第31楽章「地獄の季節」
謁見の場と言っても全くプライバシーなど度外視したカメラの集積地帯である。
赤い絨毯の部屋に謁見する者とされる者が対峙する。それだけのシンプルな場であったはずなのだが、自分の傍には従者が侍り、いつでも相手の首を落とせるようにモンスターボールはアクティブにされている。
現れたのは一人の男であった。
周囲を見やり、それから嘲笑を口元に刻む。
「二人きり、ではないのですね」
「あなたのような身分では、平和の女神との直接対峙などあり得ない」
自分より従者のほうが幾分か神経を尖らせている。ヘレナは手を掲げ、相手に名乗らせる事にした。
「して、あなたの名は?」
「お初にお目にかかります。我が名はヴァルキュリアスリー。ヴィオ様直属部隊、ダークエコーズが一人」
ダークエコーズ。
その名を聞いたのはつい数十分前である。
汚れ仕事を担当する、ヴィオの直属。ダークトリニティの後釜を狙って設立された私兵でありながら、そのうち一人が裏切り空中分解寸前の部隊であると。
何故、そのような人間が?
胸のうちに湧いた疑念をヘレナは口にする。
「何故、私に会おうと?」
「必要だったからです」
「必要? 私に会ったところで、あなたと私とでは決して交わらないでしょう。本来ならばお互いに知らない立場のはずであった」
ヘレナの飾らぬ物言いにヴァルキュリアスリーは口元を緩める。
「……聞いていたよりも聡明のようだ」
「口を慎みなさい。女神の御前であるぞ」
従者の重々しい声音にヴァルキュリアスリーは恭しく頭を垂れた。
「これは失礼。ですが、正直なところで言えば、女神と言っても人の子。ワタシが思っているほどではなかった、というだけの話」
「貴様……!」
怒りをぶつけそうになった従者をヘレナは手を掲げて制した。
「ヴァルキュリアスリー。あなたが何をもたらすために、私との謁見を望んだのか。それを聞かせてもらいたい」
単刀直入に。他の物言いを許さぬ声音であった。
それを理解したのか、ヴァルキュリアスリーは先ほどまでの婉曲的な言い草を改める。
「ここに来たのは、一つの事のため。プラズマ団の悲願、戴冠式を中止願いたい」
その言葉にヘレナは息を呑んだ。従者に至っては明らかに怒声を張り上げるところであった。
「貴様……狼藉もそこまでなると……!」
「これは、ご忠告に参った、というべきなのでしょう。戴冠式はやめておいたほうがいい」
冷静なヴァルキュリアスリーにヘレナは問い質す。
「理由を。それが納得出来れば考えなくもない」
「ヘレナ様? しかし、このような下賤なる者の言葉など……」
「聞いていられない、か、あるいは聞いても知らぬ振り。通常ならばそれでいいのでしょう。でも、私としても気になる事がある。彼はそれを知ってこの謁見を申し出たのではないかしら?」
「聡明なお方で助かる」
上辺ほどにも思っていない言葉にも、ヘレナは面持ちを崩さない。
「何故、戴冠式の取りやめを願うのか」
「戴冠式を狙う組織、あるいは個人が存在する可能性が濃厚であるからです」
「それを潰すのが、貴様の役割であろう」
従者の言葉はもっともだ。汚れ仕事専門の人間がここに来るのはおかしい。
「ワタシはご忠告に参ったのみ。決定はヘレナ様、あなたがなさるのです。ただ、汚れは汚れなりに、知っている事が多い、とだけ言っておきましょう」
この男はNを巡る直近の出来事を分かっていて、自分に謁見など申し込んでいる。
その確信にヘレナは言葉を継いでいた。
「……少しだけ二人に」
「ですが、ヘレナ様……!」
「大丈夫です。私は大丈夫」
いざとなれば勝てる自信があるわけでもない。ただ、この男は二人きりにならなければ口も割らないだろう事は理解出来た。
従者が怒りを飲み込み、すっと下がっていく。
その気配が失せてから、ヴァルキュリアスリーは声にしていた。
「随分と警戒されている」
「最近、神経を尖らせる出来事が続いているのよ。あなたには分からないだろうけれど」
「直属部隊です。分からないほうがいい」
動きに支障が出るのならば、内々のトラブルなど知らぬほうがいい、というわけか。
「して、あなたの言う通りならば戴冠式をやめて、N様を王にしない、という事になるけれど」
「それだけではございません。……まことに情けない次第なのですが、我が方に裏切り者が出ました。名をヴァルキュリアツー」
そのカードを今切ってくるのか。ヘレナは驚愕に目を見開く。
「……意外ね。あなたはそれを言い出さないものだとばかり思っていたけれど」
