第37楽章「神風」
「ようやく、本気でぶつかってくるってわけ。その時を待っていたわ。小手先の戦いなんて、アタシ達には意味がないもの。いつだって、血湧き肉踊るのは、こうした戦いの瀬戸際! 勝つか負けるか分からない、崖っぷち!」
チラーミィのした事は少ない。
「アクアテール」で身体の動きを偏向。僅かに「ハサミギロチン」の直撃を免れるつもりだろうが、その軌跡に「免れる」という文字は当てはまらない。
狙い澄ました。お膳立ても済んだ。これで命中しないわけがない。
命中しないとすれば、それは神の領域の所業である。
奇跡でも起こらない限り、チラーミィは倒れる。
ハハコモリの放った剣筋に僅かに水滴がこびりついた。だが、ただそれだけだ。
水滴程度では「ハサミギロチ」の遂行を遅れさせる事さえも出来ない。
――勝った。
そのはずであった。
しかし直後に発生したのは振るった刃の腐食である。
あまりに速い「ハサミギロチン」の速度にハハコモリの腕が追いつかなかったのか、その腕がぽっきりと折れてしまった。
命中する前、「アクアテール」で水滴を垂らされただけである。
それなのに、ハハコモリの腕は折れてしまった。
――何故?
風圧、攻撃時の負荷。あらゆる可能性を鑑みるが、今までそれほどまでに重圧を与えていたものはない。
あるとしても、ハハコモリの腕が自らの技に耐え切れず折れるなど、天文学的な確率だ。
アーティはその時、回転しながら地面に突き刺さったハハコモリの腕を目にしていた。
その腕の断面には腐食痕がある。自然なものではなく、突然の猛毒に晒されたかのように爛れていた。
「まさか……最後の技は」
「毒々。猛毒でハハコモリの腕を腐食させた。あんたの眼にはアクアテールの水滴の一部にしか見えないように偽装した。水滴一粒とは言っても、それは猛毒のもの。食らえば腐食は免れない。しかも、ハハコモリは自らの体感を完全に無視した技を放っている。高速度に達した腕には相当な負荷がかかっているはず。なら、一番に折れやすい箇所にピンポイントで、毒を放ってやれば、後は任せればいい。最高速に達した時、自然に折れるからね」
説明されてもアーティには理解が遠く及ばない。
「アクアテール」の中に「どくどく」を仕込ませる、という妙技も。ましてや、その毒を一見無毒化させてみせるなんて高度な技術も、彼には理解の範囲外であったからだ。
ハハコモリは折れた刃を不格好に振るっただけ。
チラーミィには命中しなかった。完全に振り切った形のハハコモリは隙だらけである。
「ハハコモリ、後退――」
「遅い。アクアテール」
振るわれた尻尾の一撃にハハコモリが衝撃波でよろめく。その体躯へととどめの一撃が振り落とされた。
ハハコモリが防御限界を超え、その場に仰向けに倒れる。
完全な敗北であった。
切り札を使い、さらにその切り札を超える禁じ手まで出し尽くした上での敗北。
それはアーティの胸中に不自然なほど爽やかな風を吹きつかせていた。
こちらの手を出し尽くさせ、なおかつ上回った。
それは素直に敬服せざる得ない。
負けたというのにアーティの顔に浮かんでいたのは無心に戦っていた頃の興奮であった。無邪気な子供の頃の夢が、その胸に舞い戻ってきたのだ。
強敵との戦い。
久しく忘れていた感覚が戻ってきた事にアーティは満たされていくのを感じていた。
トウコはずかずかと歩み寄り、その手を差し出す。
握手かと思われたが彼女が求めるのはそのような湿っぽいものではないのだろう。
アーティは胸に留めていたバッジをトウコに手渡していた。
「完全敗北だ。僕に、ここまで出させて負けを認めさせるなんて……君は大した奴だよ」
「当然。王なんだから」
そうだ。彼女は王なのであった。
この地を率いる女王はこの程度で遅れを取っていられない。それこそ死に物狂いで戦うしかないだろう。
そのために実戦向きに整えられたポケモン。研ぎ澄まされた刃のような戦闘神経。
アーティはハハコモリを労い、ボールに戻した。しばらくは誰とも戦えそうにない。これほどまでに、満たされた戦いをした後では酔いしれてしまう。
「しかし、毒、電気、水、ノーマル。四つのタイプを全て使いこなし、さらに言えばその底上げまでする。どうやったらその境地に辿り着けるんだい?」
無様な問いかけだったのかもしれない。あるいは無粋か。
しかしトウコは答えてみせた。腰に手を当て、それこそ王の風格で。
「簡単じゃない。強くなればいいのよ」
シンプルでありながらこの世の側面を切り取ったような言葉であった。
強くなればいい。
そう思えればどれほど楽か。
アーティは打ちのめされたのを感じ取る。ああ、これがと暫く浸っていなかった感慨であった。
――これが敗北した、という奴か。
しかしどうしても歯がゆさよりも感じてしまうのは清々しさであった。
彼女の戦いに一つ爪痕を刻めたのならば、それに越した事はない。
「これから君はどこへ?」
「王になるためには歩みを止めていられない。ポケモンリーグを目指す」
「……いい答えだ。皆、彼女を送ってくれ」
アーティが指を鳴らすとジムトレーナー達が目礼した。
全員、敗北を噛み締めた表情ではない。
城主が負けたのだ。その帰結には当然の事ながら勝者には美酒を。
拍手が一つ、巻き起こった。それは大きなうねりとなって、トウコの旅路を彩る。
「頼んでない」
「いいや。させてやってくれ。君が王になる日を、楽しみにしている」
トウコは鼻を鳴らして顎をしゃくった。
「多分、そう遠くない未来のはずだわ」