 もう自分達の及び得る領域ではないのだと。

 同時に、Nは七賢人に言ってのけた。

「これで、同意は得られただろうか。ボクの今の実力をもってして、それでもバーベナを救えないと?」

 誰一人として最早、N本人の実力は疑うまい。だが、それ以上に、ここで晒すべきではないものが晒された。

 七賢人、ヴィオの狼藉。

「……N様。どうかこの七賢人の面汚しへと、この場で処罰を」

「然り。N様の処罰ならば、皆が納得出来るでしょう」

 自分達のやり方ではいつまでもヴィオを野放しにするだけだ。ここでNに決めてもらうのが一番の方策だと学んだのだろう。

 Nは顎に手を添えて考え込む。その間中、ヴィオは凍えたように蒼白であった。

「そうだな……」

「お許しを……。これ以上、何も……」

 何も出来やしない。それは皆、分かっている。ダークエコーズという私兵の限界点を見せた。これだけでヴィオからは全てを奪ったも同義。

 だが、奪ったからと言って満足は出来ない。

 簒奪した相手を一方的に蹂躙せしめる事こそが七賢人の愉悦なのだ。

 何よりもヴィオを放逐すれば、これ以上に愚行を繰り広げるであろう事は明白。

 Nの判断が待たれた。

 しかし、王が発したのはたった一つの命令であった。

「ヴァルキュリアスリー。キミに命じる。ボクについてくれ。これからバーベナを助け出す。そのために、キミのような力の持ち主が必要だ」

 意想外の命に、誰もが目を見開いていた。何を言っているのだ、と当のヴァルキュリアスリーも困惑している。

「しかし、N様……」

「愚行を、では愚行として処罰する。しかしそれは、一つの芽を摘むのみの話。ボクはプラズマ団全体の話だと考えている。これが何も七賢人、ヴィオに始まった事ではないと」

 その監視の目が急速に自分達に向いたものだから、七賢人達は肩を縮こまらせた。

 王の目は誤魔化せない。ここでヴィオを罰する事、それそのものが自分達への言及を逃れるための方便だと、既に理解されているのだ。

 ヴァルキュリアスリーは困惑と呆然の末に、主であるヴィオへと乞う眼差しを注いだ。

 いいのか、と。

 ヴィオはここでは何も発言権はない。

 何を言ったとしても、この者はNを愚弄した大罪人。その末路からは逃れられないのだ。

「ヴィオ様……」

「行け。わたしの事はいい」

 ヴィオなりのケジメのつけ方か。彼の言葉は淡白であった。だがそれ以上に、これまで手綱を握っていたヴァルキュリアスリーを、許す、と判断したのだ。

 Nの側へとヴァルキュリアスリーは歩み寄る。

「本当に、いいのですか……」

「キミほどの力の持ち主ならば、バーベナを攫った人間とも交渉出来る。ボクだけじゃ不安だが、キミは戦いにも慣れている。頼りにしているよ」

 王からの言葉に、ヴァルキュリアスリーは驚愕と共に、ああと咽び泣いた。

 今までそれすらも許されてこなかったものの嗚咽がいつまでもバトルコートに残響していた。



オンドゥル大使 ( 2017/09/15(金) 22:04 )