FERMATA








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三章 N∽N
第25楽章「あたしがアリスだった頃」

 落ちてきそうなほどの星屑が空を満たしている。

 バーベナは久しく忘れていた外の空気を吸い込んで、夜風はこれほどまでに甘かったのだったか、と感じ入った。

「ほら、花の冠だよ、バーベナ」

 眼帯のNがこちらへと歩み寄ってくる。いつものNと様子が違ったが、外で見るせいだろうとバーベナは結論付けた。

 花の冠を、バーベナは頭に乗せる。

「とても似合っている」

「その、N様……。私は、こんな所にいていいのでしょうか? だってもうすぐ戴冠式が――」

 その唇をNの人差し指が制した。しっ、とNが優しく告げる。

「今は、全てを忘れよう。バーベナ。ちょっとばかし自由が与えられたんだ。享受しないともったいないよ」

 Nから告げられたのは王になる前の自由な時間を与えられた、との事であった。自分も愛の女神としてこれから先に自由はなくなる。その前だから、という事で納得はしたのだが……。

「N様。ヘレナは? あの子がいないと私、自由でも嬉しくはありません」

 Nがそっと微笑み、静かに頭を振った。

「まだ、ちょっと時間がかかるみたいだ。彼女はしっかり者だからどうしても自由な時間と言っても聞き入れられないみたいでね」

 それにはある程度納得出来た。ヘレナはしっかり者だからである。

「でも私……本当にこんな事をしていいのでしょうか? プラズマ団はポケモン解放のため、日夜頑張っているというのに」

「それはキミも同じさ、バーベナ。愛の女神、なんておだてられて疲れるだろう? ボクはね、キミに自由を与えたい。それには、これから向かう場所が適任だと思うんだ」

 イッシュをひたすら南へと下降する、と最初にNに告げられた。

 南方は安全だから、との事だ。

 イッシュの南方、というと僻地のイメージが強い。情報も行き届いておらず、当然の事ながらプラズマ団の思想などまだまだだろう。

 そこまで行けば真の自由が手に入るのだと、Nは言うのだ。

「N様。でも自由なんて……私は愛の女神になった時に、もう諦めていたのに」

「諦める事なんてないさ。人間には夢と自由を追い求める権利がある。キミだってそうだろう?」

 不思議な心地であった。自分の知るNはここまで奔放であっただろうか。

 どこか、別人のような気さえしてしまう。

 バーベナは連れていたポケモンをボールから出してやった。花束を思わせる新緑のポケモンである。

 白い体表の小型ポケモン――シェイミは夜の庭園を駆け抜けた。

 シェイミからしてみても久しぶりの外である。きっと嬉しいに違いない。自由を謳歌する声を出して、シェイミが花園で鼻をすんすんと鳴らす。途端、植物が生長し、花開いていった。

 シェイミには自然を操るパワーがあるのだ。

「美しいね。ボクは、この世の美しいものが好きだよ」

 それは自分も同じであった。この世界は美しい。たとえポケモンと人間が一緒であっても。

 だからバーベナにはどこか飲み込み難いのだ。プラズマ団の思想そのものが。

 シェイミとは一緒にいたい。ポケモンと人間が一緒にいたいと思うのは、いけない事なのだろうか。それを愛の女神である自分が望むなど。

「……N様。私、シェイミと離れたくない」

 初めてする告白であった。従者にも言った事はない。ポケモンを解放すべき、というプラズマ団の思想からは反しているからだ。

 しかし、Nは咎めもしなかった。それどころか優しく微笑む。

「キミの望むその理想は素晴らしい。叶えられるさ。キミが、そう望んでいるのなら」

 平時ならば安心出来たであろう声音。しかし、その眼帯がどこか生易しくないのだと告げているようであった。

 自分が思っているよりもNは痛みを抱え込んでいるのかも知れない。

「シェイミとも一緒にいたいですけれど……私は何よりも、N様と一緒にいたいです」

「一緒に、か。ボクもそうだ。あの森の時間のように。何もかもを忘れて暮らせたら美しいのだと思う。あの森では何もかもがボクらを解放してくれた。あの森で過ごした時間こそが、失ってはならないものだったんだ。だから、ボクは取り戻しに行くよ」