「失態には違いありません。それに、ワタシはこう思っているのです。我らダークエコーズを離散出来るすれば、それはたった一人をおいて他ならない、と」
「誰、だというの?」
一拍置いて、ヴァルキュリアスリーは応じていた。
「――プラズマ団の王。この世界の支配者となるお方。N様をおいて他にはございません」
相手は知っているのか。
無数に存在するとしか思えないNの足跡。それを自分が辿っている事を。
否、知らないと考えたほうがいい。これは勘繰っているのだ。
「それで? そんな妄言を私が信じると?」
「妄言、でしょうか? これは、しかし、ワタシが実感としてひしひしと感じ取ったもの。あれはN様ではないのか、という予感」
「あなたの言葉は要領を得ていないわ。私に何を言わせたいの?」
ハッキリと言えばいい。その声音にヴァルキュリアスリーは、では、と前置いた。
「言わせていただきます。反逆者の排除。それが我々の任務でありました。ですがその相手、あまりにも似ている」
誰に、というのは最早愚問であろう。
「生き写しだとでも言うの?」
「これを」
差し出されたのは写真である。ヘレナは椅子から腰を浮かせてそれを受け取った。
写真を目にした途端、全神経が逆立った。
そこに写っていたのは灰色の髪の、Nとしか思えない人物であったからだ。
だが、それをすぐNだと認めるわけにもいくまい。トリック写真の線を、まず疑った。
「こんな、写真一つで私がどう思うと?」
「おや、案外、これの事を知っておられると思っていましたが」
「N様の紛い物? どこの組織のものなのかしら」
自分がNの偽物と直接対峙した事はまだ伏せておく。その上で、相手がどう動くか見なくてはならない。
「どこの組織のものか、ですか。それを説明するのは少し難しい」
トリックではないのか。口に出しかけたその可能性を、ヘレナは逆に利用するべきだと考えた。
「こんなもので、私にどう動けというの? N様の偽者がいる、だから戴冠式は危険だ、とでも?」
相手の手札を全て見なければ自分は一枚も切るつもりはない。
その心積もりを見せたつもりなのであるが、ヴァルキュリアスリーはフッと笑みを浮かべる。
「戴冠式取り止めが行われれば、N様が王になるまで時間がかかる。ゲーチス様の磐石な支配が成される前に、その動きが鈍るでしょう」
まさか、とヘレナは目を戦慄かせていた。
「ゲーチス派の動きを牽制するための、道具にするつもり?」
プラズマ団は大きく二分化されている。
一つはNを信奉する派閥。もう一つがゲーチスの支配を望む派閥だ。
Nを信じる者は自分達女神を含めて純粋にポケモンの解放を望んでいる者が数多い。だがゲーチス派はそうではないという見方がある。
プラズマ団という巨大組織を利用しての資金洗浄、あるいは隠れ蓑にしてのポケモンの研究。
どちらにしろ、ゲーチス派にいい噂は聞かない。
この写真と、Nへの対抗策という考えをちらつかせれば、ゲーチス派は大きく遅れを取るであろう。
張子の虎としてNを利用しているのは自分達の目から見ても明らかだ。その動きを加速させないために、戴冠式を遅らせる。
その事によって間接的にゲーチスの動きを制する事が出来る、と。
だが、この運動は大きく矛盾する。
「あなたの直属であるヴィオ様は、ゲーチス様の派閥のはずでしょう?」
その通り。ヴィオはゲーチスの忠臣。裏切る事はまずないと思っていい。だというのに、ダークエコーズの一人がこのような動きをする事自体、不自然なのだ。
「恐れながら、ヴィオ様は器ではない、とワタシは個人的に判断しています」
器ではない。それはヴィオの実力を見ての事か。あるいは組織の中での動きを鑑みてか。
どちらにせよ、直属の部下が吐く言葉とは思えない。
「あなたは……最後の最後までヴィオ様にお仕えする使命があるのではなくって?」
「ワタシには忠義が分からぬのです。あるのは冷静に判断するだけの事柄。ヴィオ様は器ではない。その事実と、この写真の裏づけがあれば、ゲーチス派は大きく遅れを取る。その場合、台頭してくるのはN様至上主義の人間。あなたのような人間ですよ、平和の女神、ヘレナ様」
従者がいれば今にも殴りかねない言葉である。自分と二人きりに、と言った意味はこれか。
Nをプラズマ団の真の王に。それは考えた事がないと言えば嘘になる。
ゲーチスの支配をよく思わない人間がいるのも事実。
だが、ゲーチス派に属するヴァルキュリアスリーがそれを言うのは間違っているのではないか。
――試されている?
