第27楽章「殉教者の指」
ヘレナは掻き集めた資料を見やり、目頭を揉んだ。
既に三時間が経過している。バーベナ失踪から先の情報を集めるだけ集めろ、と命令し、その命令が執行されてから実に十時間。ヘレナが実際に目を通してからちょうど三時間。
バーベナを攫ったのはNに間違いないのに、その資料を集めようとすると不都合が発生する。
それは同じ時間、別の場所にNがいたという証言が足枷となっていた。
「……同じ時間に、同じ人物が目撃されているのなら、一つは虚偽だと思わざるを得ない……」
この場合、虚偽とされたのはバーベナの従者の証言であった。
Nの従者である乳母が嘘を言う理由がなく、さらに言えば、複数の人間がNを目撃していたため、そちらのほうが有用性はあると判じられたのだ。
当然であろう。客観的に見てもそうである。
数人の証言に、証拠となる足取り。
これを疑うほうがどうかしている。
「……ヘレナ様。休まれては」
従者がマグカップに並々と注いだコーヒーを持ってくる。平時ならば口もつけないコーヒーは、今のヘレナには必要であった。
俗物の飲み物を摂取しないのは女神として成り立ってからずっとであった。
そのためか、数年ぶりのコーヒーの味に、覚えず目をしばたたく。
「こんなのが、コーヒーだった?」
従者は何の躊躇いもなく、コーヒーを口にした。
「ええ、これがコーヒーです」
「そう、そうなのね……」
何も、知らずに生きてきたのだ。
その証明のようで恥ずかしさがこみ上げる。
ヘレナはコーヒーを啜ってから、その苦味に顔をしかめた。
今は、一つでも集中する事だ。そうしなければ、取りこぼしてしまいそうなほど、情報は脆く儚い。
「一つずつ、整理するわ。N様はあの時間、城壁にいた。それを数人の団員と乳母が証言している」
従者は首肯して別の資料に目を通した。
「同時刻、バーベナ様の従者がN様の来訪を確認。しかし、バーベナ様のお部屋には三重のセキュリティが存在します」
「一つは……私と同じく、上等構成員でなければ入れない、という権限。もう一つは、私達そのものが承認しなければ入れない、というもの。そして三つ目が」
「来客の際、自動的に監視カメラが起動する、というもの。ですがご覧の通り……」
従者が声を詰まらせたのは起動したはずの監視カメラの映像はノイズしかなかったからであった。
画面に映る砂嵐を睨み、ヘレナは口にする。
「監視カメラは起動したが、何があったのかを記録していない」
「音声だけでも、と思いましたがマイクも同じく……。これが、何者かの手によるものだとすれば恐ろしいですね」
「ええ、来訪記録を書き換えられる人間なんて限られてくるもの。それこそ、上級構成員……七賢人の協力を疑ってしまうほどにね」
ヘレナは七賢人こそが怪しいと踏んでいたが、実際に七賢人の足取りを追ってみたところ、全員にアリバイが存在した。
「ですが当の七賢人には全員、記録が存在し、絶対のアリバイを保証。これでは打つ手がありませんね」
ヘレナは考えを巡らせる。
如何にして、監視カメラを切り抜けたのか。否、そもそも、監視カメラがあると、知っていなければ出来ない芸当だ。
「記録と記憶の齟齬を埋めるのには、証拠が足りない」
「従者が錯乱していた、と捉えられているようです。証言は聞けそうにありません」
「聞けたとして、妄言と切り捨てられるのがオチよ。このままじゃ、バーベナがどこに行ったのかも分からない」
Nが連れ去ったのか。しかし、Nにもアリバイが存在し、誰一人として怪しい者はいないように思える。
――自分がただ一人の証人なのだ。
もう一人のNの証言が出来る。だが、もう一人のNを殺してしまったのが今にして思えば惜しい。
その証拠は一欠けらも残っていないのだ。
「エスパータイプのポケモンの幻覚、だと言われれば否定する論拠もない。これでは私に有用な証拠を集めたとしても、それが証拠として成立するのには……」
「足りませんね……」
従者の言葉にヘレナは諦めそうになってしまう。
打つ手はないのか。本当に?
問いかけてみて、ヘレナは資料の中のNの手持ちポケモンの欄を見やった。
「……ガマゲロゲは持っていらっしゃらないのね」
「手持ちポケモン自体、あまり育てていらっしゃらない様子です。そもそもN様はプラズマ団の王。その手持ちとなれば」
「秘中の秘。分かっているわ、それくらい。だって敵対組織に知られるわけにはいかないものね」
だが、その極秘事項が足を引っ張るとは。
せめてNに直談判できれば、と感じていたが、今の自分をNはまともに取り合うか?
