FERMATA








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二章 新たなる風
第12楽章「MOTHER」

 しとしとと雨が降り始めていた。

 アデクはじっと聞き入っていた。バンジロウも同じくである。自分が、プラズマ団の王である事。そして、いずれはこの時間軸の自分がアデクを倒す、と。

 そこまで言い終えた。

 狂人と思われるか、あるいは敵として処理されるか。

 どちらかだと思っていたノアは次のアデクの言葉に面食らった。

「ふむ……つまり、お主はかつての自分を殴りに来たわけか」

 その理解にノアは目を見開く。バンジロウも同じく、大して驚きはしていなかったようだ。

「セレビィの時渡りかぁ。そういうのってあるんだな」

 自分が想定していた反応と違う事に、ノアは困惑する。

「アデクさん……ボクはいずれ、あなたを倒すかもしれないんですよ。だってのに……」

「負けるじゃと? そんなのは時の運よ」

「いえ、それは絶対なんです。だってボクの使うポケモンは――」

「待った。それ以上は聞けんな」

 手を広げられ待ったがかけられる。ノアは口を噤んだ。

「それは、よくない事じゃろう。だって未来の事を聞くのはあまりいいとは思えん」

 その段になってノアは己の迂闊さに気づく。しかし、それ以上に、とアデクが気にしているのは別だった。

「それに、手合わせする相手の手持ちを先に聞くのは王としてはフェアではないのう!」

 フェアではない。それだけの理由で、アデクはこれ以上の干渉を阻んだのだ。その心息に改めて、自分の愚かさが滲み出てくる。

「ボクが、おかしいとも思わないんですか?」

「だって時渡りってのは聞いた事あるしなぁ、じィちゃん」

 バンジロウが頬杖をつきながら応じる。アデクも心強く首肯した。

「うむ。時渡りなるものは実在する。ただ、その時渡りに巻き込まれて、どうなるのかまでは知らんが、こういう事もありうるのか。同じ次元に、同じ人間が二人……。ワシはそういう、SFには詳しくはないが、かつて似たような事を聞いた事がある。その時も理解するのに大変苦労したが、そういうものが存在する事を否定は出来んよ」

「でも……だとすれば余計に」

 そうだ。だとすればむしろ己の末路を知ってしまった。それだけで未来は変動する。だが、アデクはどこ吹く風であった。

「なに、ワシがちょっとばかし齧った程度で変わる未来ならばないも同然! それに、ワシは勝つ! 関係がないのはそれも同じじゃのう!」

「オレも、じィちゃんが簡単に負けるとは思えねぇ。聞いた限りじゃ、兄ちゃんの過去なんだろ? だったら、今の兄ちゃんより弱いって思えばいいんだし」

 この祖父にしてこの孫か、とノアは感心する。彼らは己が敗北するなどその段にならなければ信じようともしないのだろう。

 それほどまでに意志が強い。

 ノアは自分の浅慮にまずは恥じ入るべきだと感じた。

「……すいません。少しばかり、あなた方を軽んじていました」

「一国の王を軽んじる。なかなかに出来る事ではないのう!」

 アデクは豪気に言ってのけるが、これは事実なのだ。

 Nがプラズマ団の王として立つのは恐らく間もなく。この数日中に、プラズマ団に攻め入らなければならない。だが、自分が力不足なのは痛感した。バンジロウにも勝てずして、今のNに勝てるはずもない。

 しかも、Nと自分の間には何かしらの事象が存在すると考えられる。

 恐らくは対消滅の運命にあるのだろう。

 黒い瘴気は、同一存在の対峙を許していない、この次元そのものの抑止力に思われた。

 ――ではどうする?

