第50楽章「跪いて足をお嘗め」
朝一番の風は涼しさをはらんでおり、僅かな湿気が雨脚を告げている。
夕方には降り出しそうだ。そう判じたチェレンはボールからケロマツを繰り出した。
「ケロマツ、動きの確認だ。攻撃姿勢」
ケロマツが姿勢を沈め、その水かきのついた手を地面につける。
その途端、生成されるのは水流であった。
「みずでっぽう」を口腔内に纏め上げる。一回に撃てるのはせいぜい二発。その一発一発の精度を上げる。
チェレンは見据えた木々を狙い澄ました。
「一発目であの枝を折って、二発目で枝をあの距離まで飛ばしてみせろ」
一朝一夕で身につくはずのない技量であったが、チェレンには分かっている。
これまでトウコに追いつくためにあらゆるポケモンの素養を見極める訓練を怠らなかった。
ケロマツの最適な攻撃スタイルを導き出し、それを高める。
自分に出来るのはポケモンに入れ込む事ではない。トウコとの実力が浮き彫りになっていくにつれて分かった事でもある。
トウコは手足のようにポケモンを扱う。
しかし同調に頼っている様子も、ましてやポケモン側に入れ込んでいる風でもない。
あれはそういうスタイルなのだ。
チェレンがまず試したのは、スタンスの模倣。
トウコに出来て自分に出来ないはずがない。
その分、チェレンは学んだ。ポケモン生物学、群生学、あるいは技の系統樹に至るまで。進化するポケモン、しないポケモンの見分け方。特別なポケモンの技の引き出し方――。
カノコでは誰よりも賢く、そして聡明であったつもりである。
――だが、いざ実戦に引き出されればこれほどまでに脆い。
ケロマツが水を一射する。
枝を正確に狙い澄ましたその一撃だったが枝葉は揺れただけで折れてくれない。
覚えず舌打ちする。
ポケモンのせいではない。
自分もまだ弱いのだ。
「まだ、か。まだトウコ……あの人には敵わないって言うのか……」
苦々しく発した声音にケロマツがこちらを慮ってくる。チェレンはあえて目を背けた。
ポケモンに過度に思い入れれば自滅する。
それは机上の空論を並べ立てただけでも明らかであったからだ。
思い入れがあるといざと言う時、戦力差などの分析でポケモンを切れない。
その審美眼を損なわないためには、一匹にこだわっている場合でもなかった。
チェレンが早朝の草むらに入ると、湿った草いきれが肺の中を満たした。
草むら特有の、蒸したようなにおい。ポケモンの気配が四方八方に広がっている。
早朝でもポケモンは出現する。ならば、とチェレンはケロマツを従えていた。
「僕は、あの人のようにはなれない。普通の道では。だったら、思い切り違う道か、あるいは邪道でさえも行く必要がある」
それがたとえ王に至る道とは違っていても強くなれるのならば、自分は甘んじて受けるであろう。
ポケモンが草むらから飛び出してくる。
レベルの低いヨーテリーであった。四足のポケモンが弱々しく鳴いた。
弱小とは言え、攻撃姿勢に入った野性ポケモンにチェレンは身を構えさせる。
「行くぞ、ケロマツ。お前の力の真髄、どこまで僕に見せてくれるのか……」
ケロマツが跳躍のために姿勢を沈めた途端、ヨーテリーが身体ごとケロマツへとぶつかってくる。
単純動作の「たいあたり」。だが、まだケロマツも弱い。それを受け止めるのが精一杯であった。
チェレンは手を払い、命令する。
「泡で距離を取らせ、その上で叩きのめす。二回までならば精度の高い攻撃が撃てるはずだ。まずは一発」
口腔から充填した水の連鎖がヨーテリーを撃ち抜いた。よろめくヨーテリーにケロマツは追い討ちをかける。
「まだだ。倒れるまでやれ」
さらに一発、放たれた追撃にヨーテリーは倒れた。
だが、まだだ。
まだ足りていない。
チェレンが取り出したのはガラスで出来た笛であった。ビードロと呼ばれている特殊な道具である。
それを吹かして、チェレンは周囲を見渡す。
すると、じりじりとこちらを包囲する気配が見え隠れした。
ヨーテリーの群れである。今のビードロには群れを呼び寄せる性能があったのだ。
