第44楽章「纏われし者ら」
カノコに一度帰る事になったのはトレーナー申請が通るまでのタイムロスだと言う。
一日、あるいは二日間は待てとの事であった。
それくらいは待つさ、とチェレンは宵闇の中、夜風に吹かれていた。
振り仰げばカノコタウンを覆うのは満天の星空。今にも落ちてきそうなほどの星屑を眺め、チェレンは拳を握り締める。
「僕は、絶対に到達してみせる。チャンピオンの領域、強さの高みへと」
あの時、トウコが一度も振り返らなかったように。自分も一度も振り返らずにこの田舎町を後にしてみせよう。
それこそが己がトウコを超えた事の証明となるであろう。
「チェレン君?」
不意に湧いた声音にチェレンは振り返る。
ベルが不安げな眼差しのまま、その場に佇んでいた。
「ベル、か」
「不思議だね。あたし達、もうトレーナーだなんて」
ベルからしてみれば夢が叶ったのであろう。だがまだだ。自分はまだ飢えなければならない。飢えて、さらに高みを目指す。
「ベルはトレーナーになれればいいんだろ? 僕とは違う」
「あたし、でもちょっと自信ついたかな。アデクさんに後押ししてもらえるなんて」
頬を掻いて微笑む幼馴染に、チェレンは鼻を鳴らした。
――自分はその程度で満足するものか。
勝ち取るべきは勝者の座のみ。
王になれなければ全てが水泡に帰す。
「僕は、アデクさんをいつか倒す。それだけだ」
「強いんだね、チェレン君は」
「強い? こんなの当たり前だろ。だって、あの人はそう言って一度だって帰ってこないんだから」
「トウコお姉ちゃんの事?」
「あの人をお姉さんなんて呼ばないで欲しい。身勝手で、他人の事なんてどうでもいいと思っているんだ。だからあの時、一度だって振り返らなかった」
「……振り返って欲しかったんだ。チェレン君は」
「そういうわけじゃない。ただ、あんな人でも強ければ、何にも頼らなくって済む。それが世の理なんだ。強ければ、弱さを見せなければ、どれほどに傲岸不遜で、あまりにも理不尽でも、それを誰かに押し付けないで済む。それが分かっているから、僕は旅立つよ。カノコなんて一度だって帰ってこないだろう」
「あたしは、帰って来たいな。だって故郷だもん」
故郷。
言葉にすれば滑り落ちてしまいそうなものだ。なにせ、自分とベル、それにトウコは故郷が違う。
生まれが違うのだ。
孤児院でたまたま一緒になり、たまたま一緒に過ごした時間が長いだけ。偶然の積み重ねで自分達は一緒にいたのだ。
だから、トウコが振り返らなかったのはその偶然が分かっていたからだろう。
偶然なんて一度手離せば、もう意味も欠片もない、泡沫の代物。
自分はトウコにすがりついたりはしない。涙する事もない。
彼女が行った。だから何だというのだ。
自分は自分だ。
チェレンという一個人なのだ。
誰かの人生を背負う事もなければ、自分の人生だけでいい。
強ければ自分だけで立っていられる。自分一人で生きていける。
「ねぇ、チェレン君。明日にでも旅立ちの見送りをしてくれると思う。孤児院の人達に、あたし達は振り返って手を振ろうよ。きっと、そのほうがいいだろうし」
「……僕はいいよ。手なんて振らない。もう帰ってこないんだから、要らないだろ」
「そんな事言って、トウコお姉さんみたいには、あたしもチェレン君もなれないよ」
「なるんじゃない。僕は超えるんだ。あの人を」
拳を握り締める。絶対に超えてみせる。旅の中で出会ったのならば、今度は敵同士だ。
完膚なきまでに叩き潰そう。
だが、ベルにはそこまでの覚悟はないようであった。
「……あたしはもし、トウコお姉さんに会ったのなら、これまでどんな旅をしてきたのかを聞きたいなぁ。だって人によって旅って違う意味になるだろうし」
「旅は手段であって目的じゃない。僕はチャンピオンになる。超えてみせるんだ、あの強さを」
刻み付けられた、あの炎の烙印を超えてやる。
ケロマツの進化系ならばウルガモスへの勝算もある。
だが、それ以上に魂の根幹部分が叫んでいるのだ。
――あれを超えられないのならば、生きている意味はない。
あの時、炎に中てられたように動けなくなった。そんな無力な自分は今日でさよならにしたいのだ。
