第21楽章「灰桜」
「さて、来てもらおうか、ヘレナ。大丈夫さ。キミに特別、害を加える気はないんだ。ただ、この時間軸において、平和の女神と愛の女神はプラズマ団の精神的支柱だからね。折れればどうなるのか、試してみたい気持ちも分かる」
「……N様は、そんな事は言わない」
「どうだろうね? ボクもNだ」
「あなたは、N様じゃない!」
張り上げた声にNは口角を吊り上げる。
「叫ぶ、という事はもう戦う気もないのかな? それじゃ、そろそろヒヒダルマを仕舞ってもらおうか。それが出ているとキミを安心して抱き締める事も出来ない」
ガマゲロゲとNが歩み寄ろうとしたその時、ヒヒダルマがヘレナの手を振り解いて踊り上がった。
ガマゲロゲが落ち着き払って対応する。
水の皮膜が形成され、ヒヒダルマに直撃した。
「分からず屋、と言うべきか。いや、ポケモンの防衛本能かもしれないな。トレーナーを守るべく行動した。それだけは立派だが、ヒヒダルマ、一つだけ誤算があるとすればそれは、ボクに立ち向かった事だ」
ガマゲロゲが水流を自らの直上に放つ。まるでアッパーのように水の突き上げがヒヒダルマを打ち据えた。
仰け反ったヒヒダルマがよろりと倒れる。
勝利を確信したガマゲロゲがヒヒダルマへととどめを差そうとした。
その手に水の砲弾が溜められていく。
「これで終わりだ。沈むといい。ヒヒダルマ」
攻撃は放たれるかに思われた。
――しかし、それを制したのは他でもない。
ガマゲロゲのもう一方の手が「ハイドロポンプ」の発射姿勢に入っていた手を捩り上げる。
もう一方の手が手首をひねり上げ、そのまま折れさせた。
骨が粉砕する音が響き渡る。
その光景をNは目を見開いて眺めていた。何が起こったのか、理解出来ないのだろう。
「ガマゲロゲ?」
ガマゲロゲの左手が自らの首を締め上げた。呼吸困難に陥ったガマゲロゲが酸素を欲して宙を掻く。
「何をやっているんだ! まさか、混乱か?」
「――いいえ。混乱じゃないわ」
発したヘレナの声音に、Nが視線を振り向けた途端、絶句する。
ヒヒダルマの体表が少しずつ硬直し、その身から赤が削げ落ちていくのである。
代わりに構築されていったのは堅牢な表皮であった。アスファルトのように色を失ったヒヒダルマが四肢を仕舞い込み、身体の内側に固定化する。
その姿は、まるで――。
「ダルマ、だと」
「ヒヒダルマ、その名の通り、このポケモンにはダルマ状態になる能力が付与されている。ただし、それは体力がかなり落とされた状態になるけれど。その場合、付与される属性は炎だけじゃない」
ヒヒダルマの眼光が変位する。オレンジ色に染まった眼が輝き、ガマゲロゲの左手に宿った力を実体化させた。
思念だ。
思念の渦がガマゲロゲの左手を支配しているのである。
「まさか……タイプが変わった、っていうのか」
「特性、ダルマモード。確かに、あなたは私のヒヒダルマをよく知っていた。その攻撃射程、次の攻撃までのクセも全て。でも、私は決して、N様に戦いを挑まなかった。それは愛と平和を祈るN様を冒涜する事になるから。それが結果的に、あなたに判断を鈍らせた。あなたは確かに私の過去をよく知っているのかもしれない。ヒヒダルマの事も。でもそれは、ダルマッカからの逆算。ダルマッカの時の癖しか知らないあなたは、ヒヒダルマの特性であるダルマモードを見抜けなかった。これは、N様でさえも知らない事だもの」
ヒヒダルマの眼光が鋭く輝き、ガマゲロゲが思念の手に翻弄される。Nは素早く判断した。
「ガマゲロゲ! その思念の手を振り解け!」
「遅い。サイコキネシス」
さらに強い思念の比重がかかり、ガマゲロゲの身体がその場に突っ伏した。
重力さえも操るほどのサイコパワーを秘めている今のヒヒダルマに、ガマゲロゲもNも完全に虚をつかれた様子である。
「ボクの知っている範囲外だと……」
「ここで突きつけられるべきは、あなたよ、N様の偽物。このままガマゲロゲが死ぬまで戦わせるか、それとも認めて逃げ帰るか」
Nは一瞬だけたじろいだ様子だったがすぐに調子を取り戻す。
