第22楽章「フラワーチャイルド」
抱えたバーベナは疑う事さえも知らなかったらしい。
自分の口車に乗り、すぐに警戒を解いてきた。それほどまでに「自分」は信用されていたのだろう。
Nは漆黒の鳥ポケモンを駆って大空を舞う。
目元から特徴的な鶏冠の伸びたケンホロウが翼を広げ、合流地点を目指していた。
「ボクからしてみれば、自殺するようなものだ」
そうぼやいたNは昏倒するバーベナに言いやる。
「キミももう少しだけ、賢ければこんな事態には巻き込まれなかったのにね」
高度を下げていくケンホロウに従い、Nはバーベナを抱えたまま、大地に降り立った。
眠り姫は、今もNの腕の中にいる。
あの日、売人から取り戻した命。
それがまさか、こんな形で巡り巡ってくるとは思いもしなかった。
「因果だな。今度はボクが攫う側か」
降り立ったNを関知し、視線の先の人物が顎をしゃくる。
「そこで止まれ、N」
「ボクに命令出来るのはボクだけだ、と思っていたけれど。こんな状況じゃ仕方ないね。だって命令しているのは――」
木陰から現れたのは寸分変わらぬ自分自身の鏡像であった。
「ボク自身であるからだ」
相手もまた、N。
その事実にNは口元を緩めた。
「性質の悪いジョークでも、ここまでじゃないだろう。ボクを動かしているのは、ボクだ、なんて」
「こちらも、そうだとは思わなかった。しかし、ここで合流を指示した人間は何を考えている。だってボクらは出会うと」
「対消滅の危険性に駆られる」
指先から黒い瘴気が棚引いていた。これが対消滅の危機か、と両方のNは冷静に事態を分析していた。
「ボクらを消すつもりなのだろうか?」
「ここで二人消し、どうするつもりだというのだろう? この時間軸にいるボクは、何人なのかその詳細も分からないのに」
「捨て駒、というわけか。だが、ただやられるわけにはいかないね。ケンホロウ」
命じたケンホロウが翼を翻し、空気の刃を叩き込んだ。
何もない空間に思われた場所が歪み、潜んでいた存在を炙り出す。
「出て来い。それとも、二人のNを相手取る気にはなれないか?」
その言葉に乾いた拍手が送られる。
光の屈折角を操り、その場にいたのに見えなくしていたのだ。
ようやく視界に映ったその姿に二人して息を呑んだ。
「またしても……」
「ボク、本人か」
だが、二人と違うのは左目に巻かれた眼帯であった。眼帯のNはフッと笑みを浮かべる。
「さすがだ。ボクだけはある」
「謝辞は要らない。キミはここで死ぬんだからね」
ケンホロウを操るNの声音に、眼帯のNは肩を竦めた。
「何故その結論に?」
「二人消し、を画策したのだろうが、仇となったな。ボクはそれほどやわではない」
もう一方のNがボールを保持し、そのまま地面に落とした。途端、割れて出現したのは頑強そのものを思わせる立方体の岩石であった。
否、その下部には小さいながら節足と眼球がある。
これは岩ではない。ポケモンなのだ。
「イワパレス、それにケンホロウ、か。時間軸から鑑みるに、キミ達は彼と戦っていた、僅かに時間差のあるN同士だ」
眼帯のNの余裕にイワパレスのNは鼻を鳴らす。
「どこまでも、余裕ぶっていられるのか。キミは、この状況をもっと深刻に見たほうがいい」
「と、いうと?」
「同一存在は接触すれば対消滅する。この時間軸に入って、ボク達が真っ先に学んだ事だ」
ケンホロウのNは片手を払う。その射程距離でさえも理解している。
対消滅はこれ以上近づけば急速に発達するだろう。だが、これ以上歩み寄らなければ同時に、発生はしない。
「これを時間同一体……その姿形を認識した瞬間から消滅が始まる事から、ボクはこう名付けた。ゲシュタルト体、と」
N同士が一同に会すれば即ちお互いに消滅し合う。そのような極限に置かれているのに、眼帯のNは動じもしない。
「で? 他のボクはその程度しか分かっていないと?」
「その程度、だと?」
イワパレスのNがにわかに眉を跳ねさせる。自分より幾分か血の気が多いらしい。口調もどこか荒っぽい。
「ゲシュタルト体……面白い名称だ。で? ここにキミらを集めたのがただ単に対消滅狙いだって、本当に思っているのかい?」
「どういう意味だ?」
