FERMATA








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三章 N∽N
第20楽章「ALICE同罪イノセント」

 滴り落ちたのは真っ赤な鮮血であった。

 ガマゲロゲの毒を帯びた手刀がヒヒダルマに突き刺さりかけて、ヘレナが咄嗟に後退を命じた時、Nも同時に動いていた。

 その手からナイフが閃き、ヘレナは後ずさったがそのせいで切っ先が頬を掠めた。

 掌にべっとりとこべりつく、赤い血潮。

 それだけで意識が落ちそうになる。

 元々、戦いは得意ではないのだ。平和の女神、愛の女神のあだ名はそれに由来する。

 慈愛と平和を祈る自分達は決して己から剣を構えたりはしない。戦う時は、いつだって受け身であるはずなのだが、今回ばかりはヘレナにも看過出来なかった。

 あのNを、自分達の象徴たるNを侮辱されたのだから。

 Nの姿を取った何者かは手を払い舌打ちする。

「元々、脅しのつもりだったんだけれどね」

「N様を愚弄する、偽物が何を」

「だから、ボクは本物だよ。本物の、Nだ」

「まやかしなど、通じはしない! ヒヒダルマ、そいつを焼き切りなさい!」

 踊り上がったヒヒダルマがガマゲロゲへと炎を棚引かせた拳を叩き込むが、ガマゲロゲはそれをいなし、その腕をひねり上げた。

 ヒヒダルマの攻撃性能は折り紙つきだ。

 その攻撃を見切るなど通常のトレーナーの育てで出来るはずはない。

 相当な手だれか、あるいは……。

 浮かび上がりかけたその言葉をヘレナは飲み込む。

 ――あるいは、本当に、Nなのか。

 Nであるのならば、ヒヒダルマの次の動きも読めるはずだ。当然の事ながら自分の操るガマゲロゲのパフォーマンスを最大に引き上げる事も。

 ガマゲロゲが片腕を練り上げて水の砲弾を形成する。

 ハッとしてヒヒダルマが飛び退ったその空間を引き裂かせた。

「惜しいね」

「……ヒヒダルマは、やられはしないもの」

 だが、その呼吸が僅かながら乱れている。当然だ。次の一手を読まれ続ければどれほどに有能なトレーナーであっても敗北する。

 チェスや将棋と同じく、ポケモンバトルは一手先の読み合い。その読みを制せなかった者は敗北するのみ。

 ガマゲロゲがNの下に侍り、手を掲げる。正確無比な水の砲弾を三つ、中空に形成した。

「解せないのは……」

 Nが悠々と歩きながら口にする。

「ここでプラズマ団員を一人も呼ばない事だ。キミの手にはいつだって、プラズマ団員を呼べるボタンがあったはずだよ」

 それを知っているのはNを含む上級構成員のみのはず。どうしてそれを、と言いかけて、Nがほくそ笑んだ。

「これで分かったかい? ボクが、Nだと」

「N様ならば、こんな愚かな真似はしないわ」

「そうかもしれない。だってボクは、この時間軸のNではないからね。正しくはこれより、少し未来のNだ。ちょうど、戴冠式を終えて、その後、本当の強さを求めて現地のポケモンを捕獲していた頃のNさ。トモダチを増やして、そして彼と戦ってきた。だが、毎度敗北していた。今回ばかりは水・地面のガマゲロゲ。勝てるかと思うが自信はない」

「何の事を……あなたは何の事を言っているの?」

 まるで意味が分からない。そんなヘレナを嘲笑うかのようにNは言いやる。

「ヘレナ。時間というのは、真っ直ぐに流れているだけだと思うかい?」

 唐突な質問に面食らいながらも、ヘレナは応じていた。

「時間……とある地方ではその時間を制する方法があると聞いたけれど」

「博識だ。だがボクはそのポケモンの干渉で来たわけじゃないけれどね。そのポケモンに限りなく近い、別のポケモンだ。時間を渡る術となれば、限られてくる」

 本当に、目の前のNは未来の存在だというのか。しかし、ならば、とヘレナは強く言い放つ。

「だったら、あなたには未来が分かると言うの」

「それならば、随分とマシだったんだけれどね。このボクにはヘレナ、キミを確保せよ以外の命令はないんだ」

「命令……ゲーチス様の」

 その言葉にNは頭を振る。

「ゲーチス……父さんでもない。もっと大きな存在だよ。ボクを動かしているのはね」

 プラズマ団の意思ではないというのか。ヘレナは目の前のNを見据える。

 しかし、この時代にNは二人と要らない。

 倒さなければならないのだ。

 ここで自分をどうにかするつもりだったというのならば、それを後悔させるように。

「……残念だけれど、あなたが思っているほど、私は弱くない。ヒヒダルマ、ここで倒す」

 主の信念にヒヒダルマが身体を仰け反らせて胸元を叩いた。印象的な三つの文様から炎が浮かび上がり、胸板を炎熱に染め上げる。

「素晴らしい育てだ、そのヒヒダルマ。手合わせした事が、かつてのボクになかったのは少し残念だったほどだよ。まぁ、無理もないか。昔のボクは、必要以上にポケモンを傷つけさせるのが大嫌いだったからね」

