第29楽章「天譴と超克」
何故、という言葉よりもノアの口をついて出たのは絶望的な声音であった。
「こんな……こんなポケモンが相手なんて」
勝てない。勝てるわけがない。
エンブオーがどれほど育て上げられていてもその次元が違うのだ。
神話を相手では、通常ポケモンは勝つ事さえも出来ない。その牙を届かせる事など。
「さて、もう一人のボク。レシラムを前にして、勝てると思うかい? 思えないのならば判断は速いほうがいい。彼が死ぬ」
エンブオーを目にするヴイツーも、最早虫の息。
ノアは撤退するべきだと感じていた。
ここで粘ってもこの電気石の洞穴そのものがレシラムの鉄壁の守りとなる。
勝利すべきは今ではない。
退かなくては、と思ったその時であった。
アデクが静かに歩み出る。一瞬、それが分からなかったほどだ。
「なるほど。ノアタローの言っていた事、少しは理解出来たわい。お主が、N、とやらか」
アデクがここにいるのが不可思議なのだろう。眼帯のNは胡乱そうに言いやる。
「どうして、チャンピオンがここにいるのか、疑問はあるが、まぁ置いておこう。アデクさん、あなたはボクに負けた。このレシラムでね。だから、ここで退くのは何も恥ずかしくない。そこのボクも、そう思っている様子だし」
その通りだ。アデクは自分の使ったレシラムに敗北する。それはもう、決定された未来なのに。
だというのに――アデクの眼は死んでいないのだ。
それどころか今まで以上に勝利を掴むべく、その眼差しには煌々と闘志が宿っている。
「そうか。お主とそのポケモンが、か。じゃが、ワシは負けんぞ」
「アデクさん。駄目です。一度退きましょう」
「ならぬ。ノアタロー。それだけはならぬ」
「何故です! 負けるのが恥ずかしいわけじゃないって、ついさっき」
「それは真っ当な勝負の話よ。ノアタロー。相手を見よ。彼奴は、真っ当に勝負を仕掛けたか? 違うであろう? 奴が行ったのは騙し討ち。それこそ、勝利とは最も縁遠い代物よ」
アデクの下駄がカランと鳴る。それだけでその胸の内に燃える義憤の炎がありありと伝わってきた。
「チャンピオン、アデク。その判断は賢いかと思われたが……やはりもうろくか」
「もうろく? 何を言っておる。騙し討ちしか出来ぬ卑怯者に、言われたくないのう。よいか、ノアタローもよく聞け! 勝負とは! 一時の戦といえども正々堂々としておらねばならぬ。それを欠いてしまえば、どれほど高尚な勝負であれ! あるいはどれほど低俗な勝負であっても! お終いなのだ! それは勝負とは言わぬ、ただの喰い合いよ。ワシはイッシュ地方、ポケモンリーグチャンピオン、アデク。腐っても玉座につく者として言おう! 貴様の勝負は、勝負ではない!」
威厳であった。
王としての威厳。あるいは玉座につく者としての言葉の重み。
風格が、アデクに凄味を引き立たせる。
彼は、四十年前のポケモンリーグ。その弩級の戦いを生き抜いてきた存在としての説得力が、今のアデクを包んでいる。
――こんな相手に、自分は勝ったのか……。
今さらの感傷が胸を掠める前に、眼帯のNは嘲笑う。
「何を敗者が! 負ければ全てがお終い、全てが無為! その世界で生きてきたんだ、ボクは。だからそんな、軟弱者の理論で、固められた威光なんて!」
レシラムが吼え、アデクへと襲いかかる。
ノアは覚えず声を上げていた。
「逃げて!」
「逃げる? 馬鹿を言ってはならん、ノアタロー。これにワシが負ける宿命だと言うのならば、それを乗り越えてこそ、人間の運命は殊に輝く! 行け、ウルガモス!」
繰り出されたウルガモスの炎が瞬間的に膨れ上がり、レシラムの翼を焼き切ったかに見えた。
だが、レシラムはすぐさま炎で修復する。炎・ドラゴンの神話級であるレシラムに対して同じタイプは意味がないのだ。
「それが無為だと言っている。炎タイプでは、レシラムには絶対に届かない。まさかここまで度し難いとはね。ボクと戦った時も衰えていたが、年波には逆らえないか」
