FERMATA








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二章 新たなる風
第8楽章「王的血族」

「お願い! この子を助けてあげて!」

 そう懇願する少女は傷だらけで、今にも倒れ込みそうであった。

 新緑の髪を持つ少年はトモダチ達と共に、この森に流れてきた経緯を少女に問い質す。

 少女は涙ながらに訴えた。

「ここなら、私達が傷つかずに済むって聞いたの。ダルマッカも、誰にも傷つけられないって」

 彼女のポケモンなのだろう。ダルマッカは右腕に大きな傷を作っていた。見るからに人為的なものである。

 それは少女に至っても同じで、痣だらけの手足を見るに、少年は自分と境遇が同じなのだと感じ取った。

「でも、この森にはニンゲンは棲めないように出来ているんだ。ここはトモダチの森だから」

「でも、あなただってニンゲンでしょう?」

 そう問い質されて、彼は言葉をなくす。

 そう、自分とてニンゲンだ。彼らの棲家を追い、この森に辿り着かせた忌むべき血の一つなのだ。

 しかし、今はトモダチの声が分かる。だから、理由もなくポケモンを傷つける他の人々とは違うと感じていた。

「ボクは、トモダチの声が分かるんだ。だから、ダルマッカが何を感じているのか、よく分かる」

「ダルマッカは、私の友達だった。私がおかあさんに殴られても、蹴られても、ダルマッカだけは味方をしてくれたの。でも、ダルマッカはまだ弱くって……。わざと餌も与えてもらえなくって。このままじゃしんじゃうって思ったから、この森の話を聞いて街から逃げてきたの」

「キミ一人じゃ、ないね?」

 その言葉に少女は目を見開いた。どうしてそれが分かったのだ、という眼差しに少年はダルマッカと目線を合わせる。

「ここに来るまでに、もう一人、キミと似たような境遇の子がいた。その子のポケモンを持っている。その子はどこに?」

「……言えない」

「キミが言わなくってもダルマッカに聞けばいい。ダルマッカ、その子はどこにいるんだい?」

 ダルマッカがキュウ、と弱々しく鳴いた。その一声で彼にはその場所が看破された。

「ここから少し離れた街の下水道か。分かった。ボクはそこまで迎えに行こう」

「ダメだよ! だってあの子は……バーベナはあの場所でしにたいって言ったんだから! あの子の最後の言葉を、私は無駄には出来ないよ……」

 彼はダルマッカに目線で問う。答えられた内容に首肯した。

「そうか。キミとその子、バーベナという女の子は姉妹みたいなものなんだね。でも、親が違う。切り離された、最愛の存在。キミ達はどちらの親からも愛されていなかった。だからこそ、お互いに出て行った。でも、バーベナは耐えられなかった。何故なら、彼女のポケモンは死んでしまったからだ」

 全てをつらつらと話す少年に少女は震撼していた。何も言っていないのに、少年は自分達の境遇を見てきたように語る。

「……どうして、そこまで分かるの?」

「トモダチが教えてくれる。彼らの目を見れば、何を言いたいのか、ボクには分かるんだ。この森の事を知ったのは、バーベナのほうだね。ヘレナ」

 少女の名を紡いでやると、ヘレナは目を伏せた。

「バーベナは物知りだったから……。でも、私、あの子を置いてきてしまった。もう、私だけでもここに辿り着くしか、あの子に報いる術はない……」

「いや、ある。行こう、みんな。バーベナは生きているはずだ」

 その言葉に森のポケモン達がにわかに騒ぎ始めた。鳥ポケモンが宙を舞い、森にいる頑強なポケモン達が腕を振るって力を誇示する。

 たった一人の少年の言葉で数多のポケモン達が奮い立つ様子にヘレナは怯えたような声を出す。

「何で……、あなた一人の言葉でどうして、ポケモン達が動くの?」

 その問いに少年は当たり前の回答を口にした。

「だってトモダチだから。トモダチは、何があったってトモダチだ。ボクは彼らを裏切らないし、彼らだってボクを裏切らない。この森に辿り着いたのなら、キミだってそうだ、ヘレナ」

