第24楽章「金いろのひつじ」
引っくり返したような騒ぎにならなかったのは、バーベナが普段、関わりを絶っているからに他ならない。
知り得たのはプラズマ団上層部のみ。
ヘレナは現れたNに関しての全ての事を自らの胸の内に仕舞っていた。
Nが複数存在する可能性。そのNがバーベナを攫った、などといえば狂人扱いされかねない。
今は、静かに時が去るのを待つのみ。
ただし、戴冠式を前にした上層部は僅かながら今回の騒動に困惑しているようであった。
「誰が、愛の女神を攫ったのか」
ヘレナは目線を上げる。
このような非常時でようやく召集されるプラズマ団の実効支配者達。別命、七賢人。
彼らは一様にヘレナからの明確な返答を待っているようであった。
「……分かりません」
はぐらかす意図があったわけではない。
ただ、今の組織内で迂闊な発言は逆に立場を悪くすると判断しただけだ。
「組織内部での犯行だと推測される。だが、どうしてこのタイミングで愛の女神を? 彼女が何かしたのかね?」
「いえ、愛の女神は平時、全ての接触を絶っており、彼女が何かするとは思えない」
「そもそも、何かしたとしても、彼女はプラズマ団の象徴。支配力はないに等しい」
実効支配しているのは自分達だ、と言う事を臆面もなく言い放つ。
ヘレナは七賢人の事を快く思っていなかったが組織を回すのに汚れはつきものだと思っていた。
連中はシミだ。プラズマ団という潔癖なる存在に汚点があるとすれば、それはこの七賢人に他ならない。
「プラズマ団を内部分裂させようとする何者かの意思、とは考えられないだろうか」
「何者か……と言っても難しいですな。なにせ、今にプラズマ団の解放の理念は形になろうとしている。それを今、このタイミングで邪魔立てするなど」
「前回、地下鉄での会合を襲おうとした人間の例もある。解放の理念に異を唱える輩がいるのかも知れん」
「ですが、そんなものがいたとしても、プラズマ団は強大。勝てやしませんよ。それに、その反逆者、死んだと伝え聞きましたが」
胡乱な言葉が交わされる中、ヘレナはつつましくしていた。
平和の女神と祀り上げられる自分がこの場所で発言するのには慎重さがいる。
自分の言葉如何で七賢人が意見を曲げるとは思えないが、自分もまた、プラズマ団上層部の一員なのだ。
「反逆者、というにはその情報があまりに粗雑が過ぎませんか? 私達は何もイッシュを支配したいだとか、そういう野心で動いているわけではないはずです」
無論、これは詭弁であろう。
七賢人のうち何割かは分からないが、数人はイッシュ支配のためにプラズマ団を利用している人間もいるはずだ。
その人間からしてみれば耳に痛い事この上ないはず。
「しかし……ポケモン解放という我々のポリシーに対し、武力でもって、というのがまずおかしいのです。だからこそ、反逆者とも呼びますよ。なにせ、この平和への反逆なのですからね」
現在のイッシュが平和かどうか。
それには賛否が分かれるであろうが、ヘレナはあのNを思い返すだけで、何かが蠢いているのが感じられた。
自分では及びもつかないほどの遠大な計画か、あるいは何者かの意思か。判然としないとは言え、何かが水面下で動いているのは確実。
ヘレナは探りを入れる事にした。
「突かれては痛い脇腹を抱えているのはお互い様のはずでしょう。ポケモン解放、という謳い文句がどれほど善良とは言え、それは万人に通用するわけではないはずです」
それは、と一人の七賢人が声を詰まらせた。
ヴィオ、という構成員であったか。
「しかしながら、ポケモン解放は我らが王、N様の悲願。何を今さら躊躇うのです。平和の女神」
「その通り。ポケモン解放に際して何も我らが臆する事などない。むしろ、逆ではございませんか? ポケモン解放は善なる行動。それを糾弾されるいわれなど、あり得ない」
本当にそう思っているのか。問い質したかったが、ヘレナはこの場では声を荒らげる事はまずないと言ってもいい。
代わりに自分が演じるのは、プラズマ団の象徴。
平和の女神としての偶像であった。
だが、今にもこの七賢人の会合をご破算にしたいのは自分のほうだ。
バーベナが攫われた。その事実ででも、ここにいる七賢人達の横っ面を叩いてやりたいのに、自分はこのような会議で足止めされている。
その真意にはこの中に裏切り者がいる、という証明でもあった。