「蹴散らせ、ケロマツ」
こちらの攻撃射程ギリギリを狙っているヨーテリーの群れへと牽制の一撃を放った。
すると殺気立ったヨーテリー数体が前に出てくる。
「まだ足りない。もっと来いよ」
チェレンの挑発が聞こえているのか、一体、また一体と周囲を取り囲んでいくヨーテリーの足並みには統率されたものを感じ取れた。
――まだいるな。
隠れている。このヨーテリー数体は前哨戦だ。
何かがヨーテリーの群れを率いている。その何かに顔を出してもらわなければ困る。
「ケロマツ、全体を相手取っても余裕があるようにしておけ。……本丸が来るぞ」
ヨーテリーが声を合わせて吠え立てる。チェレンは眉間に皴を寄せた。
「……お前らなんて呼んでない」
一射した「あわ」の一撃にたじろいだヨーテリーが戦闘領域を離脱していく。
そんな最中、逃げ出すのではなくこちらへと歩み寄ってくる影をチェレンは見据えていた。
一際大きくヨーテリーとは異なる姿形。
体格もがっしりしており、それなりの熟練度を積んでいるのが窺えた。
この地方のポケモンではない。
ヨーテリーを率いていたのは長大な前歯を持つポケモンであった。
身体の至るところに傷があり、まさしく歴戦の兵、と言った様子だ。
特に目元に至った大きな裂傷はチェレンの目を引いた。
肌色を基調とした皮で覆われているが、見て取れるのがその表皮の堅牢さ。
通常ならば柔らかいその体毛がたわしの如く固まっている。
一塊の野獣であった。
ヨーテリーを押し退け、そのポケモンが歩み出る。
ヨーテリーがほぼ全員、後ずさっていた。それほどの威圧が、目の前のポケモンからは放たれている。
チェレンは鼻の下を擦って言いやった。
「ラッタ、だな。カントー、ジョウトに多く見られるポケモンだ。イッシュではなかなか見かけないが、その見た目からして、野性じゃないな。元々は輸入されたポケモンであった。だが、主に捨てられ、全く気候の違うこの地で生き残るために、強くなった」
ラッタが全身の毛を逆立たせて前歯を突き出す。
まさしく――打ってつけのポケモンだった。
「ケロマツ。あれが本丸だ。ああいうのと、お前はこれから先、戦っていく。……怖いか?」
ポケモンに入れ込むべきではない。そう思っていてもつい出てしまう声であった。ケロマツが無言を是とする。
チェレンは眼鏡のブリッジを上げた。
「安心しろ。お前を僕が、勝たせてやる。最強のトレーナーの傍にいるのに、相応しいポケモンにする」
ケロマツが口腔内で水の連鎖を生成する。その速度、明らかに向上しているというのに、ラッタが取ったのは驚くべき戦法であった。
肉迫せずして叩きのめそうと言うのだろう。あえて、距離を取って尻尾を振ってくる。
「……嘗めるな。ケロマツ、泡!」
ケロマツの一射した水流をラッタは何か特別な事をしたわけでもない。
尻尾を振っているだけだ。ただそれだけなのに。
――その尻尾に弾かれた。
弱々しく、体毛に覆われていない尻尾だというのに、ケロマツの攻撃を弾き返したのだ。
その行動に瞠目した直後、ラッタが飛び跳ねる。
その跳躍力もまるで桁違い。
チェレンは大写しになったラッタの姿に肌が粟立ったのを感じた。
覚えず硬直する視界の中、ケロマツが前に出ていた。
指示を待たずしてトレーナーを守るべく直上の相手へとケロマツが手を掲げる。
地面を打ちのめした一撃で地表が畳のように返される。ケロマツの特別に覚えている技「たたみがえし」が発動し、ラッタの飛びつき様の前歯による攻撃を防いだ。
だが防げたのはほんの紙一重だ。
返した地面の隆起をラッタの前歯が齧りついていた。ブルドーザーのように前歯が振動し、地面をすくい取る。
その動きの豪胆さにチェレンは改めて凄味を感じ取った。
このラッタは大物だ。
これを倒せれば、ケロマツと自分は大きく躍進するだろう。
「……ケロマツ。臆したか?」
その程度で及び腰になるのならばここで切る、という声音にケロマツは果敢に吼えかけた。
チェレンは笑みを浮かべる。