「衰え? 何を言っておる。ワシは、まだやれるぞ!」
下駄を鳴らしたアデクの命令に従い、ウルガモスが鱗粉を撒き散らしながらレシラムへと肉迫する。
その灼熱の領域がレシラムに至ろうとしたが、すぐさま霧散した。
「……言っても分からぬ馬鹿とはこのようなものか。レシラムの炎の前に、半端なポケモンの炎など意味がない。――沈め。レシラム、蒼い炎」
レシラムが翼を翻し、全身から瘴気の如く炎を棚引かせた。
それが網膜に映った瞬間が最期の時だ。
ノアには分かる。レシラムを操っていたのだ。その攻撃が視界に入った時には、既に勝負は決しているのだと。
「駄目だ、こんなところで。ボクは……ボクはもう、失わないと決めた! だって言うのに、目の前で行われる蛮行を、ただ見ている事なんて出来ない!」
ノアの手がホルスターへと伸びる。主の意思に呼応したように、モンスターボールからそのポケモンが跳ね上がった。
「ケルディオ! アデクさんを守ってくれ!」
ケルディオが甲高く吼え、水の皮膜を形成する。防御膜がレシラムの炎を捉え、渾然一体となってアデクへと突き刺さりかけた一撃を制した。
眼前まで迫った灼熱の勢いにアデクは今さらに後ずさる。
「今のは……、ワシが、殺されかけていた……」
「アデクさん、引き受けます」
ノアが前に出る。その背中にアデクは言いやった。
「ノアタロー、しかしお主と彼奴がぶつかり合えば……」
対消滅する。分かっている。だが、それでも目の前で自分の仲間を、これ以上傷つけさせるわけにはいかない。
「ボクには、仲間なんていなかった。ずっと、一人だけで、王として佇んでいたんです。でも、それが違うんだって、アデクさんが気づかせてくれた。王は、民だけでも成り立たなければ、王だけでも成り立たない。人との信頼を勝ち得て初めて、王になるのだと」
「……ノアタロー」
「ウルガモスの翼ならヴイツーを救う事が出来るはずです。今は、退いてください。ボクがこの戦場を、引き受ける」
その声音にアデクは首肯する。眼帯のNは哄笑を上げた。
「引き受ける? 引き受けるだって? 馬鹿を言うな、この時間軸に来た最初のNよ。レシラム相手に、どこの馬の骨とも知れぬ水ポケモン。それがどれほどに愚かしいのかは、ボク自身が知っているはずだろうに」
痛いほどに分かっている。通常のタイプ相性は意味を成さない。
しかしそれでも、立ち向かわずに結果だけを口にする事など、出来なかった。
「御託を並べていないで、来い。ボクは逃げも隠れもしない」
その言葉に眼帯のNがぴくりを眉を跳ねさせた。
「……言っても分からぬのはボク自身も同じってわけか。いいよ。五分くれてやる。その死にかけの人間を運び、ボクから敗走する事を許可する」
「てめー! 兄ちゃんに似てるからって勝手な事を――」
「バンジロウ! ボクが引き受けると言った!」
いつになく強い声音にバンジロウが言葉を飲み込んだ。この戦いは自分のものだ。
自分だけが傷つけばいい。
ウルガモスの翼がヴイツーを包み込み、そのまま電気石の洞穴の出口へと運び出そうとする。
当然の事ながらアデクも共に、であった。
たった一人、自分は残るのだ。
「じィちゃん……! 兄ちゃんが戦うなら、オレも」
「ならぬ。これは、ノアタローの戦い。ワシらが手を出すのはならぬ」
その言葉に戦士なりに伝わるものがあったのだろう。バンジロウは歯噛みする。
「……兄ちゃん。死んでくれるなよ。まだ、オレと満足行くポケモンバトル、出来てないんだからな」
「分かっている。これが終わったらまた戦おう」
アデク達が洞窟を後にする。全員の気配が失せてから、眼帯のNが口角を吊り上げた。
「いいのか? ともすれば全員で立ち向かえばあるいは、かもしれなかったのに」
「いいさ。ボクは、これでも戦ってきた。戦って、勝ってきたんだ。そんなボクが自分から逃げ出す? それはカッコ悪いだろう」
眼帯のNは鼻を鳴らし、電気石の一つに腰かけた。
