FERMATA








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三章 N∽N
第30楽章「我が臈たし悪の華」

 バーベナとシェイミを驚かせたのは翳った空に大写しになったレシラムであった。

 明らかに傷ついており、それに騎乗するNは憔悴している。

「何があったんですか? こんなに……」

「いい。今はボクには構わないでくれ。それよりも、バーベナ。ボクは何としても生き延びなければならなくなった。それこそ、何を犠牲にしてでも。……一回の黒星程度で折れている場合じゃないんだ。この時間軸にはボク以外のボクでも充分に強いのがいる。それが分かっただけでも、脅威なんだ」

 何を言っているのかバーベナには分からない。しかし、見るだけでもNは重傷を負っている。

「怪我の手当てを……! シェイミ!」

 シェイミが草木を操り即席の包帯を作り出そうとする。

 それら全てを断ち切ったのは不意に現れた影であった。

 ハッとしたNが振り返る。

 スッと振り翳されたのは刃そのものの威容を持つポケモンであった。鋼の躯体に、黒と赤の体色が映える。

 出刃包丁のような手を掲げ、そのポケモンが攻撃姿勢に入った。

「何者……と問い質すだけ無駄か。ボクは色々と敵を作ってきたからね」

 ポケモンが姿勢を沈め、Nへと襲いかかる。それを制したのはレシラムの炎熱地獄であった。

「レシラムの灼熱のフィールドがそれを通さない」

「――そう、か。まったく、メンドーだな。レベルと数だけ揃えて」

 トレーナーの声音にバーベナが振り返った瞬間、首筋に向けて手刀が放たれた。

 昏倒していく意識の中、バーベナは仕立てのいい服飾を纏った青年が屹立しているのを視界に入れた。

 眼鏡をかけたその怜悧な瞳がバーベナを見やり、一瞬だけ憎悪に濁ったのが最後の記憶であった。













「驚いたな。まさかキミが? しかしこの時間軸ではおかしい。この時間軸ならば、キミはまだ旅にすら出ていないはず」

 眼帯のNの言葉に静かにネクタイへと手をやり、襟元を整えた。

「僕はいつだって、こんなメンドーな役回りばっかり押し付けられる。でもま、悪くはないと思っているんだ。本当の強さのために、忍耐の一つや二つは重要だからね」

 眼鏡のブリッジを上げ、手に抱えたバーベナの体温を感じ取る。手持ちであろうか、シェイミが新緑の肌を逆立たせて威嚇している。

 心配いらないよ、と唇だけで応じた。

「僕に敵意はない。少なくとも、愛の女神を害するつもりはない」

「本当に、キミだって言うのか? しかし何故……? Nだけをこの時間軸に送っているはずだ」

「さぁね。そのプランにひずみが生まれたか、それとも、そっちの都合で呼び出される僕の苦労も分かってもらいたいものだが。この時間軸の僕との接触は駄目なんだろ? 対消滅、だとか聞いている」

 眼帯のNは歯噛みして名前を紡ぎ出す。

「キミが、敵になると言うのか。――チェレン」

 その言葉にチェレンは嘆息をついた。

「まったく、敵か味方かしか、君は相手を判別出来ないのか? そんな浅慮だったとは思わなかった。僕が見た限りでは、それなりに強い奴だと思っていたけれど、思い過ごしかな?」

