第46楽章「鬼帝の剣」
ウルガモスの発生させた炎熱領域が拡大し、ダイケンキのみならず天候すら変えてみせた。
地面に着火し、草原が焼け野原に変化する。
草木一本生えない死の荒野にヴァルキュリアワンが息を呑んだ。
「……炎熱のフィールドが地形を変えた?」
「地形変化くらい、わけないわい。ここからが本領発揮よ」
罅割れた地表が揺れ、次いで発生したのは地震である。
脆い活断層が露出し、岩壁が瞬時に出来上がった。
かつてないほどの規模の地震攻撃。地層がダイケンキの肉体にダメージを与える。次々と顔を出す断層の刃にダイケンキがじわじわと攻め込まれていた。
「まさか、押し負ける……?」
「押し勝っていたつもりであったか? 生憎のところ、ワシは負けるつもりはないのでな。ここで潰えるのは、お主のほうじゃ」
炎が牢獄となってダイケンキを拘束した。
アシガタナを払って抵抗するダイケンキであるが次々と出現する炎の槍を前にさばき切れなくなっている。
ついにはその肉体に火の槍が突き刺さった。
着弾点から発火し、体表が亀裂を発する。血飛沫が舞い、ダイケンキが遁走しようと水の皮膜を張った。
だがその皮膜さえもすぐに蒸発させるほどの熱気。
「……熱い」
ノアは周囲を取り囲む地獄絵図のような炎に汗を掻いていた。
チェレンとベルも同様のようで不安を隠せない面持ちである。
「これが、王の力だって言うのか……」
「あたし……怖い」
「じィちゃん、やり過ぎだ。これ以上はもう勝負にならないぜ!」
バンジロウの悲鳴のような声音にもアデクは応じない。それどころか伏せた面持ちは悪鬼の如く翳っていた。
眼光が鋭く射る光を灯す。
口角は吊り上がり、普段の好々爺めいた顔立ちとは想像も出来ないほどにかけ離れていた。
――これが、チャンピオンアデクの本気。
これが、王の怒りであった。
逆鱗に触れたヴァルキュリアワンは生き地獄を味わっているようなものだ。
ダイケンキが体内からかっ血する。既に炎の血脈がその体内から汚染し、ダイケンキへと間断のないダメージを与え続けている。
「アデクさん! ここまでだ! もうこれ以上は、チェレン達にも見せちゃいけない!」
ノアの決死の声にもアデクは頭を振った。
「否。こやつらはワシらの旅路を奪う。前途ある若人に示すべきは真の強者とそうでないものとの違い。王に楯突いた事、後悔させてやる」
平時のアデクではない。
怒りと怨讐に取り憑かれた、地獄の覇者であった。
ダイケンキが水を纏った一撃を薙ぎ払おうとして、アシガタナの刀身が消えている事に気づいた。
正確な炎の操作は固形物すら融解させる。
どろどろに融け出したアシガタナの切っ先は何一つ斬る事も出来ず、ただ彷徨うばかりであった。
「こんな……こんな事が……」
「現実とはかくも無力なものよ。終われ、雑魚が」
アデクのウルガモスが六枚の翅を広げ、天地を縫い止めるかのように空へと舞い上がる。
その肉体がまさしく地を焼く太陽の無情なる光となって大地へと差し込んだ。
光が波となり、放射熱線が地表を焼き尽くしていく。
地面を赤錆色の灰が撫でていった。地獄の灰である。
その灰に触れたものは瞬く間に命を失っていく。
草原が荒野に変わり、荒野が血の池のように染まる。
血色の霧がダイケンキへと浴びせかけられようとしていた。
ヴァルキュリアワンが膝を折る。
既に命乞いは諦めた様子だった。
その眼前へと飛び出していたのは誰でもない。
ノアであった。
今のアデクは我を忘れている。
この状態のアデクに殺人をさせてはいけなかった。
それはチェレンやベルのためでもある。何よりもアデク自身のために、その輝かしい経歴の泥を払う必要があった。
「駄目だ、アデクさん。これ以上は、もう……!」
ノアはケルディオを伴い、攻撃姿勢に入る。
完全に攻守が逆転していた。