「外野がいなくなったんだ。ボクらの話をしようじゃないか。この時間軸に放り込まれた、不遇なNという存在の事を」
ノアは気になっていた事柄をぶつける。
「キミは、この時間軸のNじゃない」
「その通り。ボクは、キミから数えれば二年か、それ以上前のNだ。ちょうど、アデクを倒し、その後彼に敗北した、その時のN」
どうしてその当時のNがこの時間軸にいるのか。答えは一つしかない。
「セレビィの時渡り……でも分からないのは、どうしてボクをそう何人もこの時間軸に放り込むのか」
眼帯のNは手を振り翳し、言葉を紡ぎ出した。
「それは――勝者にこそ、相応しい美酒じゃないのかな?」
ここから先は勝ってから聞け、という事か。ノアは戦闘神経を研ぎ澄ます。
「分かった。勝とう」
「本気で言っているのか? 神話級のポケモンだぞ?」
「本気じゃなきゃ、ボクはこんな真似には出ない」
その言葉に眼帯のNがほくそ笑む。
「後悔する! レシラム、ドラゴンクロー!」
レシラムの翼と一体化した爪が空間を奔る。紫色の磁場を帯びた爪による一閃がケルディオへと突き刺さりかけた。
並の「ドラゴンクロー」ではない。それそのものが、空間を軋ませる一撃だ。
ケルディオは軽いステップを踏んでその攻撃を回避するも、電気石を引き裂いた一閃に慄いたのが伝わった。
「怖がるな、ケルディオ。ボクが回避の命令を出す。だから……」
怖がってくれるな、と胸中に念じる。
その段になって眼帯のNは訝しげに目を細めた。
「……おかしい挙動だな。ボクなら、命令なしでも攻撃可能だろう? だって言うのに、怖がるな、だって? そんな事すら必要ない。トモダチの声が分かるのならば、そんな虚栄は必要ないのに」
気づかれてはならない。自分にはかつての能力が全て失われている。ポケモンを操る術も、声を聞く事も出来ない。
全くの無能力者なのだ。それを勘付かれれば一気に攻め込まれる。
「さぁね。ケルディオが特別なポケモン、って事かな」
「ふぅん、そうは見えないけれど……。まぁいいや。潰す事に変わりはない」
眼帯のNが指を鳴らす。レシラムが放熱現象を起こし、周囲の電気石が跳ね上がった。
「熱伝導……、電気石はそうじゃなくっても帯電し、常にエネルギーを溜め込んでいる。それを利用して、全方位からの熱攻撃を可能にする……」
「分析眼は変わらないようだ。でもどうしてかな? キミからはかつてのボクのような気迫が感じられない。どちらかと言えば防戦一方だ」
「それは、どうかな」
全方位からの熱攻撃。ケルディオが水タイプとは言え、食らうわけにはいかない。
電気石が赤らんだ瞬間、ノアは声を張り上げた。
「ケルディオ! ハイドロポンプ!」
角先に集中させた水の砲弾がレシラムに向けて撃ち出される。レシラムは大した行動を起こすわけでもない。
翼が払われただけで水流が霧散した。
分かっている。この程度ではレシラムの防御は突き崩せない。
だからこそ、ノアは次の手を講じていた。
「アクアジェットで背後を取り、電気石を足場に!」
高速のジェット噴射でレシラムの背後を射程に入れる。
レシラムに誤算があるとすれば、その巨躯に比して、この電気石の洞穴は狭い事。
咄嗟の判断は不可能だろう。
レシラムの青い瞳がケルディオを捉える前に、攻撃を叩き込める隙があった。
「ハイドロポンプ!」
最強を誇る炎タイプでも背面からの弱点攻撃には弱いに違いない。
そう確信しての攻撃であったが、レシラムの挙動に迷いはなかった。
「後ろから来るというのならば、背面空間を軋ませる。レシラム、熱放射」
レシラムが全身から炎を発する。それだけで「ハイドロポンプ」が蒸気と化した。
命中する事もない。
いや、よしんば命中したとしてもその炎の鎧を突き崩せるほどの出力ではない。
ノアはケルディオに後退を命じていた。その時には、電気石に向かって龍の爪が振るわれていたからだ。
ケルディオは軽快なステップで避けるも、それは紙一重。
一瞬でも自分が気を抜けば、ケルディオは敗北する。