 ここで手をこまねいていても同じ。しかし、今のままではヴィオの配下であるダークエコーズにも勝てない。

 せめて分散出来れば、と感じていたノアにバンジロウが言いやった。

「その、プラズマ団ってのさ。悪い事をしてんだよな?」

 そう言われると言葉に詰まるが、ノアは頷いた。

「うん、その通りだ」

「じゃあよ、オレ達で攻め入ろうぜ。相手がどうせ来るなら、こっちから攻めたって同じだって」

 思わぬ言葉であった。絶句するノアにアデクが膝を打つ。

「我が孫ながら、なかなかに豪気! よし、やってやろう! プラズマ団に討ち入りじゃ!」

「ちょ、ちょっと待ってください! プラズマ団はそんな簡単に攻め込めるものじゃ」

「でもよ、兄ちゃんたった一人で戦うのは無理だろ。そうだったら、オレらみたいなの、仲間にしたほうがトクだと思うぜ?」

「得って……」

「バンジロウの言う通り。ノアタロー。お主、悔いておるようじゃったな。森にヘレナとか言う少女を招いた事。全ては己の責任だと。しかし、こうは考えられんか? それも一つの可能性、出会うべくして出会ったのだと。ワシはそういう、運命とやらにはとんと疎いが、人間同士、引力というものがあるんじゃよ。この時間軸で、お主と出会い、戦い、お互いを高め合おうとしている。これもまた、運命じゃろう?」

 確かに前の時間軸では、アデクと戦う前に出会うなんて考えもしなかった。ノアはしかし、この状況が好転するものだけではない事を危惧する。

「でももし……ボクとの出会いがあなた方にとっての凶兆だったら……」

「なに、その程度吹き飛ばせなくって、何がチャンピオンか!」

 アデクの言葉にはその心強さがある。バンジロウが立ち上がり、拳を握り締めた。

「オレ、やってやるよ。プラズマ団っての、面白いじゃん! 壊滅させたら、兄ちゃんとずっと戦えるって事だろ? なら、オレはやる。どうせ、じィちゃんがやられちまうくらいの組織なら、オレが潰したって問題ないだろ?」

 力強い言葉にノアは、しかし、と不安になってしまう。

 自分の一方的な押し付けが、結果的に彼らを危険に導いている。この道で正解なのか、と問い質す。

「でも、それじゃあ、あなた方はプラズマ団と対決しなければならない。ボクは、それは避けたいんです。出来れば、プラズマ団に挑むのは、ボクだけで……」

「水くさいぜ! ここまで来たら、イチレンタクショウだろ? なぁ、じィちゃん!」

 バンジロウの声音にアデクが深く頷いた。

「そうじゃな。一蓮托生、ノアタロー。お主は自分で思うほど、自分の存在が軽くないと思ったほうがよいぞ。お主の存在で救えたものもあるじゃろうて」

 自分の存在で救えたもの。そのようなもの、この時間軸に来てから全て、取りこぼされたかに思われていたが。

「ボクでも、今のボクでも、救えるものがあるのでしょうか」

「きっと、ある。ワシらを変えられた。それだけでも充分じゃろう」

 アデクの言葉はどこまでも前向きだ。前向きだからこそ、彼らの帰結が暗雲垂れ込めている事を危惧してしまう。

 このままでは、アデクは自分に敗北する。それだけならばまだいい。アデクは、これを期にトレーナーとしての限界を感じ、チャンピオンの座を退くのだ。

 それを話していない事が酷く卑怯な事に思われた。

「ボクは……」

「バンジロウ。お主はもう寝よ。明日も早い」

「えー! オレ、もっと兄ちゃんと話したいぜ! だってケルディオの強さの事、何にも聞いてないじゃん!」

「ノアタローも急ぐわけではあるまい。明日にでも聞けばよいじゃろう。なぁ?」

 アデクの問いかけにノアは応じる。

「うん、ボクのケルディオでよければ明日でもお手合わせ願いたい。だって、ボクはまだ……弱いから」

 その言葉にバンジロウは暫時、呻り込んだ。

「そこは卑下するところじゃねぇと思うけれどな。だって、オレの言うよえーっての、ただの強さの話じゃないし。オレが気にくわねぇ、よえーヤツってのは、本当にいじいじしていて、どうしようもねぇヤツの事さ。兄ちゃんはそうじゃない。最初のほうは、そうかもな、と思ったけれど、戦えば分かる。目つきが、もう戦うヤツのそれだ」