守られる側になったヴァルキュリアワンが喚く。
「無理だ……! この状態の王に勝つ手段はない!」
「方策はなくとも勝機を切り拓く! ヴァルキュリアワンだったな? 雨乞いをもう一度撃ってくれ」
その言葉にヴァルキュリアワンは困惑する。
「雨乞いなんて、すぐに霧散してしまう……」
「いいから撃て! そうじゃないと死ぬぞ!」
決死の声音にヴァルキュリアワンはダイケンキへと命じる。
「ダイケンキ、雨乞いだ!」
無論、雨として成立する前にその雨雲が消滅する。だがノアの狙いは少しでも水蒸気の塊を生み出す事であった。
空気中に水分粒子が集合し、その地点に向けてノアは指示を出す。
「駆け抜けろ、ケルディオ!」
業火の灰の中をケルディオは「あまごい」が生み出した僅かな水滴を身に纏う。
触れれば瞬間的に消えてしまいかねないほど脆い防御。
だが、今のアデクから正気を取り戻すのはこれしかない。
死の灰を潜り抜け、一撃でもウルガモスにぶつける。
そうしなければアデクはヴァルキュリアワンを殺したと言う重い罪を背負う事になる。
いつものように快活に笑える男はいなくなってしまうだろう。
それだけは、とノアは懇願していた。
笑えなくなったアデクなど、それは最早戦士としては失格だ。
「……ボクの倒したアデクさんは、きっとそういう罪で雁字搦めになっていた。だから、ボクでも倒せた……。でもそれじゃいけないんだ。アデクさん、あなたには笑っていて欲しい。どうか、悪鬼に染まらないで欲しい。ボクの願いだ。それだけは」
水流がケルディオの角先へと集中していく。見つけ出したのは針の穴ほどの勝機。
赤い霧の向こう側に位置する太陽のポケモンを打ち倒す。
ケルディオが四肢に力を込めた。
蹄から水が迸りその勢いを補填する。
瞬時に跳ね上がったケルディオが赤い霧へと衝突した。
水ポケモンの生命線である水を余さず蒸発させる死の領域。
その領域を抜けるのには、一点突破しかない。
他の箇所にエネルギーを拡散させては駄目だ。
一箇所に全エネルギーを込める。
それこそが――ケルディオの本懐。
「ぶちかませ! ケルディオ!」
青い光が明滅し、霧を飛び抜けた。無重力空間のようにケルディオの足が空を掻く。
その先に待つウルガモスから怨嗟の炎が迸った。
ケルディオの角先に集約されたエネルギーの威光が形状を成し、瞬間的に拡張する。
その刃は紛れもなく、悪を断ち、正義の心を示す技。
「戻ってくれ! アデクさん!」
放たれた光条がウルガモスの体表へと衝突する。
その身体が震え、ウルガモスの纏っていた瘴気のような炎が霧散した。
死の灰がノアとヴァルキュリアワンを捉える直前で消え失せる。
ギリギリであったが、アデクは戻ってきたようであった。
自らの額を押さえ、僅かによろめく。
「ワシは……」
「怒りで我を忘れていました。でも、ボクとケルディオで引き戻した」
ウルガモスから怒りのエネルギーが浄化されていく。アデクは拳を握り締め己を殴りつけた。
「……すまんのう。ついカッとなってしまったわい」
その面持ちはいつものアデクである。余裕の笑みを浮かべた仙人の清々しさにノアは微笑んだ。
「よかった……」
安堵の息をついたその時、ヴァルキュリアワンが声にしていた。
「もう、負けだ。……戦う気力もない」
完全降伏の現れのようにヴァルキュリアワンがボールを地面に置いていた。ダイケンキはその体表のほとんどが水気を奪われて白んでいる。
ケルディオに歩み寄らせ、水のエネルギーを分け与えた。
ダイケンキの身体に活力が戻っていく。それを目にしてチェレンが咎める。
「何を……せっかくやっつけたのに」
「いや、いいんだ。ここまでやる事はない。勝負はついている。だろう?」
振り返ったノアの声音にヴァルキュリアワンは瞑目した。