「……そうでなくっちゃ、王のポケモンじゃない!」
ケロマツが踊り上がり、ラッタへと水かきで引っ掻く。
しかし固まった体毛はその一撃を貫通させない。何よりも付け焼刃の物理攻撃では、ラッタの体表さえも傷つけられなかった。
舌打ち混じりにチェレンは撤退させる。
「退け。あの前歯がまずい」
ケロマツも分かっている様子であった。「たたみがえし」は相手の攻撃を反射させる技。
だというのにあの前歯が少しでも臆する様子がなければ貫通していた。
つまり、それほどの威力を誇る物理型のポケモンだという事。
顎から汗が伝い落ちる。極度の緊張に晒された神経が昂りとは裏腹に内奥を冷えさせた。
そうか。脈動は熱を生じさせるものだと思い込んでいたが、存外に冷えるのだ。
今さらに湧いた感傷に浸る前に、ラッタが飛びかかってくる。チェレンは手を払い、ケロマツへと後退を示した。
だが、ラッタの追撃が明らかに素早い。
「退き様に泡攻撃!」
こちらの放った付け焼刃の泡による眩惑は通用しない。
泡の包囲網を突き破ったラッタが前歯を突き出す。
その身体とはまるで裏腹に、研ぎ澄まされた刃を思わせる輝きを誇っていた。
これは刀と同じだ。
切れ味は切った数だけ増していく。魔剣の類であろう前歯が肉迫する。
「ケロマツ、僅かに押せ! 泡を地面に!」
水でぬかるんだ地面へとケロマツが手を叩きのめす。すると生じたのは泥による一撃であった。
即席で考え出したのは「どろばくだん」を擬似発生させるというもの。
浴びせかけられた泥に足を取られ、ラッタがつんのめる。
その期を逃さず、ケロマツが下段より構えた。
「打ちのめせ! 叩く!」
斜に放たれた「はたく」攻撃がラッタの視力を一時的に奪う。これで優位に、と差し込みかけた考えにラッタが吼えた。
それだけでケロマツが硬直する。
竦み上がったのだ。
ポケモンとしての闘争本能が告げているに違いない。
――これは勝てない勝負だと。
だが、チェレンは退くつもりはなかった。
ここで退けば、自分達はまた一歩夢から遠ざかる。
あの日の背中からも、目を背けるだけになってしまう。
「……僕は違う」
チェレンの眼は死んでいなかった。
それどころかこの土壇場において、その輝きがラッタを睥睨する。
勝負師としての勘か、それともあらゆる状況を想定してきた頭脳のお陰か、チェレンはここで逃げる、という愚を冒さなかった。
「ケロマツは勝てる。僕の理論が証明している。勝てるポケモンであると。それは、あの人みたいな勘じゃない。チャンピオンみたいな経験でもない。ただ、僕の中で告げている。ここで臆する事はない。戦え、と」
いくらでも刃は研いできた。どれほどまでに戦いに身を焦がしてきたか分からない。
アララギ博士でさえも知らない努力があった。自分しか知らない境地があった。
それを今、証明してみせるのだ。
相手にするのが大型のラッタ程度で何とする。
これよりも強い相手が、これから先ゴロゴロいる。
これよりも恐ろしく刃の届かぬ相手が、世界にはまだまだいる。
刃は届く。切っ先はその喉元を掻っ切るためにある。
「やるぞ、ケロマツ」
その決意を汲み取ったのか、ケロマツが姿勢を沈めた。
遁走するにしては向かない動きである。
これは、「勝負」の格好だ。
決して退かないという証明でもある。
ラッタが吠え立ててその前歯を押し出す。
チェレンとケロマツの雄叫びが朝靄に溶けていった。
何かが迸った夢を見た。
血飛沫か、あるいはそれ以上の何か。
ベルは身を起こし、昨晩一人で設営したテントから身を起こしていた。
アデク達とはさほど離れていないものの、初めて一人で野営し、一人で眠った。
その経験に打ち震えつつも、ベルは冷え込んだ朝の風が表皮を冷やしていくのを感じていた。
「……寒いな」
上着を羽織り、ボールを入れた鞄を提げてベルは這い出ていた。
朝靄に煙る視界の中に身の丈ほどもある影が横たわっていた。
何なのだろう、と歩み寄る。
途端、肌が粟立った。
「これ……ポケモン……? 全部、そうだっていうの?」
