FERMATA








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三章 N∽N
第32楽章「Sacrifice」

 ヴイツーの怪我の程度ではフキヨセシティからすぐには旅立てない。

 その医者の判断に、アデクとバンジロウは従ったようであった。

 電気石の洞穴から出てきた自分を、二人は幽霊でも見たかのように目を見開く。

「驚いた……兄ちゃん、マジに勝ったのか?」

 その言葉に素直に頷けないのはあの眼帯のNが言っていた事柄が引っかかるからだった。

 ――自分達はこの時間軸に放り込まれた思考実験の道具。

 そんな事のために、一つの次元が歪められようとしている。

 それを是とするわけにはいかない。分かっていても、ではどうするか、という最善案は浮かんでこないのである。

「ケルディオを回復に回すぞ。相当に疲れておるはずじゃ」

 ポケモンセンターに寄る際、ノアはヴイツーの容態を聞き及んでいた。火傷の痕は消せない事。さらに言えば、自分達に遅れて合流する可能性が高いとの事であった。

「フキヨセから、すぐに出られるんですか?」

「身内に航空機専門の知り合いがいてのう。アポを取れば一両日中には飛び立てるそうじゃ。元々、輸送機だからそれほど快適な旅ではない、との事じゃったが」

 快適な旅路を期待しているわけではないが、ノアの懸念事項に浮かんだのは自分達を守るために身を挺したヴイツーであった。

「その、彼は……、ここで別れてもいいのではないか、とボクは思っています」

 その言葉にアデクが瞠目する。

「どうしてじゃ? 彼奴の何かが不満か?」

「いえ、そうではなく。あれほどまでに、ボクらのために戦ってくれていても、彼に着せられるのは裏切り者の汚名だけ。そんなの、ボクが許せない」

 ここで放っておけばプラズマ団に追いつかれる可能性もある。その事も考慮に入れての事であったが、バンジロウが拳を固めて応じていた。

「心配いらねぇ……。約束したんだ、あんちゃんと。絶対に裏切らねーし、何よりも、絶対に追いついてくるってな」

 バンジロウの誓った純粋な約束は恐らく守られる事だろう。ヴイツーは義理堅い性格だ。嘘を言うとも思えない。

「でも、彼を置いておくのは……」

「その辺の心配なら要らないわ」

 歩み出てきたのは水色のパイロットスーツを身に纏った少女であった。オレンジ色の髪を頭頂部でプロペラの紙紐で結び付けている。

「フキヨセジムリーダー、フウロ。ワシの古い知り合いの孫でな。彼女がいる限り心配は要らんよ」

 ジムリーダー相当と知り合いであったか。ノアが困惑していると、フウロは出し抜けに微笑んでノアの手を取った。

「何だか心配性な顔だなぁ。でもま、大丈夫! アタシがいれば、火傷の彼には絶対に手出しさせないからっ!」

 晴れ晴れとしたような声音にノアは自然と信じ込んでしまう。それほどの求心力が彼女にはあった。

「姉ちゃん、あんちゃんを頼むよ。絶対に、プラズマ団の奴らには手出しさせないでくれ」

「うん! お任せあれ! このフウロ、挑戦者以外には負ける気はしないからねっ!」

 バンジロウと指切りするフウロにノアはアデクへと視線をやった。

「……強いんですか」

「ジムリーダーは挑戦者と戦う時のみ、セーフティを付けるものじゃ。しかし、それがイレギュラーな戦いの場合は違う。それ相応のポケモンを出してくる。それも強力な奴をな。ワシはそれを知っておる」