「だ、だが! ガマゲロゲは負けない! まだ炎タイプのはずだ! ガマゲロゲ、ハイドロポンプ!」
命じられたガマゲロゲであるが、「サイコキネシス」の前に水を固定化させることさえも出来ないようであった。
水流の調節機能をヒヒダルマが既に掌握しているのである。
ガマゲロゲが折れ曲がった右手を突き出して「ハイドロポンプ」を放とうとするが、その照準は無茶苦茶だ。
ヒヒダルマに掠りさえもしない。
「そんな、馬鹿な……。ボクのポケモンが負けるって言うのか……」
「N様は、決して慢心はしなかったわ。それが偽物との差よ。ヒヒダルマ、サイコキネシスを最大出力へ」
ガマゲロゲの全身にかかった百倍の重力が地面ごと、ガマゲロゲを押し潰した。
その死体さえも残さず、ガマゲロゲが消滅する。
あまりに呆気ない幕切れにNは言葉をなくしていた。
「そんな……負けるなんて。ボクが、ヘレナに?」
「さぁ、次はあなたよ」
ヘレナがすっと指先を向けると、Nの左手が右手を押さえつけた。そのまま重力をかけてNを拘束する。
「こ、殺す気か?」
「殺す前に、全て答えてもらう。あなたはどこの組織の対抗策なのか。N様に化けて、何をしようとしているのか」
その問いにNは自嘲気味に嗤うだけであった。
「……対抗策? 他の組織? 違うな。ボクはNだ。それだけは間違えようのない、事実」
ヘレナが手を払う。それだけでNの右腕が左手に折られた。
Nが呻き声を上げる。ヘレナは語気を変えずに詰問していた。
「答えなさい。あなたは何?」
「何、と来たか……。言った通り、ボクは今より少し未来のN、なんだけれどな……。信じてもらえそうにない。そうだな、ヘレナ。キミは並行世界を信じるかな」
激痛に顔をしかめながら、Nは問いかけた。まるでこの場とは遊離している質問にヘレナは呆然とする。
「並行、世界……?」
「別の宇宙の話さ。あるいは、隣り合っているかもしれない世界の。ボクはここじゃない世界≠フNだ。時間線が常に隣り合っているとも限らず、かといって先に進めば後に戻れないわけでもない。時間の原理って言うのは、思っていたよりも簡単みたいなんだ」
「何を言って……あなたは何を言っているの」
当惑するヘレナにNは笑みを浮かべる。
「無理もない、か。ボクじゃないボクの存在を信用するのにはここに、この時間のNが現れるのが手っ取り早いんだが、そうなるとボクもそいつも消える。対消滅だ。そういう運命にあるんだよ。同じ存在は、同じ時間軸に居ちゃいけないんだ」
「何を言って……質問に答えなさい! 何を言っているの!」
語調を荒らげたヘレナはしかし、動揺していた。
この時間軸ではないN。この時間ではなく、未来に存在するN。もしそれが目の前の人間なのだとすれば、このNを殺すのはN自身を殺す事になるのか。
その戸惑いを感じ取ったのか、Nの口調に余裕が窺えた。
「……信じる信じない以前に、分からない、か。まぁ、ボクだって信じないとは思う。でも、既に放たれた不確定因子を封じ込めるのには、同じ存在こそ望ましいんだ。ボクの存在をかけて、言うとしよう。この時間軸にいるNは、ボクだけじゃない。二人、いや、もっとか。彼が望めば望むだけ、稀有の偉人であるNはこの時間軸に溢れかえる」
「N様は一人よ! 何を、血迷ったような事を……」
「血迷っているのはどっちだろうね、ヘレナ。ボクをまだ殺せない辺り、実のところでは疑っているんじゃないのか? このボクも、Nであるという事を」
「黙りなさい!」
ヘレナが手を払うと思念がNの身体を打ち据えた。
だが肩を荒らげているのはヘレナのほうであった。明らかに平時の落ち着きを失っている。
目の前の存在を、ただの偽物だと、断じる事が出来ない。
ガマゲロゲは確かに強かった。それこそ、Nが操っていてもおかしくないほどに。
横倒れになったNが哄笑を上げる。その笑い声に、ヘレナは耳を塞いだ。
「最後のところで決断出来ないみたいだね、ヘレナ。この時間軸に、ボクはまだいる。ボクじゃないボクが。それこそ、無数に。いつ、この時間軸のNと出会い、対消滅するのか、ある意味では楽しみだ」
「ヒヒダルマっ!」
その声が最後となった。