視界に中に飛び込んだのは横たわるポケモンの影であった。一体や二体ではない。
群れが一斉に飛び込んでいったのが伝わった。
アララギ博士より聞いた事がある。
ポケモンは群れを作る個体も存在し、その個体のリーダーが危ぶまれた時、群れは一斉に標的に飛びかかる事もある、と。
「でも何だって……だってまだここはカラクサタウンにいく道中だよ……?」
それほど野性のポケモンは強くないはずだ。だというのに、嫌な予感が胸を締め付けていた。
何かがある。
やめておけと命じる理性に逆らって、ベルは群れの倒れている中心で膝を折っている人影を発見した。
「チェレン、君……」
チェレンが空を仰ぎ、その場に佇んでいた。
頬を鋭く切っており、血が滲んでいる。
ベルはさぁっと血の気が引いたのを感じた。
「ケガ……してるよ……」
尻すぼみになったのは、チェレンの纏う空気がどこか物々しかったからだ。
恐ろしく密度の高い戦闘の気配をはらんでおり、ベルはこの群れを全滅させたのがチェレンであると直感した。
「……ベル、か」
当のチェレンはベルに興味がないように向き直り、血と泥で汚れた顔を擦る。
「いいよ。こんなの、どうだっていい」
チェレンの眼前には黒々とした大型のポケモンが蹲っていた。
図鑑だけで見た事がある。カントーに棲息するポケモンの一種、ラッタだ。
そのラッタは数値よりも随分と巨大であったが、全身に裂傷を作っており、今にも死に体であるのが窺えた。
「大変……! 助けないと」
「やめておいたほうがいい。こいつは凶暴な個体だ」
手で制したチェレンに、しかしと目線を配る。
「死んじゃうよ……」
「構うもんか。所詮は野性個体、経験値稼ぎだ」
チェレンがその手にモンスターボールを手にしていた。ケロマツのものであると知れたが、そのボールの表面にも傷が刻み込まれている。
まるで戦争でも巻き起こったかのような様相を呈していた。
「何を……チェレン君、何をしたの?」
「別に。強くなるために必要な事を必要なだけ」
キィ、と短く悲鳴を漏らすミネズミの影にベルは慌てて駆け寄った。
「みんな、こんなにケガをして……。ポケモンセンターに」
「やめよう。ボールの無駄だし、野性ポケモンの回収なんてセンターだって請け負わない。野生には野性の生き方と死に方がある。そういうもんだって博士から習っただろ?」
「でも! こんなのってないよ! だってこれじゃ、まるで……道具じゃない」
振り絞ったベルの声にチェレンは冷たい眼差しを向けた。心底侮蔑するかのような眼であった。
「そうだよ、道具だ。他に何がある? 僕は王になる。チャンピオンを超えるのにこんなところで足踏みしていられない。一秒でも無駄に出来ないんだ。それくらい分かるだろ?」
「でも……やっぱり、あたしは我慢出来ないよ」
ベルは鞄を引っくり返し、モンスターボールを手にしていた。一番に危ういのは群れのリーダーであるラッタだ。
群れのリーダーが闘争本能を鎮めれば、自然と他のポケモンも住処に帰るだろう。
チェレンが鼻を鳴らす。
「ラッタを捕まえる気かい? やめておいたほうがいい。余計な自尊心でボールを無駄にするばかりか、そのラッタは凶暴過ぎる。君の手には負えない」
「でも……でもっ!」
ボールを掴んだ手が震え出す。打ちのめされたラッタの顔面は醜く腫れ上がっており、その眼差しには一滴の光さえもない。
心の奥底から、人間を憎んでいるのだ。
そんなポケモンの心を開かせるほど、自分は強くない。
しかし、今、動くべきと感じているのはそのような賢しい部分ではなかった。
ベルの中の衝動がラッタへとボールを投げさせる。
光に包まれてボールへと収まったラッタが内部から激しく引っ掻いたのが音だけでも伝わった。
ベルは覚えずびくついてしまう。
――怖い。
だが、それよりも……。
「ここで、あたしが見て見ぬ振りをしたら、この子が死んじゃう。そっちのほうがもっと怖いから……だからあたしは……」
カチリ、と音を立ててボールが止まった。収納音にチェレンが眼鏡のブリッジを上げる。