 だからこそ、頼れるのはジムリーダーか。得心の行ったノアは改めてフウロに願った。

「その、ヴイツーの事、よろしくお願いします」

「任されたっ!」

 胸元を叩いたフウロの頼もしさにノアはひとまず懸念事項を仕舞う事が出来た。

「後は、離陸準備じゃな。フウロの父親は運送業をしておってのう。航空機の扱いはなれたもんじゃて」

「空での追撃は……」

「そこまでは読めん。じゃが、恐らくは不可能であると推測される。空を飛ぶで追撃しようにも、それは高度が限られた場所でのみ。それ以上はトレーナーの身体が持たんよ」

「そらをとぶ」という移動手段をポケモンに取らせればあるいは、であったが、飛翔と同時の戦闘は思いのほか技量を必要とする。

 この場合、航空機に追いつけるポケモンは事実上存在しない。

 ポケモンのみ、ならばまだ追撃可能であるが、トレーナーを乗せたポケモンが追いつける速度ではないのだ。

「では、逃げ切れる、と思っていいんですよね」

「ノアタロー。慎重が過ぎないか? お主はあのNを倒したのであろう?」

 それは、と口ごもる。

 相手もこちらを嘗めていた。だからこそ取り得た白星でもある。

 それを言いそびれている間にアデクは言葉を継いだ。

「ヴイツーとの面接許可が出ておる。言える事は言っておけ」

 それだけだ、とアデクは身を翻した。その背中は既に自分の事は理解している風格があった。

 見透かされているな、とノアは胸元で拳を握り締める。

 ヴイツーが入院しているのはフキヨセシティ、ポケモンセンターの二階であった。

 人間用の医療施設も存在するポケモンセンターの一室で、ヴイツーは救命措置を受けていた。

 とは言っても、この時代の救命措置は包帯を巻くだの、手術するだのではない。

 カプセルに一定時間入っていれば自動的に処置が施されるのだ。

 それでも火傷は消えない、と釘を刺されていた。

 引きつったように半身を火傷が覆っている。

 痛々しいその姿にノアは何を言えばいいのか分からなくなった。

 助けてくれてありがとう、とでも謝辞を述べるつもりか。

 だが、ここで彼を見捨てようとしていた冷酷さもある。自分は結局、どっちつかずの優しさで他人を傷つける。

 そのせいで今まで無意識のうちに傷つけていた人は数知れないだろう。

『よぉ、来たのか』

 カプセルの内部からヴイツーが笑みを浮かべる。思っていたよりも快調そうであったが、傷を見るに動ける状態ではない。

「その、ボクは……」

『勝ったのか? あのアンチクショウに』

 その問いにノアは首肯する。

「ええ、勝てた」

『そりゃ、よかった。それなら、いいんだ』

 まるでこのまま眠りについてしまいそうなほどの安らかな声に、ノアは必死に言葉を手繰らせた。

「その、ボクは……ボクらはこれから、カノコタウンに向かう。向かわなくっちゃいけない」

『ああ、ちょっとばかし遅れるがおれも行くぜ。あんまりサクサク行くなよな』

 その舌鋒は全く衰えていない。無理をしているのか、とも思ったが、ヴイツーの不敵な笑みは真っ直ぐに中空を睨んでいる。

「その……ここで、キミを置いて行く事になる」

『いいさ。足手まといになるのなら、置いていかれたほうがマシだっての』

「でもキミのお陰で……! ボクは勝てた。生き残る事が出来たんだ」

 脳裏に浮かんだのはこの時間軸に送り込まれているという他のNの行方であったが、それ以上に、目の前のヴイツーへの信頼があった。

 自らの身を挺して戦ってくれた彼には感謝しかない。

『よせよ。おれは咄嗟に動けたからそうしたまでだ』

 そのぶっきらぼうな言葉にも、ノアは篭る優しさを感じ取れた。彼は裏では戦闘マシーンであったのかもしれない。それこそ、自分の知らない時間軸ではただ裏に生き裏に死ぬだけだっただろう。

 そんな彼の一時を知る事が出来ただけでもよかった。

 自分は、ただの無知蒙昧な存在で終わらなくって済む。

『でもよ、これから先、もっとヤベェ奴が出てくるんだろ?』

 自分の記憶通りならば、ダークエコーズよりも強い実戦部隊は存在する。

 ――ゲーチス直属、ダークトリニティ。手合わせした事はないが、相当の強さなのはその身振りからしても明らかであった。

「……もしかしたら、プラズマ団の直属部隊と戦う事になるかもしれない」

『おれがやれりゃあ、な。だが、まぁ、安静にしておけって言われたのも一週間前後だ。その程度の我慢でいいのなら、おれは我慢するよ。ノア、てめぇはせいぜい、気張りな。気張って、この時間軸をどうにかしてくれ。プラズマ団を……出来る事ならば止めてくれ』

 僅かに濁したのはその意味を判じたからであろう。

 プラズマ団を止める時、自分は生きているのだろうか。

 この時間軸のNと相対せねばならない。その時、自分は対消滅の運命から……。

 ノアはしかし、今だけはその不安を振り落とす。

 拳を胸に当て、固く誓った。

「絶対に、ボクはプラズマ団を止める」

 その言葉を聞いて安心したのか、フッと笑みを浮かべたヴイツーは瞼を閉じた。

『ちょっくら疲れた。寝るわ。おれが寝ている間、アデクの爺さんとバンジロウの飯は、任せたぜ、ノア……』

 静寂が降り立った。

 ここでヴイツーとは一旦別れなければならない。

 それでも、彼と旅が出来た事を、自分は後悔していない。

「ありがとう、ヴイツー。ゆっくり休んでくれ。ボクは、ボクのやるべき事がある」

 そう結んで、ノアは病室を去った。



オンドゥル大使 ( 2017/08/04(金) 21:12 )