生きるのならば、自分は強者の側になる。
絶対に弱者にはならない。敗北者にはならない。
「……チェレン君はもう、そんなところまで目指してるんだ。あたしとは大違い」
ベルは夜空を見上げてそう口にする。
「違うだろうさ」
――僕はお前らとは違う。
下等な目的で旅に出るのではないのだ。強くなって全てを見返してやる。
今日の黒星は明日の白星に替えてやる。
その思いを胸にチェレンは身を翻した。
「夜はまだ冷える。ベルも戻ればいい。風邪を引いて旅に出られないなんて一番カッコ悪いからね」
「そうだねぇ。でも、あたしらしいかも」
微笑むベルにチェレンは言い捨てる。
「カノコを出たら、もう会う事はないかもしれない。僕は僕のペースで進む。ベル、君のペースに合わせているような時間も余裕もない」
「あたしは、それでいいと思うよ。だって旅に出るのは自分のためだからね」
孤児院に居た頃からトウコにべったりだったベルには一人旅なんて似合うはずもない。すぐに取って返すだろうとチェレンは確信していた。
だが今はそのトウコが居ない。
どこにいるのかの連絡も一切寄越さない。
それがきっと、あの人と自分達との差なのだ。
一人で生きていけるだけの強さがあれば、連絡も報告も必要ない。
この世界は強さが全てなのだ。
「ベル。何度も言うけれど旅は甘くないよ。絶対に、後悔したくなければ今からでもトレーナー申請を取り下げればいい。それで誰か相棒でも見つけて、その人と一緒に行けばいいんじゃないかな。そうしたほうがベルも安全だ」
君の事を考えて言っている。そういう体面で発した言葉に反感を抱くかもしれない。だが、ベルの声音は穏やかであった。
「あたしも、一人旅の心得くらいはあるよ。それに、旅の中で、やってみたい事もあるんだ」
「やってみたい事?」
何が出来るというのだ。非力な少女一人が。
「あたし……言っていなかったけれど、ポケモンに携わる仕事がしたい。それで他の人を笑顔に出来たら、素敵だと思わない? そういう風に、あたしはなりたいな」
ポケモンで人を笑顔にする。分不相応な考えだ、とチェレンは切り捨てなかった。
ベルらしい、人並みの幸せが欲しい、という願いとさして変わらない。
「いいんじゃないかな。僕はそう思う」
自分の道を阻まないのであれば、であったが。ベルは笑顔で頷く。
「うん。あたしも、これくらいしか出来ないと思うし」
王になるのは自分だけの願いだ。
トウコも、ベルも追いやり、自分だけが王になってみせる。
その時にはアデクの孫でさえも跪かせて見せよう。
「僕は、何人も辿り着けない領域に行かなきゃいけないんだ」
それが己の悲願であった。
いつものように日は昇り、西の空に没する。
それが当たり前で、明日も明後日も同じように続いていく。
違うとすれば、今朝目覚めたばかりのトレーナーの卵二人であろう。
チェレンとベルは準備を万端にしていた。
その姿を見て、アララギ博士が僅かに潤む。
「立派になったわね」
「これからですよ、アララギ博士。僕は、これからです」
チェレンの落ち着き払った声音に比べ、ベルは少しばかり上気した頬で携帯品を確かめていた。
「本当にトレーナーになったみたい……」
「みたいじゃなくってなったんだよ」
二人のトレーナーの巣立ちを眺めるのはこの地の王、アデクであった。
ノアもその隣で見つめている。
彼らの未来はこの時間軸ではどうなるのだろう。
トウヤがいた時間軸では彼らはお互いに違う道を模索したが、その通りになるとは限らない。
この場合、何が正しくて何が間違いなのかが自分にも判断出来ないのだ。
プラズマ団の強襲、それに自分とアデクが旅立つ前に彼らと出会うというイレギュラーが続いている。
このままでは本来あったはずの道を歪めてしまうのではないか、という懸念もあった。
「隣町まで、一緒に行きませんか?」
だからか、ノアはその提案を発していた。
アデクとバンジロウが目を見開く。チェレンはいい顔をしなかった。
「そりゃまたどうして?」
「いきなりで不安でしょうし、それにボクらとしても、プラズマ団の攻撃があったばかりです。隣町の警察署には行かなければいけないでしょうし」
「ふむ……そうじゃな。面会も兼ねて行かねばならん」