「弱らせておいたお陰か……。よかったじゃないか、ベル。頼もしいポケモンが仲間になって。もっとも、そんなやり方を続けていれば、ボックスがいくらあったって足りやしないけれどね」
手を振って群れの中を抜けていくチェレンの背中に、ベルは声を投げていた。
「待って! そんなに……トウコお姉ちゃんに追いつくのが大事なの?」
立ち止まったチェレンはこちらに目線もくれない。それどころか、より突き放す声音が飛んできた。
「……あの人は関係ない」
「関係あるよ……! だってあの人に認められたいから、チェレン君は頑張っているんでしょう? だったら――」
「自惚れるな!」
遮って放たれた怒声にベルは肩を縮こまらせる。そこにいたのは幼馴染の少年の背中ではない。
もっと別種の、何者かの背中であった。
「自惚れ……あたし、そんなつもりじゃ」
「……いや、ゴメン。僕も冷静さを欠いていた。今のは撤回してくれ。……それと、二度と僕の前であの人の事なんて言わないで欲しい。今みたいなの、アデクさんや他の人に見られたくない」
チェレンの言葉の一つ一つが棘を持っているかのようにベルには感じられた。ぎゅっと拳を握り締める。
朝の冷えに晒された指先が赤く滲んでいる。
「……あたしに言う資格、ないって言いたいの?」
「そんなんじゃ……ああ、もう、メンドーだな」
後頭部を掻いたチェレンはそれ以上言葉を重ねる事もなく朝靄の向こうに消えていく。
ベルは途端に力が抜けてその場にへたり込んだ。
何も言えなかった。何も出来なかった。
傷ついているであろう幼馴染が、まるで別人になってしまったかのようで。
これほどまでに自分は無力なのだ。堰を切ったように、ベルは頬を涙が伝うのを止められなかった。
チェレンは覚悟している。覚悟して旅立った。
自分はどうだ? いつでもカノコに帰れると考えている。どこか頭の片隅で、トレーナー以外の道を模索しようとしている賢しい自分がいる。
チェレンにはトレーナーしかない。その道しかないかのように追い詰めているのがありありと窺えた。
同時に、それは覚悟だ。
妄執と覚悟が黒い渦となってチェレンを押し包んでいるのが分かった。その渦を自分は解き放つ事も出来ない。
――弱いままでは。
恐る恐るベルはラッタの入ったボールに手を伸ばした。理論上はこれでラッタは自分のポケモンだ。何も恐れる事はない。
だが、理論よりも問題は感情であった。
どこかの誰かが捨てたかもしれない凶悪な個体のラッタ。そんなポケモンと戦い、傷ついてでも進むと決めているチェレンに自分は何をしてあげられるのだろう。何で応えられるのだろう。
ラッタのボールはその答えの一つに思えた。
「まだ、よろしくとは言えないけれど、でもあたしの捕まえた、最初のポケモン……」
朝の陽射しが切り込むように降り注いでくる。気づけば草むらのポケモン達が起き上がっていた。
チェレンを恐れて死に体を演じていたポケモンもいたのだろう。
それらのポケモンが全て、一斉に頭を垂れていた。
まるでひれ伏すべき存在を目にしたように。
その異様な光景に呑まれたようにベルは言葉をなくす。
降り注ぐ黄金の日差しの中で、ベルは祝福されていた。ポケモン達に。いや、ともすればそれは単に朝靄の作り出した幻影であったのかもしれないし、ラッタのもたらした群れのリーダー個体としての勇敢さでもあったのかもしれない。
ただ、この瞬間に明確な像を結んだのは、ベル一人に対し、他のポケモンが傅く、という姿であった。その眼差しには敵意などまるで見られない。まさしく王の御前であると言いたげなポケモン達に一種の不気味ささえも抱いてしまう。
「なに……あたしは、こんなの」
望んでいない。ベルはラッタの収まったボールを手に逃げるように立ち去った。
朝靄の向こうではまだ頭を垂れるポケモン達が群れを成していた。
一体の鳴き声に全体が呼応する。
それが王への、はなむけの声であると、この時、チェレンもベルも予想していなかった。