 ヘレナは森そのものが動き出したかのようにポケモン達が色めき立つのを畏怖の眼差しで見据えた。

「あなたは、何なの……」

 その問いに少年はフッと口元に笑みを浮かべた。

「ボクは彼らのおうさまだ」













 ハッと目を覚ますと、じっとりと汗を掻いていた。

 上体を起こそうとして、激痛に顔をしかめる。

 随分と懐かしい夢が脳裏を掠めていた気がしていた。あの森での出来事はいつだって煌く星屑のように、自身の胸の中にある。

 あの森で出会ったポケモン達とはもう切り離されてしまった。あの森も、今は存在するのかどうかも分からない。

「気づいたか」

 その声音に視線を振り向けると、太陽の鬣を持つ男が腕を組んでいた。

 首からは数珠繋ぎのモンスターボールを下げ、腰蓑のようにモンスターボールが繋ぎ合っている。

 間違いない。忘れようもない存在であった。

「アデク……さん」

「ワシの事を知っておるのか。随分と物知りだな!」

 アデクの快活な声に覚えず視線を背けた。

 ――それはあなたを、ボクが倒してしまうから。

 たとえ事実だとしてもそのような事が言えるはずもなかった。

「で? お主は何者じゃ? 正直、ポケモンリーグ関係者でもない限り、ここイッシュでは、チャンピオンの名前と顔は秘匿されておるはずだが」

 アデクの存在を知る者は数少ない。それはそもそもイッシュのポケモンリーグが他地方に比べて特殊な方式で成り立っている事。次いで、それぞれの四天王のレベルが高く設定されており、そもそもチャンピオンまで挑戦者が辿り着けない事が挙げられる。

「……ポケモンリーグについて深く調べる機会があって。それでアデクさんの事も」

「おお、そうか。まぁ、ワシの素性を調べたところで、四天王を突破出来なければ意味はないぞ?」

 笑い話にしようとするアデクだが、今より一ヶ月もしない間に、アデクは敗北を喫する事になる。それも、自分の手で。

 プラズマ団の野望とこれから起こる過ち全てをなかった事に出来ると思っていた。

 何よりも、それこそが自分がこの時間軸にいる意味だと。

 だが、プラズマ団を嘗め切っていたのは自分のほうだ。ノアは届かなかった事を悔いる。

 プラズマ団は自分の思っていたよりもずっと慎重であった。

 ゲーチスどころか、その直属部隊にさえ今の自分では届かないだろう。

 歯がゆい気持ちに、ノアは額に手をやった。アデクは、というと頬を掻いてノアの苦悩に首を傾げる。

「分からんな。お主、まるでこの世の終わりのような顔をしておるぞ」

 実際、この時間軸において自分は無力だ。ダークエコーズなる部隊に歯が立たなかった。

 これでは何のために今まで放浪の旅を続けてきたのかも分からない。

「……ボクは、何のために、ここまで」

「何を悔いておるのかは聞かんよ。だが、お主に一つだけ聞くとすれば、それはどうしてそこまで自分を追い詰めているのか、だな」

「ボクは、追い詰めなければいけなかったんです。だって、そうでなければボクは、今までやってきた事の一つだって、贖う事が出来ない」

 ノアの言い草にアデクは強い顎鬚をさすりながら、むぅと眉根を寄せる。

「何か、とてつもない事があったようじゃが、まぁ聞かん。ワシは、そこまで出来た人間ではないからな。チャンピオンと言っても、玉座に座っている時間のほうが少ない。一年中、こうして各地を回っている」