バーベナがいなくなってショックに陥っている女の錯乱と思われればそこまでだ。
ヘレナは沈痛に顔を伏せる。
「……でもバーベナは私の……言ってしまえば分身みたいなもの。もう一人の自分なの。あの時、N様に助けを乞うたように、絶対に欠けて欲しくないの」
懇願はしかし、無様に滑り落ちるだけ。
どうやってバーベナの足取りを掴める? そもそもNが何をしたのか、それさえも分からない。
あのNは何者であったのか。聞き出そうと手加減をすれば、自分がやられていたのは想像に難くない。
「これは、差し出がましいようですが、やはりバーベナ様は、その……攫った人間に抵抗をしなかった、というのが大きいのではないでしょうか」
顔見知りの犯行。それは間違いない。だが、その人物がNであったのならばプラズマ団を揺るがす珍事となる。
Nが、王が何故、愛の女神を攫おうとする?
その疑問を氷解出来なければ、この命題は解けない。
ヘレナは頭を抱えていた。如何にして、Nのアリバイを崩すか。そもそも、Nの疑いを深めてどうするつもりなのか。
「……私は、N様を、何らかの犯人に仕立て上げようとしている……」
やっている事と思っている事がちぐはぐだ。Nを信じたいのに、やっているのは隙を窺う証拠漁り。
これではバーベナも戻ってこないのではないか。ヘレナは数枚の書類を手繰り、その中にももう一人のNの存在を示唆するものがない事に気づいてため息をついた。
「こちらからその情報を挙げられればいいのですが、こちらにあるのはヘレナ様の証言のみ。これでは、やはり証拠としては弱いと判断せざる得ません」
「分かってる。分かってるわ、そんなの。でも、私は戦った。戦って、勝ったのに……こんな思いをするなんて考えもしなかった」
組織の中での絶対の孤独。
誰も信じられず誰もを疑うしかない。こんな宿命になるのならば、あの時もう一人のNを殺さなければよかったか。だが、抵抗しなければ自分もバーベナの二の舞になっていたのは明白。
だがあのNは脳裏に留まる事を口にしていた。
「この時間軸、って言い草……、あなたはどう思う?」
ヘレナの質問に従者は僅かな当惑を浮かべた後に、やはりと口を開く。
「時間がいくつも存在している、という事でしょうか」
「そう考えても、別段おかしくはないのよね……。時間を操るポケモンの存在は確認されているわけだし」
むしろそのポケモンによる仕業なのでは。そう疑ったほうが得心は行く。
しかしポケモン一体がNをどうこう出来るとも思えない。Nは王なのだ。それはポケモンにとってしてみても、人間にとってしてみても同じ事。
Nの能力を下げられるポケモンなど存在しない。
同時に、Nをどうにかするのには、生半可な人間の身では不可能なのだ。
如何にして、Nを惑わせたのか。
結論としてそこに行き着くのは当然であった。
Nがこの先どうなるのか、あのNは知っている風でもあったのだ。
――やはり情報不足。
ヘレナは息をつくしかない。
「どう足掻いたところで、N様本人の即席を辿る事も出来なければ、あのNが偽物だと完全に判断する事も出来ない……。こうなってしまえば、やっぱりバーベナを追う事も……」
自分の半身も救えずに終わってしまうのか。
ヘレナの焦燥に従者のホロキャスターが鳴り響いた。
「失礼。……あなた方が何故?」
声音を曇らせた従者にヘレナは首を傾げる。従者はそのまま潜めるような声になった。
「言っておきますが、あなた方のような影の人間がヘレナ様に謁見出来るなど……」
「誰なの?」
従者は一瞬だけ逡巡を浮かべたものの、すぐにホロキャスターを差し出す。
「……隠密部隊に所属する者達です。平和の女神、愛の女神であるあなた方と、さらに言えばN様には絶対知られてはならない存在」
ヘレナは息を呑んだ。そのような部隊があってもおかしくはない。だが、実際に存在するとなるとヘレナ自身、困惑するしかない。
「……そんな者達がどうして私に?」
「話があるそうです。……もう一人のN様と言えば分かる、との事ですが……」
語尾を濁らせた従者にヘレナは確信する。
その部隊の者達は心当たりがあるのだ。
「……謁見を」
「正気ですか? 相手は影の存在。絶対に、棲む世界が異なるのです」
「分かっている。でも、今は少しの情報さえも欲しい」
謁見許可を、とヘレナの声音に従者は僅かに声を潜ませた。
「……あなたが会うような人間ではございません」
「構わない。私が全権限を持って許します」
その言葉だけで了承が取れたのだろう。従者はホロキャスターに声を吹き込む。
「……了承しました。謁見は短い時間で済ませるよう」
『分かった。ワタシ達もさほど時間はなくってね。象徴たるヘレナ様に会えるだけで充分だ』
謁見の時間を従者がセッティングし、ヘレナはコーヒーに再び口をつけた。
まだ諦めるのには早い。
それだけが今すがれる全てだった。