ヘレナは胸中にそう感じ取り、ここから先の言葉を慎重に選んだ。
「それは……私に、戴冠式を取り止めさせた挙句、N様を王にするためにゲーチス様を排除せよ、と言っているのかしら?」
つまり自分に反ゲーチス派としての矢面に立て、と。
ヴァルキュリアスリーは肯定も否定もしない。
「ポケモンの解放。それが詭弁じみているのはあなたが一番によく分かっているはず。N様と幼少期を過ごされたあなたならば、その言葉にも説得力がある」
驚くべき事を言うのだな、とヘレナは戦々恐々であった。自分に、ゲーチス排除とNの擁立。
二つの事を同時にしろと言っているのだ。
ヘレナは頭を振った。
「せっかくだけれど……あなたが思っているほど私は高尚な理念も持っていない。ポケモン解放も、それがN様の望みだから手伝っているだけ。私が真に、平和の女神であるわけではない」
「ではN様が望めば、あなたは何でもなさるのですか?」
その言葉にヘレナは一呼吸置いてから応じていた。
「……そうね。死ねと言われれば死んでいるわ」
その言葉を聞き取り、ヴァルキュリアスリーは笑みを浮かべた。
「思っていたよりもあなたは聡明のようだ。目先しか見えていないお飾りかと、軽んじていたワタシをお許しください」
反逆者の写真をヴァルキュリアスリーは受け取ろうとする。ヘレナはそれを少し躊躇った。
「……これは、本当にN様ではないのね?」
「見れば分かるでしょう? N様はこのような髪の色ではございませんし、何よりも目つきが違う」
「そうね……この者の眼はまるで……地獄を見てきたかのよう」
深淵を覗き込んだ者しか浮かべる事の出来ない暗さを湛えている。
同時に、これがNではないと言い切れないのも事実であった。何故ならば、Nもこの世の地獄を知ればこのような眼になるかもしれないとどこかで思っていたからだ。
「しかしN様は地獄など知らないでしょう」
ヴァルキュリアスリーの言う通りだ。Nはまだこの世の暗い部分を見据える覚悟が足りてない。
まだこの世界には理想と、それを体現すべき純粋さが溢れているのだと信じ込んでいる。
それがどれほどに度し難いのか、自分は分かっていて忠告も出来ない。
「この世界を汚いと、私が言うのは簡単よ。でも、N様には体現すべき理想がある。純粋さと、それを現実に出来る力。それこそがN様の持ち得る最大の能力なのだから」
Nならばこの世界を変えられるかもしれない。どこかでそう信じている純粋な乙女が、自分の中にいるのだ。
あの森で培ってきた日々を壊さずに、Nならば変えられるのではないか。何もかもを。それこそ人とポケモンの在り方を。
ヴァルキュリアスリーは身を翻していた。
「ワタシが言うべき事はここまでです。戴冠式は取りやめたほうがよろしいかと」
既に三日前に迫った戴冠式である。だがバーベナの不在にNへの疑念。今のままでは執り行えない事もまた、事実の内。
「でも、あの方は王にならなければならない。そうでなければ、プラズマ団は空中分解してしまう」
「プラズマ団の行く末を案じておられるのですか? それは我ら団員の仕事。愛の女神と平和の女神はそこにおわすだけで充分なのです」
そこに居るだけの偶像であれ。ヴァルキュリアスリーの言葉は現実的だ。
自分達はお飾り。所詮はプラズマ団が正しいのだと思わせるだけの存在。
だが、お飾りにもお飾りなりの一家言がある。
「……一つ聞く。その者の、反逆者の名前は?」
ヴァルキュリアスリーは写真をひらりと返した後、静かに答えた。
「――ノア、と名乗っておりました」