第35楽章「騎士乙女」
アララギ低はそれなりの広さを誇っている。
やはりこの地での研究の第一人者というのが大きいのだろう。着陸する際にも一番に求められたのはアララギ博士への許可であった。
「カロスのお茶がいいかしら?」
女性研究員は珍しい。それも、専門分野における開拓者、という点で言えばもっとだ。
まだ歳若いのもあって研究会では半ば異端児扱いを受けている、とアデクから説明されていた。
「いや、お構いなく。ワシらがちょっと無理を言って寄らせてもらっているからの」
「いえいえ、チャンピオンの来訪とあれば皆が喜びます。それにトレーナー候補生の子供達も」
アララギ博士が視線をやったのは二人の子供であった。
両者共に、ノアは知っている。
少女のほうがベル。眼鏡の少年がチェレンと言ったか。
特にベルのほうは夢の跡地での一件で印象に残っていた。
「失礼ながら、チャンピオンほどのお方が何のご用事で? まだ聞いていませんでしたね」
カロス産の紅茶が入れられる中、アデクは咳払いする。自分から言え、という事なのだろう。
「その……このカノコタウンに少年トレーナーは何人いますか?」
少し遠めの場所から切り出さないと、自分が未来から来たなど言えそうになかった。
アララギ博士は、そうですね、と思案する。
「二人と同じくらいの歳の子ならば、少ないですわ。あと一人、いたかいないか」
その言葉にノアは確信めいた声を出した。
「そのもう一人、というのは……まだトレーナーには」
「なっていません。ベルトチェレンも、来月になったらトレーナー登録を済ませる予定です。元々、イッシュはカントーやジョウトの二の轍を踏まないように、少し遅めにトレーナー登録可能にしてあるんです。トレーナーの受け皿の深刻さは身に沁みていますからね」
ノアは急く気持ちを抑えながら、言葉を紡いだ。
「その、もう一人の名前は――トウヤですよね?」
彼――トウヤがここにいるはずなのである。
まだ旅立つ前の、もう一人の英雄。
このイッシュの王になるべくしてなった、もう一人の自分に。
当然ながらその言葉には応答があると思っていた。
だが、アララギ博士の示した反応はこちらの意表を突くものであった。
「トウヤ……? そのような子供はいませんけれど」
ノアは言葉を失っていた。
いない、とはどういう事なのか。
「いないって……いないはずがないでしょう。だってもう一人いるって今」
「いるか分からない、という意味だったのですけれど……。チェレン君、いたかしら?」
チェレンは頭を振る。
「いえ、僕の知っている限りでは同い年なのは僕とベルだけです」
そんな、とノアは眩暈を覚える。
そのようなはずがない。トウヤという少年がいるはずなのだ。
この場所にいないとなるとどこにいるのか見当もつかない。
「大丈夫か、ノアタロー」
動揺を感じ取ってアデクが声にする。その言葉もどこか遊離して感じられた。
トウヤがいない。
だがこの時間軸は存在する。
その矛盾にノアは額に手をやっていた。
唯一のすがれる場所が失われた気分であった。
トウヤがいれば、この時間軸は修正可能であったのだ。だが彼がいないのに、この時間軸は進んでいる。
――何かが違う。
自分がアデクと出会えたように、この時間軸はかつてのプラズマ団隆盛の時間軸ではないのか。
そこで思い至った可能性に、ノアは言葉にしていた。
「ボクがいた頃と、少しずつ異なっているのか……」
そう思うしかない。
自分の記憶との齟齬は、この時間軸が別の時間であるという証明になってしまう。
困惑した様子のアララギ博士はアデクへと問いかけていた。
「その、どういう……」
「うぅむ……、ワシにも分からぬが、ノアタローの思っていた風ではない、と思えばいいのか?」
トウヤがいないのならばこの時間軸は何だ?
どうやってこの次元のNに対抗する?