「嫌ですよ、僕は。チャンピオンのお付きなんて」
チェレンは真っ先に嫌がるであろうな、というのはノアも予想していた。だからこそ、提案したのもある。
「ボクもまだトレーナー修行の身なんです。それに、アララギ教授に教わりました。ケルディオの使い方を学ぶのには戦いながらなのがちょうどいいって」
目線をやるとアララギ教授は首肯する。
「旅に同行してその中で呼び覚ますのがいいだろう」
「ちょっと待ってください! 僕だけじゃないんですか?」
声を荒らげたチェレンにノアは気圧される。
「隣町までだけだしいつまでも付いていくわけじゃ……」
「当たり前ですよ。僕には同行者なんて要らないんですから」
襟元を正したチェレンにノアは二の句を継げなくなった。どうしてそこまで他人の付き添いを拒むのだろう。
やはり、トウコ、という少女の存在が鍵になっているのだろうか。
自分の時間軸にはいなかった人間だ。
彼女を基点として、何かが回っている。
それを解き明かさなければならない。
「……何もボクが同行するのは、キミの旅を邪魔するだとかそういうんじゃない。ボクもボクで知らなきゃいけない事があるんだ」
「だったら自分一人で旅をするか、チャンピオンお付きで旅でもすればどうです? 僕らとタイミングを同じにする、意味が分からない」
彼からしてみれば厄介なだけか。だが、ノアは譲れなかった。
「キミ達の旅の邪魔はしない」
「当たり前でしょう……! 僕は――」
「おいおい、そこまでそこまで。何旅に出る前から熱くなっておる。ノアタロー、それにチェレンだったか。お互いの言い分は大いに分かる。しかし、昨日今日でプラズマ団の襲撃があっても困る、というのがお互いの本音のはず。ノアタローはそれなりに心配しとるんじゃよ」
「心配……? これから一人旅に出るって言うのに?」
余計なお世話だ、と言わんばかりだ。
旅に出るトレーナーは全てを自活しなければならない。
その上で障害になるものは一つでも取り除きたいのだろう。
自分の厚意でさえも彼らには邪魔なだけかもしれない。
「その……あたしは賛成、です」
控えめに手を挙げたベルの意見にチェレンが眉を跳ねさせる。
「正気か? だってチャンピオンが付いて回っているなんて、そんなの一端のトレーナーじゃない」
「でもあたし達が旅の初心者であるのも確かだし、それに最初の、隣町くらいならいいんじゃない?」
ベルの折衷案にチェレンは呻った後に決めた。
「……隣町まで、ならね」
「ありがとう」
礼を言うとチェレンはそっぽを向いた。
「礼を言われたくって決めたわけじゃない。合理的に判断しただけだ。それに、ここで言い合ったってメンドーなだけだからね」
今は一秒でも惜しいのだろう。
ノアはアララギ教授へと挨拶していた。
「ケルディオの事、また分かったら連絡していいでしょうか?」
「おお、構わないとも。私としても興味があってね。新種のポケモンに新種の技、どのような化学反応になるのか楽しみだ」
そのためには強くならなくては。
強くなって、勝ち星を一つでも稼ぐ。それが自分に出来る精一杯の事であった。
「最初の一歩は、一緒にやろうよ」
ベルの言葉にチェレンは鼻を鳴らす。
「……仕方がないな」
「さいしょのいーっぽ!」
ベルが大股で一歩を踏み出す。チェレンは普通の足並みで歩き出した。
二人のトレーナーが、今、この地を旅立とうとしている。
それを涙ぐんで眺めるのはアララギ博士であった。
「どうかその旅路に幸あらん事を」
「なに、ワシらも付いていくんじゃ。さして悪い事は起こるまい」
アデクの楽観視にバンジロウが唇をすぼめた。
「オレは初心者じゃねーけれど。何だか気恥ずかしいくらいだぜ」
「ボクも、ここからもう一回スタートする。トウヤがいなかったけれど、それでも意味があるはずなんだ。だからボクは……」
「小難しいのはなし、じゃ。旅に出るぞ、若人よ!」
アデクの勇み足にノアは微笑んでいた。
――旅に出る。
それはプラズマ団が瓦解し、英雄の戦いが決してからようやく可能になった事であった。
自分に関しては自由な旅はまだ許していない。
だからこれが本当に、最初の旅路となるだろう。