 褒められたのか、とノアは呆然とする。そんなノアの胸中に差し込むようにアデクがいいやる。

「これ以上は、明日に持ち越しじゃ。バンジロウ、寝る時間じゃ」

「はいよ。兄ちゃん、またバトルな!」

 バンジロウがテントの中に入る。すぐさま寝息が聞こえてきて、ノアは面食らってしまった。

「すぐに寝られるんだ……」

「まだまだ子供じゃよ。強いと言っても、そればかりはどうしようもない」

 アデクは火を絶やさず、ノアの話を聞き入るように腰かけた。

「……アデクさん。ボクはあなたに、話さなければならない事がある」

「それは未来が変動する事か」

 無言が肯定の証であった。アデクはやれやれと頭を掻く。

「ボクの業なんだ。だから、話さなければならない」

「ワシを倒す、という話か」

 アデクは材木を放り投げ、キャンプの火にくべた。

 チャンピオンからしてみれば胸のすく話ではあるまい。自分を倒す、と目の前の弱いトレーナーが豪語するなど。

 しかし、倒すのはこの時間軸のNだ。自分とは違う。

 ポケモンと話す能力を持ち、さらに言えば神話級のポケモンを操り、全ての情熱をプラズマ団に注いでいる。

 あの頃の自分に勝てたのは、後にも先にも同じ神話級を操った存在だけだろう。

 今、その人間に会えないのが恨めしいほどであった。

 否、今会っても、恐らくは混乱させるだけ。そもそもまだ旅に出ていないかもしれない。

「アデクさんとしてみれば、信じられませんか?」

「いや、ワシは老いた。それなりに強いトレーナーにも会ってきたし、そろそろ時代の息吹を感じているところじゃ。強い奴が出てきても何ら不思議ではあるまい」

 達観していた。アデクは、もっと熱いところのある直上型だと思っていたが思いのほか自分を客観視している。

「……驚かないんですね」

「驚いても、若さが戻ってくるわけじゃない。ワシは、全盛期より緩やかに堕ちゆく己を自覚している。だからこそ、ひとところに居場所を作らんのもあるのかもしれん。落ち着いてしまうと、もう成長できなくなるような気がしてな。今日のバンジロウとお主のバトルを見て、久々に血が沸き立つものを感じたが、やはり、というべきか、老いの波には勝てんよ。昔なら、途中で割り行ってバトルに入っておったろうなぁ……」

 それほどまでに自分とバンジロウのバトルは素晴らしかったのだろうか。ノアは生まれて初めてバトルの価値を問うていた。

「その、ボクのバトルは、よかったでしたか?」

 感じ入るように、アデクは言いやった。

「よかった。実に……、これがポケモンバトルか、というものであったよ。バンジロウに任せたのが若干惜しかったほどに、な。じゃが、お主のバトルには迷いがある」

「迷い……」

「ポケモンとの足並みは人によって違う。かなり距離を置いて戦う人間もいれば、ポケモンと一心同体、そのようなトレーナーもいる。じゃが、お主はどちらでもない。いや、はかりかねている、というべきか。本来ならば一心同体なのが、ぶれている、と評するべきじゃろうな。戦闘スタンスが普段と違う。だからこそ、バンジロウとは接戦であった。完全なコンディションのお主に、バンジロウは勝てんじゃろう」

 こうも容易く断じるアデクは真の王者であった。

 たとえ身内であっても過度に評価する事はない。バンジロウの実力とノアの実力を完全にはかりにかけている。

 それはトレーナーの強者だけが辿り着ける領域であった。

 バンジロウは机上の空論はやるものではないと言っていたが、それはこの祖父に育てられたからなのかもしれない。

 どれだけ頭の中で策を練っても、勝てない相手。それが身内にいるとなれば、策を弄する事それそのものを無意味と判じるだろう。

 バンジロウも、それなりに感じてきたのだ。自分の実力が及ぶか否か。それに達する事の出来る存在かどうかの是非を。

 彼は問い質した結果、今の実力に至った。

 いや、彼ならばまだ伸びるだろう。今の段階でも恐らくはジムトレーナー相当はある強さだ。

 これが成長段階。もっと強くなると思うと空恐ろしささえ感じる。

「ボクは……ポケモンともっと密接に戦ってきました。それこそ、自分の痛みとポケモンの痛みが等価なほどに。でも、この時間軸に来て、全てが失われてしまった。ポケモンと話す能力。先ほど、すぐに納得されましたけれど、この能力の事……」

「ワシは話半分程度じゃな。バンジロウはこう言うと身内褒めになるが、天賦の才がある。だからポケモンと話せるという部分も素直に飲み込めたのじゃろうが、ワシは、というと無理があった。ポケモンと話し、ポケモンの能力の及ぶ範囲を常に計算しつつ戦えるトレーナーか。ワシの知る限りでは、二人いたな」