「ヒヒダルマ、一気に攻め込む!」

 ヘレナの声音にヒヒダルマがガマゲロゲへと肉迫しようとする。ガマゲロゲは中距離タイプのポケモンだ。

 ヒヒダルマほどの熱量がある炎ポケモンと持久戦が張り合えるようには出来ていない。

 そのはずであったが、Nの操るガマゲロゲは違った。

 水の皮膜を形成したかと思うと、それを足裏に接合させ、まるで滑るように移動したのである。

 その移動方法も並ではないのならば、移動先に選んだ場所も並の判断ではない。

 何故ならば、炎を纏い瞬時に相手との距離を詰めるヒヒダルマはかなりの脅威に映るはずなのだ。

 それこそ命令を躊躇わせるほどの威容に。

 だというのに、Nは臆するどころか、ガマゲロゲに与えた命令は言葉少なであった。

「ガマゲロゲ、その射線だ。そこならば受けない」

 ガマゲロゲの移動したのはヒヒダルマの死角である。

 接近するヒヒダルマの常に移動する死角を的確に見据え、Nはガマゲロゲにその無風地帯への瞬間的な判断をさせたのだ。

 トレーナーとしての技量もさることながら、驚異的なのはその指示に一切疑問を挟まないポケモンとの信頼性。

 これはNでなければ出来ない。Nでなければポケモンが竦み上がってしまう。

 ガマゲロゲは死角に移動したと見るや、掌を掲げて砲弾を練り上げた。

「ヒヒダルマ! 右後ろ三十度に炎のパンチ!」

 振り返り様に放った一撃と「ハイドロポンプ」の水流が激突する。少しでも遅れていれば、水の奔流がその身を削っていたに違いなかった。

 一拍も気を抜けない戦闘。そのようなもの、平時には晒された事はない。

 ヘレナの緊張状態は限界に近づきつつあった。

 ポケモンバトルをそもそもたしなむ程度にしかやらない自分ではNとの地力が違う。

 呼吸が乱れ、集中が切れそうになってくる。

「限界、と見た。ボクの記憶からしてみても、キミが戦いに向いているとは思えない。すぐにでも、ヒヒダルマを収め、ボクの言う通りにするといい。大丈夫さ。手荒な真似はしないよ」

「……そう言って、手荒な真似をされない、という事もあり得ないでしょうに……!」

 必死に集中の糸を切らさないようにして、ヘレナはヒヒダルマに思惟を飛ばす。

 ヒヒダルマ自体の戦闘準備は万全。ただし、戦闘経験のないヒヒダルマは最早、これ以上の戦闘続行に不安を感じているようである。

 トレーナーの不安はポケモンに伝播する。

 このままでは追い込まれるのは必定。

「違いない。ただ、本当にボクはその気はないんだ。だってある人の命令に従っているだけだし、それにその命令とて、いつ破っても別段、痛くもない。このまま何もしなくってもいいんだが、それじゃつまらないだろう?」

 つまらない。

 そんな事で動くのが、Nという王であったか。違う、とヘレナは強く感じる。

 Nは、そんな俗物めいた人間ではない。

 人を超えた存在なのだ。

 自分を救ってくれた、恩人なのだ。

「違う……あなたとN様は、違う!」

「違わないさ。ボクもNだ」

「ヒヒダルマ! フレアドライブ!」

 ヒヒダルマが炎を噴出し、ガマゲロゲへと攻撃を見舞おうとする。ガマゲロゲは地表から砂煙を吹き出させた。

 一瞬の砂塵で眼を眩ませた直後、ヒヒダルマの背筋へとガマゲロゲが指先を当てていた。

「背筋は無防備かい? どれほどの炎熱の使い手でも、背後を取れば、それは無力化出来る。加えてキミは弱い。これでは、勝てるものも勝てない」

 トン、と指先が触れただけで、ヒヒダルマが吹き飛んだ。

 力も加えていないはずなのに、ヒヒダルマの巨躯がひねり上がり、地面を滑っていく。

 ヘレナは覚えずヒヒダルマに寄り添っていた。ヒヒダルマが、キュウ、と弱く鳴く。

「もう限界だろう? キミも、ポケモンも、だ。戦闘続行は賢い判断じゃない」

 ヘレナはスカートをぎゅっと握り締めた。ここまでの力の差。

 当然だ。

 相手はプラズマ団の玉座につく人間。

 それを鑑みれば、勝てる勝負のはずがない。

「私は……」



オンドゥル大使 ( 2017/07/15(土) 22:34 )