 そういえば、どうしてアデクは玉座にこだわらないのか。それを一度として聞かず、自分は神話級のポケモンで一蹴してしまった。

 ただ倒すべき敵としか認識していなかった。

 アデクを倒せば、プラズマ団の真の支配が始まるのだと。

 だが実際、アデクという男の内情を自分は一ミリも知らない。

「その、アデクさんはチャンピオンですよね……。どうして、ライモンに? だってチャンピオンロードからは随分と遠い」

「ワシはな、強さとは何か、と常に自分に問うている。それは、例えば旅するトレーナーであったり、あるいは強さのみを追い求め、それ以外を些事とする人間であったりをいさめ、その道を正すための……言ってしまえば伝道師、とでも言うべきか」

「伝道師、ですか……」

 チャンピオンの仕事とは思えない。その感情が出ていたのだろう。アデクはフッと笑みを浮かべる。

「王の仕事ではない、か?」

「いや、その……、各地を回るにしても、王という身分を隠す必要があるのでしょうか。だって、チャンピオンだと知らない人間のほうが多い」

 アデクに対して、辛辣な感情をぶつける人間だっているだろう。それに対して、彼は何も思わないのだろうか。

 アデクは、ふむ、と咀嚼しつつ言葉にした。

「確かに、王である、というのは一種の箔だが、では箔で王をやっているのかと言えばそうではない。ワシは、真の強さとは心の強さなのだと信じておる。その根拠は、例えば四十年前のポケモンリーグであったり、あるいは今まで見てきた強者達の生き様であったりするのじゃが、難しい話になる。ワシは難しい話は好かん」

 ほれ、と差し出されたのは緑茶であった。茶柱が立っている。

「こうして街に一つの宿を借り、身分を隠して生きるのも一興。ワシは力を誇示するつもりなど一切ないし、何よりも王であるからと言って、では偉いのか、と言えばそうではない。王も民草も、等しく大いなるうねりの前では無力だと感じておる」