「そのお二人は?」

 アデクは首を横に振る。

「既にトレーナーとしては退役しておるのが一人。そろそろ腰を据えるべきか、と感じているのが一人。どちらも、全盛期の実力はとんでもなかったが、やはり老いとは怖いものよ。その者が持ち合わせている野心さえも、つむじ風のように消し去ってしまう」

 その二人には会えそうにないのか。ノアは少しだけ落胆しつつ、アデクに問い返す。

「そのお二人の全盛期と、ボクではどちらが強いと思われますか」

「間違いなく、その二人じゃろう。お主はまだ青い。青い果実に点数はつけられん。まぁ、四十年前の二人はもっと青かったが、それでもトレーナーの極地に至っておった」

「極地、ですか……」

「一つの極点として知っておるはず。メガシンカ、同調、という領域」

 どちらもNであった頃には無縁であった。メガシンカ研究、それに同調実験。両方、プラズマ団では執り行われる事さえもなかった。

 理由は明白。

 王である自分の実力を疑うのか、という不文律だ。

 自分を疑う事は即ちプラズマ団の思想への懐疑。それそのものが裏切りと捉えられかねない。

 だから、同調に関しては全く、ノアには無縁であった。

 元々、ポケモンの声を聞き、その能力を如何なく発揮するのは同調というよりも信頼に近い。

 メガシンカ、同調、どちらにも頼らぬ力であった。

「ボクは、その……メガシンカを使った事さえもない」

「それで、ワシが倒せたのか」

 ハッとする。今の言葉は聞き捨てならなかっただろう。慌てて釈明した。

「すいません……ボクは」

「いい。素直なのはいい。ワシは、別段メガシンカが最強だとも言っておらんし、同調も強いとも言っておらん。ただ、トレーナーの極点であると言うだけ。しかし、お主は最盛期でも同調も、メガシンカも使わんかったのか?」

 ノアは申し訳なさそうに頷く。

 どちらも、必要ないのだと思い込んでた。

 アデクは強い顎鬚を撫でつつ、フッフッと笑い出した。

 その突拍子もなさにノアは困惑する。

「その、何か……?」

「いや、面白いと思ってな。それほどの実力、ワシは万全の姿勢で臨みたいところ。しかし、ズルをしてしまったな。もうお主が来ると聞いてしまった。これではやはり、フェアとは言えん」

「いえ、ボクだっていきなりチャンピオンに挑戦したんです。こちらも、フェアではない」

「ではお互い様か?」

 アデクの試すような物言いにノアは縮こまってしまう。しかし、アデクは心底、その時を待ち望んでいるようであった。自分を倒すほどの実力者。それが目の前にいる。どれほどなのか、想像するだけで楽しいに違いない。