「落ち着いて。奴とて対消滅の危機には瀕しているはず」
ケンホロウのNが制すると眼帯のNは不意に口にする。
「この時間軸に来て、何か不都合があっただろう?」
不都合。その言葉の赴く先に、二人のNはそれぞれ視線を交わし合う。
「ボクは、短期記憶が曖昧になった」
イワパレスのNの告白にケンホロウのNも続ける。
「ボクは、嗅覚が麻痺しているのか、においを感じない」
抱いたバーベナの髪の香りも、全く感じられないのだ。
その言葉に満足したように、眼帯のNはその左目をさすった。
「ボクは左目だ。この時間軸に来た途端、腐り落ちた。思うに、これは抑止力なんだと思う」
「抑止力、だって?」
「この時間軸そのものに、いや、もっと言えば世界には総量があり、その総量を超えそうになるとどこかにシワ寄せが回ってくる。ボクらの存在がそれだけで時間軸を、否、次元を圧迫しているんだ。だから、出来るだけデータの容量を減らそうとしている。嗅覚、短期記憶、そして左目――これは対価だと、ボクは思っている」
「対価? 何のだって言うんだ」
「Nという存在がこの時間軸に多元同一上として存在する事への、対価ではないかと、ボクは考えた。偉人、という人間がいるとする。偉人Aは、例えばポケモンの種類を百種類増やした。では偉人Aと全く同一の、百種類増やせる偉人Aが存在したとして、その次元はその存在を許容出来るか」
「……無理難題だ」
「その通り。同じ時間軸に二人いたって、それは意味がないんだ。この世界に同じ人間が全くいないのは、それを世界が許していないからなんだ。総量を超えそうになったところで、間引きが始まる。ボクらの場合は、それぞれこの時間軸に奪われた=B短期記憶、嗅覚、左目……もっと酷いものを奪われたNもいるかもしれない。ボクらはまだマシなほうだ。手持ちもいる。それに、能力は消えていない」
「トモダチと話す能力、か」
ポケモンを操る能力が欠如していれば、それは致命的な欠陥となるだろう。それだけは奪われなくてよかったと心底思っていた。
「しかし、誰が奪った? 神様だって言うのか?」
「ボクも判じる術は持たない。ただ、世界の総量を決めているのが神様だとすれば、それだろうね。あるいは絶対的な存在か。とかく、世界の総量を超えそうになっているんだ。それほどまでに、Nという人間のデータ容量は大きい、と思ったほうがいい」
自分がどれほどの偉業を残すのか。
ケンホロウのNは実のところよく分かっていない。
プラズマ団で戴冠式を迎え、王として立つために旅を続けていた最中であったからだ。
現れたセレビィの使い手によって自分はこの時間軸に落とされた。
何も分からなかったが、自分と同じ境遇のNが複数存在する事を掴み、さらに言えば、この時間軸がまだ戴冠式を迎えていない事にも気づいた。
そこから先はN同士の画策であった。
己が生き延びるために。あるいは他の自分を陥れるために、様々に行動した。バーベナを手に入れたのは自分では思いつかなかったか、この眼帯のNの命令によるとことであったのだろう。
だとすれば、ここで――。
「ここで、ボクを殺すか?」
先んじて発した眼帯のNの声音にケンホロウとイワパレスのNは首肯していた。
「悪いが、Nっていう人間はそれほどたくさん要るとは思えない」
「同意見だ。それに、逃げ隠れする人間が王になるのは、相応しくない」
ケンホロウが飛翔し、眼帯のNを射線に捉える。イワパレスが地響きを轟かせて眼帯のNへと肉迫した。
「ここで、潰えろ!」
「眼帯!」
両者、同時に技を放つ。
ケンホロウの風の刃と、イワパレスの岩の刃が眼帯のNへと突き刺さったかに思われた。
しかし、その刃は両方、届く前に霧散してしまったのである。
否、霧散というよりもその光景は――。
「焼け落ちた……」
「危ないな。でも、キミらの行動理由はよく分かる。同じ顔の人間が何人もいるのは気味が悪い。ボクもそうだ。でも、こうは考えられないかい? 同じ実力の人間が何人もいる。しかも、それが一組織のトップレベル。それらを束ねれば、ともすればもっと強い。プラズマ団なんて目じゃない組織が作れると」
このNは何を考えている?