ヒヒダルマの形成した強大な思念の嵐がNの身体を煽る。紫色の暴風がNの身体を引き裂き、その場に塵芥でさえも残さなかった。
Nという存在の消滅。
もし違っても自分は人を殺した。その罪悪感にヘレナは膝を折り、胃の中のものを吐き出す。
ダルマモードに移行したヒヒダルマがこちらを慮ってきた。
「……大丈夫。ちょっと、疲れただけだから」
本来、戦いなどしない自分が戦った相手は何だったのか。その究明から正すべきであろう。
ヘレナは団員を呼び出すボタンを押し込んだ。
ブザーの音が鳴り、すぐに女性団員が訪れる。
「如何なされましたか……、これは……」
戦闘の痕跡に絶句する団員にヘレナは尋ねていた。
「今、N様はどこに?」
答え如何によってはさらなる地獄を見る。団員は逡巡の後に答えた。
「今は……戴冠式の前で、城壁を回っていらっしゃるはずです。呼びかけますか?」
「……お願い」
団員が常にNについている乳母へと電話をかける。その間中、ヘレナの思考を占めていたのは後悔であった。
――もし、今殺したのが本当のNだったのなら。
乱心しただけのNだとすれば、自分は取り返しのつかない事をしてしまった事になる。
通話が繋がったのか、団員が声を吹き込む。
「そちらにN様はいらっしゃいますか? 今、ヘレナ様が……」
呼吸が止まるかと思ったほどだ。もし、Nがいなければ――。
『こちらに? いらっしゃいますけれど……変わりますか?』
「……ヘレナ様。やはり、N様は今、城壁を巡っていらっしゃるご様子で……。ヘレナ様?」
一気に虚脱感が襲いかかった。
よかった。自分はNを殺していない。
「よかった……私……」
「ヘレナ様? 医者をお呼びしましょうか?」
あまりにヘレナの様子が平時とは異なっていたからだろう。狼狽した団員にヘレナは何度も言い聞かせる。
「大丈夫、私は……大丈夫だから。それより、申し訳ないのだけれど、N様の声を聞かせてちょうだい」
「N様の、ですか?」
怪訝そうにする団員にヘレナは言い含める。
「今、侵入者がいて……。N様の無事を知りたいの」
承服した団員が乳母へとその旨を伝える。程なくして、乳母の落ち着いた声が聞こえてきた。
『N様は……特に何事もなく、無事でいらっしゃいますが……』
濁したのはヘレナからNに連絡する事がまずないため、非常事態だと思われたのだろう。
ヘレナは手を振って無事を訴える。
「私には何もないのだけれど……N様の事が心配になって」
取り繕ったヘレナに団員がホロキャスターを手渡す。それを受け取ってヘレナはまず尋ねていた。
「N様は、そこにいらっしゃいますか?」
『……いらっしゃいますけれど……替わりましょうか?』
「お願いします」
乳母がNへと通話を変わる。通話口のNは怪訝そうであった。
『何かあったのかい? ヘレナ。キミのほうから電話してくるなんて』
「N様……! 私……!」
そこから先を口にしようとして、何も言えなくなってしまった。
あなたの偽者が現れて、私を殺そうとした――その事実がとてつもなく突拍子もないものに思われて、躊躇う。
『……何かあったのか? 一体何が……』
「いえ、私! N様の声が聞きたかっただけなんです。それだけの、ただのわがまま」
『そんなはずはないだろう。冷静なキミに限ってそんな事……。何があったのか、まずは落ち着いて話して――』
「N様! 本当に、何でもない、戯言なんです。だから何も、心配しないで」
どれだけ言い繕っても、Nは不安が消えないのか、追及してこようとしてきた。
『しかし……キミの無事だけでも知りたい』
「私は何ともないです。ちょっと、不安になった、それだけの話で」
この事実をNに伝えてはならない。直感的に思った事であったが、Nは渋々承服したようであった。
『……分かった。今は聞かないでおこう。戴冠式が迫っている。キミ達も出席するから、その時にまで余計なものは溜め込まないほうがいい。お互いに、心配を増やす事になる』
「分かっています。私は、何も……」
そこで言葉に詰まった。
自分には何もない。敵であるNは退けた。
――だが、自分の半身は?