「解せないとすれば、キミは未来のボクなんだろう? レシラムの行動パターン、攻撃射線、全てを読んでいるのならばもっとうまく立ち回れるはずだ。だって言うのに、何故、初心者トレーナーのような愚を冒す?」
ノアはぐっと言葉を飲み込む。少しでも相手を嘗めてかかれば喰われるのはこちらである。
――落ち着け。正確に、かつ慎重さを心がけていれば、負ける事はないはず。
レシラムに勝てるとは思っていない。
無論、全盛期に近い自分に勝利出来るとも。
だが、負けないようにする戦いくらいは出来るはずだ。レシラムとは言え、密閉空間での戦いは慣れていないはず。
レシラムの攻撃射程は知り尽くしている。その射程を潜り抜けて、眼帯のNに直接攻撃を叩き込む。
その際に逃げられれば僥倖。
その程度に考えていた。
だからこそ、次の瞬間の眼帯のNの言葉に、ノアは戦慄く事になった。
「……面倒だな。キミは、消耗戦に持ち込もうよしている。あわよくば、ボクの眼を一瞬でも眩ませられれば、その時に逃げおおせるとでも。ハッキリ言おう。――嘗めるんじゃない。レシラムを使う、という事がどれほどの事なのか。神話級のポケモンの威力を嘗めてかかった事、後悔させてやる。レシラム、この洞窟そのものを炎の牢獄に変える。蒼い炎」
レシラムが「あおいほのお」を放ったのは洞窟の天井であった。帯電する電気石全体に炎が宿り、灼熱に達した電気石がそれぞれバラバラに動き出す。
そのうち一つが、洞窟の出入り口を封じた。ノアが反応したその時には、電気石自体が脱出不可能は牢獄と化していた。
「……余剰エネルギーで電気石を動かして、退路を塞ぐなんて」
「普通は出来ない? だから言ったろう? ボクとレシラムは普通じゃない。それに、これ以上お互いに時間もなさそうなんだ」
相手が手を掲げる。黒い瘴気は勢いを強まらせて、このままでは対消滅の運命からは逃れられそうになかった。
ここで決するしかない。
どちらかが生き残り、どちらかが死ぬしか、この場で生き残る術はないのだ。
「さて、お喋りも尽きたかな? もう一人のボク。顔に余裕がなくなってきた」
ケルディオで戦う手段を頭の中で構築しようとすればするほど、それは悪手となってノアを襲う。
――駄目だ。この場で、勝つ手段が見当たらない。
敗北を感じ取った表情に、眼帯のNは嗤う。
「どうやら、物分りがいいのは変わっていないらしい。さぁ、死の瞬間だ」
眼帯のNが指揮棒を振るうように手を払う。
レシラムがその腕に炎の弾丸を抱え込んだ。恐ろしく密度のある炎の球体に唾を飲み下す。
あれを受ければ骨の一片すら残らないだろう。
ケルディオで防御を、と考えたが、ケルディオも足が竦んでいる。
どう足掻いても、勝てない。
敗北を前にして、ノアは目の前が暗くなったのを感じた。
真っ暗な闇に、意識が落ちそうになる。
「ここでキミを殺し、ボクがこの時間軸の王となる! レシラム、やってしまえ!」
レシラムの炎がノアを焼き尽くさんと迫る。
終わった、とノアが感じた、その時であった。
水流が激しく迸り、迫り来る炎を次々と鎮火する。
赤と青の攻防の中、ノアは確かに目にしていた。
ケルディオが自らの身を挺して、水の防御膜を全開にしているのを。
その攻撃が緩みそうになりながらも、ケルディオは諦めない。体内の水を余さず使い切りかねない勢いで炎を消し飛ばしていく。
まだ、諦めていないのだ。
どうしてそこまで、と考えかけてノアはハッとする。
ここを引き受けると言った。その覚悟は、ケルディオも持っていたのだ。
己と同じだけの覚悟を手にして、ケルディオはこの戦場を引き受けた。
だからこそ、逃げない。自分からは負けを絶対に認める事はない。
最後の最後まで、生き意地が汚くとも、戦い抜く。
ケルディオの水流に眼帯のNが舌打ちする。
「ポケモンに助けられたな」
ケルディオは荒い息をつき、今にも崩れ落ちそうであった。
それでも主を守り、己の意地を貫き通した。
――自分はどうだ?