 耳に痛い言葉であった。

 大いなるうねり。それを変えようとしているのだ。自分は、運命に抗って戦おうとしている。

「ボクは、今やっている事が正しいのかさえも分からない」

「そういうものじゃとて。誰も、正しさの証明なんぞ出来はせんのだ」

 アデクの結びに、言葉を返そうとすると部屋に飛び込んできたのは少年であった。

 アデクと同じく赤い髪であり、背丈も低く幼い印象を受ける。

「じィちゃん! オレ、この街のトレーナーはもう倒したぜ! そろそろ次の街に行こうよ!」

 随分と力の有り余っている印象であった。息せき切っている少年にアデクは落ち着き払って緑茶を飲み干す。

「まぁ、待て、バンジロウ。旅のお方が疲れを癒すまでくらいは」

「オレ、待てねぇ! だってよ、この世界にはもっと強い連中がわんさかいるんだろ? じィちゃんだけズルイぜ! 四十年前にそういう連中と渡り合っていたくせに!」

「修行の旅は急けば負けよ。落ち着いてその時々を切り取る。それも強さのうち」

「わかんねぇって! オレはまだまだ戦い足りないんだ!」

 そう言って少年は廊下を走っていった。嵐のような少年の声音にただただノアは圧倒されていた。

「彼は……」

「孫じゃよ。あれで実力が伴っておるものだから、なかなかタチが悪いというか、何と言うかじゃが。言っておくが、バンジロウはワシより強いぞ」

 笑って見せたアデクの眼差しにはこれからの強さを暖かく見守る老練の戦士の空気が漂っていた。

 そうか。自分の倒したアデクは、次世代の息吹をもう感じ取っていたのだ。

 それに比して自分は。アデクを倒しただけで満足し切っていた。プラズマ団の支配以外に、何も見えていなかったのだ。

 恥じ入るように顔を伏せたのを勘違いしたのか、アデクは快活に笑う。

「なに、バンジロウにも未熟な点は多々ある。あれは単純に若さで勝っている面もあるし、まだまだワシの玉座を与えるつもりはないのう!」

 自分は恐らく、そのバンジロウにも至らない。トレーナーとしての純粋な強さでは、勝てる見込みは薄いと考えていた。

「ボクは、今までたくさん、戦ってきたつもりでした。でも、こうも自分の足場を崩されると弱いだなんて思いもしなかった」

 トモダチの声が聞けないだけで。ポケモンと心を通わせられないだけで。自分はこうも脆く、儚い玉座で満足していた。

 ノアの懺悔をどう受け取ったのか、アデクは新たに湯のみに緑茶を注ぐ。

「ワシはな、四十年前、それこそ死に物狂いの者達を見てきた。勝利するため、王になるため、その一事のために全てを捨てた、戦いにしか生きられぬ者達を。その怨念の行き着く先は、畢竟、己が首を絞めるだけであった。今にして思えば……ワシももう少し、欲を持って戦ってもよかったかもしれん。あの頃のトレーナー達はバンジロウと同じじゃわい。勝つ事しか考えていない。勝って相手を屈服させる事のみのために、全てを捨て去る……、それを愚かだと嗤う事も出来なければ、勝手な理屈だと馬鹿にする事も出来ん。何故なら、彼奴らは強かった! 間違いようもなく、強敵じゃった! それが今も悔しい! その強敵と、もっと張り合うべきであったと!」

 緑茶を飲み干すアデクにノアは尋ねていた。

「後悔、しているんですか?」

 もっと戦えばよかったと。アデクはしかし、渋い顔をして首を横に振った。

「後悔は、いつでも出来る。問題なのは後の祭りの出来事に呑まれぬ事じゃ。ワシが今、四十年前のポケモンリーグを回顧したところで、それは老人のたわ言。意味があるのは、むしろバンジロウのようなどこか前すら見えていないあの猪突猛進の心意気。あれが大事なのじゃと、王になってつくづく感じたわい。前など見えなくともよい。後ろなど、振り向かなくともよい。ただ、戦え。己が満足するまで、戦い抜け。それがポケモントレーナーなのじゃと、な。まぁ、遠い異国でポケモン図鑑を作っておる奴や、ジムリーダーをやっとる奴も居る。あるいは、四天王を退いた奴も知って居るし、ポケモン預かりシステムの基礎を築いた奴も、な。ただ、あの超ど級の兵達と、同じ時代を生きれた事は、それだけは幸運じゃったな。うむ、間違いない」

 アデクは満足の上に、王になった。

 自分はどうだ?

 満足、不満足の以前に、王になって何がしたかった?

 ポケモンの解放が詭弁なのだと、分かっていたくせに何一つ出来なかったではないか。

 ゲーチスの言葉に踊らされていると分かっていても、何も出来なかったではないか。

 でくの坊だ、とノアは拳をぎゅっと握り締める。

 分かっていて静観していたのだ。ならば今、自分のすべき事は、時代を変える事だ。

 この時代を、ただ何もせずに見守っていていいはずがない。

 この先何が起こるのか、自分には分かっている。分かっているのならば戦わない理由などないではないか。

「アデクさん。勝手なお願いだとは承知ですが、一つだけ」

「おう、なんじゃ? 大体の頼み事は聞けるぞ?」

「ボクに、修行をつけてください」

 いずれ倒す相手に修行をつけてもらう。これほど失礼な事もないだろう。アデクが突っ返しても文句は言えない。

 しかし、彼はその頼みを快諾した。

「よし! 修行か! 悪くない。お主、見た目はバンジロウよりももやしっ子じゃからのう! 鍛え甲斐がありそうじゃわい!」

 アデクが懐から取り出したのは赤い杯とカントー産の酒であった。

 二つの杯に酒が注がれ、アデクが掲げる。

「これは祝杯じゃ。ワシの修行は、ちと厳しいぞ」

 望むところだ、とノアは杯を手にした。

 二つの赤い杯が交わされ、ノアは一気に飲み干す。

 灼熱が喉を通り抜けていった。

 アデクがニッと笑みを浮かべる。

「戦いの前の酒は美味い! 無論、戦いの後も、じゃがな」



オンドゥル大使 ( 2017/06/20(火) 23:14 )