 彼は戦いに己の魂をかける人間だ。

 魂の燃焼点が戦いにこそあり、そこで燃やし尽くされるものに意義を感じている。

 バンジロウも同じ。

 戦いにおいてのみ、お互いの心のたがが外れ、隠していた本音が滲み出るのだと信じ込んでいる。

 彼らを騙すような真似だろうか、とノアは考え込んでしまう。

 しかし、これ以上、自分に語れる事はない。アデクの敗北を阻止しようとしても、それは結局、プラズマ団への反逆。

 やる事に変わりはない。

 しかし、心強いとノアは感じ始めていた。アデクとバンジロウもプラズマ団と闘ってくれると言っている。

 たった独り、この世界に拒絶された気持ちになっていた自分の胸中に、爽やかな風が吹き込んでいた。

 彼らとの戦いが、少しだけ己を変えたのかもしれない。

「そういえば……」

「どうした?」

「いえ、そのお世話になった癒しの家の女性がいて……、彼女に連絡を取っていなかった」

 その言葉にアデクは口元を綻ばす。

「おいおい、色男じゃな。なかなか。そういうのは待たせると辛いぞ。とっとと連絡をせい」

「でも、連絡先も知らないんだ……」

「癒しの家なら、イッシュのものは大抵、ワシのポケナビに入っておるが」

 アデクの手首に巻かれたポケナビは年代ものであった。本当に稼動するのか、と疑う視線に、アデクは唇をすぼめる。

「心外じゃな。これでも定期的な連絡は怠っておらん」

「それで、連絡出来るんですか?」

「電話帳には入っておるはずじゃ。名は?」

「アリス……。アリス・エステルです」

「アリス……、ほれ、おったぞ。この子じゃな。なに、最近癒しの家を立ち上げたばかりの、育て屋上がりの子じゃないか。お主、それでいて抜け目がないのう」

 アデクに肘で突かれ、ノアは困ったように笑う。

 そういえばアリスも、ずっと困ったように笑う人だったな、と思い返す。

「どうする? 今、連絡をするか?」

 ノアはそこで、いや、と拳を握り締める。

 自分は、まだ何も成していない。今の状況で語れる事は何もないのだ。せいぜい、安否確認くらいである。

 それだけでも、と思ったが、ノアはこの時間軸に留まる事が最終目的ではないのを思い返した。

 自分の目的はこの時間軸のNを止め、プラズマ団の野望を阻止する事。

 それだけが、自分に唯一許された使命なのだ。この時間軸に自分の痕跡を残すのは、よくないと考えていた。

「いえ、まだアリスには、何も言えない。言える自分に、なっていませんから」

 彼女の下に帰るのはこの時間軸での役目を終えてからだ。そう心に誓っていた。

「そう、か。だが帰る場所があるうちに、言いたい事くらいは言っておいても誰も咎めはせんぞ? そうやって、言えないままずるずると来てしまった連中を、ワシは数え切れないほど見てきたからのう」