自分を足止めし、なおかつ事実をひた隠しにしたい誰かが、この会議で時間稼ぎをしている。
ヘレナは、自分が所詮、籠の中の小鳥である事に歯噛みした。
飼われるだけの存在。この場において実効力は存在しない。
ただただ、その場にいるだけの存在である事を重視される。
どれほど言い繕っても、自分に力がないのは明白。
「して、どうなさいますかな。戴冠式は」
「愛の女神の欠席程度、問題ではありません。問題なのはこの事実がN様に知れる事」
やはりそうか。ヘレナは苦々しさを噛み締める。
Nにこの事実が知れてはならない。それはプラズマ団の王に不信感を与える事になる。七賢人は基本的に不干渉を貫く。そのスタンスは変わらない。
Nに立ち入られる事も御免ならば、七賢人がNに立ち入る事もある種のタブー。
だから事実を隠し、Nは張りぼての王として成り立つしかない。
戴冠式は既に一週間後に迫っているのだ。余計な心労をかけさせるべきではない。それは分かる。
だが、その事実がイコールNに何も知らせない、というのは間違っているのではないか。
「お言葉ですが、王は全てを背負ってこその王。それなのに、内々で処理するのは」
「いただけない、と申されるのは理解出来ますが、しかし、王は純粋でおらぜられる」
「左様。王の神経に障るような事を告げる事こそ、戴冠式までの期間においてあってはならない」
戴冠式が終われば、今度こそNは正式に王として扱われる。その場合、さらに情報は知らされず、七賢人だけの情報で握り潰される事もあり得るのだ。
――そんな王は果たして幸福であろうか。
ヘレナはぐっと面を上げて全員を見据える。
誰が裏切り者なのかは分からない。
しかし、ここでヘレナがただの偶像で終わるつもりではない事を示唆しなければ。
「……そういえば、バーベナがいなくなる直前に妙な来客がございましてね」
ぴくり、と眉を跳ねさせたのは誰であったか。観察するが、七賢人達は能面を崩さない。
「来客?」
「あれは敵対組織の回し者であった可能性が高い、と私は判断いたしましたが」
「その来客とは……?」
質問にヘレナは頭を振った。
「言えると思いまして? ここに、その来客の協力者がいないとも限らないのに」
ざわついた七賢人がお互いの顔を見合わせる。まさか、と最初に笑ったのはヴィオであった。
「我ら七賢人が左様な事を……」
「しかし、ヴィオ殿。以前のような事があったとなれば……」
口を滑らせた七賢人にヴィオが慌てて声を投げる。
「はて、以前? 何の事を仰っているのやら」
「私も、信用出来る人間だけで周りを固めたいと思っています。なにせ、私とてプラズマ団の重要人物の一人。攫われないとも限りませんもの」
ヘレナが立ち上がると従者がその後に続いた。
会議室から僅かに舌打ちの声が漏れる。
「阿婆擦れが」
その罵倒も今は甘んじて受けよう。問題なのは、ここから先の展開一つ。
「バーベナがいなくなっていた部屋に残された痕跡は?」
従者へと問い質すと、彼女は淀みなく告げた。
「いえ、髪の毛一本すらありませんでした。当然の事ながら、争った痕跡も」
となると、やはり顔見知りの犯行か。ヘレナは考えを巡らせる。
プラズマ団内に裏切り者がいる。
それだけではない。Nと同じ顔、同じ能力の存在――ゲシュタルト体。
この事実を七賢人に話すべきではない。自分は無力ではあるが、無知蒙昧ではない自覚がある。
「七賢人に事実を話せば揉み消しの方向にされるのは確実……。誰が裏切りものであっても。いえ、逆に、裏切り者など一人もいないとしても」
七賢人に自分が目したような裏切り者など存在せず、むしろプラズマ団がただただ攻撃されているだけ、という可能性。
あり得るが、ヘレナはまず内通者を疑った。
でなければバーベナを安全に確保する事など出来まい。
「ここから先の身の振り方には気をつけなければならないわね……。七賢人がクロだとしても、あるいはシロだとしても、ここから先は読み負けたほうが敗北する」
敗北の先にあるのは死であろう。
あのNが自分に敵意を持って攻撃してきたように。まだ知らぬ敵性存在がいてもおかしくはない。
「バーベナ様の従者との連絡が取れました。彼女はやはり、N様以外の来客は見ていないと」
系列化された情報の中にバーベナの従者の情報もある。
やはりというべきか、不審人物など目撃されていなかった。それが余計にヘレナの動きを慎重にさせる。
敵は身内にいる。しかも、Nを騙れるような何者か。