「まったく、どこかで見たような気がしたと思っていたら……そうか。王のそれであったか」
彼も感じ取ったのだろう。自分がNである事を。
戦う意思は最早見られない。清々しく面を上げたヴァルキュリアワンが手を差し出していた。
「命の恩人だ。どうか、感謝させて欲しい」
「いや、ボクこそ、引き出させてもらった。ケルディオ、この技は悪を断ち、正義を示すための技だ。本能的に相手の悪の側面だけを切り払う能力が備わっている。名付けるとすれば、この剣はもう、ただの剣ではない」
切り札に等しい。ケルディオそのものを象徴する剣であろう。
「伝承に伝え聞いていたが、このイッシュをかつて守り通したポケモン達がいたという。彼らが使ったのは等しく剣の技であったとも。剣士、と伝えられるポケモンの、その中の一人であったのか、ケルディオは」
アデクの言葉にノアは首肯した。
「――聖なる剣、と名乗らせてもらいます」
聖剣を得たケルディオが鳴き声を上げる。新たな戦士の産声でもあった。
「敵わないのも当然、か。反逆者、ノア。ぼくにも手助けをさせて欲しい。さっきまで敵だったのに何を言うのか、と思うかもしれないが……ヴァルキュリアツーが見たのは、そういう事だったのか」
戦ってみて初めて分かる事もある。
ポケモンバトルはお互いの理解のための儀式でもあるのだ。
「ああ、ボクも一つ学べた。ありがとう、名は……」
「ヴァルキュリアワン、だが、これは正しい名前じゃない。ぼくら三人は全員、同じ遺伝子から造られたデザイナーズベイビーなんだ」
その言葉にノアは戦慄く。
確かに統率の取れた部隊だと思っていた。だがその実全員が同じ人間だなど信じられるだろうか。
ヴァルキュリアワンは口元の布を取り払い、ヴイツーと全く同じ面持ちで告げる。
「禁忌に手を出したのは、何もプラズマ団が最初じゃない。ただ、プラズマ団上層部はこうした汚れ仕事を擦り付けるのに、ぼくらみたいなのを造り上げたという事は」
容易に想像出来る。
まだ深い闇があるのだ。
その闇の、氷山の一角に過ぎない。
――自分は何一つ知らなかった。
また思い知らされるなど考えもしなかった。
「ボクは……知らぬうちに大罪を犯していたのか……」
「あなたのせいじゃない。ただ……プラズマ団という名の罪の象徴は、あなたが贖うのには相応しい」
改めてノアは確信する。
この時間軸に放り込まれたのは、何も偶然の積み重ねだけではないと。
やり直せるのだ。
自分が、自分の力で、もう一度立ち上がるために。
この場所からやり直せと世界が告げている。
ポケモンの声を聞く能力がなくとも、あるいは今までのような超越者の視点がなくとも。
抗い、勝てと告げるのは勝利への凱歌。
反抗の唄であった。
「ボクは、やるよ。やり遂げてみせる」
その決意にヴァルキュリアワンが相好を崩しかけた。それこそが、と唇が紡ごうとした瞬間、新緑の刃がその胸を射抜いていた。
遅れて全員がその気配に気づく。
ヴァルキュリアワンと対面するノアの服に血潮が舞った。
「ああ、来たのか」
彼だけはどこか冷静にその訪れを受け入れている。
ベルが叫んだ。
チェレンが刃の先を見やる。
「まさか……まだ敵が?」
確認するまでもない。
ノアはその刃を知っている。一度でも矛を交えれば、その相手くらいは見当がつく。
「……もう一人」
「荒野と果てているとは思わなかった。それに、ここまでチャンピオンにさせておいて生き恥を晒す、ともな」
新緑の蛇を引き連れているのは影の一団の一人。
反響音の名を冠する闇の一族。
「――ヴァルキュリアスリー」
「ほう、ワタシの名を覚えていたか、反逆者ノア。ヴァルキュリアツーといい、ワンといい、我が軍の脆さばかり伝えてしまって困り果てている。プラズマ団は強固な集団だ。それを矮小な存在と見なすなど、許されない」