バーベナはどうなったのか。
『……もしもし?』
「N様……ゴメンなさい。今は通話を切ってもいいでしょうか」
急に態度が変わったものだからNが狼狽する。
『何だって急に……。ボクに聞きたい事があったんじゃ』
「でも私、それよりも知らなければならない事があって。何て説明すればいいのか……」
言葉を彷徨わせているうちにも不安が募る。ヘレナは今すぐにでもバーベナの無事を知らなければならなくなった。
そうでなければ、この場合、読み負けるのはこちらだ。
『……分かった。これ以上は聞かない。キミがそう言うんだ。信じるよ』
「感謝します。N様」
通話を切り、ヘレナは早速、別の番号にかけた。バーベナへの直通通信である。
『はい?』
通話口に出たのはバーベナの従者だ。自分と同じように、女性団員がついているはずである。
「バーベナは? 彼女の身に何かあったんじゃないの?」
急いたヘレナの声に団員は辟易した。
『ヘレナ様? 何を仰っているんで……』
「答えて! バーベナは今、どうしているの?」
声を荒らげたヘレナに通話先の団員はしどろもどろに答える。
『どうって……、今は何も。先ほどから部屋に篭られております』
ならば、無事なのか。
ホッと胸を撫で下ろした直後、衝撃の言葉が放たれた。
『N様もご一緒ですよ』
ヘレナは目を見開き、通話口に声を吹き込んでいた。
「それは、本当にN様、なの?」
『……何を仰います。N様を見間違えるわけがないでしょう』
そのはずだ。Nはプラズマ団の象徴。玉座につくべき存在。
だが今は。その存在が不確かなものとなりつつある。
「本当にN様なの? 確認して!」
「ヘレナ様? 何を……」
従者が困惑を露にして声を止めに入ろうとする。ヘレナはそれを手で遮り、言い放った。
「本当にN様なのか、確認を! 早く!」
「冷静になってください! 何を仰っているのか皆目……」
傍目には可笑しくなったと思われているに違いない。だが、Nの偽物が現れた以上、二箇所に同時にNがいるはずがないのだ。
通話口の相手はもたついているのか、連絡に手間取っている。
『バーベナ様? ヘレナ様からご連絡が……。お急ぎの様子です』
バーベナの声は聞こえてこない。まさか、と思った矢先、通話口の従者が息を呑んだのが伝わった。
『バーベナ様?』
鍵を乱暴に開錠する音が響き、扉が開け放たれたのが分かった時には、通話先で声が聞こえていた。
『居ない……どこへ……』
その事実にヘレナは追及していた。
「バーベナは、いないの?」
『いらっしゃったはずなのに……。N様も……』
最悪の事態を想定する。Nの偽者が現れ、彼がバーベナを攫ったのだ。自分も少しでも気を緩めればやられるところであった。
バーベナは恐らく疑う事もなく、N本人だと信じ込んだに違いない。
「バーベナは? 彼女の痕跡はないの?」
『痕跡……、いえ、特に争った様子もなく……。窓だけが開いていますが……』
そこから逃げたのだ。
バーベナを攫い、そちらのNは目的を遂行した。
「Nに、してやられた……」
そうこぼしたヘレナを従者は怪訝そうに見やる。
「ヘレナ様……? 一体、どうなさったんで? N様は、先ほど通話に……」
ヘレナはホロキャスターの通話を切り、すぐさま言いやる。
「バーベナのところに行くわ。このままじゃ、まずい」
何が、という主語を欠いたまま、物事だけが転がっていく。
Nの偽物に、この時間軸、という引っかかる言い回し。さらに言えば、N本人としか思えないほどの立ち回り。
何かが起きている。
このプラズマ団の中で何かが。
それを解明しなければ、自分達は喰われるであろう。
底知れぬ闇の中へと。たとえ手を引いているのが他ならぬN自身でも、ヘレナは踏み止まらざるを得なかった。