敗北を認め、弱さを飲み込もうとしていた。
この戦場を引き受けた、と言っておきながら。
ノアは拳を固め、それで思い切り己の頬を殴りつけた。
口中に広がる血の味を感じ取り、ノアは立ち上がる。
「まだ、ボクは生きている」
「だから? 生きていても、底意地が汚ければ」
「いや、生きている。それだけで、ボクは立ち向かえる。そうだ、そんな簡単な事を、ボクは見落としていた。いつだって、トモダチが一緒にいてくれたのは、ボクが彼らの声を聞けるからだけじゃない。彼らにとっての輝きになれたんだ! それを、ボクは見失っていた。ボクは戦う! それこそ、血の一滴まで!」
ケルディオが呼応して吼える。水流が捻じ曲がり、砲弾を形作った。
それを目にして眼帯のNが息をつく。
「……おいおい、ここまで底意地が悪いと、心底馬鹿としか言いようのない。未来のボクだから少しは敬服の気持ちがあったんだが、やめだ。キミを殺すのに、ボクには一片の躊躇いもないよ。醜いものは、消え失せろ」
「その偏狭さが、いずれボクを破滅させる!」
「どっちが、かな」
レシラムが挙動し、ケルディオを叩き潰そうと迫る。ケルディオはその射線を潜り抜け、電気石を足がかりにレシラムの直上へと舞い上がった。
「さっきまでよりかはキレがある! だが、射線に入ればお終いだ!」
確かに、どれほど策を弄そうと、レシラムの体表に触れればそれだけで気化する。
「だからこそ、ボクとケルディオは戦い抜くと決めた。ケルディオ、アクアジェット!」
水流を身に纏ったケルディオが高速の動きでレシラムへと突き刺さる。その攻撃に目を瞠ったのは眼帯のNだ。
「何を……何をやっている? レシラムに触れればそれだけで燃え尽きるほどの熱量なんだぞ。それを策もなくポケモンにやらせるとは……地に堕ちたか!」
「言ったろう。まだ勝負はついていないと!」
レシラムの体表を滑り、ケルディオが角を突き出す。
「アクアジェット」は一瞬でもレシラムの射線に入るための布石。本懐はその角による打突である。
しかし、うまく行くかは分からない。それどころかケルディオを死なせてしまうかもしれない。
――だがそれでも、諦めを踏み越えるのならば。
「ボクは戦う!」
ケルディオが蹄を打ち鳴らし、角を突き上げた。
「インファイト!」
叫びと共に瞬間速度の攻撃がレシラムに叩き込まれる。レシラムが僅かに攻撃に傾いだ。
全身を粉にするほどの勢いだ。
ケルディオの咆哮にレシラムが怯んだかに見えた。
「インファイト……? 格闘なのか? だが、そのような小手先で!」
既に布石は打たれた。「インファイト」は二つ目の布石。
レシラムに直接攻撃する。それこそが、ノアの考え出した策であった。
触れれば炭化するほどの熱量を持つポケモンは確かに存在する。
だが、それを常に放出し続ける事はあり得ない。自らの足場を融かしてしまいかねないからだ。
あるいはトレーナーに危害が及ぶ場合がある。
つまり、絶対に無風地帯が存在する。
その無風地帯を見極めるのに、直接攻撃の必要性があった。
レシラムの攻撃真空地帯はどこなのか。
たとえポケモンと喋る能力が失われていても、かつてのトレーナー能力が損なわれていても審美眼だけは消えていない。
衰えていないノアの眼が捉えたのはレシラムの背筋だ。背筋を中心軸として炎の無風地帯がある。
そこにこそ、活路が見出せるはずであった。
「ケルディオ! 背骨だ! そこが無風地帯になっている!」
ノアの命令に眼帯のNが瞠目する。
ケルディオは足場を水で形成し、一気に跳ね上がった。
電気石の洞穴は狭く、すぐさま振り返る事は出来ない。
