FERMATA








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二章 新たなる風
第19楽章「肉体の悪魔」

「ヘレナ。入るから空けてくれ」

 その声音に、ヘレナは部屋のロックを開けようとして違和感に気づいた。

「……N様、ですよね?」

「何を言っているんだ。ボクはNだよ」

 声もそうだが、身振り手振りもNそのものだ。しかし、どこか、妙な感覚が付き纏った。

「ちょっと待ってください。確認します」

「何の確認だい? ボクも急ぎの用事なんだ」

 そう言われてしまえば、ヘレナは断るわけにもいかない。

 開錠しようとして、一瞬だけ思い留まった。

「N様なら、そういえばさっきゲーチス様がお呼びでしたよ」

「本当かい? 何だって?」

 扉を開けかけて、Nを名乗ったその人物の腹腔へと攻撃が見舞われた。

 咄嗟に相手が防御する。

 粘性のある水の皮膜が形成されていた。

 炎の拳の先端が蒸気を発する。

「……詰めが甘いわね。プラズマ団内の鉄の掟の一つよ。ゲーチス様は、N様と絶対に接触を持たない」

 ヘレナはつぶさに相手を観察する。

 しかしどこからどう見ても、その姿形はNそのものであった。N本人以外の何者でもない。

 すぐさまメタモンによる変身の線を疑った。

「メタモンの変身を解きなさい。狼藉者」

「これは変身ではない」

 相手がすくっと立ち上がる。Nそのものにしか見えない相手が連れているのはガマゲロゲというポケモンであった。

 Nと共に攻撃姿勢に入る。

「ボクはNだ」

「嘘を言わないで。N様は、そんな高圧的な態度を取らない」

「キミの知っているNとはまた別のN、と言えばいいかな? この時間軸を潰すために送られてきた、違うNだよ」

「まやかしを……」

 ヘレナが手を払うと、それに対応して侍っていたポケモンが跳ね上がった。

 赤色をそのままに身体に宿らせたポケモンが全身から火炎を放射して飛びかかる。Nにしか見えない相手がガマゲロゲを使ってその攻撃を遮った。

「キミのパートナーだったね。ダルマッカの進化系、ヒヒダルマ」

 ヒヒダルマが飛び退り、瞬間的に咲いた水の攻防を弾いた。

 ガマゲロゲの使う粘性のある水がまるで鞭のようにヒヒダルマへと攻撃する。

 腕で受け止めたヒヒダルマが灼熱を発した。

「燃やし尽くせ!」

 水が気化していく中でガマゲロゲが肉迫する。近距離戦で仕留めようというのか。

「嘗めた真似を……!」

「果たして、そうかな?」

 ガマゲロゲの拳がヒヒダルマと交差し、一進一退の攻防を繰り広げる。ポケモンを操る才は紛れもなく、天才の域だ。

 だが、相手がNのはずがない。

 Nは一人のはずだ。

「迷っているのかな? キミのヒヒダルマ、キレがなくなってきたけれど」

「そうかしら?」

 下段より放った拳をガマゲロゲが避ける。しかしそれは次への布石だ。

 ガマゲロゲの足元から炎が迸る。

 Nらしき相手は、ほうと感嘆した。

「時限式の爆弾をいつの間にか設置している。やるね。さすがは、あの森でボクと共に生きてきただけはある」

「……あなたは何者? N様に成るだなんて、冗談にしても性質が悪い」

「ボクはNだよ? 紛れもなく、本物だ」

「本物は! 本物なんて言わないわ!」

 ヒヒダルマの拳が奔り、ガマゲロゲの鉄壁の攻撃網を突き崩そうとする。

 しかし、今度は逆にヒヒダルマはガマゲロゲの術中にはまってしまった。

 射程に潜り込んだ途端、発生したのは水の網である。粘性のある水がヒヒダルマを捉えた。

「これで、逃げられないね」

 ヘレナはキッと相手を睨み据える。

 耳障りなのはNそのものとしか思えない声だ。対抗組織がNの偽物でも擁立したのだろうか。