陶酔したように言い放つ眼帯にイワパレスのNが吼えた。
「世迷言を!」
イワパレスが立方体の岩を破り、瞬時にその首を掻っ切ろうと迫る。
「殻を破る、か。でもボクのポケモンは、それより速い」
イワパレスの直上に現れたのは白い蜃気楼の渦であった。
それが出現した途端、イワパレスの顔面に亀裂が発生したのである。
瞬く間に広がり、イワパレスが両断された。
手持ちの瞬間的な死に、まだ使い手はついて来れていなかった。
「イワパレスが……」
「死んだ……だって?」
転がる骸に発火し、その存在の証明さえも消し去っていった。
眼帯のNは長く息を吐き出す。
「どうやら見込み違いの様子だ。他のNに当たるかな……。ああ、でも皆が皆、自分の事をこう思っているのか。チャンピオンを超える、と」
疎ましい事柄のように眼帯のNは告げる。イワパレスのNは完全に戦意を喪失していた。
対消滅の危険性も考えず、イワパレスの死体があった空間に歩み寄ろうとする。
「イワパレスが……そんな……」
「近寄るなよ、敗北者。ボクの前でみっともない事をするんじゃない」
眼帯のNが指差した瞬間、その足元から炎が発生する。
イワパレスのNを瞬間的に焼き切り、炎が意思を持ったようにくねった。
もう一人の自分が目の前で死んだ。
それだけでも、ケンホロウのNの歩みを止めるのには充分であったが、遥かに驚異的なのは眼帯のNの放つプレッシャーだ。
肌を刺すようなプレッシャーの波が、皮膚を逆立たせる。血流が湧き立ち、この状況の危険性を訴えていた。
酸素不足に陥った肺が呼吸を取り込もうとする。
荒い息をつく中で、ケンホロウのNはじっとりと汗ばんだ額を拭った。
何か、とんでもない勘違いをしている。
自分達は立ち向かってはならない類の災厄に行き遭ってしまったのではないか。
その予感に立ち竦んでいると眼帯のNは手招いた。
「来ればいい。後悔せずに済む」
喘ぐようにケンホロウのNは呼吸した後、その歯を食いしばった。
「……駄目だ。バーベナを置いてはいけない」
その言葉に、ほうと眼帯は感心したようである。
「腐ってもボク、か。正義感だけは人一倍のようだ。……でも、行き過ぎた正義感は身を滅ぼす。その時、全てに裏切られ、サヨナラをする事になってから、キミ達は真の孤独を知るのだろうが、なに、知る前に死ねるよ。安らかに、ね」
熱を伴った風が吹き抜けた。ケンホロウが殺気立って翼を翻し、風の刃をいくつも構築する。
全て、眼帯のNへと降り注ぐかに見えたが、それを遮ったのは白い翼であった。
「キミ達は力を手にせずして、その力の真髄だけを見る。これこそが――神話級だ」
網膜に焼きついたのは白そのもの。
純白のポケモンが両翼を棚引かせ、熱波を放った。
それだけで指先が、身体が焼き尽くされようとする。
バーベナだけを狙わずに、ケンホロウのNの身体だけを発火させた。
身体の内側から焼かれる痛みにのた打ち回るNを、眼帯は見下ろす。
「悪いね。二人を対消滅させて、バーベナだけを手に入れるつもりだったんだが、当てが外れた。それにキミ達、ちょっとばかし迂闊だよ。ちょっと強いくらいで、この時間軸のボクには勝てない」
もがき苦しみながら、Nは手を伸ばした。その指先が炭化し、塵となって消えていく。
その視野が最後に映し出したのは、青い炎を背負ったポケモンの羽ばたきであった。
まばたき一つで、小さき存在は塵芥に還る。
蒼い瞳が自分を目にした途端、激痛が完全に消失し、それと共に意識が吹き飛ばされた。
「強い、と思っていたが、この程度だったか。ボクの実力は」
眼帯のNが自分の証明であったパズルのネックレスを拾い上げる。
自分の首から提げているパズルのネックレスとぶつかり合い、お互いに黒い煙を棚引かせて消滅した。
「なるほど。近づき過ぎれば対消滅の運命にあるのは、何も人間だけじゃないのか」
物質も同じである。
この場合「N」という人間を構築するのに様々なパーツがあり、そのパーツごとに対消滅の危険性があると思っていいだろう。
バーベナが薄く、瞼を開こうとする。
Nは彼女の頬をさすった。
まだ自分の運命さえも知らない、女神。
その女神のこれからを知るのは、世界でたった一人だけでいい。
「N、様……」
バーベナが自分を認めて声にする。眼帯のNは頷いていた。
「そうだ。ボクが、Nだ」
「ここは……。N様が急に私を連れ出すから、何が起こったのか……」
「あの場所から、どうしてもキミ達を連れ出したくってね。これから先、プラズマ団ではこの世の地獄のような出来事が起きる。その前に、キミとヘレナだけは助けたかったんだ。でも、ヘレナは助け出せなかった。既に手が回っていたらしい」
自分の命じたNの一人が仕損じたな、と眼帯はガマゲロゲのNを思い返していた。
バーベナは純粋にNの言葉を信じ込んだようであった。彼女が起きる前に戦いを済ませたのは、やはり正解であったらしい。
「N様……、左目を……」
「ああ、ちょっとあってね」
それ以上の追及を許さぬ声音にバーベナは言葉を仕舞った。彼女は賢い娘だ。自分の分を弁えている。
「さて、これからやるのはちょっとした掃除だ。バーベナ。ボクについて来てくれるかい?」
「ついてくるも何も……私を救ってくださったN様に逆らうつもりはありません」
女神はやはり従順なほうがいい。
ヘレナを確保し損ねたのは痛いが、今はバーベナを信用させる事だ。そうしなければこの時間軸での立ち回りも容易ではない。
「よし、まずはあの場所だ。あの場所に、絶対に来るはずなんだ」
「N様……、誰を、待っておられるのですか?」
眼帯のNはフッと笑みを浮かべた。
「この世で最も許せない――唯一無二の存在さ」