同時に全てを決するための最後の旅路に。
まともなポケモンを連れての旅は初めてかもしれなかった。
「これが、最初の一歩、か」
草むらへと足を進める。
王であった自分に、自由行動など許されていなかった。
王になる前から、あの森で閉ざされた暮らしをしていた自分にとって旅は無縁であった。
だから、これはノアとしての再スタート。
Nではない、ただの名も無きトレーナーである。
「まずは隣町を目指すぞ。この辺りにはトレーナーもおらんからのう」
「……何で一番にじィちゃんがはしゃいでるんだよ」
バンジロウの文句にノアはその後姿を眺めて口にしていた。
「思い出しているのかもしれないね。四十年前の、ポケモンリーグを」
「どうなんだろうな。あれ、何回も聞かされているけれど大げさって言うか、そんなすげぇトレーナーばっかりの大会なんてあったのかどうか」
「きっと、あったんじゃないかな。そしてアデクさんはそれを勝ち抜いた」
真の強者だ。
アデクが時折見せる、超越者の眼差しを思い返す。
あれを体得したのは四十年前に違いない。
恐ろしく高レベルの戦いであったと語り継がれる、第一回ポケモンリーグ。
ジム制度やポケモンリーグそのものの制度はその時に初めて基盤が敷かれた。
「生き証人、ってところか」
呟いたチェレンの言葉にノアは当の本人が一番に旅を楽しんでいるのを目にしていた。
現れたミルホッグに目を白黒させている。
「おおっ、ミルホッグじゃな。ええと、ポケモンは……」
「アデクさん。ウルガモスなんて出したら一面火の海ですよ」
「おおっ、そうじゃった、そうじゃった」
ただの野性のミルホッグ程度、手で払って逃がしてやればいい。ノアが率先して手を払おうとした、その時であった。
バンジロウが背後から体当たりを仕掛けてきた。
そのせいでノアはつんのめる形で転がった。
「何を……!」
振り返って声にした時、バンジロウの眼から窺えたのは戦闘神経である。
研ぎ澄まされた刃が眼前にあった。
「兄ちゃん、ヤツらだ」
「奴ら……」
その言葉の帰結する先を自分は知っている。
小高い丘の上で待ち構えていたのは、因縁の敵であった。
「よく避けた」
佇む二刀を有するポケモン、ダイケンキが放った水の砲弾が先ほどまで自分の頭部があった空間を引き裂いていた。
何も気づかなければ今頃不意打ちにあっていただろう。
「ヴァルキュリアワン……、ダークエコーズか」
しかし何故? という思いに駆られる。
ヴイツーがこちらに寝返ったからか。それとも戦力が以前よりも心許ないからか。攻めてこないと自然に感じていた。
だというのに、ヴァルキュリアワンから放たれているのは間違いようのない、殺意。
ダイケンキはいつでも射程に入れるようにこちらを睨み据えている。
「これはまた……難儀な事をするのう」
「チャンピオン、アデク……!」
ヴァルキュリアワンの声音が変わった。前回煮え湯を飲まされた相手である。一撃さえも届かなかったその雪辱を思い出しているようであった。
チェレンとベルは困惑している。
旅路の一歩目でとんでもない相手と行き遭ってしまった。
「チェレン、ベル。ボクらの敵だ」
キミらは先に、そう言おうとしたのをチェレンは遮って前に出ていた。
ノアはハッとする。
「何を! 危ないんだ!」
「危ない? そちらこそ何か勘違いをしているんじゃないんですか? 相手はトレーナーでしょう? なら、ポケモンバトルの格好の相手じゃないですか」
チェレンの言い分に間違いはない。しかしそれは通常のバトルの話だ。
「相手は特殊部隊の人間だ。ただのバトルじゃない」
だがチェレンは臆する様子もない。
「それこそ、打ってつけですよ。僕は、こういうのを待っていた」
チェレンがホルスターからモンスターボールを引き抜き、前に翳す。その眼光に怯えの色はない。むしろこれから戦闘にもつれ込む、その志があった。
「小僧、貴様に用はない。消えろ」
「消えろ? メンドーな事を言うな、あんた。そういう奴を、僕は倒して回りたいんだよ」
チェレンがモンスターボールの緊急射出ボタンに指をかける。
繰り出されたのは小型のポケモンであった。
水色の身体が眩く太陽に映えている。
「ケロマツ、初陣だ」