突き刺さった刃をヴァルキュリアワンが掴んだ。「リーフストーム」の暴風の一端だ。当然の事ながら人間の力の及ぶ範囲ではない。
だが、彼は叫びを上げた。
まさしく渾身の声音である。
「ダイケンキ! やれ!」
ダイケンキが踊り上がり、アシガタナをジャローダへと振るい落とす。だが、先端の溶解した剣など通用するものか。
容易く風の刃で気圧され、ダイケンキの腹腔へと緑色の烈風が打ち込まれた。
「雑魚が」
串刺し状態になったダイケンキがかっ血する。
この段において最も速く動けたのはアデクでも、バンジロウでもない。
ケルディオが跳躍し、角の刃を瞬かせる。
空気中に溶け合った刃とその光が鍔迫り合いを繰り広げた。
幾度目かの剣閃の後、ケルディオが一端後退する。
その期を狙ってジャローダが暴風の壁を作り出した。
「リーフストーム」による隔絶された壁が主君を守っている。
「貴様らが愚かであった、とは思わん。むしろ、仲間であったはずの二人の落ち度だ。謝罪してもいい。プラズマ団がここまで嘗められていたのでは話にならん。ダークエコーズもワタシだけになったか」
「ダイケンキ!」
ヴァルキュリアワンの決死の声に応じようとダイケンキがアシガタナを薙ぎ払う。だが、炭化したアシガタナは容易く折れた。
空転したアシガタナが宙を舞い、荒野に突き刺さる。
「最早、生きているのも辛かろう。ワタシが引導を渡してやる」
ジャローダが壁の向こうから攻撃を発生しようとする。
ノアは拳を握り締めていた。
――許せない。
ようやく、己の道を知ったばかりなのだ。
だというのに、その命を無情にも奪った。
これから先、いくらでも選べた命を。
「ヴァルキュリアスリー、ボクはお前を、許さない!」
「吼えろ、反逆者。何も出来まい」
「いいや、やれるさ。ケルディオ!」
ケルディオが蹄から水流を発し、宙へと躍り上がる。新緑の刃がいくつか軌道を描き、ケルディオへと突き刺さろうとしたが、ケルディオはそれを叩き落した。
他でもない、己の角で。
与えられた、その名の通り、光り輝く剣先で。
「……何だ? 前までと少し違うな」
「少し? そんなもんじゃない。ケルディオ、行くぞ。聖なる――」
ケルディオの角先から光が拡張し、瞬間的に刃を伸ばした。その射程にヴァルキュリアスリーが息を呑む。
「何という、広域射程……。受け切れないか。ジャローダ!」
「――剣!」
その剣閃が打ち払った射程は今までの比ではない。渇き切った荒野に亀裂を走らせ、周囲一体に粉塵を撒き散らす。
そのあまりの威力にチェレンが覚えず言葉を発していた。
「……化け物だ」
ノアは己の中にケルディオと繋がっている何かを感じ取る。
ここにある。鼓動が脈打ち、生命の輝きを告げている。その言葉の赴くまま、ノアは声を張り上げた。
叫びがケルディオの喉を伝導し、咆哮となって剣の威力を底上げする。
渾然一体となった意識がケルディオの角先に光の奔流となって顕現した。
「もう一撃、撃つか。だが最早、無理だ」
「お前を……倒す」
人間の殻の中にいる自分の僅かな残滓が声にする。拡張された意識圏が暴風の吹き荒ぶ中、笑みを浮かべるヴァルキュリアスリーの姿を幻視した。
――何故嗤う?
「もう、お前はワタシを捉えられない」
薙ぎ払った剣の風圧の先にいたのは、粒子で形作られたジャローダとヴァルキュリアスリーの鏡像であった。
それを払った途端、意識が遠のいていく。
一気にどっと汗を掻き、身体が重くなった。
「身代わりか……! あのヤロウ、逃げおおせやがった」
バンジロウの声もどこか遊離して聞こえてくる。
ノアはその場に膝をついていた。
立っていられない。極度の集中が生み出した奇跡の対価のように、ノアはよろめいていた。
「兄ちゃん? ……おい、兄ちゃんが!」
バンジロウがこちらへと声を振り向ける。
ノアは静かに意識が闇に没していくのを感じていた。