巨躯であるレシラムが背骨を狙ったケルディオへとすぐに攻撃する事は出来ないのだ。
角が突き出され、ケルディオは推進剤のように水を放出した。
一条の彗星と化したケルディオの一撃が背骨へと食い込む。
レシラムがその一撃に呻いた。
「レシラムの……絶対防御を……」
「――崩した。叩き込め!」
無風地帯へと「インファイト」が矢のように注がれる。高密度の攻撃にレシラムが苦悶の声を上げた。
「レシラム……! 馬鹿な、レシラムだぞ……。神話級のポケモンを、ただのポケモンが倒すなど」
「ボクとケルディオを――嘗めるな!」
ケルディオが角を突き上げる。黒白の輝きが角の先端に至り、次の瞬間、突き刺さった箇所の色調が反転した。
――何かが巻き起こった。
だがそれが何なのかを解する術を、自分も、相手のNも持っていない。
ただの一撃がレシラムの背骨に食い込んだだけならばその現象は起きなかっただろう。
ケルディオの一撃を前に、レシラムが姿勢を崩す。
直後には膝を折り、翼から力が失せていた。
眼帯のNも、ノアも言葉を失っていた。
背筋から角を引き抜いたケルディオ自身も、己の力をまだ解していないようである。
攻撃部位に黒白の光が宿った。今はそれしか分からない。
「何が……」
「レシラムが、負けた、だって……?」
その段になってレシラムが戦闘不能である事にノアは気づいた。
「勝った、のか……?」
まだその感慨を噛み締められないのは、今の現象を自分も理解出来ないからだ。
ケルディオが勝利の咆哮を上げる。その段になってようやく実感が湧いてきた。
眼帯のNは脱力し切っている。ノアはケルディオを伴い、歩み寄った。それさえも気づいていないのか、呆然としている。
「ボクが勝った。教えてもらおうか」
歩み寄れば消滅現象が加速する。あまり時間はかけられなかった。
「誰の命令だ?」
まずは誰の命で自分を襲ったのか。それを詳らかにしなければならない。
眼帯のNは引きつったような笑いを浮かべる。
「知ってどうする? この時間軸に放り込まれた時点で、ボクらは合い争う運命なんだ」
「話を逸らすんじゃない! ボクは、何のためにここにいる? 対消滅の危険性はお互いに熟知しているはずだな?」
ノアは眼帯のNの襟首を締め上げる。お互いに黒い瘴気が棚引きいつ消滅してもおかしくなかった。
「わ、分かった! 言うから離れろ!」
眼帯のNがよろめき、ノアから後退する。
「時渡りのセレビィの使い手か?」
「ああ、あれか。あれも要因ではある。始まりはあれでも、しかしながらそれをいざやってみるとなれば、大きな力のうねりが必要になってくるわけだ」
何を言っているのか。ノアは疑問符を浮かべる。
「……どういう意味だ?」
「始まりは。それこそ、些細な事だったのだろうさ。悪の芽を摘むNという人間を、ちょっとばかし時間の牢獄に送ってやろう、って言う、ね。だがそれが思わぬ事柄をもたらした。そのNが、時間軸を変えようとしてきたんだ。当然の事ながら、放り込んだ奴自身、想定していなかった事さ。だがこうも考えた。もし、稀代の偉人であるNを同じ時間軸に放り込んだらどうなるのか?」
「何を……何を言っている?」
「事実だけだ。ボクは事実だけを言っている」
事実だけ。だとすればそれは何とおぞましい事であろう。
稀代の偉人を同じ時間に放り込む。つまり、それは同一人物同士で潰し合いを画策するという事。
「ボクは、ボク同士で殺し合いをしろっていう事なのか」