エレベーターに飛び乗ったヘレナと従者は密室の中でいくつかの思案を重ねた。
「一つ、可能性を思い浮かべるとすれば」
「何でしょう?」
「N様のクローン」
プラズマ団という組織を圧倒的カリスマで纏め上げる存在を量産出来れば、それに越した事はないだろう。いくらでも代わりが利けばプラズマ団は鉄壁となる。
だが、その可能性を従者は首を振って否定する。
「あり得ません」
「何故?」
「既に試みられているからです」
やはり、とヘレナは感じ取る。プラズマ団が一枚岩でないのは分かっていたものの、湧き上がったのは嫌悪であった。
「やはり……もうやられていたのね」
「実験結果だけ申し上げますと、不可能であった、と」
「それは何故? N様そのものをクローニングするのは人道にもとる、とは今さら言わないわよね?」
「遺伝子が特殊なのです。解析結果だけ言うと……」
そこで従者は言葉を濁す。ヘレナはその先を促した。
「どうしたの? 言いなさい。どのような結果であれ、私は受け止める覚悟があるわ」
「では……。解析結果だけの話ですが、遺伝子組成がヒトでもポケモンでもない、との結果を出してします」
ヒトでもポケモンでもない。
その事実はある程度予測出来たものの、科学の力で暴かれるとヘレナにはこれ以上とない諦観が浮かび上がった。
Nは人間ではないのか。
否、そもそもあの日。あの森にいた頃から、彼は人間であった事など一度もないのではないか。
ヘレナは幾ばくかの沈黙の後、ようやく言葉を紡ぎ出せた。
「そう……。でも私は、N様をだからといって他人のように扱えないわ」
あの森で育ったから。
あの日、彼は救ってくれたから。
自分達に道を示してくれたのはプラズマ団ではなく、彼だ。
だから自分はNを信じる。信じた上で行動したい。
「解析班の示したのはそれだけです。クローニング不可能。ただそれだけの、事実」
それ以上は冒涜でも感じたのだろうか。それこそ今さらである。
「N様のクローンはあり得ない。それが分かっただけでもいいわ」
ではあのNは何者であったのか。
変装か。あるいは、Nに限りなく似せた何者か。
しかしあの戦闘能力と物腰は間違いなく本物のNだ。
自分の知るNと大差ない。違うとすれば、あのNには敵意があった。
自分達の王であるNには敵意などない。感じられるのはただひたすた深い慈愛の瞳だけ。
「……ねぇ、もしもの話だけれど」
あのNの言っていたのは戯言かもしれない。それでも、バーベナが攫われたのは事実。
「はい、何でしょう?」
「時間を遡れるとして、同じ存在がその……つまり、同じ人間が同じ時間に二人もいるなんて事が、可能だと思う?」
自分でもこの問いはナンセンスだと思う。信じていない事を他人に確認してどうすると言うのだ。
従者は少しだけ胡乱そうな瞳を向けたが、真面目に答えた。
「同じ時間に、同じ人間、ですか……。それはその、タイムパラドックス、というのが生じるのでは?」
「タイムパラドックス?」
「時間の抑止力、とでも言いましょうか。齧った程度なので詳しくは言えませんが、例えば時間を遡り、親である人間を殺したとしましょう。その場合、子供である彼は存在出来ない、という話です。そもそも、親を殺せば時間遡行も出来ないので、殺し自体が達成されない、という考えもありますが……。つまり、時間を遡る、という考えはそれだけで重要な欠点をいくつも抱えていると思っていただいて結構です」
重要な欠点。
ヘレナはあのNを思い返す。
あのNはヒヒダルマのダルマモードを知らなかった。それはNが知り得ていない事実であるから目の前の敵であるNも当然知らないであろう、と自分が賭けに出た結果だ。
だが、もし、この経験が積み重ねられて今度は「ダルマモードの存在を知っているN」が現れたとすれば。自分の勝利に揺らぎが生じる。
ヘレナは覚えず額に疼痛を覚えた。
どうにも自分の身の丈にあった考え方ではない。
「もしも、の話はやっぱりやめておきましょうか」
時間遡行の話をし始めたのはこちらだったが、従者は静かに従った。
「ええ、そうですね。あまり詳しくない分野の話をしたところで」
益のない事、と結論付けられる。
しかし、その事実がもし、間違っているとすれば。
もしも、Nが時間遡行に成功しているとすれば。
自分達が作り上げた王に、自分は粛清されるのか。
因果応報だな、とヘレナは自嘲した。