「キミがここにいる、それそのものがおかしい。どうして、ボクに敵対する? 何が目的だ」

「何が、か。僕は英雄になれなかった側の人間だ」

 歩み出たチェレンの隣に侍るのはそのポケモン、キリキザンである。

 しかしキリキザンは自分の専門分野のポケモンではない。不意打ちのために育て上げた即席のポケモンであった。

 野性くずれでも、自分の育成方法を使えばそれなりに仕立て上げられる。

 チェレンはNの領域へと踏み入った。その途端、地面から灼熱が巻き起こる。

「動くな! それ以上はボクの領域だ!」

 チェレンは面を上げ、白亜の龍を睨み上げる。

「白き英雄の龍、レシラム。本来どこにあるべきなのか、それを問い質そうじゃないか」

「何を……何を言っている? 英雄は、王はボクだ!」

「それは、確かに表の歴史ではそうなのかもしれない。でもこの時間軸ならば、僕でも英雄になれるかもしれないね」

 その言い回しにNが舌打ちする。

「英雄の成り損ない……、彼と旅をしていながら真の強さを探求出来なかったキミなりの矜持ってわけか」

「真の強さは未だによく分からないんだ。ジムリーダーにはなれた。それなりに強くなったつもりではいる。でも、本当の強さってものが何なのか、まだよく分かっていない」

 掌を眺めるチェレンへとNが哄笑を上げる。

「手なんて眺めている時間はない! レシラム、蒼い炎!」

 レシラムの全身を地獄の炎熱が包み込む。チェレンは片手を払った。

「キリキザン、そのポケモン、背筋が真空地帯だ。飛び込め」

 Nが震撼する。チェレンのキリキザンは跳躍し、「あおいほのお」の真空地帯である背筋へと手刀を叩き込んだ。

 レシラムの動きが鈍る。

「何故……何故、一発で……」

「僕を甘く見ない事だ。彼ほどには成れなかった僕は、それなりに学んだ。強さのために全てを投げ打った。それがどれほどの境地にあるのか、試したくってね。でも、ジムリーダーの規定で本気を出して戦っちゃいけないんだ。最初のジムリーダーって言うのはいわば才能の試金石の意味を持っている。旅路に出たトレーナーを、手痛く迎えるのではなく、これから先、君達はまだまだ出来るって事を示さなければならない。難しいところに据えられた、と思っているよ。でもやり甲斐はあるんだ。それなりに充実はしている。……ただ、本気を出す機会ってのは本当になくってね。動きを見誤れば相手のポケモンを殺しかねない。だからいつもセーブしている。それがクセみたいになっちゃっているから、ちょっとたがを外せばいいんだ。それだけで、僕のポケモンは容易く超えてくれる」

 キリキザンがレシラムの炎の包囲陣を抜け、その足元へと至る。踏み潰そうと足を振り上げたレシラムの射程を見極め、キリキザンは首筋を掻っ切った。

 あまりの速度にNは反応出来ていない。

「何て、速さ……」

「野性くずれでも当たりを引いたみたいだ。キリキザンはこの辺で捕まえてちょっと育てただけだよ。それだけなんだが、僕には悪タイプの素養もあるみたいだね。普段はノーマル専門だから、気づけもしなかったけれど」

 チェレンの声音とは裏腹にキリキザンは正確無比な斬撃を浴びせかける。レシラムが緩慢に首を巡らせた時には、その手刀が頚椎を捉えていた。

「王手、というのはこういう時に使う言葉なのかな」

 Nは圧倒されているらしい。言葉が出ないようで、パクパクと口を開いている。

「どうして……同調している風でもないのに」

「同調なんて、甘い領域だよ。それは、確かに天才の場所かもしれない。あるいは、こう言える。強者の領域、だとも。でも同調なんかに頼らなくっても強いトレーナーと強いポケモンは用意出来る。こういう風にね」

 キリキザンが手を振り翳す。その鋼の刃が閃いた途端、Nは懇願していた。

「待ってくれ! ボクからレシラムが奪われれば、それこそ」

「それこそ、何だって言うんだ? 何も残らない、とでも? いいんじゃないかな。だって、君の役目は終わった。愛の女神をここに連れて来ただけで御の字だ。それともう一つ。――英雄の成り損ない、って言ったね? 僕の事をそう評した奴は、例外なく叩き潰している。完膚なきまでに」

 キリキザンが刃を打ち据えたが、それは峰打ちだ。レシラムの巨躯が昏倒する。

 ゆっくりと倒れ伏すレシラムの背中を蹴って、キリキザンがNの背後へと回り込んだ。

 その刃が首筋に当てられる。

「馬鹿な……。こんな事があって堪るか……」

「あって堪るか、ってのは同感だけれど、僕はただ単に気に食わないからこうしているわけじゃないんだ。Nという個人の氾濫が破滅をもたらすのならば、僕はそれを抑止する。まぁ、僕もこの時間軸の僕と会えば対消滅するんだけれど、まだその時は至らないだろう。この時間軸の僕は旅にすら出ていない。さて、レシラムは殺すには惜しい。貰い受ける」

「ふ、ふざけるな! ボクの力だぞ!」

 荒らげた声音に冷たい刃がすっと添えられた。

「勝った側に、負けた側は何もかもを支払う。世の理だ。それを君が否定するのか? かつて僕の旅路を否定し尽くした、君が。僕はこの時間軸でまで、脇役に甘んじるつもりはない」

「……こ、殺さないでくれ」

 眼帯のNの情けないほどの命乞いに、チェレンは微笑んだ。

「キリキザン、やれ」

 次の瞬間、Nの首をキリキザンの刃がはねた。血飛沫の舞い散る中を、鋼のポケモンが歩み寄ってくる。

 チェレンはバーベナのモンスターボールを手にし、シェイミを赤い粒子にして戻す。

 レシラムも同様だ。Nのボールを使い、レシラムを手にした。

「これで僕の下に集った。レシラム、英雄のポケモンが」

 チェレンは眼鏡のブリッジを上げ、曇天を貫く陽光を受ける。

 その光の中で、高らかに宣言した。

「――僕は、王を超える」



オンドゥル大使 ( 2017/07/30(日) 14:59 )