 取り戻す、と言ってもあの森はもうないのだ。この世には存在しない、理想郷。

「でも、N様。あの森は……」

「在るかないかは問題じゃない。目指すか、そうでないか、だ。ボクはあの場所を目指す。そのためならば犠牲は厭わないさ。どれほどの犠牲を踏み越えてでも、ボクは辿り着いてみせる」

 心強い声音であった。Nにそれほどまでの覚悟があったとは。バーベナは呆然とその言葉を聞く。

 ――でも、もう戻らないのではないか。

 心の片隅でそのような事を考えてしまう自分が浅ましかった。あの日の森は、もう二度と戻らないからこそ尊い。あの日々が戻ってくるのだとすれば、それはあらゆる犠牲を払った結果だろう。

 それくらい、あの平穏は得がたいものであった。

 どれだけの人智が及ぼうと、決して冒されない最後の楽園。

 その楽園から逃げたのは他ならぬ自分自身である。

 追放されたのではなく、自ら逃げたのだ。

 楽園を手離しておいて今さら焦がれるのは間違っている。

「でも、N様、あの日々は決して……」

 戻ってこないのだ。

 言おうとした言葉をNは遮り、指を振ってみせた。

「戻るさ。そのためにボクはいる。そのために、このポケモンがいる」

 光の屈折角を利用してそのポケモンが出現する。

 バーベナの眼には白い靄のようにしか映らないポケモン。しかし、その圧倒的な存在感が全身を粟立たせる。

 自分では勝てない。

 それだけは理解出来た。

「N様……強大な力を手に入れるのは、分かります。それは、プラズマ団の理念ですから。でも、それを振るうのは、間違って」

「間違っている? ボクが間違っていると?」

 二の句を継げない。今のNはどこか妄執に取り憑かれているように見えたからだ。

 目の前のNは、何を考えているのか。

 そもそもバーベナにはNが何を考え、何のためにここまでしてくれているのか分からない。

 どうしてプラズマ団を離れる必要があったのか。それさえも問い質せない己がもどかしい。

「……いえ、N様はいつも正しいのだと、そう思っています。でも、時折思うのです。私達プラズマ団が行っている事は善なのか、と」

「善悪論か。それは古めかしいよ、バーベナ」

「古めかしい?」

 聞き返すとNはタクトを振るうように手を払った。

「ボクが見てきたのはね、結局のところ人の浅ましさだ。自分が強ければそれでいい、自分が強ければ、敗者には地を這い蹲るだけの事。そして、他人より満たされれば、それでいいという考え方。満たされない他人の事なんて気にも留めない。考えに浮かべようともしない。そういうものなんだ、この世は。だから、ボクは誓う。全ての敗者に等しく劣等感を。全ての勝者に等しく、優越感を。そしてボクが返り咲くとすれば、それは勝者の側だ。ボクは勝つ。そのためだけに、このポケモンが必要となる」

「でも、N様。南下するだけなら、敵なんて作る必要は」

「ない、か。そうかもしれない。でも、敵というのは常にボクらの思惑を超えてくるものなんだ。バーベナ、愛の女神であるキミからすれば、争いなんて汚いものかもしれないが、ボクは争うよ。それは自由を得るための戦いだからね」

「自由の、ための……」

 シェイミが寄り添ってくる。靄のポケモンの気に中てられたのか今にも昏倒しそうであった。

「シェイミには、このポケモンのプレッシャーは強過ぎるか」

 靄が霧散する。しかし、それでもそこに「居る」のは変わらないようであった。Nを攻撃しようとすれば問答無用でそのポケモンが相対するであろう。

「N様。今一度、聞かせてください。本当に、自由のための戦いなんですよね……」

「当たり前じゃないか。ボクはいつだって、自由のために戦うよ。それが、どれほど泥に塗れていようとも」

 その覚悟だけは本物のようであった。

 バーベナは首肯し、立ち上がる。

「では、このバーベナ。命を預けます」

「それでいい。愛の女神が付いてくれているとなれば、ボクも心強いよ」

 その言葉とは裏腹に力の象徴たるポケモンがNの周囲を常に固めている。

 バーベナは唾を飲み下した。

 ――果たして、自分は彼の安息の地になり得るのか。

 答えは出なかった。



オンドゥル大使 ( 2017/07/25(火) 23:27 )