「……失せなさい。N様は、二人と居ない」

「ところがこの時間軸はそうじゃないらしい。ボク以外にもNがいる。そして、その中には反逆の牙を研いでいる者もいるんだ」

「妄言は聞き飽きたわ。消えなさい!」

 ヒヒダルマが全身から炎を発するが、水の投網はすぐには解けない。それどころかきつくヒヒダルマの自由を奪った。

「無理だよ。ヒヒダルマじゃ勝てないように、ガマゲロゲを選んだんだからね」

 相手はこちらがヒヒダルマを持っていると知って来たというのか。組織の中で自分達の手持ちを知っているのはほんの上位数名だけである。

「……あなたは何?」

「何度も言わせないでくれ。ボクは、Nだ」

 Nの偽者は陶酔するかのごとく告げる。ヘレナは奥歯を噛み締めて、その苦味に耐えた。

「N様をこれ以上……穢すなぁ!」

 ヒヒダルマの炎が一点を超えて龍の形状を成した。

 ヒヒダルマ自体は動けない。だが龍脈を辿った炎は動く。

 Nの偽物へと食いかかろうとした炎の牙を、受け止めたのはガマゲロゲの腕である。

 蒸発し、すぐさまガマゲロゲが水と共に手を薙ぎ払う。

 炎の龍が霧散する中、相手は超越者の眼差しで口にしていた。

「この時間軸は盤面だ。チェスでも、将棋でもいいが、そういう盤面。ボクという不確定要素をいくつも抱え込んだ時限爆弾とも言える。この次元がどれほど耐え得るのかの実験だ。思考実験だよ、ヘレナ」

 邪悪に微笑むNの偽物にヘレナは怖気が走っていた。相手はどこまで知っている? どこまで、自分達の領域に踏み込んでくる。

「土足で、私達の関係を侮辱するな!」

 怒りが灼熱の炎となり、ヒヒダルマの全身を血潮となって駆け巡った。燃える血液が網を切り裂いていく。

「やるね! そうでなければ戦い甲斐もない。ガマゲロゲ、本気を出そう」

「ヒヒダルマ! フレアドライブ!」

 ヒヒダルマが全身に炎を宿らせる。迸った炎の一つが腕に至り、肩から振り回した炎がそのまま衝撃波となってガマゲロゲとNの偽物を焼こうとした。

 この攻撃はほとんど必殺の構えだ。

 だからこそ――次に相手が打った手にヘレナは驚愕する。

 逃げるわけでも、ましてや背中を向けるわけでもない。

 ただただ、前に進んだ。

 その歩みにはいささかの迷いもない。

 ヒヒダルマの「フレアドライブ」の一つ、腕から放つ衝撃波タイプには実は一つだけ、落とし穴がある。

 それは一番派手に見える真正面が真空地帯である事であった。

 台風の目が一番強烈に見える位置にあるのだ。それは知らなければ突破不可能である。

 Nの偽物とガマゲロゲはその地点を何の命令もなく移動し、寸分の狂いもなく立ち止まった。

 炎が行き過ぎていく。

 城壁を焼却し、爆発の光が広がった。

「まさか……本当に……」

「言ったろう? ボクは、Nだ」

 Nでなければ知らないはずの、ヒヒダルマの弱点の一つである。

 ヘレナの自信が揺らぎ始めていた。

 相手は、本当に、Nだというのか。

「でも……じゃあ何のために、N様が……」

「何のため、ねぇ。まぁ、ボクはどうやら放り込まれたらしいって事だけは分かる。どうにも、ボクより前にこっちに飛んだボクが、ちょっと厄介な事を仕出かしそうだから止めてくれ、とのお達しだが、ボクはプラズマ団の王様。凡俗の命令なんて聞くいわれはない。なら、成り代わろうと思うんだ。ここで、ボクが、真のNとして」

 双眸に宿る野心の火にヘレナは覚えず後ずさっていた。

 ――目の前のこれは、一体何なのだ?

 ガマゲロゲが跳躍し、次の瞬間、ヘレナの視界を両断した。

 王の声音が響き渡る。

「さよならだ。ヘレナ」








第二章 了


オンドゥル大使 ( 2017/07/10(月) 21:03 )