考えを浮かべかねていたノアにふと差し込んだ声があった。
「トウヤ、ってのは知りませんけれど、あの人なら似たような名前じゃありませんでしたっけ?」
チェレンの言葉にアララギ博士が手を打つ。
「そうね。あの子の事なのかしら? でもそれならおかしいというか……もう旅に出ていますよ?」
「して、それは何という名の?」
アデクの問いかけにチェレンが肩を竦めて応じる。
「あの人は問題児です。カノコの出身だって言いたくない」
「チェレン君。彼女だって立派なトレーナーなのですから」
「彼女……?」
ノアが面を上げる。アララギ博士は少しだけ顔を曇らせた。
「あまりいい成績の子じゃなかったから、ああいう物言いになってしまうんです。それでもトレーナーとしての才覚はピカイチで……多分、私が見てきた中でも、最強に近いトレーナーでしょう」
アララギ博士がそう絶賛するほどのトレーナーなど存在するのか。
ノアは覚えず身を乗り出していた。
「その、名前は……?」
「――トウコです。トウコ・キリシマ」
チェレンのぶっきらぼうな声音にアララギ博士が制する声を出す。
「トウコお姉さん、でしょう。すいません、チェレン君とあの子は仲が悪かったみたいで」
取り成す言葉を発するアララギ博士を他所に、ノアはその名前を反芻していた。
――トウコ・キリシマ。
トウヤではなく、その人物がこの次元における英雄なのだろうか。
判ずる術もなく、アララギ博士に問いかける事も、今のノアには出来なかった。
希望は潰えたのか。それとも――。
何一つ分からないまま、研究所に斜陽の光が差し込んできた。
街に行くとやはりというべきか、毎度の事ながらジムリーダーに会わせろというのが自分の第一声であった。
当然、それを阻むジムトレーナーとのバトルにもつれ込む。
だがそれこそが彼女の目論見であった。
強くなるのには手段を選んでいられない。それこそ、大人数とのバトルでも請け負う覚悟があった。
ヒウンシティのジムリーダーは確かアーティという先鋭芸術家だ。
だからか、芸術家肌のトレーナーが数多い。
「行け! マラカッチ!」
出現したのはサボテンのような威容を持つポケモンである。マラカッチ、という名前のポケモンが両腕の棘を突き出し、攻撃に転じようとする。
その前に白い体毛のポケモンが跳ね上がった。
マラカッチの射程に入ったかと思うと、すぐさま力任せにマラカッチの攻撃を制する。
舌打ち混じりの声が飛んだ。
「そんな、愛玩用のポケモンで!」
「愛玩用? それはアタシが決める事であって、そっちの決める事じゃないでしょ」
彼女の声に相手は怒りを抑え切れずにマラカッチに指示していた。
「花吹雪!」
瞬間的に発生した新緑の暴風がこちらのポケモンを包み込もうとする。まともに受ければそれこそ大ダメージであろうその攻撃を、彼女はピンと指でコインを弾きつつ応じていた。
「このコイン、表が出たらアタシは防御する。裏が出たら、反撃する」
そのスタンスに相手が青筋を立てる。
「嘗めているのか! ポケモンバトルだぞ!」
「嘗めてないよ。いつだって、ポケモンバトルにはスリルがいる。アタシはそのスリルを全力で楽しむだけ」
「後悔する! マラカッチ、全包囲攻撃」
完全にこちらのポケモンを射線に入れた「はなふぶき」に対し、彼女はコインを手の甲で受け止めた。
「――裏、だね」
その言葉が紡がれた途端、新緑の疾風が霧散する。
何が起こったのか、相手トレーナーには分かるはずもない。
「何をした……。そんな、小さなチラーミィで」
こちらのポケモン――チラーミィは短い手を振って新緑の風を受け止める。その瞬間、新たに巻き起こった暴風がマラカッチへと襲い掛かった。
完全に攻撃を逆転させた。
その瞬時の攻防に相手はついてこられていないのか、マラカッチが戦闘不能になったことさえも分からなかったようである。
「どうして……負けたっていうのか」
「はい、負けた側は賞金とそれに、ジムリーダーへの挑戦許可。もらえるよね?」
挑発的な声音に相手は恐る恐る尋ねていた。
「お前は……何者なんだ?」
彼女は一つ結びにした髪を払い、相手へと宣言する。
「――トウコ。トウコ・キリシマ。覚えておきなさい。このイッシュで、チャンピオンになる名前よ」
第三章 了