 トレーナーの末路か。あるいは、挑戦者達の骸なのか。アデクが見てきた景色はどれほどに壮絶なものだったのだろう。

 初めてのポケモンを手に入れ、道を進み、旅路を行った先に結局待っていたのは挫折であった、という話はよく聞く。トレーナーの受け皿がどの地方でも深刻であると。

 だが、それは自分にはまるで関係のない俗世の話であった。自分はただ、プラズマ団の王として、チャンピオンを超える。超えられると信じ込んでいた。

 事実、超えたが、それは神話級をもってしての、反則のようなものであった。

 自分の本当の実力では、彼の孫にも及ばない。

 自分はトレーナーとして、横道を走っていただけだ。本当の道筋を鼻で笑い、自分の道こそが王の行くものだと信じ込んでいた、愚か者。

「ノアタロー。何も深刻になる事はないが、一報だけでも送っておくのはどうじゃ? それだけでも随分と違う」

 アデクはポケナビをその場に置いて、テントへと入っていった。

「話す内容は聞かん。お主の判断でやるといい」

 自分の判断。プラズマ団においてそれは絶対的な命令権であった。だが、今は名もなき反逆者。

 実力も、まるで伴っていない。

 それでも、抗い続ける。

 この時間軸での歪みを正すためだけに。

 アリスには、とポケナビを手に取ったノアは頭を振った。

「ここで甘えて、ボクはいいのだろうか」

 帰れる場所があるうちに、という言葉は自分に突き刺さっていた。

 あの森を失った時から、もう帰る場所なんて一つもないのだと思っていた。

 しかし、この手の中に、今は帰る場所がある。Nではない。ノアとしての、辿り着ける場所が。

 ノアはポケナビを操作し、コールした。

 数回のコール音の後、通話口に立ったのは彼女の声であった。

『はい……、どちらさま?』

「あの……ボクです。ノア、なんだけれど……」

 何を言えばいいのか。言葉を彷徨わせていると相手がハッとしたのが伝わった。アリスが必死に声を投げる。

『ノア? 今どこなの? ライモンシティで爆発事故があったって聞いたから、あたしそれであなたが……』

 濁した言葉の先をノアは言いやった。

「大丈夫、生きてるよ」

 ああ、と通話先でアリスが涙を浮かべているのが分かった。そうか。自分のために泣いてくれる人がいるのか。

 考えた事もなかった。

 プラズマ団の人々が泣く事もそうだが、自分のために、誰かが泣いてくれるなんて。

 悲しんでくれる人がいるなんて。

『怪我は、ないの?』

「うん、何ともない」

 本当はまだ左肩口の傷が疼いたが、それを包み隠した声音であった。アリスは安堵したのか、声の緊張を和らげる。

『ケルディオも、大丈夫なの?』

 ケルディオへのダメージは既に回復済みだ。無論、ケルディオにも問題はない。

「ケルディオのほうが元気なくらいさ」

『心配、したんだからね』

 自分を心配してくれる人がいるのも、ノアには今まで経験した事のない部分であった。

 王として人々の上に立つ以上、心配などさせるわけにはいかなかった。

「ゴメン……」

『でも、許す。だって一応、連絡はくれたんだもの』

 やはりアデクの言う通りにしてよかった。今しか帰れない場所があるのだ。

「でも……ボクはまだ、帰れそうにないんだ」

 だからこそ、言うのが辛かった。

 まだ彼女の下に帰るわけにはいかない。何一つ成していないからだ。自分が何を成すのか、まだ分からないが、この時間軸のプラズマ団を止める、という目的の初歩にすら至っていない。

『……いつ、帰れるの』

 悲痛な声音であった。いつ、と言われてはっきり答えられるようなものは持ち合わせていない。

「ゴメン、それも分からないんだ。ただ、一つ言えるとすれば、ボクは何も知らなかった。それだけなんだと思う」

 ダークエコーズの事。あるいは、自分と対峙した時に起こる現象の事も。そして何より、相棒であるケルディオの事も。

 まだ何も理解していない。

『……時間がかかるの?』

「待っていてくれとは言わない。ただ……ボクが掴もうとしているのは」

 空を仰ぐ。今にもこぼれてきそうな星屑の舞う空へと手を翳した。

 きっと、掴もうとしているのは、星空のように儚いもの。だから、その瞬間に自分すら消え落ちてもおかしくはない。

『……分かった。でも、あたしはいつでもこの家で待っているから。癒しの家の住人だもの。あたしの目的は、旅で疲れたトレーナーを、出来るだけ癒す事だけ』

 疲れた時はいつでも帰ってきていい。そう言ってくれているようであった。

 ノアは感じ入るように目を瞑る。

 彼女に何も言えないのが酷くもどかしい。

 何もかも打ち明けてしまいたいが、それでは自分が戦い続ける意義さえも失ってしまうそうになる。

 この戦いの終焉で、彼女に待っていてもらうしか、自分に出来る事はない。

「アリス。待っていて欲しい。ボクは帰るから。必ず、帰るから」

 それだけが、今の自分に言える精一杯。

 アリスは一拍置いてから、嗚咽を交えた声音で応じる。

『うん……待ってる』

 ノアはポケナビを切った。これほどまでに胸を締め付けられた事はなかった。

 プラズマ団と敵対し、己を消し去る覚悟が泣ければ、この時間軸に留まる意味もない。

 そう、自分を追い込んでいたのだが、それは酷く狭い生き方に思われた。

 ――そうだ。このまま何事もなかったかのようにアリスと過ごす事は出来ないだろうか。名前も変えた。姿も違う。このまま、この時間軸でノアとして……。

 そこまで考えかけた己を叱責する。

「何を考えているんだ、ボクは。お前は! Nだろう!」

 パチッと炎が弾けた。木材が炭化し、火の勢いが弱まっている。

 まだ完全に名を捨てるわけにはいかない。何のための贖罪の旅であったか。何のために、己の正義を信じ、世界と戦い続けてきたか。

 全ては、この戦いの果てを見るためだろう。

 自分自身に、決着をつける時なのだ。

 ノアは面を上げていた。

 その頬を涙の筋が伝う。

 出来る事ならば全てを忘却の彼方に追いやりたい。

 しかし、忘れてはならない。

 己の犯した罪を。その罪の大きさを。

 この時間軸での自分は、戦いの延長線にあるという事を。

 立ち上がったノアは星空へと手を掲げ、そのまま拳とした。

 いつか、この空を割る拳。今はただの小さな、一人の「ノア」という個人の拳に過ぎないが、いつかは届く。そのはずだ。

「ボクは、ボクを倒す。そうでなければ、何のためにこの時間軸に舞い戻ってきた。ボクがここにいる意味があるはずだ。もう逃げない。ボクは、プラズマ団を破壊する」

 破壊でしか出来ない創造があるとすれば、今がその時なのだ。

 自分の存在さえも賭けのレートに挙げ、ノアは命を賭して戦うしかないと誓った。



オンドゥル大使 ( 2017/06/25(日) 20:22 )