「平たく言えば、そうなるね。ただ、この時間軸に放り込まれた際のバグなのか。全く同じNはいないらしい。ボクは左目を失った。他のNも何かしらを失っている様子であった。つまり、この時間において完璧なNは一人しか要らないんだ。……キミも、何かを失っている様子だな。髪の毛の色か、それとも他のものかは分からないが、ノア、と名乗っているのもそのためか」
何かを失う。
そのような法則で自分はポケモンと話す能力と、トレーナー能力を失ったと言うのか。
ノアはよろめく。今にも倒れそうであった。
戦闘の緊張が解けたのもある。だがそれ以上に、語られる内容に戦慄していた。
「……ボクが、ボク同士で殺し合う。そんな事が……」
「まかり通って堪るかって言うのは同感だけれど、こればかりはどうしようもない。だからこそ、ボクは先んじて同じNを潰して回っていたんだが、どうやら相手の手は尽きないようでね。どれほど殺しても、別の時間軸のNがこの時間軸に放り込まれる。相手の目的は当初のような自分に害を成す存在の排除ではない。この時間軸におけるNの有用性と、その存在が生み出すパラドックスを解析すると言う、思考実験だ」
思考実験。
そのような一語に自分の存在が集約されるなど信じられなかった。だが、眼帯のNは嘘を言っている風ではない。
真実に、自分達はたった一人のエゴで動かされているのだ。
「……もし、この時間軸に入ったNのうち、一人でも、本物のNを殺そうとすれば……」
「それは、そうなるだろう。この時間軸が時間という楔から外れるだけならばいい。まだ、マシだ。だがそれより悪い事が起こる。必ず、だ。時間は、誰かの都合で巻き戻したり、あるいは速めたりしていいものじゃない。キミがアデクと会っている事でさえもある種の破壊だ。この時間軸が少しずつではあるが、歪みつつある。その歪みを最小限に留めるために、ボクはNを殺して回っていたんだが……敗北すれば仕方はない。ここは身を引く。ノア、キミというボクは殺さない。だがね、同時に言っておく。また戦う事になる、と」
その時、電気石の一つが瞬間的に眩しく輝いた。熱を纏った電気石の眩惑に視界が閉ざされる。
その中でレシラムが静かに動き出すのが分かった。
「ここは退こう。だが覚えておくんだ。キミの存在そのものが、この世界にとっての害悪となり得るのだと。Nは、二人もいちゃいけないんだ」
暗く閉ざされた視界の中、残響するNの声にノアは狼狽する。
どこから攻撃されてもおかしくはなかったが、眼帯のNから攻撃の気配はなかった。
ようやく視界が戻ってきた頃になって傍らに佇むケルディオが水のベールで自分を守ってくれていた事に気づく。レシラムは、と首を巡らせたが、周囲には気配すらなかった。
逃れたのか、とノアはにわかに立ち上がろうとして、腰が抜けている事に気づく。
今しがたの激戦でケルディオも体力の限界が近いようであった。
「ここまで来たのに……ボクの存在そのものが、この時間軸にあってはならないなんて」
その衝撃ははかり知れない。自分は悪を摘むために戦ってきたのだ。それが結果的に一つの時間軸をひずませているなど。
立ち上がる気力すら失せたノアはしばらく電気石に寄り添い、息をついていた。
ケルディオが甲高く鳴いて歩み寄ってくる。
「慰めてくれるのかい? ありがとう。でもボクは、この宿命からもう逃れられないのだろうか」
だとすれば戦うしかない。
戦って勝ち取るしか、これ以上を得る事が出来ないのならば。
――しかしそれは、自分のエゴと何が違う?
押し黙ったノアはようやく、と言った様子で歩み出す。
まだ歩みを止めている場合ではなかった。
「行かなくっちゃ。ボクの、希望へと」
その希望が真に続いているのかは分からない。それでも歩みを止める事は出来なかった。